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kan-haruの日記

イベント 東京ステーションギャラリー 開業100周年を迎えて開催の「東京駅100年の記憶」を見るその1

2015年03月20日 | イベント

kan-haru blog 2015 和田倉門から三菱ヶ原を通して眺めた竣工なった中央停車場風景

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2014年12月に東京駅は開業100周年を迎えました。これを記念して東京ステーションギャラリーでは、「東京駅100年の記憶」展を、主催が東京ステーションギャラリー(公益財団法人東日本鉄道文化財団)と読売新聞社、特別協力が三菱地所株式会社、株式会社三菱地所設計により、開催期間が2014年12月13日~2015年3月1日間の月曜休館で、開館時間が10時から18時まで、に開催することになり、入場料は一般が900円、 高校・大学生700円、中学生以下が無料です。2月28日に見てきました。

   東京駅100年の記憶展チケット

 
なお、「東京駅100年の記憶」展に先立ち、「鉄道の日」を記念してJR東日本では、2014年10月11日から13日までの3日間、「東京鉄道祭」が開催(「イベント 東京鉄道祭 JR東日本の東京駅100周年を迎える鉄道の日を記念して開催のスタンプラリー」参照)されました。「東京駅100年の記憶」展の会場の東京ステーションギャラリーは、東京駅北側ドームにあり、エントランスからエレベータに乗り、3階の展示室を見て、階段を下りて2階展示室と廻ります。

 東京駅北側ドーム
(:東京駅北側ドーム天井、:エントランスから東京ステーションギャラリー入口へ0228)

・東京の鉄道網の進展
ここで、「東京駅開業100周年」展を見るにあたり、東京の鉄道網の進展を整理してみておきます。
東京の鉄道網は、1872年(明治5年)10月14日の日本の鉄道開業に際して、官設鉄道が新橋(現汐留駅) と横浜(現桜木町駅)間の開通が鉄道の夜明けです。政府は、東京と大阪を結ぶ鉄道を、当初は予定経路を中山道経由で建設すると決定し、1883年(明治16年)に日本鉄道が上野駅を開業して、熊谷間で仮営業が開始されました。 
1885年(明治18年) 3月に、日本鉄道が渋谷駅・新宿駅・板橋駅を開業し、品川と赤羽間の品川線を開業しました。翌1886年7月に政府は、東京と大阪間鉄道の予定経路を、東海道経由に変更して、1889年(明治22年)に新橋駅から神戸駅まで鉄路が結ばれ、「東海道線」の路線名称が1895年(明治28年)に与えられました。

 
山手線変遷図1

1890年(明治23年) 11月に日本鉄道が、秋葉原駅(貨物駅)を開業して、上野駅間の貨物線を開通しました。1903年(明治36年) 4月に日本鉄道山手線が、池袋駅と田端間を開業しました。
1909年(明治42年)12月に東海道本線が、品川駅と烏森駅(現在の新橋駅)間を開業しました。

 
1909年(明治42年)中央停車場本屋竣工

翌1910年6月に東海道本線が、烏森駅と有楽町駅間を延伸開業しました。さらに、同9月に東海道本線が、有楽町駅と呉服橋駅間延伸開業しました。
1914年(大正3年)12月に東海道本線に東京駅を開業し、新橋駅を汐留駅と改称し、烏森駅を新橋駅としました。

 烏森から呉服橋停車場までの延伸図

1919年(大正8年)3月に神田駅を開業し、中央本線と接続し中野駅・東京駅・品川駅・池袋駅・上野駅間で「『の』の字運転」を開始しました。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で有楽町駅・新橋駅・浜松町駅・鶯谷駅・上野駅が焼失しました。1925年(大正14年)11月に御徒町駅を開業し、東北本線が神田駅と上野駅間が開業しました。

  
山手線変遷図2

1945年(昭和20年) 4月13日の空爆により田端駅・鶯谷駅・駒込駅・高田馬場駅・池袋駅などの駅と池袋電車区焼失、5月24日の空爆により五反田駅・恵比寿駅など焼失、5月25日の空爆により東京駅など焼失し、山手線が全線不通となりました。5月29日に山手線の運転が再開されました。

・東京駅開業100周年の記憶展の構成
「東京駅100年の記憶」展の構成は、プロローグ・辰野金吾と東京駅、第1章・丸の内の100年、第2章・東京駅の100年、エピローグ・これからの100年の順に展示されています。
 「東京駅100年の記憶」図録

プロローグ・辰野金吾と東京駅
プロローグコーナの展示では、まず弟子の後藤慶二が書いて辰野金吾の還暦祝いに送った絵が展示されています。この絵には、辰野金吾(1854~1919)の設計による45点の建築を一堂に収めて描かれており、後方の右奥が東京駅、東京駅の左側は両国国技館、その隣の高いビルが第一生命保険相互会社で、中央右寄りの大きな白い建物が日本銀行本店、その左側の大きな建物が東京帝国大学工科大学(現存せず)です。日本銀行の手前の列には東京火災保険買う式会社など6社が名を連ね、さらに手前の列には三十三銀行など6社が、また最前列には如島銀行など4社が名を連ねています。さらにはまた日本銀行本店と東京帝国大学工科大学の後方および左方には朝鮮銀行など24社の名が見えます。この絵では、日本の近代建築史における辰野金吾の重要性を語っています。
次いで、交友関係のあった洋画家の松岡壽が、辰野の死後に建築学会の依頼により制作された辰野金吾肖像油彩が展示されています。さらに、辰野金吾が英国留学中に残した建築物のデッサンとメモが書かれた4冊のスケッチブックが展示されています。

 辰野金吾の還暦祝いに弟子・後藤慶二が書いた画

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イベント 日書展 東京都美術館で開催の第69回日本書道美術院教育部展を見る

2015年01月15日 | イベント

kan-haru blog 2015 第69回教育部展優秀作品展示コーナー

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第69回日書展教育部展鑑賞
日書展は、1946年(昭和21年)の戦後書壇史における歴史的な第一回展を東京都美術館にて開催以来、今年は「第69回日書展」を迎え、日本書道美術院主催、後援が毎日新聞社、全日本書道連盟により、東京都美術館にて1月4日~10日まで開催されます。併催の「教育部展」も今年で69回目をかぞえ、書写・書道教室の振興を図ることを目的に開催され、小学生(幼年含む)から高校生までの軸装作品を対象とした展覧会で、「日書展」会場内に展示されます。また同時に、併催の「全国競書大会」は、全国の学生生徒と大人を対象に、日頃の稽古鍛錬の成果を競うことを目的に「半紙作品」にて開催されます。

 第69回日書展ポスター

教育部展の作品の仕様は、裏打ちなし未表装(寸法:タテ100cm× ヨコ24.5cm)で、審査後の作品は、陳列時に軸装(寸法:タテ135cm× ヨコ36cm)されます。
孫が2006年の小2の時初めて第61回日書展教育部展で、佳作で展示されて以来、第66回の不出展の年を除いて鑑賞は恒例となり、第69回教育部展を1月7日に東京都美術館の2階会場で見てきました。
出品作品には、日本書道美術院審査員により、小学・中学・高校の別に厳正に行なわれ、以下の各賞が贈られます。
日書展教育部展の賞は、特待賞/日本書道美術院賞/理事長賞/毎日新聞社賞/毎日小学生新聞賞/全日本書道連盟賞/高野山金剛峯寺賞/教育部展特別賞/みんなの書賞/特選/秀作・優作・佳作の各賞(←ここをクリックすると小学・中学・高校別の入賞者名が見られます)が与えられ、1月7日に東京都美術館内講堂で授賞式が行われます。
第69回教育部展の展示会場は、ロビー階から入りフロアを左に進み、エレベータで2階に昇ると教育部展の受付があり、展示会場に入ると最初の教育部展優秀作品の展示コーナでは右側展示壁面に特待賞から教育部展特別賞までの作品が展示されています。
 第69回教育部展2階展示会場(:教育部展受付コーナー、:優秀作品展示コーナ)

第1室展示コーナーの突き当りの前面壁と背面壁には、高野山金剛峰寺賞、全日本書道連盟賞および毎日小学生新聞・毎日新聞・理事賞の受賞作品が展示されています。

 優秀作品展示コーナーの展示作品
(:高野山金剛峰寺賞受賞作品、:全日本書道連盟賞受賞作品、:毎日小学生新聞・毎日新聞・理事賞受賞作品)

第1室左展示壁を見ながら第2室へと進むと、教育部展特別賞受賞「もちつき」の展示作品から右先は、みんなの書賞受賞作品のコーナです。

 みんなの書賞受賞作品展示コーナー1
(:みんなの書賞受賞作品)

みんなの書賞受賞作品の上段には、孫の出展作品が展示されていました。展示作品の位置は、およそ2m位の高さにあり、見上げる高さのため、撮影写真は斜めとなります。

 みんなの書賞受賞作品展示コーナー2(:みんなの書賞受賞作品)

上段のみんなの書賞受賞作品を撮影していると、孫の出展作品がファインダーに撮り、案外と容易に展示作品に出合いました。

 みんなの書賞受賞出展作品の展示コーナー
(:みんなの書賞受賞出展作品展示)

教育部展の後に、孫の書道の荻原玉汀(ぎょくてい)先生の書が、ロビー階のフロアに出展されているので、エレベータで降り1号展示室の作品の一部を見てきました。先生の作品は"山路こそ雪のした水とけざらめ都の空は春めきぬらむ 山家集"とお見事な書を鑑賞させて頂きました。

 日書展ロビー階展示1号室展示会場(左上:日書展ロビー階展示会場受付、中上:日書展ロビー階1号展示室、右上左下中下:展示作品、右下:荻原玉汀先生の出展作品)

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イベント 東京鉄道祭 JR東日本の東京駅100周年を迎える鉄道の日を記念して開催のスタンプラリー

2014年10月24日 | イベント

kan-haru blog 2014 東京駅~日本橋百年散策MAPガイド   

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東京鉄道祭
・鉄道の日
1872年(明治5年)10月14日に、新橋駅(旧汐留貨物駅・廃止)と当時の横浜駅(現在の根岸線桜木町駅)との間を結んだ日本初の鉄道が開業しました。1921年(大正10年)10月14日の鉄道開業50周年を記念して、東京駅の丸の内北口に鉄道博物館が開館しました。その翌年の1922年に、鉄道省が「鉄道記念日」として制定されました。1949年には日本国有鉄道の記念日となり、その後の分割民営化後も引き続きJRグループの記念日として、JRグループ内では祝われていました。
1994年に現・国土交通省が鉄道記念日は、JRグループ色が強いという認識で、「鉄道の日」と改称して、JRグループやすべての鉄道事業者が祝う記念日となりました。

