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kan-haruの日記

イベント 江戸東京博物館 各派の江戸絵画作品を蒐集展示したファインバーグ・コレクション展その2

2013年07月31日 | イベント
kan-haru blog 2013 池玉瀾「風竹図扇面」      

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ファインバーグ・コレクション展(続)
・第3章 写生と装飾の融合 円山四条派
円山四条派は、江戸後期から京都で有名になった円山応挙を祖とする円山派と、呉春を祖とする四条派を合わせた呼び名です。
円山派は、江戸中期京都に興った円山応挙を祖とする画派で、琳派など日本伝統の装飾画法に、沈銓の写生画風や、西洋画の写実技法を加味して清新な画風を開いた。画家に長沢蘆雪、源、山口素絢らがいる。
四条派は、江戸時代中期頃、呉春(松村月渓)を祖とし、呉春が蕪村から学んだ文人画(南画)を基礎とし、応挙の写生画風を取り入れ、独自の形で発展させ四条派を作り上げ、弟子の岡本豊彦や松村景文らが発展させ、京都画壇の一大派閥となりました。
展示の「第3章 写生と装飾の融合 円山四条派」コーナーでは、円山応挙に共鳴して呉春と共に興した円山四条派は隆盛を極め、彼らの画家は物の形や実景を写す本質的なものでは無く、装飾的な効果を追いもとめたもので、これらの写実的な装飾絵画は、富を得た庶民層が生活空間の美化を実現する対象として願わしいものでした。
丹波国桑名郡の農家に生まれて、狩野派の石田幽汀に入門し絵の勉強を始め、30代で円満院門主祐の庇護を得て古画の模写に励むかたわら、人体その他の写生を行い画域を広げ、写実性と装飾性を融合した写生画を確立して全国に影響を与えた円山応挙(まるやまおうきょ)の「孔雀牡丹図」絹本着色1幅(前後期展示)は、36歳の作で大きな尾を上へ振り上げて後ろを振り返る、一羽のオスの孔雀が描かれています。

 円山応挙「孔雀牡丹図」(江戸時代/ 1768年(明和5年))

呉春(ごしゅん)は京都金座の役人の家に生まれ、大西酔月に画を学び、後に与謝蕪村の門人となって俳諧と画を学びました。寛政元年ころ円山応挙に接近し、蕪村風の南画様式に円山派の画風を取り入れて、感情ある画風を確立しました。呉春とその一門の多くが四条付近に住んいたので四条派と呼ばれています。左幅には上部に月のかかった梅樹が右下へと枝を下ろし、右幅では下から上へと真っ直ぐに伸ばした梅の枝に雪が積もる風景を描いています。

 呉春「雪月花図」(江戸時代/ 19世紀)

森狙仙(もりそせん)は大阪に生まれ、狩野派の勝部如春斎の門人となり、猿や鹿の観察に励み動物の写生で写実的画風を確立しました。「滝に松樹遊猿図」紙本淡彩2幅対(前後期展示)は還暦以降の作で、左幅では画面左下から立ち上がる大きな松の枝先で5頭の猿がさまざまな姿態を見せている。右幅には左幅から伸びる松枝の一部と背後の滝のみが描かれた構図である。

 森狙仙「滝に松樹遊猿図」(江戸時代/ 19世紀)

・第4章 大胆な発想と型破りな造形 奇想派
徳川幕府の武家支配の時代にあっては、現状を保守する姿勢こそが正しくて、革新を求める態度は危険視され、忌避されました。美術界にあっても同様に、武家に寄生する権威的な存在は、新たな画風の展開に消極的でした。一方で経済的な力を増した庶民層は、自分たちの文化や美術を育てるようになり、斬新な個性の登場を待望するようになり、大胆な発想、表現上では従来試みなかった型破りな造形を、積極的に歓迎されました。
江戸の狩野派中枢に反発した狩野山雪や、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪らの画家はみな、文化的な環境の京都に活躍し、次代の主流となっていた保守的な美術思潮に異を唱え、反発して、奇想に発した個性的な造形は、今日、正統的な創造として高く評価されています。
伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)は、京都錦小路に面する青物問屋に生まれ家業を継いで、40歳で隠居して画業に没頭し、約10年間かけて製作した「動植綬絵」30幅の代表作がある。「菊図」紙本淡彩3幅対(前後期展示)は1幅ずつ異なる菊を描き、右幅は上へと伸びる茎が懸垂し先端は細い線で1枚1枚の花びらを描いた花房を付けている。左幅では上へと伸びる茎に大きな花びらの花を付けている。両画とも花びらの輪郭を墨線で描き、内側は彩色せずに紙の白色を活かして花房部を浮き上がらせています。中幅の背景も暗くして上へと真っ直ぐに伸びる3種類の菊を描いています。

