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kan-haruの日記

イベント 東京藝術大学大学美術館 鶯谷から上野まで古寺・古建築を巡り夏目漱石の美術世界展を見るその3

2013年08月21日 | イベント
kan-haru blog 2013       

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東京藝術大学大学美術館
東京芸術大学美術学部の前身の東京美術学校では、収蔵品を展示するために1929年(昭和4年)に赤煉瓦造の「陳列館」が建てられ、1935年(昭和10年)に白壁、瓦葺で城郭風の「正木記念館」を建設されました。正木記念館は1901年(明治34年)から1932年(昭和7年)まで校長を務めた正木直彦を記念して建てられ、これらの展示館は1970年(昭和45年)東京芸術大学芸術資料館という名称で一般向けにも開館し、展覧会開催中は学外の人も自由に観覧できるようになりました。1998年(平成10年)に芸術資料館は、東京藝術大学大学美術館と改称し、翌1999年にミュージアムショップやカフェテリアを備えた新館が完成しました。
6月28日には鶯谷駅から寛永寺開山堂に寄り、都道452号の道路沿いの古建築を探索しながら東京藝術大学美術部正門より構内に入り、同大美術館で開催の「夏目漱石の美術世界展」を観賞しました。

 夏目漱石の美術世界展図録

・夏目漱石の美術世界展
夏目漱石の美術世界展は、東京藝術大学大学美術館で5月14日から7月7日までの期間に、午前10時~午後5時まで開催され、毎週月曜日が休館です。同展は、東京藝術大学、東京新聞、NHK、NHKプロモーションの主催で、ブリティッシュ・カウンシルおよび新宿区が後援で、岩波書店、神奈川近代文学館、KLMオランダ航空、日本航空の協力で開催し、観覧料は、一般が1,500円で、 高校・大学生が1,000円で、中学生以下は無料です。

 夏目漱石の美術世界展入場券

夏目漱石の美術世界展の内容は、文豪・夏目漱石の作品に登場する古今東西の名画を集め、夏目漱石の美術世界を読み解こうとするものです。展示会で大集合した名画は、名作「坊っちゃん」の会話に登場するターナーや、「こゝろ」のエンディングに深く関わる渡辺崋山の絶筆や、漱石が特に好んだというラファエル前派のロセッティやミレイの代表作などなどと、日本のみならず世界中から集められた名画が並び、当時革新的なデザインで注目を集めた「吾輩は猫である」の装幀本や、漱石自身が描いた珍しい山水画などが登場します。
展示会の展示構成は、序章「吾輩が見た漱石と美術」から始まり、第7章「装幀と挿画」までの八章構成です。展示会場は、展示品の序章から第3章までの作品は大学美術館3階会場に、第4章から第7章までの作品は同地下2階展示会場に展示されています。

 夏目漱石の美術世界展3階展示会場

・序章「吾輩が見た漱石と美術」
序章コーナーの展示作品は、猫の「吾輩」が漱石と美術の関わりをまとめています。夏目漱石は、1867年(慶応3年)に牛込馬場下の町名主の家に生まれ、1895年(明治28年)に中学校の英語教師として松山に赴き、「坊っちやん」の素材を得ました。1900年(明治33年) 官命を受け、英語研究のために2年余りイギリスに留学しました。帰国後、創作活動をはじめて、処女作の「吾輩は猫である」を1905年(明治38年) を執筆しました。
岡本一平は、1886年(明治19年)に函館生まれ、東京美術学校西洋画科を卒業して、和田英作に師事し初めは美術装置の仕事などをしていたが、夏目漱石に認められて朝日新聞社に入社しました。同紙を中心に漫画、漫文形式の作品を数多く発表し、大正期の漫画界をリードしました。「漱石先生」の絵は、漱石先生が愛用の紫檀の小机に向かってちょこんと座り、火鉢と猫を両脇にしたユーモラスに描かれた漫画です。
橋口五葉は、1881年(明治14年)鹿児島市に生まれ、1899年に上京し橋本雅邦に日本画を学びますが、洋画に転じて東京美術学校へ進み、油絵修業のかたわら図案にも才を発揮して、1905年には『吾輩ハ猫デアル』で装幀家としてデビューしました。以後アール・ヌーヴォーを基調とした優美な装本の数々を世に送りました。

 岡本一平の漱石先生(左)と橋口五葉の「吾輩ハ猫デアル」の中編扉の装幀(右)

朝倉文夫は、1883年(明治16年)に大分県大野郡上井田村(現豊後大野市)に生まれ、1902年(明治35年)に東京で彫刻家として活躍していた兄・渡辺長男を頼って上京し、彫塑に魅せられて翌年東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学、寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭しました。1921年(大正10年)に東京美術学校の教授に就任、ライバルと称された高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮でありました。朝倉は、猫をこよなく愛して、野性味を失わない神秘性などに魅力を感じ「吊るされた猫」1909年(明治42年)、「よく獲たり」1946年(昭和21年)などの作品を残した。

 朝倉文夫の「つるされた猫」 

・第1章 漱石文学と西洋美術
1900年に英国に行った漱石は、美術について関心と理解を持っており、早速ナポリの博物館、パリでの万国博、ロンドンでの各地の博物館を訪れて英文学研究とともに美術研究に熱中しました。
漱石文学と西洋美術のコーナーでは、イギリス留学中の美術体験の知識・資料を記している漱石文学作品内に出てくる、西洋美術の画家の作品の展示が見られます。
坊ちゃん」(←ここをクリック「青空文庫」)
「あの松を見たまえ、幹が真直まっすぐで、上が傘かさのように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。....

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー「金枝」1834
1775年、ロンドンのコヴェント・ガーデンに生まれる。13歳の時、風景画家トーマス・マートンに弟子入りし絵画の基礎を学び、1年ほど修業したターナーはロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学。1819年にイタリアに旅行し、明るい陽光と色彩に魅せられたターナーは特にヴェネツィアの街を愛し、その後も何度もこの街を訪れ多くのスケッチを残しています。また、ターナーはフランス、スイス、イタリアなどヨーロッパ各地を旅行して多数の風景写生のスケッチも残しています。
「金枝」は、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』の冒頭に掲げられた作品で、その書物はこの作品を足がかりに、永い永い思索の旅に出ます。

 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー「金枝」1834

薤露考」(←ここをクリック「青空文庫」)
ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き台うてなの中に只一人住む。活いける世を鏡の裡うちにのみ知る者に、面おもてを合わす友のあるべき由なし。

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「シャロットの女」1894年
1849年、両親共に画家の子として、ローマに生まれる。1870年に英国王立美術院に入り、初期の作品のテーマは、ローレンス・アルマ=タデマとフレデリック・レイトンに影響を受けた古典的なものでありました。1874年25歳のとき、ジョンは古典的な寓意画 『眠りと異母兄弟の死』を英国王立美術院の夏の展示会で発表し、この絵はとても好評であったため、毎年英国王立美術院の展示会に招かれました。
「シャロットの女」は、アーサー王物語の登場人物・騎士ランスロットの愛を得られぬことを知った悲しみのあまりに死を選ぶ乙女を描いた作品です。

 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「シャロットの女」1894

・第2章 漱石文学と古美術
漱石は、子供の頃家に50幅以上の絵があり、眺めるのが好きであったようです。漱石の日本美術は、雪舟以降の水墨画、狩野派や円山派などの江戸時代の絵に関心があった様です。
虞美人草」(←ここをクリック「青空文庫」)
長押作りに重い釘隠しを打って、動かぬ春の床には、常信の雲龍の図を奥深く描けてある。薄黒く墨を流した絹の色を、角に取り巻く紋緞子の藍に、寂びたる時代は、象牙の軸さへも落ち付いている。

狩野常信「昇竜・妙音菩薩・降龍」17-18世紀
狩野常信は、1636年(寛永13年)江戸木挽町に生まれ、父狩野尚信が没した1650年(慶安3年)に狩野派を継ぎ、後に家綱に仕えた御用絵師。狩野元信・狩野永徳・狩野探幽とともに四大家の一人とされ高く評価されてきた。
「昇竜・妙音菩薩・降龍」は、「虞美人草」に狩野常信の作品についての記載に近い作品です。3幅対の水墨画で、中央に崖の上で琵琶を弾く菩薩が描かれ、左幅・右幅には雲間から顔を覗かせる昇龍と降龍が描かれています。気品ある菩薩と迫力ある龍が対比的で、濃淡による表現が絶妙です。

 狩野常信「昇竜・妙音菩薩・降龍」17-18世紀

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イベント 東京藝術大学大学美術館 鶯谷から上野まで古寺・古建築を巡り夏目漱石の美術世界展を見るその2

2013年08月16日 | イベント
kan-haru blog 2013 東京藝術大学美術館Wikipedia      

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東京国立博物館付近の古建築
開山堂の山門を出ると都道452号の道路で、その都道を西北に進むと道路右側は国立博物館の正門前です。都道452号の道路沿いには古建築が林立しており、「夏目漱石の美術世界展」展示の観賞前に少し寄り道して、古建築を眺めていきます。ただし、古建築の1つの東京藝術大学上野キャンパスは、都道北側に音楽学部があり、南側に美術学部がありますが、「夏目漱石の美術世界展」展示の東京藝術大学大学美術館は美術学部内にありますので、今回は北側キャンパスの音楽学部は割愛とします。

 東京都道452号周辺地図

・東京国立博物館
1872年(明治5年)に日本最初の「博覧会」が湯島聖堂大成殿で開催され、入場券には「文部省博物館」と明記されており、これが日本の「博物館」の始まりです。「文部省博物館」は1873年(明治6年)に太政官正院の「博覧会事務局」に併合され、湯島から内山下町(現在の東京都千代田区内幸町)に移転し、この年は4月15日から博覧会が開かれました。
1877年(明治10年)に上野の寛永寺本坊跡地(現東京国立博物館敷地)で第1回内国勧業博覧会が開催され、展示館の1つである「美術館」は日本で最初に「美術館」と称した建物と云われています。1881年(明治14年)に、寛永寺本坊跡地にイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計による煉瓦造2階建の本館が完成し、第2回内国勧業博覧会の展示館として使用された後、翌1882年(明治15年)から博物館の本館として使用され、第1回内国勧業博覧会の際に建てられた「美術館」の建物も新博物館の「2号館」として活用されましたが、博物館内に新たな美術館を建造することとなり、宮廷建築家片山東熊の設計で1901年に着工、7年後の1908年に竣工し、翌1909年に美術館は表慶館と名付けられて開館しました。
1923年(大正12年)の関東大震災で本館・2号館共に損壊し、博物館は表慶館のみで展示されました。本館の復興建設は1932年(昭和7年)に着工し、1938年(昭和12年)に開館したのが、現存する東京国立博物館本館(重要文化財 台東区上野公園13番9号)です。(「イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その1」参照)
新館は、1968年(昭和43年)に東洋館が、1984年(昭和59年)に資料館が、1999年(平成11年)に平成館(「イベント 東京国立博物館 江戸三座の役者28図を描いてデビューし10カ月で姿を消した東州斎写楽を見るその1」参照)が開館しています。

東京国立博物館正面口の先を進むと、都道に面して因幡の国の大名因州池田屋式表門(黒門 国の重要文化財)が、丸の内の藩邸から1892年(明治25年)に芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建され、1954年(昭和29年)修理を加えて移築したもので、屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、江戸時代末期の大名屋敷表門として格式高い姿を見せています。

 東京国立博物館(:東京国立博物館本館20110525、右:因州池田屋式表門Wikipedia)

・黒田記念館
東京国立博物館先の交差点を渡った右側に建つ古建築は、黒田清輝(1866-1924)記念館です。黒田記念館は、日本近代洋画の父黒田清輝が、1924年(大正13年)に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言し、これをうけて1928年(昭和3年)に竣工しました。記念館には、1930年((昭和5年))に美術に関する学術的調査研究と研究資料の収集を目的として美術研究所(東京文化財研究所の前身)が設置されました。2007年(平成19年)に独立行政法人文化財研究所と独立行政法人国立博物館が統合し、新たに独立行政法人国立文化財機構が設置された組織改編により、黒田記念館は東京国立博物館に移管されました。
記念館の設計は岡田信一郎によるもので、建物全体がスクラッチタイルでおおわれ、正面には黒光りする大きなドアがあり重厚な印象を受ける建物で、正面2階部分には、3つのアーチ窓を両側から挟んで列柱が並ぶルネッサンス風様式です。半地下階付の鉄筋コンクリート造2階建の建物です。