・東京鉄道祭
「鉄道の日」を記念してJR東日本では、2014年10月11日から13日までの3日間、12月20日に100周年を迎える「東京駅」中心としたエリアで、「東京鉄道祭」が開催されて、各種のイベントが行われました。

 東京鉄道祭パンフレット

・東京鉄道祭スタンプラリー
東京鉄道祭のイベントの1つに、対象駅16駅の「東京鉄道祭スタンプラリー」が行われ、5駅の「駅スタンプ」を集めて、ゴール駅の東京駅に持参するとノベルティグッズをもられるというイベントで、11日に対象駅のうち8駅を回ってきました。

 スタンプラリー押印帳

スタンプラリーの巡回は、品川から山の手線に乗り、実施駅の「田町」駅改札外のスタンプ所からスタートして、「浜松町」、「新橋」、「有楽町」の駅改札外のスタンプ所で駅スタンプを押印し、次は「神田」、「秋葉原」と回り、総武線で「御茶ノ水」から中央線で「東京」にゴールしました。
スタンプラリーの押印所は田町駅の場所は、ホームから階段を昇り改札口を出た、三田口と芝浦口方への通路広場に設置されており、各自が駅スタンプを押印します。

 田町駅スタンプラリーの押印所
(:1011)

浜松町の押印所は、ホームからエスカレータを昇り、南口改札口を出た通路広場に設置されています。浜松町駅では、プラレールの展示場があり、親子連れの訪問者に人気のようです。

 浜松町駅の会場ではプラレールの展示が見られます(:1011)

新橋駅と有楽町駅の押印所は、時間が経ちましたのでスタンプラリーに来る人も増え、スタンプ押印待ちの行列が見られます。

 新橋駅と有楽町駅の押印所(:新橋駅、:有楽町駅1011)

有楽町駅からは、東京駅を通過して神田駅の押印所は東京駅側のホームを降りて、改札を出て西口の脇にあります。秋葉原駅の押印所は、ホームから下に降りて通路をつくばエクスプレス線方向に進み、中央改札口を出たところにあります。御茶ノ水駅には総武線で行き、新宿方向の階段を昇り御茶ノ水橋口の改札を出たところに、押印所が設置されています。

 神田駅、秋葉原駅と御茶ノ水の押印所(:神田駅、:秋葉原駅、:御茶ノ水駅1011)

東京駅のスタンプラリー押印所は、丸の内南口改札口外ホールと八重洲中央口改札外のみどりの窓口付近のスタンプラリー景品引き換え所の2か所にあります。ノベルティグッズを貰うに便利な、みどりの窓口で押印して、5個以上の押印をチェックして貰いノベルティグッズを頂きました。

 ゴール東京駅の押印所とノベルティグッズ引き換え場所(左上:押印スタンプチェック所、中上:押印グッズ引き換え所、右上左下中下右下:プラレール展示所1011)

時間的に回れませんでしたが、東京鉄道祭ではその他の次に示す各種のイベントも行われました。

 東京鉄道祭イベントガイド

・東京駅開業100周年
東京駅は、各方面別に分かれていたターミナル駅の中間を結んで中央停車場を設置する構想から、1903年(明治36年)12月に建築界の権威であった辰野金吾に設計を依頼して、1914年(大正3年)12月20日に開業しました。

 12月20日に開業百周年を迎える東京駅

東京駅は、1945年(昭和20年) 5月25日のB-29約250機による東京空襲で、丸の内駅舎降車北口付近に焼夷弾が着弾して炎上し、駅舎全体に延焼し、丸の内駅舎は焼失しました。2007年(平成19年)5月30日に起工式が行われて保存復原工事が着手され、2012年(平成24年)10月1日に復原工事が完成しました。

 開業百周年を迎える東京駅

・あるこう!東京駅~日本橋 百年散策
トップ写真の「東京駅~日本橋百年散策MAPガイド」に示すように、東京駅が今年12月20日に開業100周年を迎え、八重洲・日本橋エリアへの玄関口として整備が進められていた八重洲口駅前広場が全面使用開始されたことを記念し、東京駅から日本橋まで歴史を感じながら散策するイベントを開催しています。2014年10月11日~ 12月20日間のイベント期間中には、東京駅および、大丸東京店、日本橋島屋、日本橋三越本店、日本橋案内所(コレド室町1)の5ヶ所で、東京駅~日本橋間の散策マップと限定ノベルティである記念レプリカ硬券を配布しています。

 東京駅の記念レプリカ硬券(入挟み)

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イベント 東京写真美術博物館 冠松次郎と穂苅三寿雄写真展を見て想いでの黒部と槍を辿るその3

2014年05月23日 | イベント

kan-haru blog 2014 上高地にて1955年(昭和30年)7月    

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黒部と上高地の想い出(続)
・愛本変電所
1955年(昭和30年)7月の大学工学部電気工学科の黒部見学は、当時黒部川5発電所の発電電力を集めて、わが国初めて275kVの高圧送電を行った変電所の見学が目的でした。
25日に黒部渓谷欅平の見学を終えてから、再びトロッコ電車で宇奈月駅まで戻り、富山鉄道に乗りついで愛本駅で下車して、目的の愛本変電所の見学です。

 愛本周辺地図

関西電力愛本変電所(現新愛本変電所)は、愛本駅舎のすぐ横にあります。愛本は、1954年(昭和29)年7月に東山村、愛本村、内山村が合併して宇奈月町となりました。現在の新愛本変電所への名称変更は、新北陸幹線の完成時の頃からです。

 愛本変電所
(変電所構内1955年7月)

見学当時の1955年の関西電力の黒部川水系の総発電量は、表左に示す5発電所のみで232,500 kWでしたが、現在は11発電所で総発電量は、894,600kWとなっています。

 黒部水系発電所一覧

これまでの送電幹線の電圧は154kVであったが、関西電力の黒部発電所から大阪の消費地に電力を送るには遠距離であるため、送電線の送電損の低減化が必須のため、1952年7月に愛本変電所から、わが国最初の275kV幹線による長距離送電を開始しました。

  愛本変電所見学
(変電所構内1955年7月)

愛本屋外変電所の見学は、発電所側から受電の1次設備と、275kVで送電する2次設備の各変圧器、遮断機、断路器、避雷器および計器用変成器などを見ました。


  愛本変電所見学記念撮影
(変電所構内1955年7月)

・実験グループメンバーと上高地へ行く
大学での黒部見学が終わり、東京への帰路です。愛本から富山鉄道の魚津駅に戻り、北陸本線に乗り換え東京に向かう車内で、学校の実験グループのメンバーが、折角ここまで来たのだから上高地に足を延ばそうということになり長野で下車し、中央線に乗り換えて松本駅で松本電鉄に乗り継ぎ、新島々駅終点で下車して、新島々バス停からバスで上高地バス停まで乗車して上高地に到着です。

 上高地栞
(1955年7月)

夕刻に着き、バス停から河童橋まで歩き、上高地での宿泊は橋のたもとの五千尺ホテル(旧名養老館明治45年開業)に予約なしでお米を出して泊まれました。

 松本ー上高地地図


上高地に入った1955年(昭和30年)7月25日は、旅館前の梓川の河童橋付近を散策しました。橋上から眺める穂高連峰や焼岳、梓川の水面などの景色は訪れる人の心をとらえます。初代の河童橋はすでに明治後期から昭和初期には架けられていたともいわれますが、河童橋と命名と共にわかっていません。

 河童橋にて(左:河童橋上から梓川の流れを望む、右上:下流から河童橋を望む、右中:梓川の流れを望む、右下:五千尺ホテル客室より河童橋を見る1955年7月)

翌26日には、下流の大正池まで散策しました。大正池は、活火山の焼岳が1915年に噴火し、泥流によって梓川が堰き止められて形成されたもので、池にある立ち枯れの木々の景観により、1928年に「上高地」が「名勝及ビ天然紀念物」に指定される際の理由の一つとなりました。

 立ち枯れの木々の大正池を散策
(1955年7月)

さらに、河童橋上流の徳沢キャンプ場や明神橋方面に足を延ばし、散策してから上高地より長野経由で東京に戻りました。

 河童橋周辺風景
(左:穂高岳を望む、中:明神橋を渡る、右:徳沢キャンプ場1955年7月)

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イベント 東京写真美術博物館 冠松次郎と穂苅三寿雄写真展を見て想いでの黒部と槍を辿るその2

2014年05月19日 | イベント

kan-haru blog 2014      

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黒部と上高地の想い出
・宇奈月温泉宿泊
冠松次郎と穂苅三寿雄写真展を見て、1955年(昭和30年)7月に大学工学部電気工学科の前川教授の引率で、初めて黒部の愛本変電所の見学時に、トロッコ列車で黒部渓谷の欅平まで行き、その先の黒部の熱風墜道は入れませんでしたが、自然に溶け込んだ黒部第3発電所からの風景を見た59年前の想い出は、黒部の有数の谷の深さに感動し、未だに忘れられない風景なのです。その2以降は、写真展に展示された写真に見る、燕岳、常念岳、槍ヶ岳、立山、乗鞍高原の紀行を記していきます。
1955年7月24日に、信越本線経由で上野駅を出発して、直江津駅からは北陸本線を通り魚津駅で下車して、富山鉄道(現在の富山地方鉄道)に乗り換えて宇奈月駅前の宇奈月温泉桃原館に宿泊しました。

 信越本線で黒部溪谷へ(左:横川駅付近、中:関東平野を北西に進む、右:急行列車内座席1955年7月)

当時は、お米が配給制であったので、宿泊するには1宿泊に付きお米300グラム(2合1勺)を袋にいれて持参する必要がありました。その代わり、昼食には、握り飯弁当を用意してくれます。

 黒部溪谷地図


 宇奈月温泉は、1915(大正4)に黒薙からの引湯樋設置工事が始められ、1917年に黒部川左岸の内山地内「荷上」に「愛本温泉」が営業を開始したが、1921(大正10)の台風災害により閉湯し、1922年に建物と温泉の権利を黒部温泉会社に売却され、これが現在の宇奈月温泉の礎です。宇奈月温泉桃原館は、現在宇奈月温泉駅近くで1923(大正12)に創業した老舗で、現在の旅館は1964(昭和39)に、黒部川沿いの場所に移転し、名称も宇奈月の地名(宇奈月町桃原)に由来して「ホテル桃源」と改称して営業しています。

