
kan-haru blog 2013 生誕120年 木村荘八展~花の東京東に西に~」図録
< 総合INDEX へ
出展作品を見る
1896年(明治29年)に赤煉瓦の東京駅3階建て駅舎を建設することとなり、1914年(大正3年)に丸の内東京駅が開業して、1945年(昭和20年)5月の戦災で屋根は焼け落ち内装も焼失しましたが、レンガ造壁の構造体は残りました。1947年(昭和22年)に3つのドーム部の3階部分の内外壁を取り除いき2階建て駅舎に仮変更し、中央ドームの屋根は木造小屋組で元の形に復原し、南北両ドームの屋根は丸型から台形に変更して復元されました。創建当初の駅舎に復元するため2007年(平成19年)に工事が開始され、ドームの屋根は創建当初の一文字葺きの天然スレートに葺き替えを行い、地上3階(一部4階)建ての東京駅に復元しました。

東京駅丸の内北口ドーム内部赤煉瓦(左・中・右写真拡大)
復元された東京駅北口ドームの東京ステーションギャラリー再開記念の、「生誕120年 木村荘八展~花の東京東に西に~」展示会場へは、ギャラリー入り口に入り入場券を購入して3階会場にはエレベータで登ります。

生誕120年木村荘八展入場券
・大正時代の油彩
展示会入場の5月18日は後期(4/23~5/19)にあたり、先ずは1891年(明治24年)生まれの木村荘八の油彩絵が65点展示してあります。展示の油彩絵を年代を追って整理して見て行くと、1912年京橋の「いろは」第3支店に居住時代は19歳で、10月ヒューザン会第1回展に出品した作品は、「祖母と子猫」、「母」など10点を出展しています。
翌1913年2月に家族と離れて牛込の下宿に転居し、12月には大崎に転居して、ヒューザン会第2回展では、「自画像」、「大崎風景」など21点を出品しています。

ヒューザン会展出品作品(左:ヒューザン会第1回展作品「祖母と子猫」油彩、右:第2回展作品「大崎風景」油彩)
東京駅が開業した1914年10月の草木社時代には上大崎に転居し、木村荘八個展を開き「自画像」など24点を出品、翌年には巽画会第15回展、木村荘八個人展や、草土社結成の第1回展などに「瓶を持っている女」など60点を出品しています。1916年には草土社第2、3回展に、「襟巻をせる自画像」など油彩と素描が126点出品しています。1917年の草土社第4、5回展には、素画「齋藤山の一端」や油絵など25点を出品し、翌年の再興第5回院展「二本灌木」などを出品して樗牛(ちょぎゅう)賞を受賞し、草土社第6回展には「大学構内」など23点を出品しました。1919年には、再興第6回院展に「静物」など9点を、草土社第7回展には「女の肖像」など15点と描画を出品しました。

草木社時代の油彩(左:「自画像」1914年、中:「瓶を持っている女」1915年、右:「襟巻をせる自画像」1916年)
・春陽会の時代
1920年の再興第7回院展に「正陽寺望楼より」などを出品した後、院展を脱会しました。草土社第8回展には「老虎灘の山」などを出品しました。院展をやめた後の1922年には、春陽会を設立し中心メンバーとして活躍し、画風も大きく変貌を遂げ、草土社第9回展に「上野にて」など15点余りを出品しました。翌年には、草土社を解散し、春陽会第1回展には「郊外小景」など12点を出品し、木村荘八小品及興画展覧会には「築地川岸所見」など51点余を出品しました。1924年には、春陽会第2回展に「お七櫓にのぼる」、「寺子屋三種「車とどまる」」など出品し、白井喬二の小説「富士に立つ影」の挿絵を交代で制作して、挿絵画家としても活躍しました。翌年には本郷森川町へ転居して、春陽会第3回展に「連獅子」などを出品しました。

