『PEACE』・・ひと言でいえない

2011-07-26 06:43:42 | 塾あれこれ
言葉でまとめると、こぼれたり
きしんだりするところが出そうです。
映画として纏っている処が不思議なほどです。

(映画で)考え発信されたものを(映画で)見るから
良いのでしょうね。

たとえばネコの世界とヒトの世界を等しく並べるのは、
宗教的世界ならばありえそうですが、ぽんと置くだけでは
言葉の世界ではたぶん乱暴にすぎるでしょう。

それが気にならないのです。。。
・・映画を見て頂くしかない!


前作『精神』でもテーマの一つであった
人はいかに生き、そうして死んでゆくか・・
『PEACE』ではより鮮明な課題となります。

人が死ぬということはインパクトが強いことですが
その向こうに、人がどう生きたかが見え始め
人々がいまをどう生きているか、
自分はこれからどう生きるか(どう死ぬか)

こういう話を観念的でもなく、過剰に深刻にもならず
具体的な人生を撮りつづけることで表現されているのです。

より具体的には、介護の現場はどうであるか
高齢化社会の実態とは、などなど日本の社会が見えます。

トークで強調されたことの一つに、閉塞したこの社会を
どうにかするのは現場ではないか、そこからしか
ブレイクスルーはないのではないか。
(現実には、官僚が作ったシステムに窒息しそうになる
 のですが、それでもなお)

全体を考え、上から改善をしようとしても何も変わらない。
数という面ではほんとうに小さな実践ではあるけれど
現場が下から地道な実践をするしかないのです。
特に311後で見えてきた方向性でしょう。

(塾も同じです。
 町の片隅で自らが信じていることを実践するしか
 この教育砂漠の国は変わりようがなさそうです)


自分は何かボランティアができるか?
いつも落ち込む話題です。


政治や社会に注がれた視線は、個人にも向けられます。
決して通り一遍でなく、良い処も欠点も。
強い処もその中に見える弱さも、監督が捉えます。

いつ死んでも良いと言いながら、瞬間ふと覗かせる
自信がない表情の淋しさはどうでしょう。
やはり強がりか・・

残酷なほどのカメラですが監督に写っている人への
リスペクトがあるから嫌な画面にはなりません。
それがあるから相手が心を開いたのか?

横川シネマの溝口さんが言われていた「この映画では
従来の作品より監督自身が前に出ている」という指摘
はサスガでした。
ただのヒゲのおっちゃんじゃなかったね。

「水俣」の土本監督がそうでしたね。
真摯なドキュメンタリは表現者がまるで画面の中にいる
ように出来あがるのです。

土本監督はインタビューもヤラセの一つだと言われました。
ただ、必ず自分が声だけでも画面に参加し、無責任な
作り方にはしないのだ、と。
(歩きながらのお話でしたけれど)


魅力的な人物でないと出来ない仕事ですね。
(カミサンも実物で監督の魅力を認識したみたいでした)


どうせ想田監督は読まないのだから素人が生意気を一つ。

初めの方で義父さんが客を運動公園に案内するシーンが
ありました。

二人を乗せた車が画面左に消えた次のカット。
カメラが社内にいてお客さんを捉えています。
ここはつなぎ方が感心しないな。

劇映画なら構わないけれど、運転手(義父)と二人が乗った
車をカメラ(想田監督)は見送ったわけです。
そのカメラが次の瞬間車内に飛んではマズイと思うのですよ。
たとえ実は固定カメラだったとしても矢張りよくない。

このカットはなくて公園に着いた絵に移って繋がると思うの
ですけれども、どうでしょう?
小さな話ですがね。


パンフに監督のサインを貰っちゃった。
ミーハーだね。

でも出来が良いパンフで、デープな世界が対談で覗けます。
映画ファン、ドキュメファンは必携!


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