 宇奈月温泉桃原館
(左:桃原館女将を中に見学メンバー記念撮影、右:お米持参の夕食1955年7月)

・黒部渓谷欅平
翌28日は関西電力と掛け合ったが、欅平から先の熱風墜道は見学者お断りとのことで、黒部渓谷トロッコ電車で、欅平まで黒部渓谷の風景を堪能しました。トロッコ電車は、1923年(大正12年) 日本電力(株)が発電所建設のための資材運搬用の専用鉄道として、宇奈月 - 猫又間(11.8km)の軌道敷設工事に着手し、1937年(昭和12年)に宇奈月 - 欅平間の運転を開始しました。1953年(昭和28年)に、関西電力が宇奈月 - 欅平間を黒部鉄道として営業を開始しました。
 トロッコ電車で欅平に進む
(左:トロッコ電車、左中・右中・右:トロッコ電車から見る黒部第二発電所1955年7月) 

欅平のすぐ下にある、黒部第三発電所の屋上で記念写真を撮りました。黒部第三発電所は、1936年(昭和11年)に着工し、1940年(昭和15年)に運用を開始しました。発電設備は、水車:立軸フランシス水車×3台、発電機:立軸三相交流同期発電機×3台で、有効落差:278.33m、最大使用水量:33.60立方メートル毎秒で認可最大出力:81000kWです。

 黒部第三発電所(・右:発電所屋上1955年7月)

見学当時の欅平には、何もなく自然のままで猿飛峡まで往復するくらいの、峡谷でした。

 黒部渓谷欅平

欅平を探索して、記念撮影です。

 欅平記念撮影

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イベント 東京写真美術博物館 冠松次郎と穂苅三寿雄写真展を見て想いでの黒部と槍を辿るその1

2014年05月14日 | イベント

kan-haru blog 2014 黒部と槍写真展会場入り口     

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黒部と槍写真展
戦前のわが国の著名な登山家の冠松次郎と、北アルプスで最初に山小屋経営を行った穂苅三寿雄を紹介する「黒部と槍」写真展が、東京都写真美術館で開催されましたので、過ぎし日の想い出を辿って4月27日に見てきました。
開催の東京都写真美術館(目黒区三田1-13-3)は、JR山手線恵比寿駅を下車して、線路沿いの動く通路を北に進み、道路を横断して恵比寿ガーデンプレス内の南側通路の奥に美術館の入り口があり、2階展示室で開催しています。

 黒部と槍写真展パンフレット

写真展の開催は、2014年3月4日から5月6日の、10時から18時まで開催しており、 月曜日が休館日です。主催は、公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都写真美術館、読売新聞社、美術館連絡協議会で、後援は公益財団法人日本山岳会、黒部市、松本市で、特別協賛が大伸社、協賛がニコン、ニコンイメージングジャパン、ライオン、清水建設、大日本印刷、損保ジャパン、日本テレビ放送網、東京都写真美術館支援会員の他、協力が山と渓谷社の各社です。
入場料は、一般が700円で、学生が600円で、中高生・65歳以上が500円ですが、第3水曜日は65歳以上が無料となっています。

 部と槍写真展入場券

出展作品
黒部と槍写真の出展は、大正時代から昭和1桁年代に撮影した写真で、冠松次郎の黒部渓谷を主とした71作品と、穂苅三寿雄の槍ヶ岳を主とした66作品が展示されています。

 黒部と槍写真展図録

・冠松次郎出展作品
冠松次郎は、1883年(明治16年)2月4日に、現在の本郷の質商の二男として生まれ、幼少から山に関心を持ち、火の見櫓などの高所から山を眺めていたと云われていました。1902年(明治35年)に初めて富士山に登り、日光や奥多摩の登山を始め、1909年(明治42年)に徳本峠から上高地を経て、槍ヶ岳、常念岳、白馬岳を登り、初めて日本アルプスに足を踏み入れました。黒部流域には1911年(明治44年)に白馬岳から祖母谷へ下って宇奈月に出たのが最初のことです。
黒部探検に乗り出して7年目の1925年(大正4年)8月に、鐘釣温泉を出発して棒小屋落合の上流に向かい、下廊下の未踏地を踏破遡行し、十字峡を発見して命名者となる。

 十字峡1925年(大正14年)8月

1921年(大正10年)7月の七谷超えの写真は、鐘釣温泉より下流で最も優れた風景である。現今は、日本電力の電車がトンネルを抜け、鐘釣温泉に至っている。

 七谷超え1921年(大正10年)7月

大正10年頃までの宇奈月は寂しいところであり、広い原にバラック式の湯小屋がたった1棟と、物売りの掛け茶屋があっただけで、冬には猿が山から餌を採りにおりてくるところである。

 上:宇奈月1921年(大正10年)8月、下:新鐘釣温泉1922年(大正11年)7月

・穂苅三寿雄出展作品
穂苅三寿雄は、1891年(明治24年)3月19日に、松本町巾上で菓子店の長男として生まれ、1905年(明治38年)に六九町の竹細工製造業の伯父の養子となる。1907年(明治40年)に徳本峠を越えて上高地に初めて入り、1915年(大正4年)に中房温泉より燕岳を登り、大天井岳を経て二ノ俣を下り槍ヶ岳に登頂して、さらに焼岳に登り徳本峠から松本に戻る。1919年に槍沢ババ平らに槍沢小屋を建て開業し、1921年坊主の岩小屋の下に大槍小屋を建設するが、翌年雪崩により全壊する。1925年槍ヶ岳肩の小屋を建てる。1954年槍ヶ岳肩の小屋本館を建設して、槍ヶ岳山荘と改称して長男の穂苅貞夫が山小屋の経営にあたる。
焼岳が活動し始めたのは明治40年頃からで、大正4年6月6日の大爆発で、山崩れにより上高地に大きな池が出来たと聞いて、その年の7月初めに見に行き、養老館(五千尺旅館の前身)は未完成であったが、そこに泊まった。

 焼岳大爆発、河童橋より1925年(大正11年)10月

徳本峠から秋の始めに、穂高岳を望んだ時、木の葉の多くは落ち尽くし、麓をめぐる針葉樹に混ざる落葉樹の黄葉が残されて、上高地を彩っていた。木の葉の落ち尽くした秋の山は、その輪郭が劃全としていて、ごつごつした岩石や深い渓底までも暴露されて望む事ができた。

 初夏の大正池と穂高連峰

穂苅が山岳写真を集中的に撮影していた時期は、1923年から1939年の間で、撮影に用いたカメラは、主としてキャビネ判の組立暗箱カメラでした。昭和に入ると、カメラも小型化したが、穂苅は精微な映像を求めて、サイズの大きいキャビネ判のガラス乾板にこだわっていました。

 夏雲の流れと穂高連峰、河童橋より

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イベント 日書展 第68回日本書道美術院教育部展が東京都美術館で開催

2014年01月21日 | イベント

kan-haru blog 2014  日書展「教育部展」「全国競書大会展」入り口    

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第68回日書展教育部展鑑賞

孫が2006年の小2の時初めて第61回日書展教育部展で、初めて佳作で入賞して東京都美術館に展示以来、第66回の不参加以外は7回の出展(第61回第62回第63回第65回第67回教育部展参照)をしておりますので、教育部展の観賞は恒例となりました。

  第68回日書展ポスター

今年の第68回日書展教育部展では、「みんなの書賞」に入選しましたので、1月9日に東京都美術館で鑑賞してきました。教育部展は、第65回の開催会場が池袋サンシャイン・ワールドインポマートで行われた以外は、東京都美術館で開かれています。
第68回日書展教育部展の開催は、日本書道美術院の主催で、毎日新聞社、全日本書道連盟の後援により、会場の東京都美術館で、会期が1月4日から10日までで6日は休館日で、9時30分から17時30分までの入場で、入場料は無料です。

  東京都美術館第68回日書展(:東京都美術館入り口通路、:東京都美術館ロビーへの通路、:日書展展示室案内板)

会場の東京都美術館の日書展は、ロビー階と1階会場での日本書道美術院に所属する書壇の代表作家約1,000名と、一般より公募の入選作品を加えて展示されます。日書展の作品には、漢字部、かな部、新書芸部と篆刻部に分類されています。公募作品の入賞作には、日本書道美術院賞、毎日新聞社賞、全日本書道連盟賞、日本書道美術院理事長賞、特選、秀逸、優作、佳作、褒状があたえられます。さらに、日書展特別賞である「サンスター国際賞」「春敬賞」「梅華賞」「大賞」「準大賞」の賞の受賞があります。

 日書展役員作品(:サンスター国際賞作品 慶徳紀子役員、:役員作品 田畔春圭)

日書展特別賞の「サンスター国際賞」ならびに「春敬賞」「梅華賞」「大賞」「準大賞」の各受賞者をはじめ、公募最高賞「日本書道美術院賞」などの入賞者氏名(←クリックする)を見られます。

 日書展特別賞受賞作品(写真拡大)

・教育部展
併催の「教育部展」は、書写・書道教室の振興を図ることを目的に、3階会場に高校部(91名)、中学部(304名)、小学部(825名)に分かれ児童・生徒の入賞作品が展示されます。

 教育部展作品1(:教育部展優秀作品、:全日本書道連盟賞受賞作品、:高野山金剛峯寺賞受賞作品)

参加作品の入賞作には、特待賞(2名)、日本書道美術院賞(3名)、理事長賞(7名)、毎日新聞社賞(5名)、毎日小学生新聞賞(5名)、全日本書道連盟賞(15名)、高野山金剛峯寺賞(28名)、教育部展特別賞(70名)、みんなの書賞(117名)、特選、秀作、優作、佳作が与えられます。

  教育部展作品2(:みんなの書賞受賞作品、:秀作授賞作品)

・全国競書大会展
併催の「全国競書大会展」は、全国の学生生徒と大人を対象に、日頃の成果を競うことを目的に「半紙作品」にて開催され、3階会場に一般部漢字・かな・新書芸と、高校部、中学部、小学部の入賞作品が展示されます。参加作品の入賞作には、全日本書道連盟賞、高野山金剛峯寺賞、全国競書大会賞、書道美術特別賞、みんなの書賞が与えられます。
「教育部展」と「全国競書大会展」の入賞者目録(←クリックする)を見られます。