 伊藤若冲「菊図」(江戸時代/ 19世紀)

葛蛇玉(かつじゅぎょく)は大阪の浄土真宗の寺・玉泉寺の四代目・宗琳の次男として生まれ、鯉の絵を得意としたため「鯉翁」と呼ばれ、江戸時代中期の絵師である。「鯉図」絹本着色 1 幅(前後期展示)は、左右に迫る土手の水面に桜の花びらが5枚浮かび、水中に泳いでる鯉の先の花びらを飲もうとして、体をよじっている構図の画です。

 葛蛇玉「鯉図」(江戸時代/ 19世紀)

曾我蕭白(そがしょうはく)は京都の商家に生まれ、家業をやめて絵師になり高田敬輔に師事し、刷毛などを使った大胆な筆使いと奇抜な構図の作品を描きます。「宇治川合戦図屏風」紙本着色6曲1隻(前後期展示)は、「平家物語」の一節で中央の武士は梶原源太景季で跨る馬は源頼朝より授かった名馬磨墨である。右の馬も同じく頼朝より授かった名馬生唼に跨る武士は佐々木四郎高綱である。

 曾我蕭白「宇治川合戦図屏風」(江戸時代/ 18世紀)

長沢蘆雪(ながさわろせつ)は淀藩士の上杉和左衛門の子として生まれ、円山応挙に弟子入りする。各地に出向き障壁画を残し、大胆な筆致の水墨画や彩色画を多く残す。左の「梅・薔薇に群取図」1幅(前期展示)は、咲き誇る梅と薔薇の枝に鸚哥、ほおじろ、雀など34羽の鳥が集まっている。右の「藤に群雀図」1幅(前期展示)には左下から伸びる藤の蔓に17羽の雀が描かれています。

 長沢蘆雪 左:「梅・薔薇に群取図」、右:「藤に群雀図」(江戸時代/ 18世紀)

・第5章 都市生活の美化、理想化 浮世絵
桃山時代から江戸時代初期に京都で流行した風俗画は、やがて新しい権力の所在地になった江戸にその場を移し、浮世絵という新しいジャンルによって受け継がれていくことになります。 浮世絵は木版による版画を表現手段として大衆化していきますが、絵筆で一点一点制作するいわゆる肉筆画も、一部の富裕層に好まれ、盛んに描かれたものでした。遊郭や芝居小屋など遊興の地に取材して、都市生活の華やぎを美しく理想化して表す一方で、説話や物語、あるいは芸能で親しい故事人物も描いています。
礒田湖龍斎(いそだこりゅうさい)は、神田小川町の旗本土屋家の浪人で両国薬研堀に住居する。明和前期より鈴木春信風の美人画を描き,柱絵にもすぐれた構図感覚をみせた。安永期には重厚感ある独自の美人画風を確立し、錦絵に大判サイズを定着させた。安永末ごろに法橋に叙せられ,以後は肉筆画に専念した。「松風村雨図」絹本墨画金泥3幅対(前後期展示)は、中央に平安時代に須磨に蟄居を命じられた在原行平を貴族の装束で描き、左右に行平に恋した須磨の美人姉妹を描いた作品です。

 礒田湖龍斎「松風村雨図」(江戸時代/ 18世紀)

歌川広重(うたがわひろしげ)は江戸の定火消同心の武家に生まれ、歌川豊広に入門して浮世絵師になり、天保期に名所絵で世間に認められ、「東海道五拾三次之内」や「名所江戸百景」hざ代表作である。「墨田河畔春遊図」1幅(前期展示)は、遠景の筑波山と、桜の季節の隅田川の渡し場付近を描き、簡単な屋根と腰掛がが描かれているが、名物の草餅を食べさせる茶屋である。

 歌川広重「墨田河畔春遊図」(江戸時代/ 19世紀)

葛飾北斎(かつしかほくさい)は江戸に生まれ、勝川派の勝川春草に入門し、後に勝川派を離れ肉筆画、挿絵、絵手本、錦絵と勢力的に活躍した。「北斎漫画」、「富嶽三十六景」シリーズは世界的に評価されている。「源頼政の鵺退治図」絹本着色1幅(前後期展示)は「平家物語」で語られる「鵺退治」に武将源頼政が弓を引いている姿を描いたものです。

 葛飾北斎「源頼政の鵺退治図」(江戸時代/ 19世紀)

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