goo blog サービス終了のお知らせ 

K&A

kan-haruの日記

風景・風物詩(B13) 箱根駅伝 第83回東京箱根間往復大学駅伝競走

2007年01月06日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

箱根駅伝
年明け初春の1月2日と3日は、住まいと目と鼻の先の第一京浜国道を恒例の箱根駅伝が通り、沿道に大勢の応援者が新聞社の配る小旗を振って声援する情景は、大森町に住んで久しく続く年中行事の風物詩であり、力走する選手を見て正月を迎えたことを実感するのです。
箱根駅伝は、「東京箱根間往復大学駅伝競走」と云う長い名前で呼ばれ、第83回を迎えております。コースは、大手町をスタートして、鶴見、戸塚、平塚、小田原の中継所を経て箱根町芦ノ湖までの往復217.9kmを10人でタスキをつなぐ駅伝競走であり、20校が出場して母校の名誉を賭け、上位10位までのシード権を争います。

駅伝の出場資格は、シード権を獲得した10校が次の年は無条件に出られ、毎年10月に行われる予選会の成績が6位以内と、予選会7位以下はアドバンテージタイムを加味した3校の出場と、予選会を通過できなかった大学の記録上位者を中心に結成した関東学連選抜で争われる競技です。今回、予選会10位拓殖大学は、9位の国士舘大学との最終総合タイム差が、僅か1秒で涙を呑んだ熾烈な争いでした。

明治大学の箱根駅伝
母校の明治大学は、今回予選会6位で出場資格を果たしました。明治大学は、過去50回の出場で7回優勝しておりますが、優勝は第2,5,6,9,10回の箱根駅伝初期時代と、戦後復活した第23回(1947年)と翌々年の第25回だけの古豪でしたが、近年は全く奮わず第68回(1992年)から第80回(2004年)までは予選落ちの不甲斐無さでした。
近年の復活に向けて強化策が徐々に実りつつあり、第81、82回の箱根駅伝では18位の成績でしたが、今季は全日本にも初出場し、第83回ではシード権を目指しての参加です。

往路の応援
箱根駅伝の往路は、2日8時に大手町の読売新聞社本社横をスタートし、大森町付近には8時40分頃通過の予定です。明治大学校友会城南支部の応援団が、梅屋敷傍の大田区体育館脇(スタート点から大田区体育館まで地図参照)で応援するので、応援に行きました。
例年の箱根駅伝では、大森町付近は殆ど一団となって駆け抜けて行きますが、今回は東海大の佐藤悠基選手が早くから飛び出して大田区体育館付近では独走し、それに続いて東洋大の大西智也選手が追走し、他チームは3位集団でけん制し合う展開でした。
鶴見中継所では、佐藤選手は1時間1分6秒の区間新記録のタイムで2位に4分1秒の差をつけてリレーしました。

・・・・・・箱根駅伝広報車・・・・・・・・・・・15キロ地点・・・・・・・・・・明大応援団(写真拡大)

・・・・・・独走の東海大佐藤悠基選手・・・・・・・大田区体育館前を駆け抜ける選手団

往路の争いは、5区の中継所でトップの東海大との差が4分9秒差の5位で中継した、山登りの神様と呼ばれる順大の今井正人選手が、4位早大、3位日大、2位東洋大と次々に抜き、16キロで東海大の石田和也選手に追いつき、ゴールでは2分34秒差の区間新記録で往路を制しました。
明治大学の成績は、鶴見中経所で石川卓也選手は1時間5分52秒の16位で、2区岡本直己選手にリレーし区間9 位の1時間9分24秒で10位に浮上し、シード権の期待が持てました。次の3区池辺稔選手の区間15位の1時間5分42秒で13位に、4区東野賢治選手の区間18位の58分16秒で14位に後退しましたが、しかし、5区の尾籠浩考選手が区間2位の1時間20分39秒で頑張り、11位を取り戻しました。

これにより、7位の駒大から14位の中大まで2分14秒差で、シード権の確保は復路の争いとなりました。(第83回東京箱根間往復大学駅伝競走往路記録)

復路の応援
3日の復路は、第一京浜国道の大森町駅付近(鶴見中継所から大森町まで地図参照)で応援をしました。
往路優勝の順大が総の厚さを見せ、9区長門俊介選手が区間1位、10区の松瀬元太選手が区間新記録で11時間5分29秒の総合優勝を果たしました。2位の日大は、箱根を5位でスタートして、アンカーの阿久津尚二選手が残り1キロの地点で東海大を抜き、15年振りに順位を上げました。
シード権争いは、14位スタートの中大が9、10区の2選手の活躍で23年連続のシード権を守りました。昨年優勝の亜大は、13位でのスタートで、6区で15位に後退したが、8、9区と頑張りすれすれで10位に食い込みました。

・・・・・日大阿久津選手・・・・・・山梨学院・中央学院競合い・・・・・・国士大黒崎選手

・校旗応援もシード権成らず・・・・・・・大森警察署付近を通過する中継車と付随車

明治大学の成績は、残念ながら6区で中村智春選手が10位に上げましたが、7区安田昌倫選手が12位、8区中門健選手が14位、9区村上選手が15位、10区藤田秀之選手で総合16位の11時間27分57秒でした。(第83回東京箱根間往復大学駅伝競走復路記録総合記録)
明大の西弘美監督は、「今はこれが精いっぱいの力。箱根に復帰して3回目。少しずつ体で覚えて、ジャンプアップできるチーム作りをしていく」と報道陣に語っております。
12年間の不出場のギャップがあるのですから、時間を掛けて精進し古豪を取り戻したいものです。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(12月分掲載Index前へIndex後へ)
カテゴリー別Index 風景・風物詩総目次
<前回 風景・風物詩(B12) 師走の風物詩 羽子板市 浅草寺 へ
次回 風景・風物詩(B14) 初詣風物詩 川崎大師平間寺 へ>