 全国競書大会展作品(:全国競書大会展優秀作品、:全国競書大会展作品)

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イベント 日本美術展覧会鑑賞 日展2年連続入選の異業種交流会員の出展洋画を鑑賞その2

2014年01月16日 | イベント

kan-haru blog 2014      

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第45回日本美術展覧会鑑賞
・第一科 日本画鑑賞
今回の展覧会も時間に多少の余裕があったので、第1科日本画の展示室から観賞し、1階の第1入り口から入場しました。日本画の陳列は、日本画展示1階会場の第1室から第10室と、2階会場の第11室から第20室に346点が展示されており、第1室にはその1で掲載の「石田育代 「新しい世界」 特選」の作品が展示されており、日展特選受賞者9名のうち、8作品が展示されています。

 日本画展示場1(:1階エントランス、:日本画第1室、:日本画展示室)

第45回日展の日本画の展示作品の構成は、入選が204点で。無鑑査の作品が142点です。展示室第4室には、無鑑査の作品23点の展示作品が出展されており、「能島和明理事「道成寺(黒川能)」」の作品が展示してありました。

 日本画展示場2(:能島和明 理事「道成寺(黒川能)」日本画第4室、:日本画展示室)

・第二科 洋画鑑賞
第2科 洋画の展示会場は、日本画展示会場の隣の1階1Cの第3入り口から入ります。洋画の展示作品点数は、入選作品が564点、無鑑査作品が131点の出展があり、1階展示場の第1室には、無鑑査の作品15点と特選作品が16点の展示作品が出展されており、「本山二郎「ハミングバード」」や大渕繁樹「長崎の灯」」が出展されています。

 洋画第1室展示作品1(:第1室(右端「ハミンダバード」)、:本山二郎「ハミングバード」特選、:大渕繁樹「長崎の灯」特選)

第2科洋画の審査主任中山忠彦氏の審査所感の中で、「今年はとりわけ若年層の優作が目立ち、将来への明るい展望が拓けたのは、大きな収穫である。日展百年の伝統に、時代の新風を加え輝かしい曙光をみるのは、新たな時代の到来の予兆であると、大いに意を強くした次第である。」と述べており、今年の洋画出展の方向のようです。

 洋画第1室展示作品2(:久保博孝「獺祭図」特選、:渡邊裕公「懐郷」特選、:前田恵美子「September」特選)

「小休止(C.C.R)」の受賞理由は、「古いピエロの人形に自分の幼き頃からの思いを重ね、どれもこれもかつて手に取り使い古された小物を生き生きと描写している。今回は特に気持が入っている。作者のこれからの発展に期待したい。」とあります。

 洋画第1室展示作品3(:青島紀三雄「水辺待春」特選、:土井原崇浩「鼬を抱く女性」特選、:堀 研一「小休止(C.C.R)」特選)

日展役員と特選作品を展示している
第1室のから、第2室に移ると11点の役員作品と、4点の無鑑査作品に2点の入選作品が展示してあり、第3室には7点の役員作品に、4点の無鑑査作品が見られます。
 洋画展示作品4(:青木良識「近江町市場」特選 第1室、中左:小川満章「室内」特選 第1室、中右:木原和敏会員「夏の果」 第2室、:曽 剣雄「夢のメロディー」出品委嘱 第3室)

・異業種交流会メンバー出展作品
異業種交流会メンバーの2年連続日展入賞作品は、「むぎわら帽子」で第4室に展示されていました。
 渡邊正博「むぎわら帽子」入選作品展示
第4室
(:異業種交流会メンバー出展作品展示の第4室、:渡邊正博「むぎわら帽子」入選作品展示、:渡邊正博「むぎわら帽子」プロマイド)

入選を祝して、異業種交流会メンバーの有志は時間を示し合わせて、入選作品の鑑賞を行い、作品
の前で作者とともに記念撮影を行いました。

  作者と共に出展作品前での異業種交流会メンバーとの記念撮影(写真拡大)

異業種交流会メンバーの2年連続日展入賞を祝して、鑑賞後六本木駅近くで祝杯をあげました。おめでとうございます。

 作者を中心に2年連続の日展入賞を祝して乾杯(写真拡大)

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イベント 日本美術展覧会鑑賞 日展2年連続入選の異業種交流会員の出展洋画を鑑賞その1

2014年01月11日 | イベント

kan-haru blog 2014  第45回日展ポスター      

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連続日展入選洋画鑑賞
異業種交流会員のW氏の洋画が、2012年の第44回日展に初出展した「モンキチョウ」が初入選(「イベント日本美術展覧会鑑賞 国立新美術館で日展入選の異業種交流会員の出展洋画を鑑賞その1その2」参照)を果たし、第45回の日展でも「むぎわら帽子」が連続入選しましたので、異業種交流会メンバーと共に2013年12月4日に観賞しました。
渡辺氏の洋画とのご縁は、2011年のギャラリー青藍(六本木) での「火/水/油/3人展」(「イベント 火/水/油/3人展 異業種交流会員の出展画を見て伯爵邸改築レストランで趣ある昼食を楽しむその1」参照)の観賞が最初で、次いで2012年4月に国立新美術館で開催の示現会展(「イベント 油彩・水彩・版画展 国立新美術館示現会展で入選の異業種交流会員の出展油彩画を観賞」参照)で佳作賞受賞の「秋娘の風」を観賞しました。
60歳を過ぎてからの本格的に絵に取り組み始めてから、短時期に権威ある展示会で連続して入選を果たした成果は見事なものです。

・日展とは
絵画に縁の無い一般異業種交流会メンバーとして、日展ホームページから「日展の沿革」について調べて見ました。
日展の前身は、1900年(明治33年)にオーストリア公使牧野伸顕は、海外の文化に肌で触れ、ウィーンを訪れた文部官僚に公設展覧会を開催することの大切さを情熱的に語りました。牧野は、「我が国も公設の展覧会を開き、文明国として世界に誇れるような芸術文化を育成しようではないか」と、日本の美術の水準を高めたいという夢を抱いていました。

 第1科日本画 石田育代 「新しい世界」 特選

1906年(明治39年)に、文部大臣になった牧野は、かねてより念願の公設展開催を決め、1907年(明治40年)に美術審査委員会官制を制定し、文部省第1回美術展覧会の官展が開かれ、1918年(大正7年)の第12回文展まで続けられました。1919年に、帝国美術院規程が制定され、帝国美術院第1回美術展覧会が開かれ、1934年(昭和9年)の第15回帝展まで続けられました。1935年に、美術展覧会は文部省主催に変り文部省美術展覧会が、監査と招待による展覧会に分けられて、1936年に、新たに帝国芸術院官制が制定され、改めて第1回文部省美術展覧会が開かれ、1943年(昭和18年)の第6回文展まで続けられました。 1944年には、美術展覧会取扱要綱によって、一般公募の美術展覧会は禁止され、文部省主催により、戦時特別美術展覧会が開催されました。

 第2科洋画 大渕繁樹 「長崎の日」 特選

大戦後の1946年(昭和21年)春には、文部省主催により、第1部(日本画)、第2部(西洋画)、第3部(彫塑)、第4部(美術工芸)の4部制によって、第1回日本美術展覧会(日展)が開かれ、同年秋に第2回日展を開き、第3回日展まで続きました。この間の1947年に、帝国芸術院は、日本芸術院と改称され、1948年第4回日展は日本芸術院主催に変り、第5科(書)を新設して5科制に改められました。1949年に、新たに日本芸術院令が制定され、日本芸術院会員の有志によって組織された日展運営会が設立されて、第5回日展より第13回日展まで、日本美術展は日本芸術院と日展運営会の共同主催となりました。

 第3科彫刻 前田真里 「夢をかなえる馬」 特選

1958年(昭和33年)には、社団法人日展を創立し、日本芸術院と分離し、完全な自主的経営機関として、改めて第1回日本美術展覧会が開かれ、第11回日展まで続けられました。
1969年(昭和44年)には、役員改選を機に展覧会名称を改組日展と改め、改組第1回日本美術展覧会として開かれましたたが、翌年には「改組日展」の展覧会名称を再び「日展」と改めて第2回日展を開き、今日に至っています。

 第4科工芸美術 小田謙二 「輝翔13」 特選

2012年に、公益法人制度改革に伴い、内閣府より公益社団法人への移行認定を受け、4月1日より「公益社団法人日展」として新たに出発しました。
日展は、1907年(明治40年)の文展創設以来、近代から日本美術の歴史と伝統を築き106回になりました。

 第5科書 近藤浩乎 「想い」 特選

・日展の開催美術館
日展の東京会場展は、99年間にわたり東京上野の東京都美術館で開催していましたが、日展100年目を迎える節目の2007年からは、東京・六本木に開館した「国立新美術館」に会場を移され、第45回日展は上野から移って7年目となりました。
日展の東京会場展終了後は、全国主要都市で巡回展が開かれ、50万人を超す多くの入場者があり、これは世界に類のないことです。

 日本美術展覧会展示会場(左:国立新美術館(2007年から開催)、右:東京都美術館(2006年まで開催)20100106撮影)

・第45回日本美術展覧会
第45回日本美術展覧会は、国立新美術館(東京都港区六本木7-22-2)において高益社団法人日展の主催で、2013年11月1日から同12月8日までの、午前10時から午後6の閲覧時間に開催され、火曜日が休館日です。
入場料は、一般当日券が1200円、前売券・団体券が1000円で、高校・大学生の当日券が700円、前売券・団体券が500円です。なお、当日16時以降に発売するトワイライトチケットは、一般が300円、前売券・団体券が200円です。ただし、11月11日は、「日展の日」で入場料は無料となります。

  第45回日展入場券

第45回日展の応募点数、入選点数は表の通りです。異業種交流会メンバーのW氏が応募の、第2科 洋画の応募数は2,136点で、入選が564点でそのうち新入選は65点であり、このような厳しい中での新入選は努力の結晶で勝ち得たものです。

 第45回日展応募点数と入選点数

第45回日展の第1科から第5科までの展示会場は、第1科 日本画が1階1A、1Bと2階2A、2Bの1部で、第2科 洋画が1階1C、1Dと2階2Bの1部と2Cの1部で、第4科 工芸美術は2階2Cの1部と2Dと2Eの1部で、第3科 彫刻が2階2Eの1部で、第5科 書が3階3A、3Bに展示されています

