3時の散歩を済ませ、時間が空きました。
(昨日の午後書き始めたのですが中断してました)
モーツアルトのピアノ協奏曲27番
ギレリスのCDが好きです。
ベーム指揮ウィーンフィル、1973年
特に第二楽章の静かな美しさはどうでしょう。
思い入れが強すぎる演奏になりがちな楽章ですが
ギレリスは最高に美しい。
○
聴きながらなぜか、山口塾に勤めていたころよく反抗してたな
ということを思い返しました。
たった一人の反抗。
周りも塾長自身も「嫌な奴」と思ってたでしょう。
昔のことになってしまいました。
モーツアルトが似合うくらい古い写真のような。
○
確信を持って言えますが塾長を一番知り、あるいは
見抜いていたのは私だと思います。
もちろんリスペクトも一番。
ですから反抗しまくった。
進学塾で金を儲けるだけではだめ、だと。
もちろん塾もそんな仕事をしていたわけではありません。
けれども、私は極端なほど利益追求を否定しました。
勤めている人間が「金儲けは不要、赤字じゃなきゃよい」
というのですから多くの人は不審がります。
塾長も困っておられたかもしれません。
結局、中学部は私が辞めるまで金儲け路線には走って
いません。
塾を長く持たせるためには今目先のことを追うだけでは
駄目なんだ・・
そう言える幸せな時代でしたね。
経営にはストックが要る、なんて分かりきったことを
「教えてくれる」若手もいましたが、最後に生徒を連れて
逃げちゃった。金儲けの果て。
ストックとは金だけで貯めていても仕方がないのに。
○
私が辞めて、塾長(山口恭弘先生)が第一線から退かれ
そのあとおかしくなったのは皆さま御承知の通り。
(私の所為じゃなく、たまたま)
ぶっ潰した弟=二代目塾長がアホだったのです。
人は良かったのですがね。
未だに別のT塾で働いているようですが塾を「売り渡す」
際、大勢の講師の首を切ったのを平気で働けるかなあ。
定期テスト対策などを売りにして子供をスポイルするT塾が
そんなに魅力的なのでしょうか。
人間は、モーツアルトのように美しい仕事もできるし
金に捉われて我が身(家族)が可愛いだけの生き方をし
幸福に死んでゆける人生もあるようです。
きっと家では責任を全うする良き父親なのでしょう。
自分や家族が大事か、仕事仲間への責任が大事か
古来変わりない選択の難しさです。
○
先日「散歩の途中に」と
塾長(恭弘先生)が我が家に立ち寄られました。
お元気そうで何より。
「仕事は続けにゃいかんよ」
近年口癖のように言われています。
もし私が上記の弟のことに「あれはどうなのです?」と
言及すると嫌な顔をされるでしょうね。
「幾つになっても、昔と変わらず嫌な奴だ」ってね。
ふっと言いたくなるのが私の甘えのようです。
(昨日の午後書き始めたのですが中断してました)
モーツアルトのピアノ協奏曲27番
ギレリスのCDが好きです。
ベーム指揮ウィーンフィル、1973年
特に第二楽章の静かな美しさはどうでしょう。
思い入れが強すぎる演奏になりがちな楽章ですが
ギレリスは最高に美しい。
○
聴きながらなぜか、山口塾に勤めていたころよく反抗してたな
ということを思い返しました。
たった一人の反抗。
周りも塾長自身も「嫌な奴」と思ってたでしょう。
昔のことになってしまいました。
モーツアルトが似合うくらい古い写真のような。
○
確信を持って言えますが塾長を一番知り、あるいは
見抜いていたのは私だと思います。
もちろんリスペクトも一番。
ですから反抗しまくった。
進学塾で金を儲けるだけではだめ、だと。
もちろん塾もそんな仕事をしていたわけではありません。
けれども、私は極端なほど利益追求を否定しました。
勤めている人間が「金儲けは不要、赤字じゃなきゃよい」
というのですから多くの人は不審がります。
塾長も困っておられたかもしれません。
結局、中学部は私が辞めるまで金儲け路線には走って
いません。
塾を長く持たせるためには今目先のことを追うだけでは