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B12) 師走の風物詩 羽子板市 浅草寺

2006年12月20日 | 風景・風物詩
毎年、12月17日から19日の3日間、浅草観音様の境内で羽子板市が開かれます。
17日は、たまたま日曜日に当たりましたので、昼下がりに羽子板市を見に行きました。今年はこれで、浅草にはほおずき市(「風景・風物詩(B2) 夏の風物詩 浅草ほおずき市 その1~2」参照)、浅草サンバカーニバル(「風景・風物詩(B7) 夏の風物詩 浅草サンバカーニバル」参照)の都合3回目の見物となりました。

浅草は、有数の観光地でありますので、羽子板市のようなイベントと重なると大変な人出です。大森町からは、直通の都営地下鉄線で浅草駅を降りると、雷門までは人の列で切れ目がありません。
正面に「風神」・「雷神」を、仲見世側に「天竜像」・「金竜像」を安置されている馴染みの雷門を潜ると、仲見世のすぐ傍のコーナーで漫画家・芸能人による手書き羽子板30点を展示し、売上金を新潟中越地震被災者へ寄贈するチャリティー羽子板オークションを行っておりました。

羽子板市
仲見世通り は、観音様のお参り と羽子板市を見る人で大変混雑しておりました。
江戸中期頃は、正月用の歳の市は浅草に限られ、浅草寺の縁日は18日でありますので、17、18日両日は歳の最後の縁日として大変な賑わいがあり、この歳の市では羽子板も売られておりました。
この羽子板市の始まりは、今からおよそ300年以上も前の、江戸時代初期の1658年(万治年間)頃と伝われております。

花鳥風月や殿上人、左義長(女の子の初正月祝に、相手の家紋を付けた飾り羽子板を贈る風習があり、金銀箔などで精巧な細工をこらしたもの)を描いた羽子板は、江戸時代後期には、歌舞伎の興隆とともに、役者絵を押絵に用いて取りつけるようになり、人々は自分の 贔屓役者の羽子板を競って買い求め大変な人気があったようです。
明治時代に入り、歌舞伎黄金時代が到来し、九代目団十郎・初代左団次・五代目菊五郎などの名優が登場押し絵や押絵羽子板が江戸工芸・東京の職人芸として完成しました。
羽子板には、観賞用の絢爛豪華なものと、実際に遊ぶための簡素なものとがあり、以前には羽根つきは新春の遊びとして親しまれ、女の子の間で盛んに行われていました。

日本の伝統芸術となった押絵羽子板は、スターのブロマイドの役割をした役者の似顔絵のついたものから、 初正月のお祝いとして贈られた日本舞踊をテ-マとしたものまで様々ですが、今年の羽子板市には話題の人「ハンカチの王子」で親しまれた、早稲田実業の斉藤佑樹投手の羽子板が登場しました。

「ハンカチの王子」羽子板

羽子板市の出店
浅草観音様の境内には、江戸時代のままの情景が展開し、出店は仲見世商店街から宝蔵門付近、宝蔵門から五重塔前付近と宝蔵門から二天門前付近に出店の問屋、小売店、製造元の三者50店が揃い、境内いっぱいの人の波でした。それぞれの出店では、特徴有る押絵羽子板を販売しておりました。

・・・・左写真クリックで拡大・・・・中写真クリックで拡大・・・・右写真クリックで拡大


・・・・左写真クリックで拡大・・・・中写真クリックで拡大・・・・右写真クリックで拡大

また、羽子板市の出店には、カラフルで綺麗な様々の羽根(羽根売店1店2店3店4)が売られており、結構売れておりました。

17日の午後は、風もなく暖かな日に恵まれ、境内の大いちょう の黄葉もまだ散らずに、傍らの沢山の食べ物の出店には、おでんで酒やビールを楽しむ客で込んでおりました。いちょうの木の下では、昔懐かしい「のしいか」やさんの店まで出ており、タイムスリップを味わいました。当にこの光景は、下町である浅草ならでの風情で羽子板と共にノスタルジアに誘われました。

羽子板を飾りつけている、さまざまの出店を一通り見ましたので、ますます込み合ってきた仲見世通りを避けて、仲見世の裏通りを雷門まで辿りました。
雷門の真横にある、和紙・江戸小物・浮世絵など和風雑貨の店の黒田屋本店(店内売り場)で買い物を済ませて出ると、三つ角の浅草文化観光センターのカラクリ時計が金龍踊りを奏でておりました。

江戸時代の羽子板市に触れましたので、久方振りに1801年に創業した「駒形どぜう」に足を延ばし(当日の駒形江戸通りのいちょう並木風景)て、初代が始めたどぜう鍋・どぜう汁を味わい、半日を昔に戻り心和む時を過ごしました。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(11月分掲載Index前へIndex後へ)
<前回 風景・風物詩(B11) 冬の風物詩 義士祭 泉岳寺 へ
次回 風景・風物詩(B13) 箱根駅伝 第83回東京箱根間往復大学駅伝競走 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B11) 冬の風物詩 義士祭 泉岳寺