 第45回日本美術展覧会会場案内図

今回の展示の観賞は時間的に制約があり、H11異業種交流会のメンバーW氏の洋画の入選作品を鑑賞することが目的であり、ただ、参考のために第1科日本画の一部も鑑賞しました。そこで、今回も展示室は1階のA、1B、1C、1Dの展示を鑑賞しました。

 1階第1科日本画と第2科洋画会場図

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イベント 東京藝術大学大学美術館 興福寺創建1300年記念の東金堂名宝の仏頭と十二神将像を観賞その2

2013年12月06日 | イベント
kan-haru blog 2013 銅造仏頭

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伽藍の仏像
興福寺は何度も火災に遭い、1180年(治承4年)の治承焼失では多くの建物や仏像が失われましたが、焼失の都度復興計画をたて諸堂の再建が進みました。しかし、西金堂、南大門、講堂は治承焼失後の1717年(享保2年) の焼失以降は再建されませんでした。さらに、明治時代初期の神仏分離・廃仏毀釈でも食堂が取り壊されたほか、仏像を含む多くの寺宝が流出しました。1959年(昭和34年)に境内に国宝館が完成し、安置堂宇を失った仏像などは同館で保管・公開されています。

・中金堂の仏像
中金堂は1717年大火で焼失後、1819年(文政2年)に寄付付により、仮堂として再建されました。仮堂は老朽化が進み、1974年(昭和49年) に薬師寺の旧金堂を中金堂裏手に移築して仮金堂として、文政再建の中金堂はその後取り壊されました。
仮金堂には、中央には尊釈迦如来坐像(1811年(文化8年)作)、その左右にはヒノキ材の寄木造の薬王・薬上菩薩立像(1202年(建仁2年)作)、須弥壇四隅にはもとは南円堂にあったヒノキ材の寄木造の四天王立像(1189年(文治5年)作)が安置されています。

・西金堂の仏像
1717年(享保2年) の焼失以降は再建されなかったかっての西金堂には、興福寺曼荼羅図によると中心に釈迦如来像、両脇侍像、八部衆像、十大弟子像、四天王像、金剛力士像一対、金鼓と婆羅門像、十一面観音像、羅睺羅像が安置されていました。
鎌倉復興期の像で現存するものは、乾漆造の八部衆像(734年(天平6年)作 五部浄像、沙羯羅像、鳩槃荼像、乾闥婆像、阿修羅像、迦楼羅像、緊那羅像、畢婆伽羅像)、乾漆十大弟子立像のうち6躯(734年(天平6年)作 舎利弗、目犍連、須菩提、富楼那、迦旃延、羅睺羅)、ヒノキ材の寄木造金剛力士像2躯(1288年(正応元年)作)、ヒノキ材の寄木造天灯鬼・龍灯鬼像(1215年(健保3年)作)、木造仏頭と仏手2箇(1189年(文治5年)頃作 本尊釈迦如来像の頭部と推定)、木造飛天8躯・化仏3躯(1189年(文治5年)頃作 本尊釈迦如来像の光背に附属していたものと推定) が国宝館に安置されています。

 西金堂の仏像(左から 1:乾漆八部衆立像のうち五部浄像、2:八部衆のうち畢婆伽羅(左)と沙羯羅(右)、3:阿修羅像、4:乾漆十大弟子立像のうち富楼那 興福寺の仏像Wikipediaから)

・北円堂の仏像
当初の安置仏は弥勒仏像、両脇侍像、羅漢2体、四天王像の9体でありましたが、治承の兵火により安置仏は焼失しました。現存する北円堂は、堂内中央部を8本の柱で囲まれた須弥壇の中央に本尊の木造弥勒仏坐像(1212年(建暦2年)頃作)、その左右に脇侍の法苑林菩薩坐像と大妙相菩薩坐像を安置され、本尊の後方左右には木造無著・世親立像(1212年(建暦2年)頃作)が立ち、須弥壇の隅には四天王立像4体(791年(延暦10年)作 持国天、増長天、広目天、多聞天)が各々外側を向いて立っています。

 北円堂の仏像(左から 1:木造弥勒仏坐像、2:木造無著立像、3:木造世親立像、4:木心乾漆四天王立像のうち持国天 興福寺の仏像Wikipediaから)

・南円堂の仏像
現存する建物が再建したのは1789年(寛政元年)であります。南円堂の内部は、中央部を8本の柱で囲まれた須弥壇とし、中央に木造不空羂索観音坐像(1189年(文治5年) 作)、その周囲に四天王立像4体(鎌倉時代)を安置しています。他に法相六祖坐像6体(1189年(文治5年) 作 常騰像、神叡像、善珠像、玄像、玄賓像、行賀像)がありましたが、国宝館に移されています。

 南円堂の仏像(左から 1:木造不空羂索観音坐像、2:木造法相六祖坐像のうち伝・玄、3:木造法相六祖坐像のうち伝・常騰、4:木造法相六祖坐像のうち伝・行賀 興福寺の仏像Wikipediaから)

・東金堂の仏像
東金堂は、1180年(治承4年)の平重衡の兵火を含め5回焼失し、その都度再建されており、現存する東金堂は1415年(応永22年)の建立されたものです。1185年の東金堂再建後には、
仏像の復興は進まず、1187年(文治3年)に東金堂衆らが飛鳥の山田寺に押し入り、同寺講堂本尊の金銅薬師三尊像を強奪してきて、興福寺東金堂の本尊に据えるという事が起きました。その後、1411年(応永18年)の火災で両脇侍像は持ち出されたが、薬師如来像は搬出できず、頭部だけが焼失をまぬかれました。この薬師如来像頭部「仏頭」(685年(天武天皇14年) 飛鳥時代後期 作)は、再建された東金堂の本尊像の台座内部に納められていました。仏頭の発見は、1937年(昭和12年)の解体修理中に発見されました。山田寺は、大化改新で活躍した蘇我倉山田石川麻呂が建てた寺で、本尊薬師如来像は石川麻呂の冥福を祈って造られた像です。
現在の東金堂には、須弥壇中央に本尊の銅像「薬師如来坐像」、とその左方に脇侍の「伝・日光菩薩立像」、右方に脇侍の「伝・月光菩薩立像」(1415年(応永22年) 作)が安置され、薬師如来像と日光菩薩像の間には木造「文殊菩薩坐像」(鎌倉時代 作)、薬師如来像と月光菩薩像の間には木造「維摩居士坐像」(1196年(建久7年) 作)を安置し、これら諸仏の間には薬師如来を守護するヒノキ材の寄木造「十二神将立像」(鎌倉時代 作)12体(宮毘羅、伐折羅、迷企羅、安底羅、頞儞羅、珊底羅、因達羅、波夷羅、摩虎羅、真達羅、招杜羅、毘羯羅が立ち、須弥壇の四隅には木造「四天王立像」(平安時代初期 作)が立っており、「国宝興福寺仏塔展」に展示されています。

 東金堂の仏像(左:東金堂内の諸仏、中:銅造薬師如来像、右:木造文殊菩薩坐像 興福寺の仏像Wikipediaから)

・その他の仏像(国宝)
旧食堂本尊の木造「千手観音立像」(1229年(寛喜元年)頃 作)で、1907年(明治40年)の修理時に、像内から多数の納入品が発見されました。納入品の主なものは五輪塔形板、銅鏡、金銅仏、経巻、摺仏などで、国宝館に所在します。
江戸時代に旧東金堂にあったヒノキの一枚板に浮彫「十二神将像」12面(11世紀後半 作)は国宝館に所在し、「国宝興福寺仏塔展」に展示されましたので、後節の「興福寺仏塔展」で説明します。

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イベント 東京藝術大学大学美術館 興福寺創建1300年記念の東金堂名宝の仏頭と十二神将像を観賞その1

2013年11月30日 | イベント
kan-haru blog 2013 猿沢池20081029撮影       

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上野博物館開催の仏像展
東京藝術大学大学美術館での展示会は、6月28日に「夏目漱石の美術世界展」(「イベント 東京藝術大学大学美術館 鶯谷から上野まで古寺・古建築を巡り夏目漱石の美術世界展を見るその1~」参照)を見にいきました。
前回の上野の博物館での興福寺の仏像展は、2009年3月から6月まで東京国立博物館で「興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」」が開催され、阿修羅ブームがおきて、94万人も入場しました。阿修羅は、現在興福寺の国宝館に飾られていますが、今は疎石のみしか存在しないが、734年(天平6年)に創建の興福寺西金堂の須弥壇に安置されていました。在りし日の西金堂には、本尊の釈迦如来像を中心に、左右に十大弟子の像と八部衆の像が建ち並んでおり、阿修羅はその八部衆のうちの一体です。「国宝 阿修羅展」では、阿修羅像だけを特別室に展示され、他の7体は別室に展示されました。
西金堂は、1046年 (永承元年)以来、6度も焼失しましたが、阿修羅たちはそのたびに救い出されて八部衆の八体と十大弟子の六体のみが現存しています。しかし、西金堂は1717年(享保2年)の火災後からは、300年もの間復興できずにいます。

 奈良時代の伽藍復元図(「興福寺の全てから」小学館)

興福寺の歴史
・興福寺の伽藍
奈良興福寺は、710年(和銅3年)に藤原氏の氏寺として平城京に移し、奈良時代から栄え、2010年には創建1300年を迎え「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録されました。

 興福寺境内図

創建後の興福寺は、何度も火災に遭い、なかでも1017年(寛仁元年)の火災では東金堂と塔が焼失し、1046年(永承元年)には民家への放火から興福寺の松院堂に火が移り、強風により金堂、講堂、東・西金堂、南円堂、鐘楼、経蔵、南大門、東・西上階僧房などが焼失し、残ったのは北円堂と正倉院のみでありました。残った仏像は金堂の釈迦と南円堂の不空羂索および西金堂の仏像のみが取り出されたと云われています。焼失を免れた北円堂は、1049年(永承4年)に焼失しました。

 仮金堂と五重塔および仏頭安置の東金堂(:中門跡(前)、中金堂後(中)、仮金堂と五重塔(後)、:東金堂20081029)

その後、1060年(康平3年)の火災では、金堂、回廊、中門、大門、維摩堂、三面僧房、五重塔が焼失し、さらに、1096年(嘉保3年)には再建された金堂、僧房、講堂、回廊、中門、南大門、鐘楼、経蔵が焼失しました。

 南円堂(写真拡大20081029)

