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kan-haruの日記

イベント 大戦前は山手随一の盛り場神楽坂 花街風情の粋な三味の音と唄を肴に異業種交流会の忘年会

2012年12月31日 | イベント

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H11メトロの忘年会
今年の異業種交流会H11メトロの忘年会は、江戸時代に「牛込花街」として開かれ、明治以降に「山の手一のにぎわい」として発展した、歴史ある神楽坂の本多横町を入って直ぐの「味扇」本店で12月12日午後6時から開催しました。

 粋な黒塀の街神楽坂周辺地図(地図拡大図)

神楽坂の歴史
神楽坂の江戸時代の古地図(見方参照)を見ると、現在地図の神楽坂通り、神楽坂仲通り、本多横町や軽子坂の通りが見られ、毘沙門天善国寺、行元寺が表示されています。

・神楽坂の江戸時代の古地図見方
(1) 日経BP古地図 日経BP > L-Cruise > 特集:大人の江戸散歩>14 神楽坂の今と昔―古地図で歩く東京 のページ内の江戸絵図(1859年)頃の神楽坂画像←をクリック
(2) goo古地図 地図 > 古地図 > 江戸(切絵図)一覧 > 12-1小石川公園・飯田橋駅周辺の礫川牛込小日向-1画像←をクリック


江戸時代、大老坂井忠勝が坂上の矢来町に屋敷を構えた1628年(寛永5年)頃、坂下には江戸城の外濠である牛込見附が完成して、坂上と坂下を結ぶ大老登城道が造られ、その沿道は武家屋敷として地割りされ、これがほぼ現在の「神楽坂通り」です。当時の坂は「坂道」ではなく、「階段」でした。

 江戸名所図絵神楽坂

毘沙門天善国寺は、1595年(文禄4年)麹町6丁目で創建されて、1792年(寛政4年)火災にあい現在地に移転してきて、「神楽坂の毘沙門様」として江戸時代から信仰を集め、親しまれてきました。本堂の隣が毘沙門堂で「山手七福神」、江戸3毘沙門の一つです。

 毘沙門天善国寺(街画ガイド神楽坂・飯田橋駅周辺から)

今のような坂道になったのは明治時代に入り武家屋敷が撤去され、神楽坂が町人の街になった後の、1877年(明治10年)頃のことです。当時の神楽坂は、硯友社の文人尾崎紅葉、山田美妙、広津柳浪らの面々がよく花柳界に姿を見せ活動する場であり、早稲田大学の学生らの町でありました。
1895年(明治28年)に、甲武鉄道牛込停車場の開設をきっかけに、神楽坂周辺は商店街や住宅地として急速に発展し、百貨店も軒を連ね、明治時代後期には牛込区第一の繁華街となりました(明治期の神楽坂 新宿区観光協会から)。
大正時代には花街として栄え、裏通りに入ると今もその面影を残し、芸者の歩く姿も見られ、住宅街と料亭・レストランが渾然一体と化しており、生活感と趣のある町並みが情緒を感じさせています。1923年(大正12年)の関東大震災では、高台にあった町は無傷で残りました。大正から昭和の初期にかけて新しい東京の盛り場として賑わい、「山の手銀座」と呼ばれました。善国寺周辺は、縁日の夜店が人気で、東京における夜店の元祖でありました。昭和に入り、神楽坂は花柳界の最盛期を迎えます。新旧2軒の見番があり、料亭が166軒、600人を超える芸妓さんがいたようで、その花街の活気は「芸者新道」という通りでした。1935年(昭和10)年代までは東京随一の繁華街でした。その後、渋谷、新宿、池袋がターミナル化して神楽坂は、繁華街としては地盤沈下しました。

 神楽坂通り今昔(左:昭和初期の神楽坂、右:2006年頃の神楽坂←クリックすると拡大します。東京理科大学報第161号から)

1945年(昭和20年)の東京大空襲により、神楽坂の町は全焼しましたが、東京物理学校(東京理科大学の前身)は空襲で、学生が体を張って延焼防止に努めたので、校舎は焼け残り、焼け出された神楽坂芸者衆の避難所になったとの記録が記事6面に残っています。(東京理科大学報 第161号 (2006年06月30日号)PDF版から)。

 神楽坂大空襲で住民避難の6面記事

注:東京理科大学 1881年(明治14年) に前身の「東京物理学講習所」を創設、2年後に東京物理学校に改称し、1906年(明治39年) に神楽坂2丁目24番地に新校舎を竣工し移転、1915年(大正4年) に財団法人東京物理学校設立し、学生改革により1949年(昭和24年) に東京理科大学になりました。H11メトロメンバーのSさんの出身校です。

空襲により焼け野原となった神楽坂は、戦後の復興は容易ではなかったようですが、1925年(昭和30年)代には再び最盛期を迎えました。多くの鉄鋼業界の権力者や政治家が神楽坂の料亭を利用したようです。
現在では、料亭が9軒、芸者さん30人になってしまい、その面影も薄れてきていますが、ここ神楽坂には表通りの賑やかな商店街だけではない、色々な顔を持っています。花街時代の趣の残る料亭街や表通りとは一味違う横丁商店街や飲食店街、古くからの出版社や印刷関係の会社、オフィスエリア、そして閑静な住宅街。この多面性と温かさ、懐の深さはここ神楽坂の歴史と文化が育んだものだと思います。

 神楽坂(:神楽坂通り、:本多横町 街画ガイド神楽坂・飯田橋駅周辺から)

味扇
花柳界の町ですから、昔は三味線が流れて常磐津や新内が流れる町でした。今回の忘年会は、神楽坂の文化に触れたいとの思いで、江戸時代には本多修理の武家屋敷跡の本多横町の味扇本店(東京都新宿区神楽坂3-2)で、女将の三味線と店の子の唄う長唄・民謡などを味わいました。

 味扇本店(:味扇本店は本多横丁を入った右手2軒目、:味扇は三味線と唄の演奏を披露しています)

H11の忘年会の参加者は10名ですので、奥の掘り炬燵式カウンター席となり、華やかな和服姿の3人の女性に迎えて貰い花街の粋が目覚め、旬の味の料理と各種の酒に酔い心が和みました。

 至福の忘年会宴席(左上:和服姿の女性、中上右上:忘年会の参加者、左下中下右下:料理) 

三味線ライブ
・長唄 越後獅子
唄と三味線 越後獅子


動画をご覧頂けない方は、「唄と三味線 越後獅子」(←をクリック)すると別画面で掲示されている動画でご覧いただけます。Ⅱ版2014.8.7

・茨城民謡 磯節

三味線弾き語り 磯節


動画をご覧頂けない方は、「三味線弾き語り 磯節」(←をクリック)すると別画面で掲示されている動画でご覧いただけます。Ⅱ版2014.8.7

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