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kan-haruの日記

イベント 東京藝術大学大学美術館 興福寺創建1300年記念の東金堂名宝の仏頭と十二神将像を観賞その2

2013年12月06日 | イベント
kan-haru blog 2013 銅造仏頭

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伽藍の仏像
興福寺は何度も火災に遭い、1180年(治承4年)の治承焼失では多くの建物や仏像が失われましたが、焼失の都度復興計画をたて諸堂の再建が進みました。しかし、西金堂、南大門、講堂は治承焼失後の1717年(享保2年) の焼失以降は再建されませんでした。さらに、明治時代初期の神仏分離・廃仏毀釈でも食堂が取り壊されたほか、仏像を含む多くの寺宝が流出しました。1959年(昭和34年)に境内に国宝館が完成し、安置堂宇を失った仏像などは同館で保管・公開されています。

・中金堂の仏像
中金堂は1717年大火で焼失後、1819年(文政2年)に寄付付により、仮堂として再建されました。仮堂は老朽化が進み、1974年(昭和49年) に薬師寺の旧金堂を中金堂裏手に移築して仮金堂として、文政再建の中金堂はその後取り壊されました。
仮金堂には、中央には尊釈迦如来坐像(1811年(文化8年)作)、その左右にはヒノキ材の寄木造の薬王・薬上菩薩立像(1202年(建仁2年)作)、須弥壇四隅にはもとは南円堂にあったヒノキ材の寄木造の四天王立像(1189年(文治5年)作)が安置されています。

・西金堂の仏像
1717年(享保2年) の焼失以降は再建されなかったかっての西金堂には、興福寺曼荼羅図によると中心に釈迦如来像、両脇侍像、八部衆像、十大弟子像、四天王像、金剛力士像一対、金鼓と婆羅門像、十一面観音像、羅睺羅像が安置されていました。
鎌倉復興期の像で現存するものは、乾漆造の八部衆像(734年(天平6年)作 五部浄像、沙羯羅像、鳩槃荼像、乾闥婆像、阿修羅像、迦楼羅像、緊那羅像、畢婆伽羅像)、乾漆十大弟子立像のうち6躯(734年(天平6年)作 舎利弗、目犍連、須菩提、富楼那、迦旃延、羅睺羅)、ヒノキ材の寄木造金剛力士像2躯(1288年(正応元年)作)、ヒノキ材の寄木造天灯鬼・龍灯鬼像(1215年(健保3年)作)、木造仏頭と仏手2箇(1189年(文治5年)頃作 本尊釈迦如来像の頭部と推定)、木造飛天8躯・化仏3躯(1189年(文治5年)頃作 本尊釈迦如来像の光背に附属していたものと推定) が国宝館に安置されています。

 西金堂の仏像(左から 1:乾漆八部衆立像のうち五部浄像、2:八部衆のうち畢婆伽羅(左)と沙羯羅(右)、3:阿修羅像、4:乾漆十大弟子立像のうち富楼那 興福寺の仏像Wikipediaから)

・北円堂の仏像
当初の安置仏は弥勒仏像、両脇侍像、羅漢2体、四天王像の9体でありましたが、治承の兵火により安置仏は焼失しました。現存する北円堂は、堂内中央部を8本の柱で囲まれた須弥壇の中央に本尊の木造弥勒仏坐像(1212年(建暦2年)頃作)、その左右に脇侍の法苑林菩薩坐像と大妙相菩薩坐像を安置され、本尊の後方左右には木造無著・世親立像(1212年(建暦2年)頃作)が立ち、須弥壇の隅には四天王立像4体(791年(延暦10年)作 持国天、増長天、広目天、多聞天)が各々外側を向いて立っています。

 北円堂の仏像(左から 1:木造弥勒仏坐像、2:木造無著立像、3:木造世親立像、4:木心乾漆四天王立像のうち持国天 興福寺の仏像Wikipediaから)

・南円堂の仏像
現存する建物が再建したのは1789年(寛政元年)であります。南円堂の内部は、中央部を8本の柱で囲まれた須弥壇とし、中央に木造不空羂索観音坐像(1189年(文治5年) 作)、その周囲に四天王立像4体(鎌倉時代)を安置しています。他に法相六祖坐像6体(1189年(文治5年) 作 常騰像、神叡像、善珠像、玄像、玄賓像、行賀像)がありましたが、国宝館に移されています。

 南円堂の仏像(左から 1:木造不空羂索観音坐像、2:木造法相六祖坐像のうち伝・玄、3:木造法相六祖坐像のうち伝・常騰、4:木造法相六祖坐像のうち伝・行賀 興福寺の仏像Wikipediaから)

・東金堂の仏像
東金堂は、1180年(治承4年)の平重衡の兵火を含め5回焼失し、その都度再建されており、現存する東金堂は1415年(応永22年)の建立されたものです。1185年の東金堂再建後には、
仏像の復興は進まず、1187年(文治3年)に東金堂衆らが飛鳥の山田寺に押し入り、同寺講堂本尊の金銅薬師三尊像を強奪してきて、興福寺東金堂の本尊に据えるという事が起きました。その後、1411年(応永18年)の火災で両脇侍像は持ち出されたが、薬師如来像は搬出できず、頭部だけが焼失をまぬかれました。この薬師如来像頭部「仏頭」(685年(天武天皇14年) 飛鳥時代後期 作)は、再建された東金堂の本尊像の台座内部に納められていました。仏頭の発見は、1937年(昭和12年)の解体修理中に発見されました。山田寺は、大化改新で活躍した蘇我倉山田石川麻呂が建てた寺で、本尊薬師如来像は石川麻呂の冥福を祈って造られた像です。
現在の東金堂には、須弥壇中央に本尊の銅像「薬師如来坐像」、とその左方に脇侍の「伝・日光菩薩立像」、右方に脇侍の「伝・月光菩薩立像」(1415年(応永22年) 作)が安置され、薬師如来像と日光菩薩像の間には木造「文殊菩薩坐像」(鎌倉時代 作)、薬師如来像と月光菩薩像の間には木造「維摩居士坐像」(1196年(建久7年) 作)を安置し、これら諸仏の間には薬師如来を守護するヒノキ材の寄木造「十二神将立像」(鎌倉時代 作)12体(宮毘羅、伐折羅、迷企羅、安底羅、頞儞羅、珊底羅、因達羅、波夷羅、摩虎羅、真達羅、招杜羅、毘羯羅が立ち、須弥壇の四隅には木造「四天王立像」(平安時代初期 作)が立っており、「国宝興福寺仏塔展」に展示されています。

 東金堂の仏像(左:東金堂内の諸仏、中:銅造薬師如来像、右:木造文殊菩薩坐像 興福寺の仏像Wikipediaから)

・その他の仏像(国宝)
旧食堂本尊の木造「千手観音立像」(1229年(寛喜元年)頃 作)で、1907年(明治40年)の修理時に、像内から多数の納入品が発見されました。納入品の主なものは五輪塔形板、銅鏡、金銅仏、経巻、摺仏などで、国宝館に所在します。
江戸時代に旧東金堂にあったヒノキの一枚板に浮彫「十二神将像」12面(11世紀後半 作)は国宝館に所在し、「国宝興福寺仏塔展」に展示されましたので、後節の「興福寺仏塔展」で説明します。

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