1180年(治承4年)に、平氏打倒の命を受けた源頼政が挙兵したとき、それに加担したとして、平重衡の軍勢が南都に押し進め、興福寺と東大寺を焼き討ちしました。焼き討ちにより、興福寺の建物は、堂34棟、塔3基のほか寺外の子院や雑舎の殆どの建物が焼失したようです。

 北円堂(写真拡大20081029)

興福寺の治承焼失後の再建は、1181~1186年に食堂、東金堂、西金堂、講堂が再建され、1187~1196年に中金堂、回廊、南大門、南円堂が再建され、1243~1247年に五重塔、僧房、北円堂、春日東西塔などが再建されました。
再興後も、南円堂は1327年(嘉暦2年)と1717年(亭保2年)にも罹災して、現在の建物は1789年寛政元年に再建されたものです。

 三重塔(写真拡大20081029)

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イベント 三菱一号館美術館 浮世絵全貌の「浮世絵Floating World -珠玉の斎藤コレクション-」展

2013年11月26日 | イベント
kan-haru blog 2013 浮世絵Floating World 展パンンフレット      

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「浮世絵Floating World -珠玉の斎藤コレクション-」展は、江戸から明治までの、浮世絵の誕生から爛熟に至る全貌を、川崎・砂子の里資料館長斎藤文夫氏の膨大な浮世絵コレクションから選りすぐりの名品を、3期に分けて三菱一号館美術館で展示されました。
展示は、第一期が「浮世絵の黄金期 - 江戸のグラビア -」をテーマとして6月22日か7月15日まで、第二期が「北斎・広重の登場 - ツーリズムの発展 -」と題して7月17日から8月11日まで、第三期が「うつりゆく江戸から東京 - ジャーナリスティック、ノスタルジックな視線 -」をテーマに8月13日から9月8日まで開催されましたので、第三期の展示を9月6日に見てきました。

 浮世絵Floating World 展入場券

・三菱一号館美術館
現在の三菱地所運営の三菱一号館美術館収容の「三菱一号館」(千代田区丸の内2-6-2)の一角には、当初の1894年(明治27年)に竣工の丸の内最初の洋風貸事務所建築として前身のジョサイア・コンドルの設計による「旧三菱一号館」がありました。

 旧三菱一号館(Wikipediaから)

その後、1928年に「旧三菱一号館」に隣接して「丸ノ内八重洲ビルヂング」が建ち、1965年に「古河ビルヂング」が竣工した後、1968年に「旧三菱一号館」は解体されて、1971年に「三菱商事ビルヂング」が竣工して3棟のオフイス街となりました。
「旧三菱一号館」解体後30年以上が経過した、2004年に三菱地所が進める「丸の内再構築」計画として、一角に「丸の内パークビルディング」とあわせて「三菱一号館」の建設が計画され、2006年に同3棟の解体工事が開始されました。2007年に丸ノ内八重洲ビルヂングの外壁保存部分を持つ「丸の内パークビルディング」を着工し、2009年に完成しました。

 丸の内パークビルディング(写真拡大0906)

同時に、隣接地にレンガ造りのレプリカの「三菱一号館」も着工され、2009年に竣工しました。

 三菱一号館(写真拡大0906)

三菱一号館が完成したので、三菱地所が「三菱一号館美術館」運営計画を発表し、博物館は2010年に開館しました。

 三菱一号館美術館(:三菱一号館美術館の裏面、:三菱一号館美術館の案内板0906)

美術館の展示室は館内の1~3階に分けて配置され、建造物の構造的な制約により平均40m²の比較的小さい展示室が20室連なる特異な構成(←クリックでフロアマップ表示)となっています。美術館の東京駅方の入り口を入ると、階段の左側には三菱一号館歴史資料室があります。この資料室は、旧三菱一号館の当時の事務所空間を再現したもので、内装は漆喰壁や木の格天井などで、明治期の執務室の雰囲気を味わえます。また、三菱一号館を設計したジョサイア・コンドルは、建築の設計だけでなく建物内で使用した洋家具を作る職人も育てました。資料室の家具は、当時の資料を基に再現したものです。
その他、資料室には、1894年に旧三菱一号館が竣工した1/40サイズの模型が展示されています。展示資料室には、エレベータで3階に上がります。

 三菱一号館歴史資料室(写真拡大)

・「浮世絵-珠玉の斎藤コレクション-」展第三期
「浮世絵-珠玉の斎藤コレクション-」展は、社団法人川崎・砂子の里資料館(川崎市川崎区砂子1-4-10)館長の斎藤文夫氏のコレクターの浮世絵の展示です。砂子の里資料館は、2001年に、「肉筆美人画展」で開館し、当初川崎・横浜や神奈川県内の風景画の浮世絵を中心に集められ、次いで初期浮世絵から黄金期及び幕末に至る美人画・役者絵、歴史絵・風景画など、系統的に幅広く収集してきて、明治から昭和に至る、新版画や創作版画も収集に加え、300年来の肉筆美人画や、歌川広重の県内風景画など、貴重な肉筆画も所蔵しています。第三期展示目録(←ここをクリック)

 浮世絵Floating World 展図録

「浮世絵-珠玉の斎藤コレクション-」展第三期は、うつりゆく江戸から東京―ジャーナリスティク、ノスタルジックな視線をテーマに、展示作品は初代歌川広重が晩年に力を注いだ「名所江戸百景」(安政3-5年)などが展示されていました。  

 初代歌川広重「名所江戸百景」(左:大はしあたけの夕立、右はねたのわたし弁天の社)

浦賀に黒船が来航し日米修好通商条約が結ばれ、横浜などの開港されて新しい文物が流入し、浮世絵はそれらを写しとって行きました。

 黒船来航・横浜開港時代の浮世絵(上:一川芳員「亜墨利加蒸気船 長四十間巾六間」、下:一川芳員「横浜海岸波止場繁栄之図」)

幕藩体制が崩壊し、江戸が東京になり、新しい国家が成立したこの時代、ガス灯、洋風建築、鉄道や洋装美人などの様々な風俗が浮世絵にあらわされました。

 江戸から東京になり新しい国家時代の浮世絵(上左:二代目歌川国輝「新橋ステイーシヨヲン」、上右:三代目歌川広重「東京名所之内 高輪海岸鉄道の図」、下:二代目歌川広重「東京名所鉄道馬車往復上野公園山下之図」)

小林清親が1876年に描いた東京の名所シリースでは、夕陽や街頭灯などの光の変化を微妙な陰影によって描き出した、「光線画」が近代化する東京の姿の背後に、江戸へのノスタルジーをにじませています。

 小林清親「東京新大橋雨中図」

歌川広重の肉筆浮世絵は、1849年嘉永2年以降に急に出回り始めた。左副の「箱根権現社」は、芦ノ湖の湖畔に湯釜が2つと朱塗りの大鳥居が描かれ、湖畔に沿った参道が箱根権現社まで続いている。右服の「箱根二子山」には、左側に下二子山が、右側に上二子山がごつごつした岩がむき出しに描かれています。

 初代歌川広重「浮世絵」(左:箱根権現社、右:箱根二子山)

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イベント 東京藝術大学大学美術館 鶯谷から上野まで古寺・古建築を巡り夏目漱石の美術世界展を見るその6

2013年09月05日 | イベント
kan-haru blog 2013 上野駅130周年 

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昔を追い上野の山の散策(続)
・秋色桜の碑
清水観音堂舞台上から「月の松」を通して、不忍の池に浮かぶ弁天島の弁天堂(「風景・風物詩 上野公園不忍池 弁天堂近くで開花した蓮の花の観賞」参照)を見て、清水観音堂裏東南には秋色桜の碑と井戸があります。秋色桜の碑は、元禄の頃日本橋小網町の菓子屋の娘お秋が、花見客で賑わう井戸端の様子を詠んだ句
“井戸ばたの桜あぶなし酒の酔”
を桜の枝に結び、輪王寺宮に賞せられ一躍江戸中の大評判となりました。秋色桜の碑は、聴鶯荘の主人が1940年(昭和15年)に建てたもので、現在の秋色桜は1978年(昭和53年)に植え接いだもので九代目にあたるものと推定されています。

 秋色桜(左:秋色桜の碑、右:秋色桜の井戸0823)

・彰義隊の墓と西郷隆盛像
秋色桜の碑の南方には、彰義隊の墓(台東区有形文化財)があります。15代将軍徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸へ戻り、1868年(慶応4年) に彰義隊を結成し、上野山にたてこもる。同5月15日未明、大村益次郎指揮する東征軍は総攻撃(上野戦争)をして彰義隊は敗退し、寛永寺も壊滅的打撃を受けました。前正面の小墓石は、1869年(明治2年) に寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに埋葬したもので、後の1869年(明治2年) に元彰義隊小川興郷らによって、山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」と刻む大墓石を造立しました。
彰義隊の墓南側の西郷隆盛像は、1898年(明治31年)に除幕式が行われ、隆盛が高村光雲の作で、犬は後藤貞行の作で、岡崎雪聲の鋳造したものです。西郷は、1827年(文政10年)薩摩藩士として鹿児島加治屋町に生まれ、若くして藩主島津斉彬に重用され国事に奔走し、1864年(元治元年)に許されて長州を敵としたが、後に薩長連合を結成し、1867年(慶応3年)に王政復古を成し、明治維新の基礎を確立しました。1871年(明治4年)に政府の懇請で参議に就任、近代国家建設の重要な役割を果しました。明治年征韓論に反対、帰郷し私学校を興す。1876年(明治9年)に、政府は鹿児島県陸軍省砲兵属廠の武器弾薬を、赤龍丸で大阪に搬出する。財産搬出に私学校徒は怒り従軍登録を始め、1877年(明治10年)に西南の役となり、転戦7ヵ月余で敗れて城山で西郷隆盛は自刃しました。

 彰義隊の墓(左)と西郷隆盛像(右)(0823)

上野駅
上野駅の開業は、1883年(明治16年)7月28日に開業し、上野と熊谷間の営業が開始され、今年で上野駅開業130周年を迎えました。上野駅との出会いは、私が3歳の頃下谷に住んでおり、寝かせつけるため毎日のように母に連れられ、鶯谷駅のガード上から蒸気機関車や省電の走り交う列車を眺め、あと1つ見てから帰るとせがんだ記憶のある古き想いのある駅です。

 開業当時の上野駅(1885年JR東日本から)