春陽会の時代の作品1(左上:「寺子屋三種「車とどまる」」1924年、左下:「正陽寺望楼より」1920年、右:「お七櫓にのぼる」1924年)
1926年の昭和に入ると、春陽会第4回展に「たけくらべ絵巻」などを出品し、聖徳太子奉賛美術展に「続たけくらべ絵巻」を出品しました。翌年は春陽会第5回展に「風景習作」を出品し、吉井勇「大川端」東京日日新聞夕刊の「大東京繁昌記」の挿絵を手がけました。1928年には、春陽会第6回展に「Panの会」(その1参照)などを出品し、翌年の春陽会第7回展に「室内婦女」などを出品して、白井喬二の小説「祖国は何処へ」の挿絵や、十一谷美義三郎「時の敗者」東京朝日新聞と永田幹彦「東京新景」国民新聞の挿絵を手がけました。
1930年の春陽会第8回展に「戯画ダンスホール」などを出品して、翌年の春陽会第9回展には「夜楽」を出品し、田中貢太郎「情鬼」東京朝日新聞と佐々木味津三「夜明けの女」福岡日日新聞の挿絵を手がけました。
1932年の六潮会第1回展に「お吉図」、春陽会第10回展に「牛肉店帳場」(その1参照)を出品し、舟橋誠一「白い蛇赤い蛇」都新聞の挿絵を手がけました。翌年の六潮会第2回展に「レビュー所見」、春陽会第11回展に「「東京新景」に因む原画」を出品し、直木三十五「大阪落城」時事新報、大仏次郎「霧笛」東京日日新聞夕刊の挿絵を手がけました。1934年六潮会第3回展に「助六雑踏」、春陽会第12回展に「小説霧笛の場面」を出品しました。
1935年六潮会第4回展に「人物」、春陽会第13回展に「新宿駅」を出品しました。翌年の六潮会第5回展に「水仙」、春陽会第14回展に「浅草寺の春」(その1参照)を出品しました。

春陽会の時代の作品1(左上:「戯画ダンスホール」1930年、左下:「新宿駅」1935年、右:「幽霊せり出し」1937年)
「墨東奇譚」挿絵
1937年六潮会第6回展に「梅が枝」、春陽会第15回展に「幽霊せり出し」を出品しました。同4月に永井荷風「墨東奇譚」東京朝日新聞の挿絵を手がけました。
1938年杉並区和田本町に転居して春陽会第16回展に「(永井荷風氏小説挿絵)墨東奇譚」を出品し、六潮会第7回展に「道成寺」を出品しました。
注:「墨東綺譚」の墨の字は、サンズイを付けるのが正式ですが、本ブログでは文字化けとなるため「墨」の字を使用しております。

永井荷風「墨東奇譚」挿絵24 1937年
< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2013年版、2012年版、2011年版、2010年版、2009年版、2008年版、2006・2007年版 へ
<前回 イベント 生誕120年木村荘八展 東京ステーションギャラリーで昭和の東京の油絵と小説の挿絵を見るその1 へ
次回 イベント 生誕120年木村荘八展 東京ステーションギャラリーで昭和の東京の油絵と小説の挿絵を見るその3
< 総合INDEX へ
出展作品を見る
1896年(明治29年)に赤煉瓦の東京駅3階建て駅舎を建設することとなり、1914年(大正3年)に丸の内東京駅が開業して、1945年(昭和20年)5月の戦災で屋根は焼け落ち内装も焼失しましたが、レンガ造壁の構造体は残りました。1947年(昭和22年)に3つのドーム部の3階部分の内外壁を取り除いき2階建て駅舎に仮変更し、中央ドームの屋根は木造小屋組で元の形に復原し、南北両ドームの屋根は丸型から台形に変更して復元されました。創建当初の駅舎に復元するため2007年(平成19年)に工事が開始され、ドームの屋根は創建当初の一文字葺きの天然スレートに葺き替えを行い、地上3階(一部4階)建ての東京駅に復元しました。

東京駅丸の内北口ドーム内部赤煉瓦(左・中・右写真拡大)
復元された東京駅北口ドームの東京ステーションギャラリー再開記念の、「生誕120年 木村荘八展~花の東京東に西に~」展示会場へは、ギャラリー入り口に入り入場券を購入して3階会場にはエレベータで登ります。

生誕120年木村荘八展入場券
・大正時代の油彩
展示会入場の5月18日は後期(4/23~5/19)にあたり、先ずは1891年(明治24年)生まれの木村荘八の油彩絵が65点展示してあります。展示の油彩絵を年代を追って整理して見て行くと、1912年京橋の「いろは」第3支店に居住時代は19歳で、10月ヒューザン会第1回展に出品した作品は、「祖母と子猫」、「母」など10点を出展しています。
翌1913年2月に家族と離れて牛込の下宿に転居し、12月には大崎に転居して、ヒューザン会第2回展では、「自画像」、「大崎風景」など21点を出品しています。

ヒューザン会展出品作品(左:ヒューザン会第1回展作品「祖母と子猫」油彩、右:第2回展作品「大崎風景」油彩)
東京駅が開業した1914年10月の草木社時代には上大崎に転居し、木村荘八個展を開き「自画像」など24点を出品、翌年には巽画会第15回展、木村荘八個人展や、草土社結成の第1回展などに「瓶を持っている女」など60点を出品しています。1916年には草土社第2、3回展に、「襟巻をせる自画像」など油彩と素描が126点出品しています。1917年の草土社第4、5回展には、素画「齋藤山の一端」や油絵など25点を出品し、翌年の再興第5回院展「二本灌木」などを出品して樗牛(ちょぎゅう)賞を受賞し、草土社第6回展には「大学構内」など23点を出品しました。1919年には、再興第6回院展に「静物」など9点を、草土社第7回展には「女の肖像」など15点と描画を出品しました。

