社会に出てしばらくのころ、長野県の秘湯「濁川温泉」
をたびたび訪れていました。
御岳山麓の深い谷に一軒だけの温泉宿、
非常用発電以外は電気がなく、夜はランプ。
近頃は「観光用ランプの宿」が流行りのようですが
こちらは正真正銘ランプしかない温泉宿でした。
客が少ない時には囲炉裏端でお爺さんと一緒に食事。
ちびりちびり飲む酒は確か「真澄」。「七笑」?
肴も。
囲炉裏で焼く川魚の熱々、串からすっと抜いて供されます。
自在かぎで吊るしてある鉄鍋の煮物、
漬物。
まずかろうワケがありません。美味い!!!
そして何よりもお爺さんの話が「豊か」でした。
(片足がご不自由だったか多少歩きづらそうでしたが
戦争ゆえかどうか、聞けませんでした。
優しい笑顔の方で今も声が思い出せます。
でも、何かでビシっと叱ると怖かったかも)
通ううちに息子さんが結婚され、宿の手伝いも
夫婦でされるようでした。
多分、お爺さんの名前が半場千秋さん、
何度かその名前で予約承諾の封書を頂いています。
葉書じゃなくて封書、長い手紙でした。
○
濁「河」温泉というのも同じ御岳の山麓にありますが
こちらの温泉街は宿も十数軒はあるようで
濁「川」のほうが秘湯らしかったのではないかなあ。
○
70年代に新宿駅を真夜中に出る夜行がありました。
(国鉄)の木曽福島駅下車。
そこからバスで王滝村まで行き、あとは温泉が手配した
車で山道をくねくねと4~50分(もっと?)
そして何もないところで下ろされて「ここから歩いて」
指さされた先には一人がやっと通れる道が谷底へ
向かっていました。
下ること15分くらいかな、ぬれ落ち葉で滑り易い道を
やっと辿り着くと明治時代の写真にでも出てきそうな
木造二階建の屋根が見えてきます。
冬は宿が閉められるのでいつも一面の緑に囲まれた宿
のイメージしか残っていません。
(万緑)っていうのはこれか!
ざーざーと水量が豊富な岩だらけの川に面して湯殿が
あり、少しぬるめなので長時間ボーっとできる温泉。
川向こうには、かつて営林署のトロッコが走っていた
のですが、私が通っていた70年代には取り外され、
線路や浮いた枕木だけが残っていました。
昔は鉄路を歩いたものだったそうです。
○
仲間と行っては毎回のように喧嘩、トラブル
腹立たしいことも沢山起きるのにまた行きたくなって
みんなに声をかけてしまいます。
「濁川、また行かない?」
仲間とは別にも高校来の親友と二人旅をしましたが
彼はそれほど感動しなかった。
都会派だったからね。
私だけが特別に好きな、波長が合う宿だったのでしょう。
一人で構わないから、なぜもっと行っておかなかった?
○
私は81年に広島に戻り、縁遠くなっていた濁川温泉が
84年に忽然と消えてなくなりました。
直下型地震で御岳の片側が大きく崩落し、土石流が
谷を埋めたのです。
宿の方も何人か行方不明。
NHKの画面に映る温泉跡は土とゴロゴロした石の
砂漠のようで、谷全体が無くなっていました。
◎
今年、東京外大に通った子が中学受験で塾に来ていた
04年にインドネシアの大津波がありました。
彼女のアメリカンスクール時代の友達が津波で行方不明。
ついこの間のことに思われます。
今回の東日本大地震ではカミサンの親友の御主人が
地震に遇われ、避難した屋上から流れる家を見たそうです。
大災害はいつも身近にあるようです。
遠い出来事ではありません。
をたびたび訪れていました。
御岳山麓の深い谷に一軒だけの温泉宿、
非常用発電以外は電気がなく、夜はランプ。
近頃は「観光用ランプの宿」が流行りのようですが
こちらは正真正銘ランプしかない温泉宿でした。
客が少ない時には囲炉裏端でお爺さんと一緒に食事。
ちびりちびり飲む酒は確か「真澄」。「七笑」?
肴も。
囲炉裏で焼く川魚の熱々、串からすっと抜いて供されます。
自在かぎで吊るしてある鉄鍋の煮物、
漬物。
まずかろうワケがありません。美味い!!!
そして何よりもお爺さんの話が「豊か」でした。
(片足がご不自由だったか多少歩きづらそうでしたが
戦争ゆえかどうか、聞けませんでした。
優しい笑顔の方で今も声が思い出せます。
でも、何かでビシっと叱ると怖かったかも)
通ううちに息子さんが結婚され、宿の手伝いも
夫婦でされるようでした。
多分、お爺さんの名前が半場千秋さん、
何度かその名前で予約承諾の封書を頂いています。
葉書じゃなくて封書、長い手紙でした。
○
濁「河」温泉というのも同じ御岳の山麓にありますが
こちらの温泉街は宿も十数軒はあるようで
濁「川」のほうが秘湯らしかったのではないかなあ。
○
70年代に新宿駅を真夜中に出る夜行がありました。
(国鉄)の木曽福島駅下車。
そこからバスで王滝村まで行き、あとは温泉が手配した
車で山道をくねくねと4~50分(もっと?)
そして何もないところで下ろされて「ここから歩いて」
指さされた先には一人がやっと通れる道が谷底へ
向かっていました。
下ること15分くらいかな、ぬれ落ち葉で滑り易い道を
やっと辿り着くと明治時代の写真にでも出てきそうな
木造二階建の屋根が見えてきます。
冬は宿が閉められるのでいつも一面の緑に囲まれた宿
のイメージしか残っていません。
(万緑)っていうのはこれか!
ざーざーと水量が豊富な岩だらけの川に面して湯殿が
あり、少しぬるめなので長時間ボーっとできる温泉。
川向こうには、かつて営林署のトロッコが走っていた
のですが、私が通っていた70年代には取り外され、
線路や浮いた枕木だけが残っていました。
昔は鉄路を歩いたものだったそうです。
○
仲間と行っては毎回のように喧嘩、トラブル
腹立たしいことも沢山起きるのにまた行きたくなって
みんなに声をかけてしまいます。
「濁川、また行かない?」
仲間とは別にも高校来の親友と二人旅をしましたが
彼はそれほど感動しなかった。
都会派だったからね。
私だけが特別に好きな、波長が合う宿だったのでしょう。
一人で構わないから、なぜもっと行っておかなかった?
○
私は81年に広島に戻り、縁遠くなっていた濁川温泉が
84年に忽然と消えてなくなりました。
直下型地震で御岳の片側が大きく崩落し、土石流が
谷を埋めたのです。
宿の方も何人か行方不明。
NHKの画面に映る温泉跡は土とゴロゴロした石の
砂漠のようで、谷全体が無くなっていました。
◎
今年、東京外大に通った子が中学受験で塾に来ていた
04年にインドネシアの大津波がありました。
彼女のアメリカンスクール時代の友達が津波で行方不明。
ついこの間のことに思われます。
今回の東日本大地震ではカミサンの親友の御主人が
地震に遇われ、避難した屋上から流れる家を見たそうです。
大災害はいつも身近にあるようです。
遠い出来事ではありません。
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