 黒田記念館(左・右写真拡大 黒田記念館HPから)

・旧東京音楽学校奏楽堂
東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)の施設だった旧東京音楽学校奏楽堂は、文部技官山口半六と久留正道の設計と音響設計 が上原六四郎により、1890年(明治23年)に日本初のオーディトリウム(演奏会場)として、木造地上2階建ての桟瓦葺で建てられました。1987年(昭和62年)に台東区に移管され、東京国立博物館先交差点対面の現在の地(台東区上野公園8-43)に移築保存されて、1988年(昭和63年)に重要文化財として指定されています。

 旧東京音楽学校奏楽堂(写真拡大0628)

・東京藝術大学の古建築
東京国立博物館先交差点の対角線の東京藝術大学の角の、青銅の「東京藝術大學」の名札が掛かっている門は旧美術学校、旧音楽学校の旧正門です。旧正門を入った建物は正木記念館で、東京美術学校の校長を32年間の長期にわたって在任した第5代校長正木直彦の功績を顕彰するため1935年(昭和10年)に建てられました。設計は岡田信一郎門下の金沢庸治で、白の漆喰壁、入母屋の瓦屋根は日本の伝統美術を評価してきた美術学校の姿勢を反映しています。

 東京藝術大学美術学部の古建築物1(:移転された旧正門0628、右:正木記念館 東京都市整備局HPから)

正木記念館沿いに先に進むと鬼瓦屋根をいただく山門を思わせる門があり、それが明治時代の本館玄関です。玄関を入ると右側に、東京藝術大学旧東京美術学校玄関があり、設計は鳥海他郎・大澤三之助・古宇田實により1913年(大正2年)建築され、1972年(昭和47年)の東京藝術大学本館取り壊しの際、玄関部分のみ現在の正木記念館中庭に移築したものです。
 旧東京美術学校玄関(左:玄関表面 東京都市整備局HPから、:玄関裏面 0628)

玄関を入り、その左側には、沼田一雅が1936年(昭和11年)に製作した陶造の「正木直彦先生像」が置かれています。屋外中庭には、ロダンの「青銅時代」のブロンズ像が置かれています。

 玄関を入って見られる像(:正木直彦先生像、:ロダンの「青銅時代」ブロンズ像0628)

美術学部の門を入ってすぐ左側の建物が陳列館は、1929年(昭和4年)に竣工した西洋風の展示館で、設計したのは岡田信一郎で、スクラッチタイル、トスカナ式の飾り柱、天窓があります。岡田信一郎は、大阪中之島中央公会堂(大正7年)、鳩山一郎邸(鳩山会館、大正12年)、歌舞伎座(大正13年)、明治生命館(昭和9年:重要文化財)などを設計しました。これらは用途が全く異なる分野の建物で、 “様式建築の鬼才”と呼ばれ高く評価されています。

 旧東京美術学校陳列館(:陳列館0628、右:陳列館前に設置の皇居二重橋の旧飾燈 台東区文化ガイドブックから)

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イベント 東京藝術大学大学美術館 鶯谷から上野まで古寺・古建築を巡り夏目漱石の美術世界展を見るその1

2013年08月12日 | イベント
kan-haru blog 2013 「夏目漱石の美術世界展」看板     

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上野の山散策し「夏目漱石の美術世界展」を見る
東京藝術大学大学美術館では、「夏目漱石の美術世界展」を 5月14日~7月7日まで開催しておりました。近代日本を代表する文豪の夏目漱石(1867-1916)が、日本美術やイギリス美術に造詣が深く、作品のなかにもしばしば言及されていますが、この展示会では漱石の文学作品や美術批評に登場する画家、作品を可能なかぎり集めて、伊藤若冲、渡辺崋山、ターナー、ミレイ、青木繁、黒田清輝、横山大観といった古今東西の画家たちの作品を、漱石の眼を通して見直してみる試みの展示会であるとのこといなので、興味を持ち6月28日に見てきました。

 「夏目漱石の美術世界展」パンフレット

上野は、美術館や博物館が多くしばしば訪れますが、殆ど上野駅から目的の展示館に直行して、展示物を観賞して自宅に戻る行程でした。今回は、「夏目漱石の美術世界展」の観賞時間を多少詰めて、上野の山を若干散策して古寺・古建築を巡るコースを取り、鶯谷から出発して、上野の山を縦断してみました。

 東京藝術大学大学美術館展示観賞と上野の山巡り地図

・東叡山寛永寺と開山堂
鶯谷駅から忍岡中学校沿いに坂を昇り、突き当りを右折して直進すると上野中学校の先に東叡山寛永寺根本中堂(台東区上野桜木1-14-11)があります。現在の根本中堂は、1879年(明治12年)に川越の喜多院本地堂を山内子院の大慈院の地に移築し再建されたものが現在の寛永寺です。寛永寺根本中堂の御本尊は、伝教大師最澄上人の御自刻とされる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を秘仏としてお祀りしてあります。
今回は、時間の関係で根本中堂には寄らずに、鶯谷駅からの道を突き当りで左折して、寛永寺子院本覚院(台東区上野公園16-22)角を右折して進むと、その先は寛永寺開山堂両大師堂(台東区上野公園14-5)で横門から入りました。開山堂の創建は、1644 年(正保元年)ですが、1868年(慶応4年)の上野戦争では焼け残ったが、1989年(平成元年)に火災に遭い、1781年(天明元年)再建の開山堂と寛政4年(1792年)再建の本堂が焼失しました。現在のお堂は平成5年に再建されたもので、東叡山の開山である慈眼大師天海大僧正をお祀りしているお堂であり、また天海僧正が尊崇していた慈恵大師良源大僧正もお祀りしているところから、通称は両大師と呼ばれていますが、宗派が天台宗で、山号が東叡山で寺院名は輪王寺と称します。
輪王寺はもと寛永寺の伽藍の一部で、開山堂または慈眼堂と称されていました。境内西側に本堂(1993年再建)、東側に輪王殿があります。

 開山堂両大師堂(:開山堂両大師堂山門、:開山堂本堂)

輪王殿の手前には西隣の東京国立博物館敷地から移築した寛永寺旧本坊表門(重要文化財)が建っています。寛永寺旧本坊表門は、切妻造り本瓦葺、潜門付きの薬医門であり、通称・黒門と称します。現在の東京国立博物館の敷地は、もと寛永寺の本坊であり、黒門はその正面にあった門です。1882年(明治15年)に、東京国立博物館の前身である帝室博物館が上野公園に移転・開館した際にその正門として使用されました。関東大震災の後博物館改築に伴い、1937(年昭和12年)に寛永寺に返還され現在地に移築されて、門扉には上野戦争の際の弾痕があります。1946年(昭和21年)11月29日に、重要文化財(国指定)指定にされました。1989年(平成元年)の火災の際には、焼失をまぬがれました。
本堂前の鐘楼に懸かる梵鐘は、1651年(慶安4年)の製作で、本堂前の参道左右の銅燈籠はもと上野の大猷院(徳川家光)霊廟に奉納されたものです。

 開山堂境内の文化遺跡(:寛永寺旧本坊表門、:銅燈籠と鐘楼)

・江戸時代の寛永寺
上野の山の徳川家建立の寛永寺の歴史を、少し辿って見ます。
徳川家の菩提寺は、家康が関東の地を治めるようになった、1590年(天正18年)に増上寺が選ばれました。増上寺は、1393年(明徳4年)に浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって、武蔵国豊島郷貝塚(現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられている)に開かれ、1598年(慶長3年)には現在の芝の地に移転しました。
徳川家建立の寛永寺は、現在の上野公園の2倍の面積の約30万5千坪の寺地を有していた云われます。寛永寺の建立は、1622年(元和8年)に江戸幕府2代将軍徳川秀忠公と、当時の天台宗の高僧・天海大僧正は一大寺院の建立を発願しました。秀忠公の隠居後の1625年(寛永2年)の3代将軍徳川家光公の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊が建立されました。

 寛永寺古地図(Wikipediaから)

京の比叡山に対し、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とし、当時の年号をとって寺号を「寛永寺」としました。1654年(承応3年)に後水尾天皇第3皇子・守澄法親王が入寺して以後は、代々皇族が御門主を務め「輪王寺宮」と尊称され、絶大な宗教的権威をもっていました。

 寛永寺錦絵(Wikipediaから)

その後、堂塔の整備に数十年をかけ、1698年(元禄11年)の5代将軍徳川綱吉公の時、今の上野公園大噴水のあるあたりに本堂の、間口45.5メートル、奥行42メートル、高さ32メートルという規模の根本中堂が完成しました。さらに清水観音堂、不忍池辯天堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が競い立ち、子院も各大名の寄進により三十六坊を数えました。やがて徳川将軍家の菩提寺も兼ねて歴代将軍の霊廟も造営されました。
上野の山は、幕末の1868年(慶応4年)に彰義隊の戦の戦場となり、根本中堂をはじめ主要な堂宇は焼失しました。寛永寺は、明治政府によって境内地が没収されましたが、1879年(明治12年)には寛永寺の復興が認められ、現在地に川越喜多院より本地堂を移築し、山内本地堂の用材も加えて、根本中堂として再建されました。また1885年(明治18年)には、輪王寺門跡の門室号が下賜され、天台宗の高僧を輪王寺門跡門主として寛永寺に迎え再出発し、伝教大師作の本尊薬師如来や東山天皇御宸筆「瑠璃殿」の勅額は、戦争の中を無事に運び出され、現在の根本中堂に安置されています。

 歌麿二代喜多川歌麿「新版浮世絵上野東叡山之図」(寛永寺HPから)

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イベント 江戸東京博物館 各派の江戸絵画作品を蒐集展示したファインバーグ・コレクション展その2

2013年07月31日 | イベント
kan-haru blog 2013 池玉瀾「風竹図扇面」      

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ファインバーグ・コレクション展(続)
・第3章 写生と装飾の融合 円山四条派
円山四条派は、江戸後期から京都で有名になった円山応挙を祖とする円山派と、呉春を祖とする四条派を合わせた呼び名です。
円山派は、江戸中期京都に興った円山応挙を祖とする画派で、琳派など日本伝統の装飾画法に、沈銓の写生画風や、西洋画の写実技法を加味して清新な画風を開いた。画家に長沢蘆雪、源、山口素絢らがいる。
四条派は、江戸時代中期頃、呉春(松村月渓)を祖とし、呉春が蕪村から学んだ文人画(南画)を基礎とし、応挙の写生画風を取り入れ、独自の形で発展させ四条派を作り上げ、弟子の岡本豊彦や松村景文らが発展させ、京都画壇の一大派閥となりました。
展示の「第3章 写生と装飾の融合 円山四条派」コーナーでは、円山応挙に共鳴して呉春と共に興した円山四条派は隆盛を極め、彼らの画家は物の形や実景を写す本質的なものでは無く、装飾的な効果を追いもとめたもので、これらの写実的な装飾絵画は、富を得た庶民層が生活空間の美化を実現する対象として願わしいものでした。
丹波国桑名郡の農家に生まれて、狩野派の石田幽汀に入門し絵の勉強を始め、30代で円満院門主祐の庇護を得て古画の模写に励むかたわら、人体その他の写生を行い画域を広げ、写実性と装飾性を融合した写生画を確立して全国に影響を与えた円山応挙(まるやまおうきょ)の「孔雀牡丹図」絹本着色1幅(前後期展示)は、36歳の作で大きな尾を上へ振り上げて後ろを振り返る、一羽のオスの孔雀が描かれています。

 円山応挙「孔雀牡丹図」(江戸時代/ 1768年(明和5年))