草木社時代の油彩(左:「自画像」1914年、中:「瓶を持っている女」1915年、右:「襟巻をせる自画像」1916年)
・春陽会の時代
1920年の再興第7回院展に「正陽寺望楼より」などを出品した後、院展を脱会しました。草土社第8回展には「老虎灘の山」などを出品しました。院展をやめた後の1922年には、春陽会を設立し中心メンバーとして活躍し、画風も大きく変貌を遂げ、草土社第9回展に「上野にて」など15点余りを出品しました。翌年には、草土社を解散し、春陽会第1回展には「郊外小景」など12点を出品し、木村荘八小品及興画展覧会には「築地川岸所見」など51点余を出品しました。1924年には、春陽会第2回展に「お七櫓にのぼる」、「寺子屋三種「車とどまる」」など出品し、白井喬二の小説「富士に立つ影」の挿絵を交代で制作して、挿絵画家としても活躍しました。翌年には本郷森川町へ転居して、春陽会第3回展に「連獅子」などを出品しました。

春陽会の時代の作品1(左上:「寺子屋三種「車とどまる」」1924年、左下:「正陽寺望楼より」1920年、右:「お七櫓にのぼる」1924年)
1926年の昭和に入ると、春陽会第4回展に「たけくらべ絵巻」などを出品し、聖徳太子奉賛美術展に「続たけくらべ絵巻」を出品しました。翌年は春陽会第5回展に「風景習作」を出品し、吉井勇「大川端」東京日日新聞夕刊の「大東京繁昌記」の挿絵を手がけました。1928年には、春陽会第6回展に「Panの会」(その1参照)などを出品し、翌年の春陽会第7回展に「室内婦女」などを出品して、白井喬二の小説「祖国は何処へ」の挿絵や、十一谷美義三郎「時の敗者」東京朝日新聞と永田幹彦「東京新景」国民新聞の挿絵を手がけました。
1930年の春陽会第8回展に「戯画ダンスホール」などを出品して、翌年の春陽会第9回展には「夜楽」を出品し、田中貢太郎「情鬼」東京朝日新聞と佐々木味津三「夜明けの女」福岡日日新聞の挿絵を手がけました。
1932年の六潮会第1回展に「お吉図」、春陽会第10回展に「牛肉店帳場」(その1参照)を出品し、舟橋誠一「白い蛇赤い蛇」都新聞の挿絵を手がけました。翌年の六潮会第2回展に「レビュー所見」、春陽会第11回展に「「東京新景」に因む原画」を出品し、直木三十五「大阪落城」時事新報、大仏次郎「霧笛」東京日日新聞夕刊の挿絵を手がけました。1934年六潮会第3回展に「助六雑踏」、春陽会第12回展に「小説霧笛の場面」を出品しました。
1935年六潮会第4回展に「人物」、春陽会第13回展に「新宿駅」を出品しました。翌年の六潮会第5回展に「水仙」、春陽会第14回展に「浅草寺の春」(その1参照)を出品しました。

春陽会の時代の作品1(左上:「戯画ダンスホール」1930年、左下:「新宿駅」1935年、右:「幽霊せり出し」1937年)
「墨東奇譚」挿絵
1937年六潮会第6回展に「梅が枝」、春陽会第15回展に「幽霊せり出し」を出品しました。同4月に永井荷風「墨東奇譚」東京朝日新聞の挿絵を手がけました。
1938年杉並区和田本町に転居して春陽会第16回展に「(永井荷風氏小説挿絵)墨東奇譚」を出品し、六潮会第7回展に「道成寺」を出品しました。
注:「墨東綺譚」の墨の字は、サンズイを付けるのが正式ですが、本ブログでは文字化けとなるため「墨」の字を使用しております。

永井荷風「墨東奇譚」挿絵24 1937年
< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(6月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index イベント総目次 2013年版、2012年版、2011年版、2010年版、2009年版、2008年版、2006・2007年版 へ
<前回 イベント 生誕120年木村荘八展 東京ステーションギャラリーで昭和の東京の油絵と小説の挿絵を見るその1 へ
次回 イベント 生誕120年木村荘八展 東京ステーションギャラリーで昭和の東京の油絵と小説の挿絵を見るその3