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kan-haruの日記

イベント 生誕120年木村荘八展 東京ステーションギャラリーで昭和の東京の油絵と小説の挿絵を見るその4

2013年06月11日 | イベント
kan-haru blog 2013 「墨東奇譚」初版本表紙(三田文学ライブラリー~永井荷風の初版本を中心に~から)   

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木村荘八の挿絵続
前回では、永井荷風の小説「墨東綺譚」の第一章から第四章までの挿絵を見てみました。今回は、その続編です。
・第六章
<其家は大正道路から唯とある路地に入り、汚れた幟のぼりの立っている伏見稲荷の前を過ぎ、溝に沿うて、猶なお奥深く入り込んだ処に在るので、表通のラディオや蓄音機の響も素見客ひやかしの足音に消されてよくは聞えない。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵16 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしの忍んで通う溝際どぶぎわの家が寺島町七丁目六十何番地に在ることは既に識しるした。....お雪という女の住む家が、この土地では大正開拓期の盛時を想起おもいおこさせる一隅に在ったのも、わたくしの如き時運に取り残された身には、何やら深い因縁があったように思われる。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵17 (1937)岩波文庫『墨東綺譚』第77刷から

<その夜お雪さんは急に歯が痛くなって、今しがた窓際から引込んで寝たばかりのところだと言いながら蚊帳から這はい出したが、坐る場処がないので、わたくしと並んで上框あがりがまちへ腰をかけた。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵18 (1937)東京国立近代美術館

<「急に痛くなったの。目がまわりそうだったわ。腫はれてるだろう。」と横顔を見せ、「あなた。留守番していて下さいな。わたし今の中うち歯医者へ行って来るから。」>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵19 (1937)東京国立近代美術館

・第七章
<白っぽい浴衣ゆかたに兵児へこ帯をしめ、田舎臭い円顔に口髯くちひげを生はやした年は五十ばかり。手には風呂敷に包んだものを持っている。わたくしは其様子と其顔立とで、直様すぐさまお雪の抱主かかえぬしだろうと推察したので、向から言うのを待たず、
「お雪さんは何だか、お医者へ行くって、今おもてで逢いました。」>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵20 (1937)東京国立近代美術館

<二階は窓のある三畳の間に茶ぶ台を置き、次が六畳と四畳半位の二間しかない。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵21 (1937)東京国立近代美術館

<「あなた。髪結さんの帰り……もう三月になるわネエ。」>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵22 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしが殆ど毎夜のように足繁く通って来るのは、既に幾度か記述したように、種々いろいろな理由があったからである。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵23 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしは已やむことを得ず自動車に乗り改正道路から環状線とかいう道を廻った。つまり迷宮ラビラントの外廓を一周して、伏見稲荷の路地口に近いところで降りた事があった。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵24 (1937)東京国立近代美術館

・第八章
<両側に縁日商人あきゅうどが店を並べているので、もともと自動車の通らない道幅は猶更狭くなって、出さかる人は押合いながら歩いている。板橋の右手はすぐ角に馬肉屋のある四辻よつつじで。辻の向側には曹洞宗東清寺と刻しるした石碑と、玉の井稲荷の鳥居と公衆電話とが立っている。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵25 (1937)東京国立近代美術館

<お雪の家の在る第二部を貫くかの溝は、突然第一部のはずれの道端に現われて、中島湯という暖簾のれんを下げた洗湯せんとうの前を流れ、許可地外そとの真暗な裏長屋の間に行先を没している。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵26 (1937)東京国立近代美術館

<これを幸に、わたくしはいつも此路地口から忍び入り、表通の家の裏手に無花果いちじくの茂っているのと、溝際どぶぎわの柵さくに葡萄ぶどうのからんでいるのを、あたりに似合わぬ風景と見返りながら、お雪の家の窓口を覗く事にしているのである。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵27 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしは橋の欄干に凭もたれ、下流かわしもの公園から音頭踊おんどおどりの音楽と歌声との響いて来るのを聞きながら、先程お雪が二階の窓にもたれて「三月になるわネエ。」といった時の語調や様子を思返すと、すみ子と種田との情交は決して不自然ではない。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵28 (1937)東京国立近代美術館

・第九章
<いつもの窓に見えるお雪の顔も、今夜はいつもの潰島田つぶしではなく、銀杏いちょう返しに手柄をかけたような、牡丹ぼたんとかよぶ髷まげに変っていたので、わたくしは此方こなたから眺めて顔ちがいのしたのを怪しみながら歩み寄ると、お雪はいかにもじれったそうに扉をあけながら、「あなた。」と一言強く呼んだ後、急に調子を低くして、「心配したのよ。それでも、まア、よかったねえ。」
わたくしは初め其意を解しかねて、下駄もぬがず上口あがりぐちへ腰をかけた。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵29 (1937)東京国立近代美術館

<そのまま窓に坐って、通り過る素見客ひやかしにからかわれたり、又此方こっちからもからかったりしている。其間々には中仕切の大阪格子を隔てて、わたくしの方へも話をしかける。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵30 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしは帰りの道筋を、白髯橋の方に取る時には、いつも隅田町郵便局の在るあたりか、又は向島劇場という活動小屋のあたりから勝手に横道に入り、陋巷ろうこうの間を迂曲うきょくする小道を辿たどり辿って、結局白髯明神の裏手へ出るのである。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵31 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしは、お雪が意外のよろこびに眼を見張った其顔を、永く忘れないようにじっと見詰めながら、紙入の中の紙幣さつを出して茶ぶ台の上に置いた。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵32 (1937)東京国立近代美術館

・第十章
<わたくしは舗道から一歩ひとあし踏み出そうとして、何やら急にわけもわからず名残なごり惜しい気がして、又ぶらぶら歩き出すと、間もなく酒屋の前の曲角まがりかどにポストの立っている六丁目の停留場である。ここには五六人の人が車を待っていた。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵34 (1937)東京国立近代美術館

<お雪は下へ降りて茶を運んで来た。姑しばらく窓に腰をかけて何ともつかぬ話をしていたが、主人あるじ夫婦は帰りそうな様子もない。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵33 (1937)東京国立近代美術館

<わたくしとお雪とは、互に其本名も其住所をも知らずにしまった。唯墨東の裏町、蚊のわめく溝際どぶぎわの家で狎なれ※(「日+匿」、第4水準2-14-16)したしんだばかり。一たび別れてしまえば生涯相逢うべき機会も手段もない間柄である。>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵35のための下絵 (1937)東京国立近代美術館

・作後贅言
<そのころ、わたくしは大抵毎晩のように銀座尾張町の四ツ角で翁に出逢った。翁は人を待合すのにカフエーや喫茶店を利用しない。待設けた人が来てから後、話をする時になって初めて飲食店の椅子に坐るのである。>
 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵15のための下絵 (1937)東京国立近代美術館

<今年残暑の殊に甚はなはだしかった或夜、わたくしは玉の井稲荷前の横町を歩いていた時、おでん屋か何かの暖簾のれんの間から、三味線を抱えて出て来た十七八の一寸ちょっと顔立のいい門附から、「おじさん。」と親しげに呼びかけられた事があった。「おじさん、こっちへも遊びに来るのかい。」>

 永井荷風著『墨東綺譚』挿絵14 (1937)東京国立近代美術館

注:「墨東綺譚」の墨の字は、サンズイを付けるのが正式ですが、本ブログでは文字化けとなるため「墨」の字を使用しております。

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