呉春(ごしゅん)は京都金座の役人の家に生まれ、大西酔月に画を学び、後に与謝蕪村の門人となって俳諧と画を学びました。寛政元年ころ円山応挙に接近し、蕪村風の南画様式に円山派の画風を取り入れて、感情ある画風を確立しました。呉春とその一門の多くが四条付近に住んいたので四条派と呼ばれています。左幅には上部に月のかかった梅樹が右下へと枝を下ろし、右幅では下から上へと真っ直ぐに伸ばした梅の枝に雪が積もる風景を描いています。

 呉春「雪月花図」(江戸時代/ 19世紀)

森狙仙(もりそせん)は大阪に生まれ、狩野派の勝部如春斎の門人となり、猿や鹿の観察に励み動物の写生で写実的画風を確立しました。「滝に松樹遊猿図」紙本淡彩2幅対(前後期展示)は還暦以降の作で、左幅では画面左下から立ち上がる大きな松の枝先で5頭の猿がさまざまな姿態を見せている。右幅には左幅から伸びる松枝の一部と背後の滝のみが描かれた構図である。

 森狙仙「滝に松樹遊猿図」(江戸時代/ 19世紀)

・第4章 大胆な発想と型破りな造形 奇想派
徳川幕府の武家支配の時代にあっては、現状を保守する姿勢こそが正しくて、革新を求める態度は危険視され、忌避されました。美術界にあっても同様に、武家に寄生する権威的な存在は、新たな画風の展開に消極的でした。一方で経済的な力を増した庶民層は、自分たちの文化や美術を育てるようになり、斬新な個性の登場を待望するようになり、大胆な発想、表現上では従来試みなかった型破りな造形を、積極的に歓迎されました。
江戸の狩野派中枢に反発した狩野山雪や、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪らの画家はみな、文化的な環境の京都に活躍し、次代の主流となっていた保守的な美術思潮に異を唱え、反発して、奇想に発した個性的な造形は、今日、正統的な創造として高く評価されています。
伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)は、京都錦小路に面する青物問屋に生まれ家業を継いで、40歳で隠居して画業に没頭し、約10年間かけて製作した「動植綬絵」30幅の代表作がある。「菊図」紙本淡彩3幅対(前後期展示)は1幅ずつ異なる菊を描き、右幅は上へと伸びる茎が懸垂し先端は細い線で1枚1枚の花びらを描いた花房を付けている。左幅では上へと伸びる茎に大きな花びらの花を付けている。両画とも花びらの輪郭を墨線で描き、内側は彩色せずに紙の白色を活かして花房部を浮き上がらせています。中幅の背景も暗くして上へと真っ直ぐに伸びる3種類の菊を描いています。

 伊藤若冲「菊図」(江戸時代/ 19世紀)

葛蛇玉(かつじゅぎょく)は大阪の浄土真宗の寺・玉泉寺の四代目・宗琳の次男として生まれ、鯉の絵を得意としたため「鯉翁」と呼ばれ、江戸時代中期の絵師である。「鯉図」絹本着色 1 幅(前後期展示)は、左右に迫る土手の水面に桜の花びらが5枚浮かび、水中に泳いでる鯉の先の花びらを飲もうとして、体をよじっている構図の画です。

 葛蛇玉「鯉図」(江戸時代/ 19世紀)

曾我蕭白(そがしょうはく)は京都の商家に生まれ、家業をやめて絵師になり高田敬輔に師事し、刷毛などを使った大胆な筆使いと奇抜な構図の作品を描きます。「宇治川合戦図屏風」紙本着色6曲1隻(前後期展示)は、「平家物語」の一節で中央の武士は梶原源太景季で跨る馬は源頼朝より授かった名馬磨墨である。右の馬も同じく頼朝より授かった名馬生唼に跨る武士は佐々木四郎高綱である。

 曾我蕭白「宇治川合戦図屏風」(江戸時代/ 18世紀)

長沢蘆雪(ながさわろせつ)は淀藩士の上杉和左衛門の子として生まれ、円山応挙に弟子入りする。各地に出向き障壁画を残し、大胆な筆致の水墨画や彩色画を多く残す。左の「梅・薔薇に群取図」1幅(前期展示)は、咲き誇る梅と薔薇の枝に鸚哥、ほおじろ、雀など34羽の鳥が集まっている。右の「藤に群雀図」1幅(前期展示)には左下から伸びる藤の蔓に17羽の雀が描かれています。

 長沢蘆雪 左:「梅・薔薇に群取図」、右:「藤に群雀図」(江戸時代/ 18世紀)

・第5章 都市生活の美化、理想化 浮世絵
桃山時代から江戸時代初期に京都で流行した風俗画は、やがて新しい権力の所在地になった江戸にその場を移し、浮世絵という新しいジャンルによって受け継がれていくことになります。 浮世絵は木版による版画を表現手段として大衆化していきますが、絵筆で一点一点制作するいわゆる肉筆画も、一部の富裕層に好まれ、盛んに描かれたものでした。遊郭や芝居小屋など遊興の地に取材して、都市生活の華やぎを美しく理想化して表す一方で、説話や物語、あるいは芸能で親しい故事人物も描いています。
礒田湖龍斎(いそだこりゅうさい)は、神田小川町の旗本土屋家の浪人で両国薬研堀に住居する。明和前期より鈴木春信風の美人画を描き,柱絵にもすぐれた構図感覚をみせた。安永期には重厚感ある独自の美人画風を確立し、錦絵に大判サイズを定着させた。安永末ごろに法橋に叙せられ,以後は肉筆画に専念した。「松風村雨図」絹本墨画金泥3幅対(前後期展示)は、中央に平安時代に須磨に蟄居を命じられた在原行平を貴族の装束で描き、左右に行平に恋した須磨の美人姉妹を描いた作品です。

 礒田湖龍斎「松風村雨図」(江戸時代/ 18世紀)

歌川広重(うたがわひろしげ)は江戸の定火消同心の武家に生まれ、歌川豊広に入門して浮世絵師になり、天保期に名所絵で世間に認められ、「東海道五拾三次之内」や「名所江戸百景」hざ代表作である。「墨田河畔春遊図」1幅(前期展示)は、遠景の筑波山と、桜の季節の隅田川の渡し場付近を描き、簡単な屋根と腰掛がが描かれているが、名物の草餅を食べさせる茶屋である。

 歌川広重「墨田河畔春遊図」(江戸時代/ 19世紀)

葛飾北斎(かつしかほくさい)は江戸に生まれ、勝川派の勝川春草に入門し、後に勝川派を離れ肉筆画、挿絵、絵手本、錦絵と勢力的に活躍した。「北斎漫画」、「富嶽三十六景」シリーズは世界的に評価されている。「源頼政の鵺退治図」絹本着色1幅(前後期展示)は「平家物語」で語られる「鵺退治」に武将源頼政が弓を引いている姿を描いたものです。

 葛飾北斎「源頼政の鵺退治図」(江戸時代/ 19世紀)

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イベント 江戸東京博物館 各派の江戸絵画作品を蒐集展示したファインバーグ・コレクション展その1

2013年07月27日 | イベント
kan-haru blog 2013 ファインバーグ・コレクション展江戸絵画の奇跡図録     

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ファインバーグ・コレクション展
「ファインバーグ・コレクション展江戸絵画の奇跡」は、江戸東京博物館(墨田区横網1-4-1)1階会場で博物館開催20周年記念として、前期は5月21日~6月16日、後期は6月18日~7月15日までの午前9時30分~午後5時30分(土曜日は午後7時30分まで)開催され、休館日は、毎週月曜日で、主催は公益財団法人東京都歴史文化財団、東京都江戸東京博物館、読売新聞社、美術館連絡協議会で、協賛はライオン、清水建設、大日本印刷、損保ジャパンで、協力が全日本空輸で開催されます。

 ファインバーグ・コレクション展パンフレット

観覧料は、特別展専用の一般が1,300円、大学生・専門学校生が1,040円、中学生・高校生・小学生・65歳以上が650円です。前期開催の6月6日に見てきました。

 ファインバーグ・コレクション展江戸絵画の奇跡入場券

・第1章 日本美のふるさと 琳派
ファインバーグ・コレクション展は、ロバート&ベッツィー・ファインバーグ夫妻が40年かけて蒐集した江戸時代の絵画の中から選び抜かれた90点余りを、前後期にわけて5章構成で展示替えをして紹介されています。展示作品の屏風や襖などの江戸時代の江戸絵25の絵師と筆者不詳の2作品が展示(展示リスト参照)されています。
展示の「第1章 日本美のふるさと 琳派」のコーナーでは、17世紀初頭日本の古典美術を復興しようとする機運が高まり装飾性に優れた、新しい日本的な絵画を創成した、琳派創始者の京都の町人俵屋宗達(たわらやそうたつ)の「虎図」(前後期展示)は、日本では生息していない虎を、琳派が特徴のやわらかな曲線で優しく描写した紙本墨画から始まります。

 俵屋宗達「虎図」(江戸時代/ 17 世紀)

19世紀初頭の尾形光琳に琳派の画風を学んだ酒井抱一の「12ヶ月花鳥図」12幅絹本着色(前後期展示)のうち「5月」の立葵・紫陽花・に蜻蛉は、琳派の画家たちが繰り返し描かれた題材です。

 酒井抱一の「12ヶ月花鳥図」の「5月」(江戸時代/ 19 世紀)

抱一に学んだ江戸の商家出身の鈴木其一(すずききいつ)の「群鶴図屏風」紙本金地着色2曲1双(前後期展示)は、琳派の画家たちが描き継がれた、金地の背景に水流の配置と渦巻状の水紋に真っ直ぐ向いた2羽の鶴は、光琳の画を踏襲しています。

 鈴木其一「群鶴図屏風」(江戸時代/ 19 世紀)

・第2章 中国文化へのあこがれ 文人画
「第2章 中国文化へのあこがれ 文人画」のコーナーでは、武家の知識人によってうながされた日本文人画の歩みは、町人や農民出身の池大雅や与謝蕪村などの庶民によっても受け継がれ、日本人独特の感性をのびやかに発揮し、新鮮な美の領域を開拓されてきました。
中国の文化や舶来の画譜から文人画法を学んだ、京都西陣生まれの池大雅(いけのたいが)の「孟嘉落帽・東坡戴笠図屏風」紙本墨画淡彩6曲1 双(前後期展示)は、中国の高土2人のかぶり物にまつわる故事を描いた屏風画で、左隻は東晋の孟嘉の逸話を描いたもので、右隻は北宋の蘇軾のエピソードを描いたものです。

 池大雅「孟嘉落帽・東坡戴笠図屏風」(江戸時代/ 18 世紀)

大阪郊外の農家に生まれ、独学で絵画を学んだ与謝蕪村(よさぶそん)の「寒林山水図屏風」紙本金地墨画2 曲1 隻(前後期展示)は、蕪村には珍しい金箔の地に冬枯れして寒々しい山中風景が水墨のみで描かれている。展示の作品は、2曲の屏風に仕立てられているが、左右の両端に引手の跡があり、当初は戸棚の小襖であったのが分かります。

 与謝蕪村「寒林山水図屏風」(江戸時代/ 18 世紀)

江戸に生まれ、狩野派や大和絵、琳派および中国画などの諸派の画を学び、西洋の遠近法の画などを製作している谷文晁(たにぶんちょう)の「秋夜名月図」絹本墨画1 幅(前後期展示)は、縦82.8cm×横168cmの大画面には、左に墨の外隈によって絹地が白く抜かれた大きな月が浮かび、右下方から葦が伸びあっている図を水墨によって描かれています。この画には、「文晁図書」と刻した大きな印が捺されており、文晁が款記の下文字と合わせて画面のバランスが巧妙に採られているいることと共に、襖絵や屏風画と共に江戸時代の一幅の絵画も大画面であることを、展示作品を見て認識しました。

 谷文晁「秋夜名月図」(江戸時代/1817年(文化14年) )

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イベント 貨幣博物館 古貨幣研究家の田中啓文氏の銭幣館コレクションを日本銀行に寄贈し誕生した博物館

2013年07月23日 | イベント
kan-haru blog 2013 日本銀行金融研究所貨幣博物館    

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日本銀行貨幣博物館
日本銀行金融研究所貨幣博物館(中央区日本橋本石町1丁目3-1)は、日本銀行旧館の筋向いにあり、7月16日に見学してきました。