また、実家が水戸線にあるので帰京するとき、菩提寺が古河にあるので法事・墓参のとき、親類が水戸にあるので訪問する時には、何時も複雑な構造の連絡通路を通り、上野駅始発の宇都宮線や常磐線に乗って出かけています。さらに、上野には博物館が多く、動物園もあり展示会やイベントには下車する駅で、幼稚園・小中学・高校・大学から現在までの長期に亘り個人にとって、最も馴染みの深い駅なのです。

 1932年(昭和7年)竣工の上野駅正面玄関(2008年 Wikipediaから)

西郷隆盛像から上野の山を降りると、カーブした中央通りとアメヤ横町入り口の通路と、線路沿いの公園口への道路との交差点にでて目の前が上野駅です。

 上野恩賜公園と上野駅

上野の山を降りて大通りの交差点を渡ると、山手線・京浜東北線高架橋の橋げたの下が上野駅です。

 上野駅前大通り交差点(0823)

・上野駅130周年
130周年を迎えた現在の上野駅を、幼少からの想い出を追憶して、駅構内の一部を回遊してみました。先ずは、上野の山を下りて大通り交差点を渡ると、高架橋の下が上野駅不忍口です。

 上野駅不忍口(0823)

不忍口通路を入り直進して左折すると山下口への通路で、右折するとアトレ上野の商店を抜けてグランドコンコースです。

 上野駅不忍口通路(左:上野駅不忍口、右:不忍口連絡通路0823)

グランドコンコースの天井には、国立科学博物館で開催の特別展“深海―挑戦の歩みと驚異のいきものたち―”に展示出展のダイオウイカの張りぼてが吊り下げられています。コンコースの右側には、正面玄関口に出る二層吹き抜けのホールのガレリオがあり、1932年(昭和7年)当時は南北の両側にはずらりと一面に出札窓口がならんでいました。現在は、2階の通路も大幅に広げられエスカレータを設置して、1・2階とも店舗・レストラン店舗に使うため改修されました。

 グランドコンコースと吹き抜けホール(左:ダイオウイカの張りぼてのあるグランドコンコース、右:吹き抜けホール2階へのエスカレータ0823)

吹き抜けのホール ガレリオ2階の回廊西壁面では、上野駅開業130周年を振り返る写真展を開催していました。

 吹き抜けのホール2階の上野駅開業130周年写真展(左上中上右上左下中下右下:0823)

上野駅開業130 周年記念イベントの“上野駅開業130 年を振り返る写真展”は、2013年7月28日から8月31日まで開催され、1883 年の上野駅開業から現在に至るまでの駅舎や駅周辺の風景および往年の列車写真等が展示されていました。

 上野駅開業130 年を振り返る写真展(写真拡大0823)

130周年写真展を見てグランドコンコースから中央改札を通り、1階ホームへ入場すると朝倉文夫氏の作「三相の像」があります。駅の開設と朝倉文夫氏の生誕が同じくしていることを知り、記念のために台東区を通じてこの像を贈られ建設されたもので、「三相」とは「知・情・意」の意味だそうです。

 中央改札から1階ホームへ入場(:中央改札、:朝倉文夫氏の作「三相の像」0823)

そろそろ、寝台特急「カシオペア」の入線時間となるので、13番線ホームへと進みますと、手前に石川啄木の歌「ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」の歌碑が設置されています。入線時間となると、ゆっくりと寝台特急「カシオペア」が入線してきました。当日の13番線入線の「カシオペア」は「推進回送」ではなく、先頭の機関車EF510-510に引かれて入線してきました。残念ですが時間がないため、発車の状態が見られないままに帰宅しました。

 「カシオペア」が機関車に引かれて13番線ホームに入線(左上:石川啄木の歌碑、中上:左側13番線ホーム、右上左下中下右下:「カシオペア」が機関車に引かれて入線0823)

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イベント 東京藝術大学大学美術館 鶯谷から上野まで古寺・古建築を巡り夏目漱石の美術世界展を見るその5

2013年08月29日 | イベント
kan-haru blog 2013 人形供養碑     

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昔を追い上野の山の散策
東京藝術大学大学美術館で、夏目漱石の文化と美術に関する展示会を観賞したので、往時の寛永寺跡の面影を忍んで、上野の山を散策し130周年を迎えた上野駅を見て帰宅しました。
かっての寛永寺は約30万5千坪の寺地を有しており、寛永時代に現東京国立博物館敷地に寛永寺本坊が建立され、元禄時代に今の上野公園大噴水のあるあたりに本堂の根本中堂が完成し、清水観音堂、不忍池辯天堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が競い立っていました。上野の山は、幕末の慶応4年に彰義隊の戦の戦場となり、根本中堂をはじめ主要な堂宇は焼失し寛永寺は、明治政府によって境内地が没収されました(その1参照)。

 上野戦争(左:上野戦跡 平凡社「鹿鳴館秘蔵写真帖」よりWikipedia Link、右:上野戦争の図(本能寺合戦之図) 歌川芳盛 明治2年Wikipedia Link)

・上野恩賜公園の変遷
明治政府によって没収され寛永寺の境内地の変遷を追うと、1873年(明治6年)に太政官布達で、上野の山一帯を日本最初の公園に指定され、1876年(明治9年)に東京府から内務省博物局に移管され、1882年(明治15年)には上野動物園が開園しました。1890年(明治23年)にはうえの公園が宮内庁に移管され、1923年(大正13年) 東京市に下賜され上野恩賜公園となりました。

 上野恩賜公園散策地図

・上野の森を歩く
東京藝術大学大学美術館を後に、都道452号を東京国立博物館正門前に戻ると、平成24年に道路南側に接した竹の台広場には、東京都が新名所の噴水を完成させました。竹の台の名前は、噴水のあるあたりに寛永寺の根本中堂が建立されており、正面の両側には、竹の台(うてな)が配置されていたことにより竹の台と称しています。

 上野恩賜公園噴水(㈱ウォーターデザインLink)

噴水のところで右折し上野の森を縦断して進むと、右側に花園稲荷神社(台東区上野公園4-17)の鳥居が見えてきます。創祀の年月は不祥で、1654年(承応3年)に天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が廃絶していたお社を再建し上野の山の守護神とし倉稲魂命を祀られています。幕末には彰義隊の戦では激戦地となり、1873年(明治6年)に再興され、花園稲荷と改名し社殿も南面にて造営され神苑も一新されました。花園稲荷神社に接して五條天神社があり、創建は伝景行天皇朝の時期で、幾度か社地を転々とした後、1928年(昭和3年)に現在地に遷座され、祭神は大己貴命、少彦名命、菅原道真公が祀られています。(「風景・風物詩 初詣風物詩 上野五條天神社、不忍池弁天堂と飯田橋東京大神宮」参照)

 花園稲荷神社と五條天神社(左:花園稲荷神社0823、右:五條天神社20090104)

神社を後に進むと、左方に天海僧正毛髪塔が見えてきます。天海大僧正は、1643年(寛永20年)10月2日に百八歳で示寂(じじゃく)され、諡号(しごう)は慈眼大師と称します。墓所は日光山輪王寺に造られ、寛永寺には弟子の晃海(こうかい)が供養塔を建立し、後に伝来していた毛髪を納めた宝塔を建立され、都指定旧跡です。

 天海僧正毛髪塔(0823)

宝塔を先に進むと、博士王仁碑が二基建立されています。王仁博士は「古事記」によると、古墳時代の前半に渡来して、「論語」・「千字文」を伝えた学者であり、後に帰化したとされており、その子孫は文筆をもって朝廷に仕えたといわれます。「博士王仁碑」の二基は、1940年(昭和15年)と1941年(昭和16年)に建立されました。

 博士王仁碑(0823)

・清水観音堂
天海僧正は上野の山に寛永寺を建立時に、天台宗の最高権威だった比叡山延暦寺をモデルとしました。
清水観音堂(国指定重要文化財)は、1631 年(寛永8年)に上野の山の中ほどの摺鉢山(東京文化会館西側の岡)に、京都の清水観音堂がモデルにして建てられた寛永寺の伽藍の一つです。本堂正面を舞台づくりとし、不忍池の景色を眺められるようにしました。

 舞台づくりの清水観音堂(0823)

その後の1694 年(元禄7年)に清水観音堂は、上野忍ケ岡にあった幕府学問所の焼失跡の現在地に移り、上野の山に現存する創建年次の明確な最古の建造物です。本尊は、比叡山の恵心僧都の作といわれる千手観音菩薩(国指定重要文化財)が祀られています。本堂は、安永年間に改築されたが、上野の戦争、大正大震災などいく度かの災火の難をまぬがれて残された、歴史をかいくぐった貴重な建物です。

 清水観音堂(左:花園稲荷神社方から見た観音堂、右:観音堂正面0823)

本堂内右手前には、座布団の上に「びんずる尊者」が御安置されており、昔からおびんずる様の体を触って、その手で自分の体を撫でると、病気が治って頭も良くなり、節々の痛みも軽くなるといわれ、深く信仰されています。また、堂内に掲げてある絵馬や額も寛政、天明期の古いもので、平家物語にちなんだ「盛久危難の図」「千手観音」などがあり、明治期の画家五姓田芳柳の描いた「上野戦争図」も人目をひきます。

清水観音堂の舞台の前には、江戸時代の浮世絵師、歌川広重が描いた名所江戸百景「上野清水堂不忍池」と「上野山内月の松」が、約150年振りに復活しました。

 歌川広重 名所江戸百景(左:上野清水堂不忍池1856年(安政3年)、右:上野山内月の松1857年(安政4年))

「月の松」は、明治初期の台風で消失したままとなっていたが、2013年1月17日に除幕式が行われ、3月には公園整備事業の一環として月の松の下にある桜を移設して、月の松から不忍池弁天堂が見えるように整えられました。

 清水観音堂と「月の松」(0823)

しかし、名所江戸百景の「上野山内月の松」の絵は、不忍池の中島弁財天に下りる石段の直線上にこの松があり、月の松の円形中に遠く本郷台の町並みを覗かせるという構図をとり、中島弁財天は右下に見えます。

 約150年振りに復活した「月の松」(0823)

なお、清水観音堂では、毎年9月25日は人形供養大法要が行われます。人形供養は、本堂右壇に御安置する「子育観音」に、人々が心願成就のお礼としてお子様の身代わりを奉納し御供養したことが始まりで、今日では心の安らぎを得たり愛情を注いできた人形を、報恩供養するようになったのが人形供養大法要で、人形を回向し供養の碑(Top写真参照)が建てられました。

