前衛芸術は嫌いです。
分からないとゆーか、アホくさいとゆーか。
自分で「俺は芸術家」といえば何でも出来、
生計もたてられるかもしれない、ようです。
前衛、に限らず「現代芸術」全般かもしれません。
歴史という長い時間の(審査)を経ていないから
現代芸術は玉石混交であろうとは思います。
しかし将来「玉」がどれほど生き残るか?
はなはだ無政府的な現状だと憂うものです。
○
とはいえ、私に問題がある、ということのほうが
世間には通りがよいでしょう。
つまり嫌いだと言う私の方に「見る目が無い」のかも
しれないと思うようになりました。
いつ死んでもおかしくない年齢になって何をやっと、と
いう話ではありますが。
若いころは「現代詩」が分かりませんでしたね。
どこが「詩」なんだか。
感動があるないどころか、何を言ってるのかすら、
内容がさっぱり分からないのです。
「これ、にほんご?」
逆に言うと、それが詩と言えるならば
私のほうが「詩」というものが分からないのです。
根本のところがね。
めちゃくちゃなインスタレーションを前にして
首をひねる人をよくみかけますが
あれも表現そのもの、芸術そのもの、を
分かっていない姿かもしれませんね。
・・こうして「客足」が遠のきます。
展覧会などの動員数をみれば分かりますね。
芸術家のほうは、「シモジモの馬鹿に分かってたまるか」
かもしれません。
それで良いのかなあ?
◎
先日、このブログで塚本邦雄さんの本を誉めましたが
実は塚本さんは人も知る前衛作家。
私は大嫌いでした。
さっぱり分からない、というほうが正しいか。
後年、たまたま手にした塚本さんの本に驚きました。
その方の説く古今の名歌の解説がとても面白いのです。
ということは塚本前衛は膨大な基礎と天才的なひらめき
の上に立っていたことを確信させます。
分からなかった私(前衛モノは今も分からないけど)
のほうこそオソマツだったわけですね。
幼稚園生でも描くかのごときピカソのキュビスムも
しっかりとしたデッサンの力に支えられています。
○
そうはいっても「前衛って下らない」としか思えない私。
分からないとゆーか、アホくさいとゆーか。
自分で「俺は芸術家」といえば何でも出来、
生計もたてられるかもしれない、ようです。
前衛、に限らず「現代芸術」全般かもしれません。
歴史という長い時間の(審査)を経ていないから
現代芸術は玉石混交であろうとは思います。
しかし将来「玉」がどれほど生き残るか?
はなはだ無政府的な現状だと憂うものです。
○
とはいえ、私に問題がある、ということのほうが
世間には通りがよいでしょう。
つまり嫌いだと言う私の方に「見る目が無い」のかも
しれないと思うようになりました。
いつ死んでもおかしくない年齢になって何をやっと、と
いう話ではありますが。
若いころは「現代詩」が分かりませんでしたね。
どこが「詩」なんだか。
感動があるないどころか、何を言ってるのかすら、
内容がさっぱり分からないのです。
「これ、にほんご?」
逆に言うと、それが詩と言えるならば
私のほうが「詩」というものが分からないのです。
根本のところがね。
めちゃくちゃなインスタレーションを前にして
首をひねる人をよくみかけますが
あれも表現そのもの、芸術そのもの、を
分かっていない姿かもしれませんね。
・・こうして「客足」が遠のきます。
展覧会などの動員数をみれば分かりますね。
芸術家のほうは、「シモジモの馬鹿に分かってたまるか」
かもしれません。
それで良いのかなあ?
◎
先日、このブログで塚本邦雄さんの本を誉めましたが
実は塚本さんは人も知る前衛作家。
私は大嫌いでした。
さっぱり分からない、というほうが正しいか。
後年、たまたま手にした塚本さんの本に驚きました。
その方の説く古今の名歌の解説がとても面白いのです。
ということは塚本前衛は膨大な基礎と天才的なひらめき
の上に立っていたことを確信させます。
分からなかった私(前衛モノは今も分からないけど)
のほうこそオソマツだったわけですね。
幼稚園生でも描くかのごときピカソのキュビスムも
しっかりとしたデッサンの力に支えられています。
○
そうはいっても「前衛って下らない」としか思えない私。
私も前衛芸術が嫌いです。
とくに、前衛音楽がダメです。
わけがわからなくて、形式も見えてこない。
そしてなにより嫌なのは、前衛が好きな人が私を「考え方が古いな」「頭が悪いな」とバカにすることです。
たしかに一理あるのかもしれませんが、好きで聴いているだけでいいわけで、なんで「頭がわるいな」などといわれなければいけないんでしょう。
腹立しく思います。