 日本銀行旧館(2)の対面の建物が日本銀行貨幣博物館(1) 

日本銀行金融研究所は、1982年(昭和57年)10月に日本銀行創立百周年を記念して、日本銀行の内部組織の1つとして金融経済の理論、制度、歴史の研究等を行う目的で設立されました。
日本銀行金融研究所貨幣博物館では、貨幣に関する歴史的、文化的な資料を収集・保管し、それらの調査研究を進めつつ、広く一般に公開しています。その収集資料は、明治末期からの古貨幣収集家・研究家であった田中啓文氏が収集した銭幣館コレクションです。同氏は、わが国の古代から近代にいたる貨幣だけでなく、中国を中心とする東アジアの貨幣や、貨幣に関するさまざまな資料を10万点を収集していました。その収集資料が展示・保管されていた博物館が銭幣館では、戦局が悪化した1944年(昭和19年)に、戦火による喪失を避けるため、収集資料は日本銀行に寄贈されました。
寄贈された資料などをより広く公開するため、日本銀行創立100周年(1982年(昭和57年))を記念して1985年(昭和60年)11月に日本銀行金融研究所の2階に貨幣博物館を開館しました。博物館の入館は、入場料が無料で、開館は9時30分~16時30分で、月曜日、祝日、年末年始が休館です。

 貨幣博物館入り口(左:貨幣博物館、右:貨幣博物館入り口0716)

・貨幣博物館展示
貨幣博物館建物入り口を入り階段を2階へ上がると博物館で、展示会場には左側の出入り口を入って時計回りに閲覧します。博物館の出入り口の外部ロビーのみは写真がとれますが、展示会場内部は写真の撮影は禁止です。撮影可コーナーには、1億円の重さ体験と石貨が展示されています。石貨は、西太平洋のヤップ島で貨幣として使用され、大きなものは直径が3.6mにも達すると説明にありました。

 撮影可コーナーの展示品(左:一億円を持ってみませんか、右:石貨0716)

貨幣博物館は2013年5月16日~2014年3月30日の期間中は、「おかねの材料とつくりかた」をテーマ展として、お金はどんな材料から、どのようにつくられてきたのか、特定の金属を人々に広く行きわたる「お金」に変えていく方法を、先人たちはどのような知恵を用い、工夫をこらしてきたかの足跡をテーマにして約4,000点の資料が展示されています。

 貨幣博物館会場レイアウト

展示室に入ると、時計回りに進み最初の8世紀以前「古代」のコーナーでは、「物々交換から物品貨幣へ」と題して貨幣の誕生を示し、8世紀以降には「我が国における貨幣発行の開始」として、和銅開珎、富本銭、皇朝銭などが展示されています。

 和同開珎(中国の貨幣を見本に銀銭と銅銭が鋳造された 日本銀行貨幣博物館絵葉書から)

次は12世紀以降の「中世」コーナーで、「中国銭の使用」をテーマに渡来銭の展示があります。
16世紀以降の「近世」コーナーでは、16世紀の「江戸時代幣制の芽生え」では金銀貨や分銅金が展示されています。

 大判と銀板(左:天正大判 秀吉が彫金師後藤家に造らせた五三の桐の刻印が押された最初の大判、右:博多御紅葉銀 秀吉が軍資金として造らせた銀板 日本銀行貨幣博物館絵葉書から)

17世紀の「独自の幣制の成立」では徳川幕府制定の貨幣、わが国や中国・ヨーロッパでの紙幣発行がおこなわれました。

 わが国最古の紙幣「山田羽書」(伊勢山田地方で商人がつり銭の代わりに発行した預かり証で、紙幣として流通した 日本銀行貨幣博物館絵葉書から)

また、この時期には両替商が発達し、それに関する資料展示されています。

 分銅金と天秤(左:両替商の天秤・分銅 江戸時代には重さが価値を表す秤量銀貨を用いたので欠かせない道具である、右:分銅金 戦時の蓄えとして鋳造された100匁の金塊 日本銀行貨幣博物館絵葉書から)

17~19世紀の「幣制の安定と動揺」では幕府発行の貨幣、金銀銅の流出、各種貨幣の改鋳や幕末期の幕府札・藩札・地方貨幣に関する資料が展示されています。

 枝銭と天保小判五十両包み(左:枝銭 鋳型に銅を流し込み取り出した銭貨が樹枝状なので枝銭と呼ばれる、右:天保小判五十両包み 小判五十両を施封したもので包み紙の上書きが信用されたため開封せずにそのまま使用した 日本銀行貨幣博物館絵葉書から)

「近現代」コーナーでは、明治初期の幣制混乱[明治元年~]、円の誕生[明治4年~]では新通貨条例を制定し金1.5gを1円とした新貨幣を発行しました。

 新貨条例による貨幣(日本銀行金融研究所貨幣博物館> 常設展示> 常設展示図録> 近現代から)

欧州先進国の中央銀行制度にならって日本銀行を設立[明治15年~]し、明治18年に1円銀貨と引き換えられる兌換券の日本銀行最初の「大黒札」の銀行券を発行しました。

 最初の日本銀行券「大黒札」(日本銀行金融研究所貨幣博物館> 常設展示> 常設展示図録> 近現代から)

その後、金本位制度から管理通貨制度へ[大正6年~]のテーマには、アメリカなどに追随して金の輸出を禁止して昭和5年に再開したが、昭和6年イギリスが金本位制を離脱したため、再び金の輸出を禁止し、日本銀行券の兌換は停止されました。
「さまざまな貨幣」コーナーには、石貨、変った素材の貨幣、変った形の金属貨幣、緊急貨幣、大形の紙幣などが展示されてあります。

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イベント 日本銀行本館 辰野金吾の設計による旧館の堅固な建物の中央銀行の金庫、営業所や史料展示室を見学

2013年07月19日 | イベント
kan-haru blog 2013 日本銀行落成之図 明治29年に完成した日本銀行落成式(日本銀行絵葉書から)    

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日本銀行本店
H11異業種交流会メンバーの恒例行事により、6月3日にわが国の中央銀行である日本銀行本店の旧館を見学してきました。同会の以前の金融関係の見学会には、国立印刷局滝野川工場(「イベント 国立印刷局 1億円紙幣札束の重量を実感できる国立印刷局滝野川工場」参照)があります。

 日本銀行本店案内図

・日本銀行の創業
日本銀行は、わが国の中央銀行として、銀行券を発行し、通貨及び金融の調節を行い、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」を目的として、1882年(明治15年) 10月10日の創業当時には永代橋際(現中央区日本橋箱崎町1番地)で業務(創業当時の本店営業所扉絵1(←ここをクリック):日本銀行百年史(第1巻)から*1)を開始しました。
日本銀行は認可法人であり、資本金は1億円と日本銀行法により定められており、そのうち55,045千円(平成17年3月末現在)は政府の出資であり、残りは民間等の出資となっています。なお、日本銀行法では、「日本銀行の資本金のうち政府からの出資の額は、五千五百万円を下回ってはならない。」と定められています。

・金座に移転の日本銀行
創業した店舗は、手狭なうえ、都心からやや遠かったこともあり、開業の翌年には早くも店舗の移転が決定され、江戸時代から東海道、中山道、奥州街道、日光街道、甲州街道の 5街道の起点で、交通の要所であり、江戸時代から両替商が軒を連ねていた関係で、江戸時代に金貨製造の金座があった日本橋(中央区日本橋本石町2−1−1)を移転先として選び、設計者は、東京駅、旧両国国技館などの設計も手がけた建築学界の第一人者であった辰野金吾博士が手がけました。

 金座絵巻:文政年間の金座における小判製造過程(日本銀行絵葉書から)

建築様式は、バロック様式の柱や丸屋根と規則正しく並ぶ窓などのルネッサンス様式を取り入れた「ネオ・バロック建築」で、ベルギーの中央銀行を模範に設計したと言われ、1890年(明治23年)9月に着工し、建物の外装は、1891年(明治24年)の濃尾大地震の被害から、総石造りは無理であるとの判断から、積み上げたレンガの上に、外装材として石を積み上げるという方法に変更し、地階と1階は厚い花崗岩、2階と 3階が薄い安山岩により建物の軽量化を図り、1896年(明治29年)2月に竣工(移転した頃の本店営業所扉絵2(←ここをクリック):日本銀行百年史(第1巻)から*1)しました。

*1 日本銀行の概要 日本銀行百年史(第1巻) (日本銀行ホームページ)

・日本銀行の震災災害
1923年(大正12年)の関東大震災では、建物自体はびくともしませんでしたが、近隣の火災が日本銀行におよび、丸屋根は焼け(←ここをクリック)てしまい、現在のものはその後復元したものです。
日本銀行は、1942年(昭和17年)2月に日本銀行法が制定され、戦後数次に亘って部分的な改正が行われ、1949年(昭和24年)6月の改正では、最高意思決定機関として政策委員会を設置することが定められました。1974年(昭和49年)2月5日には、日本銀行本店の旧館は国の重要文化財に指定されました。
1997年(平成9年) 6月、「独立性」と「透明性」という2つの理念の下に、日本銀行法は全面改正されました。

 本店本館(日本銀行絵葉書から)

・旧館見学
H11異業種交流会メンバーの見学会は、14時45分に西門に集合してから、入り口の警備員さんに見学を告げて通用門を入ると中庭です。

 日本銀行旧館西門と南門(左:旧館西門、右:旧館南門0603)

中庭を抜けて丸屋根中央の玄関を入ると天井にはシャンデリアがあり、見学記念品売り場がある広場で本日の見学者の集合場所です。時間が来ると数名の女性案内人により、見学の注意により、これより先は撮影禁止なので、バックをコインロッカーに入れて、探知機を通りホールに入り説明のビデオを見ます。

 日本銀行旧館の玄関(左:西門を入って玄関に向かう、右:正面から見た玄関0603)

これから2斑に分かれて女性案内人の説明によるコース見学です。当日のコースとは若干異なりますが、日本銀行ホームページのバーチャル見学ツアーのコースに順じて説明します。先ずは、1階の旧営業所(←ここをクリック)で以前の日本銀行の窓口があったところです。
エレベータで地下1階に進むと地下金庫の入り口で、金庫は明治29年から平成16年6月まで、108年間使われていました。地下金庫の扉は、米国製で、厚さは90センチ、重さは扉が15トン、外わくが10トンあり、地下金庫がひろげられた1932年(昭和7年)に取付けられました。

 旧館地下金庫外扉(日本銀行絵葉書から)

次に、昭和初期に日本で2番目に設置され、その後改装されていますが、古典的雰囲気が漂う大型のエレベータ(←ここをクリック)に乗り2階に上がります。
2階の赤じゅうたん廊下の白い壁の両側には、初代からの歴代総裁(←ここをクリック)の巨大な油絵の肖像画が展示してあります。現在の肖像画は、関東大震災時に焼失したため、その後再製されたものです。

 歴代総裁の肖像画(日本銀行絵葉書から)

次に2階の丸屋根の史料展示室(←ここをクリック)には、日本銀行の歴史を示す金や銀塊を量る大きな天秤、日本銀行に火災などがあったときに集まる駆付人夫のはっぴや照明用の提灯、および業務の始業・終業に打ち鳴らしていた拍子木や、日銀で1961~69年(昭和36年~44年)代に使用していた貴重な品々が展示されていました。
1937~40年(昭和12~19年)には、丸屋根の下の八角形の部屋を総裁室に利用しており、第15代結城総裁が使用していた当時の机と椅子(←ここをクリック)が再現展示してあります。
2階から降りる鉄製の階段(←ここをクリック)は、明治29年に英国から取り寄せたものといわれており、段差が低く段数が多いことと、手すりの美しい模様が特徴です。
最後に、ホールに戻りレクチュアーがあり見学終了です。昔、日本銀行に来るお客様は、馬車などでお金を運んでおり、中庭が荷物の積みおろしに利用されていたので、馬の水飲み場があります。

 日本銀行中庭(左:馬の水呑み場、右:見学記念写真0603)

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イベント 生誕120年木村荘八展 東京ステーションギャラリーで昭和の東京の油絵と小説の挿絵を見るその4