2006年12月18日 | 風景・風物詩
泉岳寺
12月14日は、大石内蔵助良雄以下の赤穂浪士四十七士が、吉良屋敷に討ち入りして、吉良上野介を討ち果たし、その首を泉岳寺の主君浅野内匠頭の墓前に捧げた討ち入りの日です。
浪士たちは四大名家へお預けとなり、幕府は武士としての体面を重んじた上での切腹を命じ、1703年(元禄16年)2月4日、46人の赤穂浪士はお預かりの大名屋敷で切腹となり、泉岳寺に葬られました。46人が泉岳寺に着いたのは、門前で加盟者のうちただ一人の足軽寺坂吉右衛門を逃がし、ゆかりの者に報告させるためなのです。

泉岳寺(東京都港区高輪2-11-1)は、萬松山・曹洞宗江戸三箇寺で1612年(慶長17年)の江戸幕府初めに外桜田の地に創立されましたが、1641年(寛永18年)の寛永の大火により焼失し、将軍家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名により、現在の高輪の地で再建されました。ご本尊は、釈迦如来が祀られております。

殿中刃傷事件を起こした浅野長矩公の墓は、1701年(元禄14年)に建立され、討ち入りをした赤穂義士は1703年(元禄16年)に主君の墓側に葬られております。
泉岳寺では、毎年討ち入りの日は旧暦12月14日(15日未明)でありますが、新暦の12月14日に義士祭を催しております。

雨の義士祭
12月14日の午後6時頃、10数年振りに日本人の心に沁みた年末の風物である夜の義士祭の泉岳寺(地図航空写真参照)に行ってみました。
泉岳寺へは、大森町からは京浜急行電鉄の北端の泉岳寺駅まで直通で行けます。泉岳寺駅は都営地下鉄浅草線(1号線)との合流駅で、押上駅まで都営、京成電鉄、北総鉄道、芝山鉄道と相互乗り入れしております。
泉岳寺駅に着いた頃雨が降り出し、小雨でしたが門前や境内は屋台(風景)が連なり、人出で賑わっておりました。14日の義士祭の日に限り泉岳寺の閉門時間は、22時となっております。

泉岳寺義士祭典修行は、11時に浅野長矩公之墓所で墓前供養を行い、12時に東阿部流献茶式と義士追善供養が本堂で行われますが、一般には非公開です。
泉岳寺駅前の道の坂を上がったところに中門があります。中門は、1836年(天保7年)に再建されたもので、1932年(昭和7年)に大改修されたとあります。中門を潜り先に進むと1832年(天保3年)に再建されたと云われる山門があります。山門の「泉岳寺」の額は、大野約庵の書です。山門を通ると境内には、沢山の屋台が並んでおります。
本堂は、第二次世界大戦の空襲で焼失、1953年(昭和28年)に落成した鎌倉様式の建築です。本堂の「獅子吼」の額(トップ写真)は、「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことです。

中門

泉岳寺の義士の墓に通じる道沿いには「主税の梅」「血染めの梅」「瑶池梅」などと名づけられたウメが、今に義士の忠誠を伝えております。
「主税梅」は、1703年に大石主税が松平隠岐守三田屋敷に於ける切腹の書院前庭の梅です。「血染めの梅」は浅野長矩公が田村邸で切腹を命ぜられ、磯田源太夫が介錯の時、血潮がほとばしって傍らの庭石と梅にかかったと言われます。明治39年に田村家移転の時、泉岳寺に移植されたものです。「瑶池梅」は義士の墓守りをした妙梅尼が瑶泉院(浅野長矩公夫人)から頂いた鉢植の梅を地におろしたものでこの名が付けられていると云われております。

首洗井戸は、吉良上野介の首をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから呼ばれております。
義士の墓に通じる道には、四十七士墓所の門があり、浅野家の鉄砲洲上屋敷の裏門を移築したと云われてます。
四十七士墓所には、お線香を手向けるため購入しましたが、小雨の中多くの人がお線香を上げる行列しており、待ちの時間がかかりそうなので諦めてお墓の入り口にお線香を上げて戻りました。

帰り道の参道のお土産やさん は、久しぶりで懐かしいので覗いて、昔懐かしい飴を買って帰路につきました。


毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(11月分掲載Index前へIndex後へ)
<前回 風景・風物詩(B10) 秋の風物詩 酉の市 大森鷲神社 へ
次回 風景・風物詩(B12) 師走の風物詩 羽子板市 浅草寺 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B10) 秋の風物詩 酉の市 大森鷲神社

2006年11月09日 | 風景・風物詩
11月4日は、酉の市で夕食前にJR大森駅(「イベント(7) 大森駅開業130周年(その1~3)参照」)近くの大森銀座商店街通りにある大森鷲神社(東京都大田区大森北1-15-12 地図参照)に行ってきました。
大森町の自宅からは、大森駅まで京浜急行バスで行き、大森銀座商店街には18時少し前に着きました。大森銀座商店街は、1987年(昭和62年)に商店街のカラー舗装を記念して、Milpa(Mill parkの略語でそぞろ歩く公園(または広場)と言う意味)とネーミングされた、緑と黄色の色合いがカラフルなアーケードの商店街で、商店街通りはすでに大変賑わっており、周辺には200ほどの露天縁日が並んで、酉の市の雰囲気をかもし出しておりました。

大森鷲神社酉の市
今年の酉の市は、4日、16日と28日で、三の酉です。
4日は、三連休の中日で、暖かい快晴で絶好の行楽日和でしたので、酉の市にはかなりの人出で、商店街通りは酉の市に来た人の列が切れ目なく流れ、神社に参拝する本殿まで長い行列が続いておりました。
行列に並んで本殿を参拝した後、神社で家内安全、商売繁盛を祈念し開運の守札を結んだ、神様の御分霊の「かっこめ(熊手御守)」が縁起物として頌布されますので、毎年新しく買って神棚にあげております。


