この時期、各種団体において昨年度の事業報告や収支決算の承認を求める総会が行われている...。先日、加入している文化団体の総会が市内のレストランで行われ出席してきた。総会は、提案された事業報告と収支決算は「終わってしまったんだから...」というわけではないだろうが、報告の通り承認し30分ほどで終了...、折角集まったのにこれで解散はもったいないと、この団体では年2回の総会の後に「卓話」が行われる。「卓話」は小講演会といったもので、毎回いろいろなジャンルの方の話を聞くことが出来、楽しみにしているが、今回は演題は“願乗寺川物語”...
講師は、郷土史研究家の木村裕俊さん...。聞くと木村さんは職場を定年退職後、興味を抱いていた郷土史を本格的に学ぼうと大学の文化財歴史学科に編入学、卒業後は道南を中心とした歴史の研究を続けているという...。今回、木村さんは、かつて函館の町を流れていた人工の川“願乗寺川”について、3年かけて調べた成果を話してくれる...。
江戸末期の函館は急激に人口が増え、函館山の麓に住む住民は飲料水の確保に大変な苦労をしていた。それを解決しようと青森県下北半島に住む住職 堀川乗経(ほりかわじょうけい)が安政6年(1859)に土木事業者の松川弁之助と協力して、当時、函館港内に流れていた亀田川を、現在の鍛冶橋付近で二手に分け中の橋を経て銀座通りにあった旧堀割に注ぐ、長さ約4キロ及ぶ人工水路を造り、人々はこれを“願乗寺川”と呼んだ...。
この“願乗寺川”によって地域の人々は飲用水に不自由することがなくなり、ほとんど無人であった所にも人家が建ち並ぶようになったという。これが、市勢東進のきっかけを作り、函館発展の大きな役割を果したといえる。ところが、初めは綺麗だった“願乗寺川”も、人口が増えることによって汚水の流入で汚れ、明治期には疫病の発生を促し犠牲者も出たことから、明治21年(1888)亀田川を現在の中の橋から大森浜に切り替えられた(現在の新川)。
明治22年に函館に上水道が新設されたことから、約30年間にわたって住民に飲料水を供給しづけた“願乗寺川”はその役割を終え、埋め立てられた...。それが現在の高砂通りで、確かに函館では珍しい2kmほどの直線道路...、これが“願乗寺川”の流路といわれれば納得もできる...。
下北の住む坊さんが、困っていた函館の人々のために川を造るという発想に驚き、それも4kmもの水路をわずか7ヶ月で開削し、函館の発展に力を注いでくれた...。自分のためでなく、住民のため、街のためにと力を尽くす...、函館はこんな人たちが造ってくれていたのかもしれない。“願乗寺川”...、名前は聞いたことはあったが、これから高砂通りを車で走るときは、木村裕俊さんが教えてくれたこの“物語”を思いださずにはいられない...。
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江戸末期の函館は急激に人口が増え、函館山の麓に住む住民は飲料水の確保に大変な苦労をしていた。それを解決しようと青森県下北半島に住む住職 堀川乗経(ほりかわじょうけい)が安政6年(1859)に土木事業者の松川弁之助と協力して、当時、函館港内に流れていた亀田川を、現在の鍛冶橋付近で二手に分け中の橋を経て銀座通りにあった旧堀割に注ぐ、長さ約4キロ及ぶ人工水路を造り、人々はこれを“願乗寺川”と呼んだ...。
この“願乗寺川”によって地域の人々は飲用水に不自由することがなくなり、ほとんど無人であった所にも人家が建ち並ぶようになったという。これが、市勢東進のきっかけを作り、函館発展の大きな役割を果したといえる。ところが、初めは綺麗だった“願乗寺川”も、人口が増えることによって汚水の流入で汚れ、明治期には疫病の発生を促し犠牲者も出たことから、明治21年(1888)亀田川を現在の中の橋から大森浜に切り替えられた(現在の新川)。
明治22年に函館に上水道が新設されたことから、約30年間にわたって住民に飲料水を供給しづけた“願乗寺川”はその役割を終え、埋め立てられた...。それが現在の高砂通りで、確かに函館では珍しい2kmほどの直線道路...、これが“願乗寺川”の流路といわれれば納得もできる...。
下北の住む坊さんが、困っていた函館の人々のために川を造るという発想に驚き、それも4kmもの水路をわずか7ヶ月で開削し、函館の発展に力を注いでくれた...。自分のためでなく、住民のため、街のためにと力を尽くす...、函館はこんな人たちが造ってくれていたのかもしれない。“願乗寺川”...、名前は聞いたことはあったが、これから高砂通りを車で走るときは、木村裕俊さんが教えてくれたこの“物語”を思いださずにはいられない...。
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