2013年06月11日 | イベント
kan-haru blog 2013 「墨東奇譚」初版本表紙(三田文学ライブラリー~永井荷風の初版本を中心に~から)   

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木村荘八の挿絵続
前回では、永井荷風の小説「墨東綺譚」の第一章から第四章までの挿絵を見てみました。今回は、その続編です。
・第六章
<其家は大正道路から唯とある路地に入り、汚れた幟のぼりの立っている伏見稲荷の前を過ぎ、溝に沿うて、猶なお奥深く入り込んだ処に在るので、表通のラディオや蓄音機の響も素見客ひやかしの足音に消されてよくは聞えない。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵16 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしの忍んで通う溝際どぶぎわの家が寺島町七丁目六十何番地に在ることは既に識しるした。....お雪という女の住む家が、この土地では大正開拓期の盛時を想起おもいおこさせる一隅に在ったのも、わたくしの如き時運に取り残された身には、何やら深い因縁があったように思われる。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵17 (1937)岩波文庫『墨東綺譚』第77刷から

<その夜お雪さんは急に歯が痛くなって、今しがた窓際から引込んで寝たばかりのところだと言いながら蚊帳から這はい出したが、坐る場処がないので、わたくしと並んで上框あがりがまちへ腰をかけた。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵18 (1937)東京国立近代美術館

<「急に痛くなったの。目がまわりそうだったわ。腫はれてるだろう。」と横顔を見せ、「あなた。留守番していて下さいな。わたし今の中うち歯医者へ行って来るから。」>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵19 (1937)東京国立近代美術館

・第七章
<白っぽい浴衣ゆかたに兵児へこ帯をしめ、田舎臭い円顔に口髯くちひげを生はやした年は五十ばかり。手には風呂敷に包んだものを持っている。わたくしは其様子と其顔立とで、直様すぐさまお雪の抱主かかえぬしだろうと推察したので、向から言うのを待たず、
「お雪さんは何だか、お医者へ行くって、今おもてで逢いました。」>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵20 (1937)東京国立近代美術館

<二階は窓のある三畳の間に茶ぶ台を置き、次が六畳と四畳半位の二間しかない。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵21 (1937)東京国立近代美術館

<「あなた。髪結さんの帰り……もう三月になるわネエ。」>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵22 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしが殆ど毎夜のように足繁く通って来るのは、既に幾度か記述したように、種々いろいろな理由があったからである。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵23 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしは已やむことを得ず自動車に乗り改正道路から環状線とかいう道を廻った。つまり迷宮ラビラントの外廓を一周して、伏見稲荷の路地口に近いところで降りた事があった。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵24 (1937)東京国立近代美術館

・第八章
<両側に縁日商人あきゅうどが店を並べているので、もともと自動車の通らない道幅は猶更狭くなって、出さかる人は押合いながら歩いている。板橋の右手はすぐ角に馬肉屋のある四辻よつつじで。辻の向側には曹洞宗東清寺と刻しるした石碑と、玉の井稲荷の鳥居と公衆電話とが立っている。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵25 (1937)東京国立近代美術館

<お雪の家の在る第二部を貫くかの溝は、突然第一部のはずれの道端に現われて、中島湯という暖簾のれんを下げた洗湯せんとうの前を流れ、許可地外そとの真暗な裏長屋の間に行先を没している。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵26 (1937)東京国立近代美術館

<これを幸に、わたくしはいつも此路地口から忍び入り、表通の家の裏手に無花果いちじくの茂っているのと、溝際どぶぎわの柵さくに葡萄ぶどうのからんでいるのを、あたりに似合わぬ風景と見返りながら、お雪の家の窓口を覗く事にしているのである。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵27 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしは橋の欄干に凭もたれ、下流かわしもの公園から音頭踊おんどおどりの音楽と歌声との響いて来るのを聞きながら、先程お雪が二階の窓にもたれて「三月になるわネエ。」といった時の語調や様子を思返すと、すみ子と種田との情交は決して不自然ではない。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵28 (1937)東京国立近代美術館

・第九章
<いつもの窓に見えるお雪の顔も、今夜はいつもの潰島田つぶしではなく、銀杏いちょう返しに手柄をかけたような、牡丹ぼたんとかよぶ髷まげに変っていたので、わたくしは此方こなたから眺めて顔ちがいのしたのを怪しみながら歩み寄ると、お雪はいかにもじれったそうに扉をあけながら、「あなた。」と一言強く呼んだ後、急に調子を低くして、「心配したのよ。それでも、まア、よかったねえ。」
わたくしは初め其意を解しかねて、下駄もぬがず上口あがりぐちへ腰をかけた。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵29 (1937)東京国立近代美術館

<そのまま窓に坐って、通り過る素見客ひやかしにからかわれたり、又此方こっちからもからかったりしている。其間々には中仕切の大阪格子を隔てて、わたくしの方へも話をしかける。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵30 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしは帰りの道筋を、白髯橋の方に取る時には、いつも隅田町郵便局の在るあたりか、又は向島劇場という活動小屋のあたりから勝手に横道に入り、陋巷ろうこうの間を迂曲うきょくする小道を辿たどり辿って、結局白髯明神の裏手へ出るのである。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵31 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしは、お雪が意外のよろこびに眼を見張った其顔を、永く忘れないようにじっと見詰めながら、紙入の中の紙幣さつを出して茶ぶ台の上に置いた。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵32 (1937)東京国立近代美術館

・第十章
<わたくしは舗道から一歩ひとあし踏み出そうとして、何やら急にわけもわからず名残なごり惜しい気がして、又ぶらぶら歩き出すと、間もなく酒屋の前の曲角まがりかどにポストの立っている六丁目の停留場である。ここには五六人の人が車を待っていた。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵34 (1937)東京国立近代美術館

<お雪は下へ降りて茶を運んで来た。姑しばらく窓に腰をかけて何ともつかぬ話をしていたが、主人あるじ夫婦は帰りそうな様子もない。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵33 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしとお雪とは、互に其本名も其住所をも知らずにしまった。唯墨東の裏町、蚊のわめく溝際どぶぎわの家で狎なれ※(「日+匿」、第4水準2-14-16)したしんだばかり。一たび別れてしまえば生涯相逢うべき機会も手段もない間柄である。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵35のための下絵 (1937)東京国立近代美術館

・作後贅言
<そのころ、わたくしは大抵毎晩のように銀座尾張町の四ツ角で翁に出逢った。翁は人を待合すのにカフエーや喫茶店を利用しない。待設けた人が来てから後、話をする時になって初めて飲食店の椅子に坐るのである。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵15のための下絵 (1937)東京国立近代美術館

<今年残暑の殊に甚はなはだしかった或夜、わたくしは玉の井稲荷前の横町を歩いていた時、おでん屋か何かの暖簾のれんの間から、三味線を抱えて出て来た十七八の一寸ちょっと顔立のいい門附から、「おじさん。」と親しげに呼びかけられた事があった。「おじさん、こっちへも遊びに来るのかい。」>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵14 (1937)東京国立近代美術館

注:「墨東綺譚」の墨の字は、サンズイを付けるのが正式ですが、本ブログでは文字化けとなるため「墨」の字を使用しております。

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イベント 生誕120年木村荘八展 東京ステーションギャラリーで昭和の東京の油絵と小説の挿絵を見るその3

2013年06月08日 | イベント
kan-haru blog 20132版 永井荷風『墨東綺譚』岩波文庫本 第77刷発行  

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木村荘八の挿絵
生誕120年木村荘八展メインの挿絵は、日中戦争が始まった年の1937年4月16日から6月15日まで朝日新聞に連載された永井荷風(1879-1959)の小説「墨東綺譚」の挿絵です。「墨東綺譚」の岩波書店の初版本は、木村荘八の挿し絵つきは、1947年に発行されました。

 永井荷風「墨東綺譚」挿絵岩波書店(左:岩波文庫カット、:木村荘八:永井荷風著『墨東綺譚』挿絵1 (1937)東京国立近代美術館)

永井荷風は、新進作家見習いとして、1902年に刊行の『地獄の花』は森鴎外に絶賛され彼の出世作となりました。1908年に『あめりか物語』を発表し、夏目漱石からの依頼により東京朝日新聞に『冷笑』が連載され、その他『新帰朝者日記』『深川の唄』などを発表し新進作家として注目されました。1934年『ひかげの花』など新境地の作品を作り出し、各出版社から荷風の全集本が発売されるなど多額の印税が入り、生活に余裕が生まれ、創作活動期を迎え、友人らと銀座を散策したり、江東区荒川放水路の新開地や浅草の歓楽街、玉の井の私娼街を歩み、その成果が実り、1937年に荷風の小説中最高傑作といわれる『墨東綺譚』を朝日新聞に連載しました。「墨東綺譚」は、挿絵の依頼を受けた時には完成していた小説を、荘八は貪り読み、亀戸から玉の井を歩き資料を集め、意欲を持って臨み完成し人気を博しました。
ブログでは、岩波文庫の『墨東綺譚』第77刷(2013年5月)文庫本から挿絵を追って、国立美術館木村荘八 永井荷風著『濹東綺譚』挿絵から絵をWebのリンクで見ていきます。
岩波文庫の『墨東綺譚』第77刷(2013年5月)から、木村荘八の挿絵を追って見ました。

・第一章
<この辺で夜も割合におそくまで灯あかりをつけている家は、かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらいのものであろう。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵2 (1937)東京国立近代美術館

<いきなり後うしろの木蔭から、「おい、何をしているんだ。」と云いさま、サアベルの音と共に、巡査が現れ、猿臂えんぴを伸してわたくしの肩を押えた。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵3 (1937)東京国立近代美術館

<巡査は広い道路の向側に在る派出所へ連れて行き立番の巡査にわたくしを引渡したまま、急いそがしそうにまた何処どこへか行ってしまった。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵4 (1937)東京国立近代美術館

・第二章
<「失踪しっそう」と題する小説の腹案の登場人物の種田順平は、かつて其家に下女奉公に来た女すみ子と偶然電車の中で邂逅かいこうし、其女が浅草駒形町あさくさこまがたまちのカフエーに働いている事を知り、一二度おとずれてビールの酔を買った事がある。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵5 (1937)東京国立近代美術館

<踏切の両側には柵さくを前にして円タクや自転車が幾輛となく、貸物列車のゆるゆる通り過るのを待っていたが、歩く人は案外少く、貧家の子供が幾組となく群むれをなして遊んでいる。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵6 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしは脚下あしもとの暗くなるまで石の上に腰をかけていたが、土手下の窓々にも灯がついて、むさくるしい二階の内なかがすっかり見下されるようになったので、草の間に残った人の足跡を辿たどって土手を降りた。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵7 (1937)東京国立近代美術館

<いくら晴れていても入梅中のことなので、其日も無論傘と風呂敷とだけは手にしていたから、さして驚きもせず、静にひろげる傘の下から空と町のさまとを見ながら歩きかけると、いきなり後方うしろから、「檀那、そこまで入れてってよ。」といいさま、傘の下に真白な首を突込んだ女がある。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵8 (1937)東京国立近代美術館

・第三章
<「宇都の宮にいたの。着物もみんなその時分のよ。これで沢山だわねえ。」と言いながら立上って、衣紋竹えもんだけに掛けた裾模様の単衣物ひとえに着かえ、赤い弁慶縞の伊達締だてじめを大きく前で結ぶ様子は、少し大き過る潰島田の銀糸とつりあって、わたくしの目にはどうやら明治年間の娼妓のように見えた。>

 永井荷風著『濹墨東綺譚』挿絵9 (1937)東京国立近代美術館
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵10 (1937)東京国立近代美術館

<靴をはいている間あいだに、女は小窓の下に置いた物の中から三味線のバチの形に切った名刺を出してくれた。見ると寺島町七丁目六十一番地(二部)安藤まさ方雪子。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵11 (1937)東京国立近代美術館

・第四章
<吾妻橋のまん中ごろと覚しい欄干に身を倚よせ、種田順平は松屋の時計を眺めては来かかる人影に気をつけている。女給のすみ子が店をしまってからわざわざ廻り道をして来るのを待合まちあわしているのである。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵12 (1937)東京国立近代美術館