鷲神社境内では、神楽殿でお囃子により酉の市を盛り上げておりました。
縁起物の熊手の店も、沢山の大小の熊手を露天一ぱいに飾り付けて客を呼んでおります。
熊手には1,000円ぐらいの豆熊手もありますが、売れ筋は10,000~50,000円くらいです。
熊手屋さんの店の前に立つと、すぐに威勢のいい掛け声が飛んできます。熊手を求めると、お店の中央にかかげて周りに集まった熊手屋さんの威勢のいいかけ声で、「家内安全・商売繁盛」と大勢で手締めとなります。


鷲神社縁起由来
この地に祀られた日本武尊が戦勝を祈願をされたと伝えられる処から、武運、開運、商売繁盛の神として多数の方の信仰を集めて居ります。
社殿は、1864年(元治元年)11月再建と古文書にあり、その後、数回の修理改築を繰り返して戦災後に建造された現在の社殿は、1953年(昭和28年)10月完成したものである。
尚、1877年(明治10年)の記録には、境内に蒼稲魂命を祭神とする末社があったとされている。
鷲神社宮司

懐かしい露天、屋台の味
露天では、お好み焼きを行列の人気でした。また、定番の焼きそばや、たこ焼きなどが夕食前で、美味しそうな匂いが漂よっておりました。あちらこちらの屋台の居酒屋では、やきとり、おでん、煮込み、大きな鍋から湯気が上がり、祭りの賑わいがほろ酔い客を心地よくしております。
食べ物屋さんをよそ目にして、毎年購入している神宮館の暦を買って帰りました。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(10月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B9) 秋の風物詩 池上本門寺のお会式 へ
次回 風景・風物詩(B11) 冬の風物詩 義士祭 泉岳寺 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B9) 秋の風物詩 池上本門寺のお会式

2006年10月16日 | 風景・風物詩
毎年、日蓮上人が亡くなられた13日を中心にお会式(おえしき)が営まれ、大田区池上本門寺(空中写真)では、10月11~13日に法要が行われます。
日蓮の命日の前夜(12日)は、宗祖報恩御逮夜法要が行われ、午後7時頃より各地から集まった信徒団体約三千人の百数十講中が、池上通りの大森方面からと池上方面から本門寺まで万灯練り行列が、団扇太鼓や鉦を叩き、題目を唱えながら池上本門寺の石段参道を登り境内に集結(万灯練り歩き経路図本門寺境内図参照)した後、坂道参道から降りて池上の町を深夜に至るまで練り歩きます。

万灯の練り歩きの移り代わり
万灯の練り歩きの行列の時期が来ると、やがて冬を迎える季節の到来を知り、お会式は秋の風物詩なのです。近年は、温暖化で寒くなるのが遅くなりましたが、小学生のころは陽気も寒くオーバーを着て見に行ったた記憶があります。
古来の練り歩きは、提灯に蝋燭を灯し団扇太鼓を叩き ながら、参詣するという簡素なものでありましたが、やがて蝋燭を灯した万灯が加わりました。さらに、纏を振るようになったのは、明治時代の町火消の人達が、講中の人達と共に参詣に訪れた事によると云われます。
近年は、万灯の明かりとして、蝋燭の替わりに、発電機を持ち込み、電球や蛍光灯や発光ダイオードなどにより、発光させるようになりました。
万灯は、支える棒を担ぎ手が持って交代で練り歩いていたのですが、車社会になると万灯もやがて台車の上に乗せて、押して練り歩くという時代に変化してきました。

万灯の練り歩き見物
12日には、万灯の集結する池上通りの本門寺新参道付近に、秋の風物詩のお会式に午後7時頃大森町を出て見にきました。池上通りは、夕刻より交通規制が行われ、JRの大森駅方面から東京急行電鉄池上駅方面行きのバスは呑川の手前で停まり、折り返し運転となります。そこから、本門寺新参道付近までは歩きとなります。
万灯の練り歩きは、大森方面と池上方面からそれぞれ一方向に進みますので、池上通りの車線の片側は見物用に開放されておりますので、比較的楽に見物できます。

本門寺新参道への万灯の練り歩きは、それぞれの方面から来る万灯の行列を、交通整理して交互に参道を進んで行きます。同時に、新参道を横断する歩行者もおりますので、この交差点は大変なラッシュで、多数の警察官による交通整理を行っておりますが、池上通りの万灯の行列は渋滞となり、万灯の行列の列が時間と共に長蛇となります。

本門寺新参道は、比較的広い道路で、両側の歩道上には多数の夜店が店を出しており、万灯見物の客は、夜店と万灯の練り歩きを見ながら本門寺方向へと向かいますが、午後八時を廻ると人手もピーク(混雑の万灯見物人1見物人2)となり、それにつれて歩行速度も遅くなり大変な混雑です。
そこで、万灯の練り歩きの見物は、池上通りの新参道近くの開放車線上で午後八時半頃まで、いろいろと変ってきた万灯練り歩きを楽しみました。



万灯も時代と共に変遷しておりますが、今年の万灯は個性が表れてきた(カラフルな万灯)ようで、太鼓も和太鼓が登場したり、叩きかたもお会式のオーソドックスな題目を唱えるリズムから、新たなリズムへの潮流も感じられました。お会式の万灯の練り歩きも、信徒団体の参加者により新しい方向へと歩いているように見えました。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(9月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B8) 夏の風物詩 高円寺阿波踊り
次回 風景・風物詩(B10) 秋の風物詩 酉の市 大森鷲神社 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B8) 夏の風物詩 高円寺阿波踊り