駄目なんだ・・
そう言える幸せな時代でしたね。
経営にはストックが要る、なんて分かりきったことを
「教えてくれる」若手もいましたが、最後に生徒を連れて
逃げちゃった。金儲けの果て。
ストックとは金だけで貯めていても仕方がないのに。
○
私が辞めて、塾長(山口恭弘先生)が第一線から退かれ
そのあとおかしくなったのは皆さま御承知の通り。
(私の所為じゃなく、たまたま)
ぶっ潰した弟=二代目塾長がアホだったのです。
人は良かったのですがね。
未だに別のT塾で働いているようですが塾を「売り渡す」
際、大勢の講師の首を切ったのを平気で働けるかなあ。
定期テスト対策などを売りにして子供をスポイルするT塾が
そんなに魅力的なのでしょうか。
人間は、モーツアルトのように美しい仕事もできるし
金に捉われて我が身(家族)が可愛いだけの生き方をし
幸福に死んでゆける人生もあるようです。
きっと家では責任を全うする良き父親なのでしょう。
自分や家族が大事か、仕事仲間への責任が大事か
古来変わりない選択の難しさです。
○
先日「散歩の途中に」と
塾長(恭弘先生)が我が家に立ち寄られました。
お元気そうで何より。
「仕事は続けにゃいかんよ」
近年口癖のように言われています。
もし私が上記の弟のことに「あれはどうなのです?」と
言及すると嫌な顔をされるでしょうね。
「幾つになっても、昔と変わらず嫌な奴だ」ってね。
ふっと言いたくなるのが私の甘えのようです。
山口塾、岡田ビルに看板がなくなっていたので
気になっていましたが・・・。
塾長先生もお元気そうで、懐かしくなりました。メガネをぶ~らん、ぶ~らんさせてお説教
、よくされました。
ちょくちょくブログ拝見に伺います。
(私のこと、お分かりですか?)
岡田ビルね、懐かしい。
私にもあそこの階段を2段ずつ駆けあがってた時代がありました。若(バカ?)かったねえ。塾の先生がたも塾長からは叱られてばかりでしたが流石に、ときおりは突っ込んでいましたよ。
塾長も今は悠々自適
昔のまんまの御自宅で「きっと金はあるんだろうから建て替えられたら」なんて余計な御世話を思ったりしますが、あれも先生なりのポリシーと思います。
根っからの教え好きと繋がっているハズで。
いずれも己斐教室に通っていたものです。
中2で転校して以来、20年ぶりに広島をお訪れました。で、びっくり唖然です。
岡田ビルは「テナント募集」、向かいのビル(名は忘れましたが)は他の塾が・・・。
①山口塾は、完全につぶtれてしまったのですか?
②林先生やハタノ先生は、どうされたのですか?
山口塾は当時五日市と己斐と2箇所でしたね。
私は己斐でしたが岡田ビルはメインの受験生が使うことが多く近くの喫茶店や薬局の上を借りていました。最初の生徒をそのまま持ち上がり、つまり下は入れないままパイロットとして卒業まで面倒を見ました。基本的には私一人です。その学年を卒業させた後、塾長の決断で中学部を始めるということになり五日市教室のほうでやれという話。旧塾舎の二階などで始めたのが中学部です。数年後、楽々園を借りスタッフも増やしとしているうち、数年後にまた塾長が今度は己斐に中学部の別教室をつくろうということで中学部も2教室体制になったのです。
楽々園内部でも大きなもめごとがあり私は難関校受験専門クラスを(また)一人で見るようになり生徒も塾内塾だとよく悪口?を言ってました。その体制がほぼ10年、私が塾を辞めた直後に室長クラスに抜擢されていた若手が成績優秀の生徒をごっそり引き抜いて「独立」いsたのです。これが傾きの始まり。新しい塾長の下経営も実績も下降線をたどりついに実質的に潰れてしまいました。潰した2代目は多くの講師を首にしてご自分は「山口の精神を引き継ぐ」べく引き受けてくれた塾に移籍しておられます。引き受けた先のT塾は中学部が強かったので山口の小学生の名前が欲しかったのでしょう。
林先生は一時体調を崩されていたようですが頼まれて?とある塾を手伝っておられるようです。