<畳のよごれた六畳ほどの部屋で、一方は押入、一方の壁際には箪笥たんす、他の壁には浴衣ゆかたやボイルの寝間着がぶら下げてある。すみ子は窓を明けて、「ここが涼しいわ。」と腰巻や足袋たびの下っている窓の下に座布団を敷いた。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵13 (1937)東京国立近代美術館

注:「墨東綺譚」の墨の字は、サンズイを付けるのが正式ですが、本ブログでは文字化けとなるため「墨」の字を使用しております。Ⅱ版

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イベント 生誕120年木村荘八展 東京ステーションギャラリーで昭和の東京の油絵と小説の挿絵を見るその2

2013年06月04日 | イベント
kan-haru blog 2013 生誕120年 木村荘八展~花の東京東に西に~」図録 

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出展作品を見る
1896年(明治29年)に赤煉瓦の東京駅3階建て駅舎を建設することとなり、1914年(大正3年)に丸の内東京駅が開業して、1945年(昭和20年)5月の戦災で屋根は焼け落ち内装も焼失しましたが、レンガ造壁の構造体は残りました。1947年(昭和22年)に3つのドーム部の3階部分の内外壁を取り除いき2階建て駅舎に仮変更し、中央ドームの屋根は木造小屋組で元の形に復原し、南北両ドームの屋根は丸型から台形に変更して復元されました。創建当初の駅舎に復元するため2007年(平成19年)に工事が開始され、ドームの屋根は創建当初の一文字葺きの天然スレートに葺き替えを行い、地上3階(一部4階)建ての東京駅に復元しました。

 東京駅丸の内北口ドーム内部赤煉瓦(写真拡大)

復元された東京駅北口ドームの東京ステーションギャラリー再開記念の、「生誕120年 木村荘八展~花の東京東に西に~」展示会場へは、ギャラリー入り口に入り入場券を購入して3階会場にはエレベータで登ります。

 生誕120年木村荘八展入場券

・大正時代の油彩
展示会入場の5月18日は後期(4/23~5/19)にあたり、先ずは1891年(明治24年)生まれの木村荘八の油彩絵が65点展示してあります。展示の油彩絵を年代を追って整理して見て行くと、1912年京橋の「いろは」第3支店に居住時代は19歳で、10月ヒューザン会第1回展に出品した作品は、「祖母と子猫」、「母」など10点を出展しています。
翌1913年2月に家族と離れて牛込の下宿に転居し、12月には大崎に転居して、ヒューザン会第2回展では、「自画像」、「大崎風景」など21点を出品しています。

 ヒューザン会展出品作品(左:ヒューザン会第1回展作品「祖母と子猫」油彩、右:第2回展作品「大崎風景」油彩)

東京駅が開業した1914年10月の草木社時代には上大崎に転居し、木村荘八個展を開き「自画像」など24点を出品、翌年には巽画会第15回展、木村荘八個人展や、草土社結成の第1回展などに「瓶を持っている女」など60点を出品しています。1916年には草土社第2、3回展に、「襟巻をせる自画像」など油彩と素描が126点出品しています。1917年の草土社第4、5回展には、素画「齋藤山の一端」や油絵など25点を出品し、翌年の再興第5回院展「二本灌木」などを出品して樗牛(ちょぎゅう)賞を受賞し、草土社第6回展には「大学構内」など23点を出品しました。1919年には、再興第6回院展に「静物」など9点を、草土社第7回展には「女の肖像」など15点と描画を出品しました。

 草木社時代の油彩(左:「自画像」1914年、中:「瓶を持っている女」1915年、右:「襟巻をせる自画像」1916年)

・春陽会の時代
1920年の再興第7回院展に「正陽寺望楼より」などを出品した後、院展を脱会しました。草土社第8回展には「老虎灘の山」などを出品しました。院展をやめた後の1922年には、春陽会を設立し中心メンバーとして活躍し、画風も大きく変貌を遂げ、草土社第9回展に「上野にて」など15点余りを出品しました。翌年には、草土社を解散し、春陽会第1回展には「郊外小景」など12点を出品し、木村荘八小品及興画展覧会には「築地川岸所見」など51点余を出品しました。1924年には、春陽会第2回展に「お七櫓にのぼる」、「寺子屋三種「車とどまる」」など出品し、白井喬二の小説「富士に立つ影」の挿絵を交代で制作して、挿絵画家としても活躍しました。翌年には本郷森川町へ転居して、春陽会第3回展に「連獅子」などを出品しました。

 春陽会の時代の作品1(左上:「寺子屋三種「車とどまる」」1924年、左下:「正陽寺望楼より」1920年、右:「お七櫓にのぼる」1924年)

1926年の昭和に入ると、春陽会第4回展に「たけくらべ絵巻」などを出品し、聖徳太子奉賛美術展に「続たけくらべ絵巻」を出品しました。翌年は春陽会第5回展に「風景習作」を出品し、吉井勇「大川端」東京日日新聞夕刊の「大東京繁昌記」の挿絵を手がけました。1928年には、春陽会第6回展に「Panの会」(その1参照)などを出品し、翌年の春陽会第7回展に「室内婦女」などを出品して、白井喬二の小説「祖国は何処へ」の挿絵や、十一谷美義三郎「時の敗者」東京朝日新聞と永田幹彦「東京新景」国民新聞の挿絵を手がけました。
1930年の春陽会第8回展に「戯画ダンスホール」などを出品して、翌年の春陽会第9回展には「夜楽」を出品し、田中貢太郎「情鬼」東京朝日新聞と佐々木味津三「夜明けの女」福岡日日新聞の挿絵を手がけました。
1932年の六潮会第1回展に「お吉図」、春陽会第10回展に「牛肉店帳場」(その1参照)を出品し、舟橋誠一「白い蛇赤い蛇」都新聞の挿絵を手がけました。翌年の六潮会第2回展に「レビュー所見」、春陽会第11回展に「「東京新景」に因む原画」を出品し、直木三十五「大阪落城」時事新報、大仏次郎「霧笛」東京日日新聞夕刊の挿絵を手がけました。1934年六潮会第3回展に「助六雑踏」、春陽会第12回展に「小説霧笛の場面」を出品しました。
1935年六潮会第4回展に「人物」、春陽会第13回展に「新宿駅」を出品しました。翌年の六潮会第5回展に「水仙」、春陽会第14回展に「浅草寺の春」(その1参照)を出品しました。

 春陽会の時代の作品1(左上:「戯画ダンスホール」1930年、左下:「新宿駅」1935年、右:「幽霊せり出し」1937年)

「墨東奇譚」挿絵
1937年六潮会第6回展に「梅が枝」、春陽会第15回展に「幽霊せり出し」を出品しました。同4月に永井荷風「墨東奇譚」東京朝日新聞の挿絵を手がけました。
1938年杉並区和田本町に転居して春陽会第16回展に「(永井荷風氏小説挿絵)墨東奇譚」を出品し、六潮会第7回展に「道成寺」を出品しました。
注:「墨東綺譚」の墨の字は、サンズイを付けるのが正式ですが、本ブログでは文字化けとなるため「墨」の字を使用しております。

 永井荷風「墨東奇譚」挿絵24 1937年

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イベント 生誕120年木村荘八展 東京ステーションギャラリーで昭和の東京の油絵と小説の挿絵を見るその1

2013年05月29日 | イベント
kan-haru blog 2013 永井荷風『墨東綺譚』岩波文庫本

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木村荘八
1893年(明治26年)に、東京・日本橋のいろは牛肉店の創立経営者の8男に生まれた木村荘八は、父の死後浅草と京橋のいろは牛肉支店の帳場を担当しながら、美術家を志ました。1911年、旧制京華中学卒業後、白馬会葵橋洋画研究所に入り、岸田劉生と知り合い、1922年までヒュウザン会に参加し毎回出品しました。1918年からは二科展や院展洋画部にも出品し『二本潅木』で高山樗牛賞受賞しました。1937年には、永井荷風の代表作『墨東綺譚』に挿絵を、他に大佛次郎の時代小説で、幕末・明治初期の横浜新開地を舞台にした『霧笛』、『幻灯』、『花火の街』、『その人』の挿絵を連載しました。晩年の戦後は、文明開化期からの東京の風俗考証に関する著作『東京の風俗』や『現代風俗帖』などの著作を多数出版しました。多忙により病気の発見が遅れ、悪化し1958年に病没しました。歿後刊行の『東京繁昌記』で、日本芸術院恩賜賞(1959年)を受賞しました。(Wikipediaから)
注:「墨東綺譚」の墨の字は、サンズイを付けるのが正式ですが、本ブログでは文字化けとなるため「墨」の字を使用しております。

 木村荘八 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵

生誕120年木村荘八展
東京で20年振りの生誕120年木村荘八展が、東京ステーションギャラリーで公益財団法人東日本鉄道文化財団と東京新聞の主催で、2013年3月23日から5月19日まで開かれました。入館料は、一般が900円、大・高学生が700円で、中小学生が400円です。

 生誕120年木村荘八展パンフレット

木村荘八展の出展作品は、代表作「パンの会」、「牛肉店帳場」、「浅草寺の春」などの油彩画が約78点、「墨東綺譚」の挿絵34点と、「東京繁昌記」挿絵65点と「師走風俗帖」挿絵25点および、岸田劉生、高須光治、椿貞雄、横堀角次郎、河野通勢、宮崎丈二、中川一政などの作品(「生誕120年木村荘八展東京ステーションギャラリー 出品リスト」参照)が、前期(3/23~4/21)と後期(4/23~5/19)に分けて展示されました。

 木村荘八油彩画(左上:パンの会、左下:牛肉店帳場、右:浅草寺の春) 

・東京ステーションギャラリー
東京ステーションギャラリーは1988年に誕生し、2006年の復元工事に伴い休館していましたが、2012年10月1日に再開館しました。

 東京ステーションギャラリー 

ギャラリーは、赤煉瓦駅舎内の東京駅丸の内北口改札前の1階に入り口があり、2階と3階が展示室(約2,900平方メートル)の構成で、順路や階段は創建当時の煉瓦壁の雰囲気が漂っています。

 東京ステーションギャラリーの建当時の煉瓦壁階段・回廊(左上:東京ステーションギャラリーの入り口、中上右上:東京ステーションギャラリーの階段、左下:階段周囲の創建当時の赤レンガ、中下右下:東京ステーションギャラリー2階回廊)

・東京駅
東京駅は、1889年(明治22年)に神戸まで全通した官設鉄道の新橋駅と、私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)に新線の途中に中央停車場を建設することが可決されました。1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、1914年(大正3年)に開業して皇居正面の原野に設置され、「東京駅」と名付けられました。

 東京駅丸の内北口の丸天井(写真拡大)

1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲では丸の内本屋の降車口に焼夷弾により大火災を引き起こし、レンガ造壁とコンクリート造床の構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ちて内装も大半が焼失しました。戦後の1947年(昭和22年)に修復工事を行い、3つのドーム部の外壁を修復し安全性を考慮して3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更、中央ドームは木造小屋組で元の形に復原し、南北両ドームは丸型から台形に変更して復元しました。

 東京駅丸の内北口(:東京駅丸の内北口駅舎内部、:東京駅丸の内北口出口、:東京駅丸の内北口外観)

丸の内駅舎の復元は、2001年(平成13年)に外観の復元を行うこと、南北ドーム見上げ部分の復元を行うこと、現存している部分を可能な限り保存し活用することなどの基本方針に従って、「現存する建造物について、後世の修理で改造された部分を原型に戻す」保存復原工事が2007年(平成19年)に着手され、赤煉瓦駅舎を恒久的に保存・活用するため、駅舎1階と新たに設ける地下1階との間に免震層を設ける方式を採用し、2011年(平成23年)9月末に免震化が完成しました。屋根は、創建当初は雄勝産の天然スレート約7600平方メートルで葺かれていましたが、戦災復旧に際して鉄板葺きを1952年、1973年、1990年の3回にわたって天然スレートに葺き替えが行われてきました。復原工事前のスレートは、ドーム部と中央部は魚鱗葺き、切り妻部は一文字葺きとなっていましたが、復原に当たって創建当初の一文字葺きに統一されました。ドーム内部の設計図は1枚しか残っておらず、写真も白黒のものだけでありましたが、南ドーム3階壁面南東側のレリーフのみは戦災後も一部残存していたので、これを樹脂を含浸して補強し石膏パーツで強化補強してそのまま取り付けられました。