2006年09月08日 | 風景・風物詩
写真 中央演舞場をスタートする連
高円寺の阿波踊りは、1957年(昭和32年)に現在の高円寺パル商店街振興組合に青年部が誕生し、その記念に四国徳島の郷土芸能の阿波踊りを初めたのが最初で、今年第50回を迎える歴史のあるイベントであるが、高円寺の阿波踊りの歴史によると、第一回目は、阿波踊りの経験者がいなく民謡の先生に教わり、おはやしもチンドン屋に頼み、演奏されたの「佐渡おけさ」のリズムで、高円寺らしさをと「高円寺ばか踊り」と称して、高円寺駅から宝橋までの約250メートルを踊り、踊り手は1連33人で、観客は2日で4千人であったと云われております。

第50回高円寺阿波踊り
今年は、第50回高円寺阿波踊りで、毎年8月最終土、日の2日間開催されます。
8月27日の日曜日に、高円寺阿波踊りを見に行きました。
JR高円寺駅南北商店街、および高南通りに設置された9カ所の演舞場で、約188団体(連)、約12,000人の踊り手が、軽快なお囃子を奏で、踊ります。見物客120万人あまりを動員するその規模は、徳島に次いで第2位の規模を誇ります。
高円寺阿波踊りの演舞場は、連が踊る演舞は細く長いことが条件ですので、すべて一般道や商店街の道路が利用され、JR 高円寺駅南口にほど近い高南通りの中央演舞場、東京高円寺阿波おどり発祥の地であるパル商店街のパル演舞場などの9演舞場で行われます。

阿波踊り見物場所の確保
浅草サンバカーニバルでは、パレードが開始されてから到着したため見る場所の確保ができず、目前での踊りの見物ができなかったのに懲りて、JR 高円寺駅に着いたのは約1時間ほど前に着きました。高円寺駅は、電車が到着するたびに人の流れの列で物すごい混雑でした。駅を出ると、帰りの切符の手配のため、乗車券売り場は長蛇の列でしたが、SUICAを利用しておりますので、切符の心配は無用です。
そこで、場所取りのため先ずは駅の近くから物色を始めました。中央演舞場の高南通りの左側は、桟敷席が設けられているので一般者は入れませんので、通り右側に場所をとりたいと思いましたが、歩行者一方通行になっているため通りは進めません。
高円寺阿波踊りの見物は、今回で2度目ですが、前回はかなり以前のことで様子も異なっておりましたが、パル演舞場付近で見物したことを思い出して、高南通りを渡りパル商店街通りの1本手前のワキ道を南下し、途中の路地を左折して高南通りに出ました。

中央演舞場付近の見物場所確保
高南通りは、まだ南下できましたので進み、中央演舞場近くの開始1時間前の見物客の様子は、三列が前方に立っておりましたが、取敢えず四列目でも見られそうな様子ですので見物場所と決めました。
しばらくすると、午後5時半過ぎころから沿道の車道に沿って見物用のゴザを敷き始めました。ゴザが開放になり、それまで立っていた三列の見物客はゴザ席に座りましたので、立ち見客の最前列に位置して見物することが出来ました。


この場所(中央演舞場本部)は、毎年大会オープニングのテープカットが行われる中央演舞場で、高円寺南4丁目交差点付近から、駅方向へ向かって踊りが進みます。ここの演舞場を踊るために1年間練習を重ね、一番気合いを入れて踊る踊り子も少なくなく、高円寺阿波踊りの見物の特等席で、スタートの瞬間から阿波踊りを堪能しました。
(写真1写真2写真3写真4外人も仲間提灯曲芸)
開始後1時間を経過ころから、ゴザ席も空いてきましたので、立ち見も少々疲れてきましたので、座ってみました。しかし、座っての見物は、立ち見の全広角視野とは異なりやや見にくいのですが、前日の浅草サンバ見物とは異なり贅沢に阿波踊りを堪能し、途中の午後8時ころ帰宅しましたので道路も電車もそれほどの混雑なく楽な見物ができました。

第50回大会(2006年)各賞受賞連は、NPO法人東京高円寺阿波おどり振興協会の発表によると、東京都知事賞が練馬喜多町ぽんぽこ連、杉並区長賞が山形んだず連、都議会議長賞が新枠連などでした。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(8月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B7) 夏の風物詩 浅草サンバカーニバル へ
次回 風景・風物詩(B9) 秋の風物詩 池上本門寺のお会式 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B7) 夏の風物詩 浅草サンバカーニバル

2006年09月02日 | 風景・風物詩
浅草サンバカーニバル
昭和30年代後半から40年にかけて、当時の内山台東区長と浅草喜劇俳優の故・伴淳三郎氏が、浅草の新しいイメージをつくるものとして、ブラジルのサンバカーニバルを浅草のお祭りとして取り入れることを提案。これをきっかけに、地域の観光や商店街の活性化を目的として、1981年に始まった「浅草サンバカーニバル」は、毎年8月の最終土曜日に行われます。

「第26回浅草サンバカーニバル」は8月26日に開催されパレードには、全国の企業、学校の33チーム約4500人が参加しました。パレードは、午後1時半から馬道通り~雷門通りを、大きな羽飾りなどをつけたきらびやかな衣装のダンサーたちが、陽気なサンバのリズムに乗って次々と繰り出し情熱的な踊りを披露、浅草はラテンムード一色となります。
「浅草サンバカーニバル」のサンバも、夏の風物詩として定着し、約50万人の見物人で埋まりラテンリズムを堪能しました。