 人形供養大法要施行の看板(0823)

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イベント 東京藝術大学大学美術館 鶯谷から上野まで古寺・古建築を巡り夏目漱石の美術世界展を見るその4

2013年08月25日 | イベント
kan-haru blog 2013 橋口五葉「吾輩ハ猫デアル」続編装幀画稿       

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夏目漱石の美術世界展(続)
・第3章 文学作品と美術「草枕」「三四郎」「それから」「門」
このコーナーでの展示絵画は、漱石の代表作の「草枕」「三四郎」「それから」「門」に登場する数々の漱石美術の世界の絵19点が見られました。
草枕(明治39年発表)」(←ここをクリック「青空文庫」)
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高こうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟とった時、詩が生れて、画が出来る。
与謝蕪村「山林曳駒図」18世紀(江戸)
与謝 蕪村は、享保元年(1716年) に摂津国東成郡毛馬村 (大阪市都島区毛馬町)に生まれ、20歳の頃江戸に下り早野巴人に師事し俳諧を学ぶ。松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の創始者で、写実的で絵画的な発句を得意とした、江戸時代中期の俳人、画家。

三四郎(明治41年発表)」(←ここをクリック「青空文庫」)
「ちょっと御覧なさい」と美禰子が小さな声で言う。三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪あたまで香水のにおいがする。絵はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛くしですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である。
「人魚マーメイド」
「人魚マーメイド」
頭をすりつけた二人は同じ事をささやいた。

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 「人魚」 1900年
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、1849年に両親共に画家でローマに生まれ、5歳のときに、ヴィクトリア&アルバート美術館の近くのサウス・ケンジントンに引っ越し、父・ウィリアムの元で学んでいました。初期の作品は、ローレンス・アルマ=タデマとフレデリック・レイトンに影響を受けた古典的なものでした。

 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 「人魚」 

それから(明治42年発表)」(←ここをクリック「青空文庫」)
父の御蔭おかげで、代助は多少斯道このみちに好悪こうおを有もてる様になつてゐた。兄も同様の原因から、画家の名前位は心得てゐた。たゞし、此方このほうは掛物の前まへに立つて、はあ仇英だね、はあ応挙だねと云ふ丈であつた。
円山応挙「花卉鳥獣人物図 山中乗馬図」1773年(安永2年)
円山応挙は、1733年(享保18年)に丹波国桑田郡穴太村(現・京都府亀岡市)の農家に生まれ、10代の後半には京へ出て、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家石田幽汀の門に入っている。1766年(明和3年)から「応挙」を名乗り「円山派」の祖であり、「写生」を重視した親しみやすい画風が特色である。

門(明治43年発表)」(←ここをクリック「青空文庫」)
父は正月になると、きっとこの屏風を薄暗い蔵くらの中から出して、玄関の仕切りに立てて、その前へ紫檀したんの角かくな名刺入を置いて、年賀を受けたものである。その時はめでたいからと云うので、客間の床とこには必ず虎の双幅を懸かけた。これは岸駒じゃない岸岱がんたいだと父が宗助に云って聞かせた事があるのを、宗助はいまだに記憶していた。この虎の画には墨が着いていた。虎が舌を出して谷の水を呑のんでいる鼻柱が少し汚けがされたのを、父は苛気にして、宗助を見るたびに、御前ここへ墨を塗った事を覚えているか、これは御前の小さい時分の悪戯だぞと云って、おかしいような恨しいような一種の表情をした。
岸駒「虎図」(「龍虎図」双幅のうち左幅) 19世紀(江戸)
岸駒(がんく)は、1756年(宝暦6年)に加賀国金沢(現、石川県金沢市)で生まれる。1784年(天明4年)有栖川宮家の近習となり、同家の御学問所の障壁画を描く。1806年(文化6年)に藩主の招きで金沢に赴き、二の丸御殿に障壁画を描いて故郷に錦を飾った。江戸時代の画家で迫力ある虎の絵を得意としていた岸派の祖である。

 左:与謝蕪村「山林曳駒図」、中:円山応挙「山中乗馬図」、右:岸駒「虎図」

・第4章 漱石と同時代美術
第4章からの展示室は大学美術館地下2階会場で、エレベータで降ります。

 夏目漱石の美術世界展地下2階展示会場

漱石は、1912年(大正元年)の「第6回文展」を見て、東京朝日新聞に「文芸と芸術」という批評をだしました。「文芸と芸術」は、「漱石の芸術論」、「文展日本画評」と「洋画・彫塑評」のタイトルで連載しました。このコーナーでは、「文芸と芸術」で記された関連の絵30数点が展示されていました。
「次の室の一番初めには二枚折の屏風があった。其屏風はべた一面枝だらけであった。夫が面白かった。」(「ゆきぞら」についての「文芸と芸術」の記述)
佐野一星 「ゆきぞら」 1912年(大正元年)
佐野一星は、1894年(明治27年)に京都に生まれる。1912 年(明治45年)に京都市立美術工芸学校卒業し、1915年(大正4年)に京都市立絵画専門学校卒業して研究科に進み,1917年に修了した。1912 年(大正元年)の第6回文展に美術工芸学校卒業作品の「ゆきぞら」が初入選して褒状となり、1915 年(大正4年)の第9回文展にも《雪の日》が入選した。

 佐野一星「ゆきぞら」

「此荒涼たる背景に対して、自分は何の詩興をも催さない事を断言する」と言いながらも、「それでも此画には奥行きがあるのである。さうして其奥行きは凡て此一疋の牛の、寂寞として野原の中に立ってゐる態度から出るのである。牛は沈んでゐる。もっと鋭く云えば、何か考えてゐる」(「うすれび」についての「文芸と芸術」の記述)
坂本繁二郎 「うすれび」 1912年(大正元年)
坂本繁二郎は、1882年(明治15年)に福岡県久留米市に生まれる。10歳になると、地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学び、高等小学校に上がる頃には、絵の腕前は相当なもので、「神童」と持てはやされた。1907年(明治40年)『北茂安村』が第1回文展に入選している。1912年(大正2年)第6回文展に出品した『うすれ日』は、夏目漱石が高く評価したことで知られている。1914年(大正3年)には二科会創立に参加。1921年(大正10年)に渡仏し、シャルル・ゲランに師事し、1924年帰国して教理で終生九州で制作を続けた。

 坂本繁二郎「うすれび」

・第5章 親交の画家たち
このコーナでは、漱石が書物などで知った作家・作品ともに、漱石本の挿画や装幀で親交の浅井忠、中村不折、橋口五葉などと、絵画の師の津田青楓および、漱石が晩年作品を愛した安井曾太郎らの絵画24点が展示されていました。
「津田君の画には技巧がないと共に、人の意を迎へたり、世に媚びたりする態度がどこにも見えません。一直線に自分の芸術的良心に命令された通り動いて行く丈です」
津田青楓 「桃源図」 1921年(大正10年)
津田青楓は、1880年(年)に華道家で去風流家元の西川一葉の息子として京都市中京区押小路に生まれ、はじめ四条派の升川友広に日本画を師事し、1897年に谷口香嶠に日本画を師事しました。1899年に関西美術院に入学し、浅井忠と鹿子木孟郎に日本画と洋画を師事しました。1907年から農商務省海外実業実習生として安井曾太郎と共にパリに留学し、アカデミー・ジュリアンにてジャン=ポール・ローランスに師事し、アールヌーヴォーの影響を受けました。1909年に帰朝し、1929年、京都市東山区清閑寺霊山町に津田洋画塾を開き、のち転向して二科会から脱退し、洋画から日本画に転じる。漱石に油絵を教えた他、漱石の『虞美人草』『道草』や森田草平の『十字街』などの装丁を手がけました。

 左:津田青楓「桃源図」、右:夏目漱石「あかざと黒猫」(第6章)

・第6章 漱石自筆の作品
このコーナでは、漱石子供の頃から絵を見るのが好きで、ロンドン留学中は息抜きに観劇と美術館通いをし、帰国後は門弟などに自作の水彩絵ハガキを送り、同時代の多くの画家たちと親交をもち、東西の美術についての知識と見識を養いました。1911年(明治44年)に、フランス帰りの青年画家・津田青楓と親交をはじめ、青楓宛ての手紙に、
「私は生涯に一枚でいゝから人が見て難有い絵を描いて見たい山水でも動物でも花鳥でも構わない只崇高で難有い気持ちのする奴を描いて死にたいと思ひます文展に出る日本画のやうなものはかけてもかきおたくはありません・・・・・・・
夏目漱石 「あかざと黒猫」1914年(大正3年)
庭のあかざの下で休む眼光鋭い黒猫で、胡麻油の鍋に落ちテラテラで漱石の原稿用紙に寝そべった漱石家三代目の猫である。熊か狸に見えるが、まわりの木賊もあかざも藍墨が軽やかに描かれている。(絵は第5章に併記参照)
夏目漱石 「山上有山図」 1912年(大正元年)
「行人」を連載始める時期に、漱石が南画風山水に凝りはじめた最初の作の一つで、青い二重の山のかなたに薄墨で高山のシルエットを配した構図はなかなかのものです。

 夏目漱石 「山上有山図」

・第7章 装幀と挿画
このコーナでは、近代様式製本の漱石本の装幀は、「吾輩ハ猫デアル」から「門」までは橋口五葉がてがけ、「こころ」「硝子戸の中」が漱石の自装で、「道草」「明暗」など晩年の作が津田青楓の装幀とわけられます。
橋口五葉 [装幀] 「行人」 1914年(大正3年)
表紙の部分が紙で、背を包む部分が皮で作られ、鳥や魚、植物の文様で描かれ、木版画部分は烏瓜と猫のモチーフにより、中央・南アジア風を出している。

 橋口五葉[装幀]「行人」

夏目漱石 [装幀] 「こゝろ」 1914年(大正3年)
「装幀の事は今迄専門家にばかり依頼してゐたのだが、今度はふとした動機から自分で遣って見る気になって、箱、表紙、見返し、扉及び奥附の模様及び題字、朱印、検印ともに、悉く自分で考案して自分で描いた」
扉絵も漱石が描き、岩陰に寄り添うように座り込んだ隠者が渦を巻く雲を眺めている。朱色の小篆(しょうてん)に「心」を添えている。

 夏目漱石[装幀]「こゝろ」(左:函の装幀原画、右:扉二の装填画稿)

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