 東京駅丸の内中央口と皇室専用貴賓出入口(:東京駅丸の内中央口、:東京駅皇室専用貴賓出入口)

復原駅舎は地上3階(一部4階)で、地下2階建ての延べ床面積約4万3000平方メートルで、このうち駅施設およびトラベルサービスセンターが約7800平方メートル、ホテルが約2万800平方メートル、ギャラリーが約2900平方メートル、地下駐車場が約3600平方メートル、設備室などが約7900平方メートルの復元工事が2012年(平成24年)10月1日に完成しグランドオープンしました。(Wikipediaから)

 東京駅丸の内南口(:東京駅丸の内南口外観、:東京駅丸の内南口出入り口、:東京駅丸の内南口の丸天井)

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イベント 日書展 第67回日本書道美術院教育部展が古巣の東京都美術館で開催

2013年02月03日 | イベント
kan-haru blog 2013 日書展受付     
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第67回日書展
第67回日書展が、3年振りに改装された東京都美術館に開催場所を戻して、平成25年1月4~10日に開催されました。

 第67回日書展招待券

第67回展では、日本書道美術院所属の書壇を代表する書作家の作品と一般公募作品併せて約2000点の作品が展示され、6日間で2万人を超える観客が訪れ、大盛況でした。日書展会場内では、第67回教育部展と第57回全国競書大会が併催され、出品者の両親や祖父母連れなど家族や関係者が訪れ連日賑わいました。

 新装改装の日書展開催東京美術館(:改装の東京美術館、:美術館入口への新装の階段・エスカレータ、:東京美術館入り口)

・教育部展授賞式
今回の教育部展では、中学2年の孫が2年ぶりに作品を教育部展に展示され、はからずも「みんなの書賞」を頂くことができましたので、1月6日に見に行きました。当日は、入賞者作品には、賞状・賞品が頂けますので国外にいる孫一家の代理で授賞式に参列しました。しかし、授賞式が行われた東京美術館講堂は、定員が230名の収容のため、付添いの参列者は全員が一堂に入れずに、途中入れ替えにより参列しました。
「第67回教育部展」は入賞者全員および、「第57回全国競書大会」は書芸文化院賞以上の入賞者が掲載されている目録を見られます(←ここをクリックする)。

 第67回日本書道美術院教育部展授賞式(:授賞式の付き添いが入れきれない講堂入り口、:授賞式日本書道美術院役員一同、:上位入賞者のひとりひとりに賞状授与)

なお、孫の書道の荻原玉汀(ぎょくてい)先生が第67回日書展で、1月4日に日書展特別賞「サンスター国際賞」の栄誉を得られました。国際賞の作品は、松尾芭蕉の「野ざらし紀行」から、伊賀上野での紀行文「こゝに草履をときかしこに杖を捨てゝ旅寝ながらに年の暮れ」、俳句「年くれぬ笠きて草履はきながら」。一年の旅を振り返り、旅のままに年の暮れを迎えた心境が詠まれたものです。

 第67回日書展「サンスター国際賞」の栄誉に輝く荻原玉汀先生の作品(SUNSTARホームページから)

日書展では、開催の1月8日に特別賞受賞者の荻原玉汀先生による席上揮毫会が実施されました。

 第67回日書展の荻原玉汀先生揮毫会1月8日(日本書道美術院ホームページから)

孫の、過去の教育部展の参加作品は、第65回教育部展(小学6年)で全日本書道連盟賞(「イベント 池袋サンシャイン・ワールドインポマート 第65回日本書道美術院「教育部展」」参照)、第63回展(小学4年)で秀作(「イベント 東京都美術館 第63回日本書道美術院「教育部展」」参照)、第62回展(小学3年)で優作(「イベント 東京都美術館 第62回日本書道美術院「教育部展」」参照)、第61回展(小学2年)で佳作(「イベント 東京都美術館 第61回日本書道美術院「教育部展」」参照)を頂きました。今回の第67回教育部展(中学2年)では、国外から参加して「みんなの書賞」を頂くことができました。

 みんんなの書賞の賞状・メタル(:みんんなの書賞、:みんんなの書賞メタル、:みんんなの書賞メタル表面)

・東京都美術館
東京都美術館(台東区上野公園8-36)は、明治以降の日本画や洋画など同時代の美術を展示する近代美術館の必要性が議論され、1926年(大正15年)に、北九州の石炭王と言われた佐藤慶太郎から東京府に100万円の寄付金が申し出され、それをもとに岡田信一郎設計により東京府美術館が建設されました。
開設当時の建物が老朽化し、1975年(昭和50年)に前川國男設計・大林組建設により総工費50億円の新館が完成しました。1975年開館の東京都現代美術館も築30年を超え、2010年4月より休館し、2年間の工期を経て先ず2012年4月に公募展示室、レストラン、ミュージアムショップ、美術情報室、アートラウンジがリニューアルオープンして、次いで同年6月には企画展示室のリニューアルにより全館がリニューアルオープンしました。
またもう一つの展示スペース、かつての彫塑室は多目的のギャラリーへと変更され、ロビーから直接エレベーターとエスカレーターで行き来することが可能になりました。また、北口入口が新設され、東京国立博物館の方からタクシー利用で入れます。

 改装の多目的のギャラリーと新設の北口入口(:活用が広がる改装された多目的ギャラリー、右:新設された北口入口)

・第57回全国競書大会
第67回日書展には、併載して日本書道美術院第67回教育部展と日本書道美術院第57回全国競書大会が開催されます。「第57回全国競書大会」には、一般部が漢字部・かな部・新書芸部の部門があり、教育部が小学部・中学部・高校部の部門があり、作品の仕様は普通半紙のタテ書きとします。賞には、特待賞/日本書道美術院賞/理事長賞/毎日新聞社賞/毎日小学生新聞賞/全日本書道連盟賞/高野山金剛峯寺賞/全国競書大会賞/書道美術特別賞/みんなの書特別賞/書芸文化院賞/秀華賞/推薦/特選・準特選/金賞・銀賞・銅賞(教育部のみ)があります。

 第57回全国競書大会展示会場(写真拡大)

・第67回教育部展
「第67回教育部展」には、高校の部、中学の部と小学の部(幼年を含む)があり、作品の寸法は本紙寸法がタテ100cm× ヨコ24.5cm(既製の半紙三枚判)で、審査後仕上寸法が軸端を含みタテ135cm× ヨコ36cm です。

 小学生(含む幼年生)展示作品(:小学校・幼年の部作品、:同上位入賞作品)

各部の賞種目には、、特待賞、日本書道美術院賞、理事長賞、毎日新聞社賞、全日本書道連盟賞、高野山金剛峯寺賞、教育部展特別賞、みんなの書賞があります。また、一般の入賞種目には、特選、秀作、優作、佳作があります。

 小・中・高校生展示作品(:小・中学生展示作品、:中・高校生展示作品)

第67回の上位入賞の受賞者は、特待賞(高2、中1点)、日本書道美術院賞(高1、中1、小1点)、理事長賞(高2、中2、小3点)、毎日新聞社賞(高2、中3点)、毎日小学生新聞社賞(小5点)、全日本書道連盟賞(高3、中5、小7点)、高野山金剛峯寺賞(高6、中11、小14点)、教育部展特別賞(高12、中22、小29点)、みんなの書賞(高24、中47、小59点)で、上記の「第67回教育部展」入賞者目録で入賞者指名が見られます。

 教育部展上位入賞作品展示(写真拡大)

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イベント 大戦前は山手随一の盛り場神楽坂 花街風情の粋な三味の音と唄を肴に異業種交流会の忘年会

2012年12月31日 | イベント

kan-haru blog 2012 三味線ライブ 更新動画を追加Ⅱ版2014.8.7   

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H11メトロの忘年会
今年の異業種交流会H11メトロの忘年会は、江戸時代に「牛込花街」として開かれ、明治以降に「山の手一のにぎわい」として発展した、歴史ある神楽坂の本多横町を入って直ぐの「味扇」本店で12月12日午後6時から開催しました。

 粋な黒塀の街神楽坂周辺地図(地図拡大図)

神楽坂の歴史
神楽坂の江戸時代の古地図(見方参照)を見ると、現在地図の神楽坂通り、神楽坂仲通り、本多横町や軽子坂の通りが見られ、毘沙門天善国寺、行元寺が表示されています。

・神楽坂の江戸時代の古地図見方
(1) 日経BP古地図 日経BP > L-Cruise > 特集:大人の江戸散歩>14 神楽坂の今と昔―古地図で歩く東京 のページ内の江戸絵図(1859年)頃の神楽坂画像←をクリック
(2) goo古地図 地図 > 古地図 > 江戸(切絵図)一覧 > 12-1小石川公園・飯田橋駅周辺の礫川牛込小日向-1画像←をクリック


江戸時代、大老坂井忠勝が坂上の矢来町に屋敷を構えた1628年(寛永5年)頃、坂下には江戸城の外濠である牛込見附が完成して、坂上と坂下を結ぶ大老登城道が造られ、その沿道は武家屋敷として地割りされ、これがほぼ現在の「神楽坂通り」です。当時の坂は「坂道」ではなく、「階段」でした。

 江戸名所図絵神楽坂

毘沙門天善国寺は、1595年(文禄4年)麹町6丁目で創建されて、1792年(寛政4年)火災にあい現在地に移転してきて、「神楽坂の毘沙門様」として江戸時代から信仰を集め、親しまれてきました。本堂の隣が毘沙門堂で「山手七福神」、江戸3毘沙門の一つです。

 毘沙門天善国寺(街画ガイド神楽坂・飯田橋駅周辺から)

今のような坂道になったのは明治時代に入り武家屋敷が撤去され、神楽坂が町人の街になった後の、1877年(明治10年)頃のことです。当時の神楽坂は、硯友社の文人尾崎紅葉、山田美妙、広津柳浪らの面々がよく花柳界に姿を見せ活動する場であり、早稲田大学の学生らの町でありました。
1895年(明治28年)に、甲武鉄道牛込停車場の開設をきっかけに、神楽坂周辺は商店街や住宅地として急速に発展し、百貨店も軒を連ね、明治時代後期には牛込区第一の繁華街となりました(明治期の神楽坂 新宿区観光協会から)。
大正時代には花街として栄え、裏通りに入ると今もその面影を残し、芸者の歩く姿も見られ、住宅街と料亭・レストランが渾然一体と化しており、生活感と趣のある町並みが情緒を感じさせています。1923年(大正12年)の関東大震災では、高台にあった町は無傷で残りました。大正から昭和の初期にかけて新しい東京の盛り場として賑わい、「山の手銀座」と呼ばれました。善国寺周辺は、縁日の夜店が人気で、東京における夜店の元祖でありました。昭和に入り、神楽坂は花柳界の最盛期を迎えます。新旧2軒の見番があり、料亭が166軒、600人を超える芸妓さんがいたようで、その花街の活気は「芸者新道」という通りでした。1935年(昭和10)年代までは東京随一の繁華街でした。その後、渋谷、新宿、池袋がターミナル化して神楽坂は、繁華街としては地盤沈下しました。

 神楽坂通り今昔(左:昭和初期の神楽坂、右:2006年頃の神楽坂←クリックすると拡大します。東京理科大学報第161号から)

1945年(昭和20年)の東京大空襲により、神楽坂の町は全焼しましたが、東京物理学校(東京理科大学の前身)は空襲で、学生が体を張って延焼防止に努めたので、校舎は焼け残り、焼け出された神楽坂芸者衆の避難所になったとの記録が記事6面に残っています。(東京理科大学報 第161号 (2006年06月30日号)PDF版から)。

 神楽坂大空襲で住民避難の6面記事

注:東京理科大学 1881年(明治14年) に前身の「東京物理学講習所」を創設、2年後に東京物理学校に改称し、1906年(明治39年) に神楽坂2丁目24番地に新校舎を竣工し移転、1915年(大正4年) に財団法人東京物理学校設立し、学生改革により1949年(昭和24年) に東京理科大学になりました。H11メトロメンバーのSさんの出身校です。