パレードが見られない
26日は午後1時過ぎに家を出て、京浜急行から直通の都営1号線で浅草にサンバカーニバルを見に行きました。浅草駅に着くと乗客の大半が下車して、カーニバルへと向かう見物客につれて雷門前へ出ると、雷門通りはパレードが開始されており大変な混雑で、とてもサンバの踊りを見物できる状態ではありませんでした。なにしろ、パレードが通る馬道通り~雷門通りの距離800mに、50万人の見物客が見物するのです。サンバの踊りは、見に行くのがが遅かったので五~六重の人垣の最後列から垣間見るほかありませんが、パレードが通る道路は殆ど見えない状況でした。

そこで、少しでもサンバの踊りの雰囲気でも味わおうと、雷門通りをゴール方向に進もうとしましたが、見物客で歩道がいっぱいで通行困難なため、雷門通りに並行した裏道を歩いて、パレードのゴールよりやや先にたどり着きましたが、そこでも見物人が三~四重の人垣でしたが、パレードの進む道路は見られました。しかし、ゴールの跡ですので、サンバの踊りを見ることができませんでしたが、パレードの踊りを終えた踊り子や車の通過がやっと見ることができた状況でした。

これより、浅草サンバカーニバルは、他のイベントに比べると、サンバの踊りが公開して見られる場所がかなり短い割りに、見物者の数が多いことから、雰囲気を少しでも味わって見物するためには、遅くてもカーニバル開始の1時間以上前に見物する場所を確保することの必要を悟りました。
しかし、26日の天候は曇り勝ちで若干涼しめでしたが、例年のこの時期は暑さが厳しいことが多く、長時間に亘り暑いなか席待ちするのが耐えられる人以外は見物ができないことになります。

それでも、せっかくサンバの踊りの雰囲気を味わいに来たのですから、サンバの踊りと踊りの済んだダンサー(写真1写真2写真3)の一部を写真に撮り、早々と退散しました。


つくばエクスプレスに初乗り
帰路は、せっかく国際通りそばにおりましたので、開通一周年を迎えたところの「つくばエクスプレス」に初乗りして秋葉原に出て、JR線にて品川経由で京急に乗り継いで帰りました。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(8月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B6) 夏の風物詩 ヨコハマカーニバル ハマこい踊り
次回 風景・風物詩(B8) 夏の風物詩 高円寺阿波踊り へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B6) 夏の風物詩 ヨコハマカーニバル ハマこい踊り

2006年08月25日 | 風景・風物詩
今から52年前の1954年(昭和29年)に、阿波踊りに負けないお祭りにしようとして始まった『よさこい祭り』は、1992年に札幌の『YOSAKOI ソーラン』や東京・原宿の『スーパーよさこい』など、祭りの規模はさまざまですが、現在、全国100以上の町で、子供、学生、年齢、男女を問わず、それぞれの地域の祭りとして盛り上がりを見せています。

ハマこい踊り
ヨコハマカーニバル ハマこい踊りの、よさこいのパワーは高知より横浜に広がり、1998年の第20回ヨコハマカーニバルからスタートしました。
開催当初、7団体だった参加団体も、8月19、20日開催の第28回ヨコハマカーニバを迎えた大会では合計73団体(出場チーム一覧)が参加して、年々参加チームも増え、夏のヨコハマ最大の市民参加型祭になっております。
「ハマこい踊り」のルールは、
 ・30人以上のチームで参加すること
 ・楽曲に「赤い靴」を入れること
 ・手に「鳴り物」を持って踊ること
この三つを必ず守りながら、各チームはそれぞれ自慢の演舞を披露いたします。

第28回ハマこい踊りの開催概要
第28回ハマこい踊りの概要(会場地図)は、19、20日開催のハマこい踊り「炎舞2006」エキシビションが、横浜高島屋屋上会場、横浜駅東口スカイビル・そごう間2Fデッキ会場、横浜美術館会場、二俣川駅改札前会場、とパルナード・ダイエー前会場の5会場で行われました。また、19日には沢渡中央公園会場で、ハマこい踊り「炎舞2006」コンテスト が行われました。(19日エキシビション・コンテスト演舞スケジュール20日エキシビション演舞スケジュール)
神輿&ハマこい踊りのパレードは、20日にオープニングパレード、神輿パレードとハマこい踊りパレードが、沢渡中央公園を出発し、鶴屋町3丁目交差点、横浜駅西口を経てダイエー前での区間で行われました。(ハマこい踊りパレード演舞スケジュールオープニング・神輿パレードスケジュール)
第28回ハマこい踊り開催のグランプリハマこい大賞は、大人の部が「子鳩子兎 メンズプラザアオキ 横浜百姫隊」、子供の部が「城南建設グループ&JDS舞魂神童子」が入賞しました。

ハマこい踊りエキビション横浜東口会場見物
よさこいのパワーとハマこい踊りの雰囲気の一端にでも触れられれば良いとの思いで、8月20日の昼下がりの午後1時頃に、京浜急行の横浜駅に向かいました。京浜急行の横浜駅は、それまで1本のホームでしたが7月22日より開設された下り専用のホームに始めて下車しました。
乗車駅の大森町に掲げられていた、ハマこい踊りのポスターを見ると、横浜駅東口のスカイビルとそごう間2階デッキでもハマこい踊りエキビションが見られることを知り、少しでも空いた会場で楽しめたらとの欲な思いから東口エキビション会場に直行しました。
東口エキビション会場は、思った通り空いており、浜風にあたる涼しい環境でゆっくりとハマこい踊りを味わえました。贅沢な環境でよさこいパワーの雰囲気を垣間見ることができましたので、夕刻から開始の横浜駅西口周辺での踊り歩きや音楽隊、神輿などのパレードの行進の見物は、混雑が激しく浜風の無い暑さを思って諦めました。

横浜東口会場での入賞ハマこい踊り演舞
・子供ハマこい大賞 城南建設グループ&JDS舞魂神童子
 2005年ハマこいデビュー!城南建設グループのご支援により子供達の踊り大好きパワーで立ち上がりました。



・子供の部 タカナシ乳業賞 ぴょん2天手子舞
ぴょんぴょん天手子舞は、2001年の春に海老名のダンスサークル「RDT・ティンカーベル」のメンバーを中心とした子供だけのチームとして結成されました。(演舞)
大人の部 高知よさこい祭振興会賞 相鉄Team des Shabary
デシャバを観るとついつい笑顔になってしまうようなそんなチームです。(演舞)
・大人の部 神奈川新聞社賞 Funny
私達Funnyは子供から大人まで幅広い年齢層で結成されており、家族で参加しているメンバーも多くいます。(演舞)
・大人の部 やっぱ横浜西口じゃん横浜シァル賞 破天荒
メンバー全員が県立希望ヶ丘高校卒業生ということで、チームの特色はなんといっても若さです。(演舞)
・大人の部 やっぱ横浜西口じゃんザ・ダイヤモンド賞 Team KIRIN
横浜生まれ、横浜育ち!今年もTeam KIRINは「キレ」の良さを皆様にお届けします。(演舞)

よさこい祭り
『土佐の高知のはりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た よさこい よさこい』
今から52年前の1954年(昭和29年)に、阿波踊りに負けないお祭りにしようと『自由な祭り』として始まった『よさこい祭り』は、現在、全国100以上の町で、子供、学生、年齢、男女を問わず、それぞれの地域の祭りとして盛り上がりを見せています。
この、本家の第53回よさこい祭りは、8月9日の前夜祭から、10、11日のよさこい祭りの本番と12日の後夜祭までの延べ4日間に亘り15会場の繁華街を踊り歩く、170チームが参加のさすが老舗のお祭りです。

よさこい祭りの衣装は伝統的な法被・着物から、現代的なコスチュームまで、バラエティに富んでおります。また、踊りは昔はいわゆる正調よさこい鳴子踊りが主流だったようですが、最近ではそれに加えてロック調、サンバ調、クラブ調あるいは演歌調など、各チームがアレンジしたさまざまな楽曲と振り付けが披露されます。
「よさこい祭り」のルールは、
 ・1チームあたり150人以下であること
 ・鳴子を持って前進する踊りであること
 ・曲を自由にアレンジができまるが、必ず「よさこい鳴子踊り」をどこかに入れること
 ・地方車は、1チーム1台とする

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B5) 夏の風物詩 日比谷公園丸の内音頭盆踊り大会  へ
次回 風景・風物詩(B7) 夏の風物詩 浅草サンバカーニバル へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B5) 夏の風物詩 日比谷公園丸の内音頭盆踊り大会

2006年08月23日 | 風景・風物詩
夏の風物詩盆踊りは、500年の歴史を持つ民俗芸能です。その土地ならではの歌と踊りが、日本の夏をいろどってきました。日本人にとっては和の付き合いです。
大森町でも、各町会で開催され大森西三丁目町会では7月28、29日に行われ多数が参加して賑やかな盆踊りでした。また、隣接の三輪町会でも8月18、19日に開催されました。
ローカルな地方の盆踊りは、伝統的にやぐらの上の太鼓方、音頭とりならびに踊り子は浴衣を着用するのが普通であり、同じグループである場合は揃えの浴衣を着ることが多く、団扇を背中の帯に差し込んで踊る こともあります。

また、18、19日には東京の日比谷公園でも丸の内音頭大盆踊り大会が開かれ、共催の読売新聞社の19日の朝刊記事によると、日比谷公園盆踊大会は、2003年に日比谷公園開園100周年を記念して71年ぶりに復活した盆踊りで、今年は4回目にあたり「東京音頭」の本歌の「丸の内音頭」につられ、浴衣姿の女性など約1万5千人が参加したとあります。
そこで、第二日目の19日には、日比谷公園盆踊大会を見に行ってきました。

日比谷公園丸の内音頭盆踊り大会
大森町を出て、都営三田線の日比谷駅には19時少し前で、盆踊会場の大噴水場に着いた時には、丁度櫓舞台のアトラクションが終わったところでした。
参加者は盆踊が始まるまでは、大噴水池の南側にある大芝生上に座り込み、周囲の松本楼やまい泉などの模擬店から食べ物を購入したりして、くつろいでおりました。
二日目も、前日に劣らぬ多くの参加者が見られ、地元町会でのローカルな盆踊りとは異なり、日比谷公園盆踊は都内各地からの来場者1万人による噴水を中心にした、都民の大同の和の付き合い大会です。