空襲により焼け野原となった神楽坂は、戦後の復興は容易ではなかったようですが、1925年(昭和30年)代には再び最盛期を迎えました。多くの鉄鋼業界の権力者や政治家が神楽坂の料亭を利用したようです。
現在では、料亭が9軒、芸者さん30人になってしまい、その面影も薄れてきていますが、ここ神楽坂には表通りの賑やかな商店街だけではない、色々な顔を持っています。花街時代の趣の残る料亭街や表通りとは一味違う横丁商店街や飲食店街、古くからの出版社や印刷関係の会社、オフィスエリア、そして閑静な住宅街。この多面性と温かさ、懐の深さはここ神楽坂の歴史と文化が育んだものだと思います。

 神楽坂(:神楽坂通り、:本多横町 街画ガイド神楽坂・飯田橋駅周辺から)

味扇
花柳界の町ですから、昔は三味線が流れて常磐津や新内が流れる町でした。今回の忘年会は、神楽坂の文化に触れたいとの思いで、江戸時代には本多修理の武家屋敷跡の本多横町の味扇本店(東京都新宿区神楽坂3-2)で、女将の三味線と店の子の唄う長唄・民謡などを味わいました。

 味扇本店(:味扇本店は本多横丁を入った右手2軒目、:味扇は三味線と唄の演奏を披露しています)

H11の忘年会の参加者は10名ですので、奥の掘り炬燵式カウンター席となり、華やかな和服姿の3人の女性に迎えて貰い花街の粋が目覚め、旬の味の料理と各種の酒に酔い心が和みました。

 至福の忘年会宴席(左上:和服姿の女性、中上右上:忘年会の参加者、左下中下右下:料理) 

三味線ライブ
・長唄 越後獅子
唄と三味線 越後獅子


動画をご覧頂けない方は、「唄と三味線 越後獅子」(←をクリック)すると別画面で掲示されている動画でご覧いただけます。Ⅱ版2014.8.7

・茨城民謡 磯節

三味線弾き語り 磯節


動画をご覧頂けない方は、「三味線弾き語り 磯節」(←をクリック)すると別画面で掲示されている動画でご覧いただけます。Ⅱ版2014.8.7

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イベント日本美術展覧会鑑賞 国立新美術館で日展入選の異業種交流会員の出展洋画を鑑賞その2

2012年11月24日 | イベント
kan-haru blog 2012 第44回日展新入選作品「モンキチョウ」   

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日展鑑賞
・第一科 日本画鑑賞
第一科 日本画の展示会場入り口は、1階1Aの第1入り口から入り、受付で入場券を出すと裏に日付け印が押されます。展示会場の作品の写真撮影のため、受付の左側の写真撮影許可の申告をして、腕にオレンジ色のテープを付けて貰います。入場したのは、11月14日水曜日の16時半頃ですが、日本画の展示場の入場者は所々の展示室で2~3人見かける程度でしたので、人影に邪魔されることなくゆったりと鑑賞できました。

 第一科 日本画展示会場風景(:第一科 日本画展示会場1階1A入り口、:日展日本画展示風景)

第一科 日本画の展示作品点数は「第44回日展目録」で見ると、入選作品が209点、無鑑査作品が144点の出展があり、このうち1階1A、1B会場の展示には入選作品が56点、日展役員・会員の作品が90点、出品委託の作品が20点と無鑑査作品が9点出展されています。また、2階2A、2B会場には入選作品が152点、日展役員・会員の作品が7点、出品委託の作品が11点と無鑑査作品が1点出展されています。

 日本画展示作品1(:特選「棲む」青田賢蔵、写真拡大)

入賞展示作品は、内閣総理大臣賞「耀」市原義之氏(評議員)の入賞作品は1階日本画第6室に展示されており、日展会員賞「或る日」袴田規知代氏(会員) の入賞作品は1階日本画第3室に展示されています。特賞の入賞作品は、「春の雪」加村光子氏、「夢の溜り」桑野むつ子氏、「十一月蔓からむ」國井たか子氏、「EARTH」大西健太氏、「時の隙間」丸山勉氏、「角の門」佐藤和歌子氏、「視る」長谷部貞子氏、「消失スル境界線」朝倉隆文氏の作品が1階日本画第3室に展示され、「未知の遥睨」米田実氏、「棲む」青田賢蔵氏が同第2室に展示されています。

 日本画展示作品2(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

・第二科 洋画鑑賞
第二科 洋画の展示会場は、日本画展示会場の隣の1階1Cの第3入り口から、16時50分頃に入場券を見せて入りました。第二科 洋画の展示作品点数は、入選作品が635点、無鑑査作品が108点の出展があり、このうち1階1C、1D会場の展示には入選作品が271点、日展役員・会員の作品が108点、出品委託の作品が18点と無鑑査作品が9点出展されています。また、2階2B、2C会場には入選作品が383点出展されています。
入賞展示作品は、内閣総理大臣賞「白い函館」樋口洋氏入賞展示作品は1階洋画第1室に展示されており、日展会員賞「運河の(朝ヴェニス) 」歳嶋洋一郎氏(会員) の入賞作品は1階洋画第3室に展示されています。特賞の入賞作品は、「峠を行く」松野行氏、「川辺の暮らし」日野功氏、「画室」佐藤龍人氏、「亜也」橋貴紀氏、「夜想」児島新太郎氏、「母の調べ」柴田仁士氏、「Caribbean Blue を聴きながら」阿部良広氏、「朝の光」児玉健二氏、「化身」浅見文紀氏、「やすらぎ」山田郁子氏作品が1階洋画第1室に展示されています。

 第二科 洋画展示会場風景(左上:第二科 洋画展示会場1階1C入り口、中上:特賞入賞作品群展示風景、右上左下中下右下:日展洋画作品展示風景)

巡回して洋画の作品を鑑賞しているうちに洋画第10室展示室に入りました。ここには、H11異業種交流会メンバー渡邊正博氏 日展新入選作品「モンキチョウ」の出展展示場です。探していると展示壁面上段に、展示番号231でF100 号サイズの「モンキチョウ」渡邊正博 東京都 新入選と表示された作品が展示してありましたので、じっくりと鑑賞させて頂きました。

  H11異業種交流会メンバー渡邊正博氏 日展新入選作品「モンキチョウ」(:洋画第10室に入選展示の「モンキチョウ」、:「モンキチョウ」新入選作品、:「モンキチョウ」新入選おめでとう)

第44回日展「モンキチョウ」渡邊正博氏の新入選作品の洋画のモデルさんは、示現会出展の銀彩賞入選作品「秋娘の風」のモデルさんと同一人物だそうです。(「秋娘の風」←ここをクリックすると写真が見られます)

 第44回日展「モンキチョウ」渡邊正博 日展発行の写真から

新入選作品を鑑賞しているうちに、17時半になりましたので、作者と一緒に記念写真を撮りました。

 作者と作品の前にて(左から2番目が作者)(写真拡大)

・第44回日展新入選の祝杯
第44回日展新入選を祝して、集まったH11異業種交流会のメンバーが内揃って、ロシア料理六本木バイカル(港区六本木4-12-7 RBビル3F)にて、ロシア料理と酒で祝杯をあげました。

 作者の入選を祝してロシア料理と酒で祝杯)

最後に記念写真を撮ってお開き。

 ロシア料理六本木バイカルにて総合INDEX へ

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イベント日本美術展覧会鑑賞 国立新美術館で日展入選の異業種交流会員の出展洋画を鑑賞その1

2012年11月22日 | イベント
kan-haru blog 2012 日展案内   

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第44回日展入選作品の「モンキチョウ」は、異業種交流会メンバーの会員で第二科(洋画)の部門に応募して見事新入選されました。入選者の出展のご活躍の近況は、65周年記念示現会展が今年の4月4日から16日まで開催され、出展の「秋娘の風」の油彩画が示現会非会員の一般の部290名の中で、佳作賞受賞24名に輝き(「イベント 油彩・水彩・版画展 国立新美術館示現会展で入選の異業種交流会員の出展油彩画を観賞」参照)ました。また、2011年には、火/水/油/3人展を六本木青藍で開催(11月20~26日)のご案内状(「イベント 火/水/油/3人展 異業種交流会員の出展画を見て伯爵邸改築レストランで趣ある昼食を楽しむその1」参照)を頂き、鑑賞させて頂きました。作者は、60歳を過ぎてからの本格的に絵に取り組みという、短い期間での日展入選は見事なものです。

日本美術展覧会観賞
第44回日展は、国立新美術館(港区六本木7-22-2)で、平成24年11月2日から同12月9日の午前10時から午後6時まで開催されます。

 日展パンフレット

日展の入場料は、当日券は一般が1,200円、高・大学生が700円で、16時以降販売の当日券(トワイライトチケット)は一般が300円、高・大学生が200円で、小中学生は無料です。主催は公益社団法人 日展で、後援は文化庁です。

 第44回日展入場券

H11異業種交流会のメンバーでは入選を祝して、11月14日に都合のつくメンバーは各自で日展を鑑賞して、17時30分に入選の「モンキチョウ」の展示作品の前に集まることにしました。

 国立新美術館(:国立新美術館正門、:国立新美術館の展示催し案内板、:国立新博物館全景)

・日展
日展には、第一科 日本画、第二科 洋画、第三科 彫刻、第四科 工芸美術、第五科 書の5つの科(分野)があります。日本画は、1000年以上も前から使われてきた、色のついた石(鉱物)を細かく砕いて粉のようにした岩絵の具で描かれ、今でも同じものが使われています。洋画には、油絵・水彩画・版画があり、油絵は絵具をそのまま筆で描いたり、ペインティングナイフでぬったりして、麻の布でできたキャンバスに描きます。彫刻は、木、石、金属、石膏・プラスチックなどの材料で作ります。工芸美術には様々な表現があり、素材と技法で別けられ、金工、漆、陶磁、染織、革、ガラス、七宝、人形、木工、竹、紙などの材料で造られます。書は、文字に人の心のたかさ、ふかさ、美しさをあらわした芸術で、漢字、仮名、篆刻があります。
第44回日展の応募点数、入選点数は表の通りです。異業種交流会のメンバーが応募の、第二科 洋画の応募数は2,158点で、入選が635点でそのうち新入選は81であり、このような厳しい中での新入選は努力の結晶で勝ち得たものです。

 第44回日展応募点数と入選点数

なお、第44回日展(平成24年度) 大臣賞受賞者は、内閣総理大臣賞が第一科 日本画「耀」市原義之氏と、第二科 洋画「白い函館」樋口 洋氏です。

 平成24年第44回日展 内閣総理大臣賞

文部科学大臣賞が第三科 彫刻「こもれび」山田朝彦氏、第四科 工芸美術「風物語「過ぎゆく…」」亀井 勝氏、第五科 書「竹里館」今村桂山氏です。会員賞が第一科 日本画「或る日」袴田 規知代氏、第二科 洋画「運河の朝(ヴェニス)」歳嶋 洋一朗氏、第三科 彫刻「耳をすまして-枇杷の実がうれるころ-」上田久利氏、第四科 工芸美術「驟雨沛然」永澤永信氏、第五科 書「鄭羲下碑語」中村伸夫氏です。また、特選は、第一科から第五科までの各科のそれぞれ10氏が受賞されました。

 平成24年第44回日展 文部科学大臣賞

・展示会場
日展の第一科から第五科までの展示会場は、第一科 日本画が1階1A、1Bと2階2A、2Bの1部で、第二科 洋画が1階1C、1Dと2階2Bの1部と2Cの1部で、第四科 工芸美術は2階2Cの1部と2Dと2Eの1部で、第三科 彫刻が2階2Eの1部で、第五科 書が3階3A、3Bに展示されています。

 日展会場案内図

日展を鑑賞するには、十分の時間をかけて見る必要があり、今回の展示の観賞は時間的制約で、H11異業種交流会のメンバーの洋画の入選作品を鑑賞することにあり、ただ、参考のために日本画も鑑賞しました。そこで、展示室は1階のA、1B、1C、1Dの展示を鑑賞しました。

 国立美術館1階案内図

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