盆踊開始のアナウンスと共に、大噴水池の周囲に群集の大きな輪が作られ、櫓舞台上の地元太鼓方の音頭で、最初に売りの「丸の内音頭」から盆踊りが始まりました。
日比谷公園盆踊は、都心会場の広範な都内各地からの参加であるので、浴衣姿もかなり見られましたが、カジュアルな平服の参加でよい のが盆踊りの特徴で、外国人や小さな子供も数多く の参加が見られました。
盆踊りの後には、歌手のアトラクションがあり、盛会のうち夏の夜が更けていきました。

丸の内音頭(wikipediaから)
1932年(昭和7年)に制作され、日比谷公園での盆踊り大会で披露された。「丸の内音頭」のレコードはビクターから発売され、A面が藤本二三吉、B面は三島一声でした。
東京音頭は、作詞西条八十、作曲中山晋平で、1933年(昭和8年)、当時の東京市民すべてが歌えるように改題・改詞され、小唄勝太郎と三島一声の歌唱でレコード化され、爆発的に流行しました。勝太郎の力強い、景気のよい歌声は日本中に響き渡り、レコードの売り上げは当時、120万枚に達したといいます。

[丸の内音頭歌詞一部]
踊り踊るなら 丸くなって踊れ おどりゃ 心もおどりゃ 心も丸の内
雲は九重 御稜威(みいつ)は空に 音頭とる子は 真ん中に
大手うれしく 顔三宅坂 ほんにお前は 数寄屋橋
揃うた揃うたよ 踊り子の手ぶり ビルの窓ほど よう揃うた

盆踊りの起源(wikipediaから)
盆踊りとは元々は仏教行事である。平安時代、空也上人によって始められた念仏踊りが、盂蘭盆の行事と結びつき、精霊を迎える、死者を供養するための行事という意識になっていったようである。 室町時代の初めには、太鼓などをたたいて踊るようになったといわれている。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その2) へ
次回 風景・風物詩(B6) 夏の風物詩 ヨコハマカーニバル ハマこい踊り へ>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その2)

2006年08月19日 | 風景・風物詩
富岡八幡の由来を「御由諸」から抜粋しますと、「1627年(寛永4年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。
江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されました。」とあります。

富岡八幡二の宮神輿の渡御り(神幸祭)は、永代通りの深川不動堂参道入り口付近で見物する予定で、途中伊能忠敬の銅像や15日の例大祭祭典に繰り出す宮元(富岡一丁目)の神輿などを見ながら目的の場所へと進みました。
伊能忠敬銅像
江戸時代後期の測量家・伊能忠敬翁は、測量開始から200年を迎え、50歳を過ぎてから天文学・測量術を学んだ忠敬翁が注目を集めていますが、翁は深川黒江町(現・門前仲町一丁目)に住み、測量旅行出発にあたっては必ず富岡八幡宮を参拝していたことから縁りの地であるこの八幡宮の境内大鳥居横に銅像が建立され、平成13年10月20日に除幕式が行なわれました。深川周辺には忠敬翁隠宅跡のほかにも、翁が天文学を学んだ暦局跡、歩測訓練を行なった道、忠敬翁終焉の地などが点在しています。

二の宮神輿の渡御り
・清澄通りから深川不動前へ
午前10時30分頃から永大通りの永代橋方向の片側車線を通行止めにして、二の宮神輿の渡御りの準備が整いました。永代通りの深川不動前と清澄通りの間の歩道には、神輿に水を掛けるためのトラックが2台駐車し、トラックの荷台には一杯のビニールシートを敷き水を満載し、町会の多数の若者が荷台上で満を持しておりました。

二の宮神輿
二の宮神輿の由来は、元禄時代に豪商紀伊国文左衛門が奉納した総金張りの神輿が関東大震災で焼失したため、68年後の平成3年に日本一の重さ4.5トンの一の宮神輿(風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1)参照)が奉納されました。一の宮神輿があまりにも大きさのため、平成9年に屋根幅が1m36cm、高さ3m27cm、重量が約2トンで担ぎ棒の縦棒が5m60cm、横暴が4m70cmの二の宮神輿が奉納され、3年毎の本祭り(子・卯・午・酉の年)の翌年陰の御本社祭り(丑・辰・未・戌の年)に各町会の氏子達がお揃いの白い半纏を着て渡御りが行われます。

二の宮神輿の渡御り(二の宮神輿渡御り順路)は、7時に宮出し後枝川から豊洲の各町会での渡御りが済んでから、二の宮神輿を釣船橋までトラックで運び9時30分にスタートして、牡丹、黒船橋を過ぎて門前仲町の交差点を右折し永代通りの深川不動堂参道入り口付近で折り返しとなります。
渡御りの予定時刻に、先導のお囃子巳美会の山車の先導で二の宮神輿が進んできました。
富岡八幡祭りは、「水掛け祭」とも云われ永代通りでも、盛んに二の宮神輿に水が掛けられました

水掛け祭
神輿が通る沿道のお店や住民から神輿と担ぎ手を清めるための「清めの水」が浴びせられることから、「水掛け祭」とも呼ばれ、元々は担ぎ手の足元位の高さに水を撒く様でしたが、1年で一番暑い8月の祭りですから、担ぎ手をクールにさせる意味も有ったんでしょう。それが何時しか勢い余って神輿まで水を掛ける様になったのが始まりだとも云われております。

折り返しからUターン後も水が掛けられる二の宮神輿

・深川不動前から清澄通りへ
深川不動堂参道入り口付近で折り返しからUターンすると、宮元のスタートなので先頭を地元の きれいどころの通州会による深川音頭の踊り連から始まり、お囃子巳美会の山車に富岡八幡の神官巫女が続き、門前仲町の交差点へと進む二の宮神輿に水が掛けらました。
神輿は、永代橋を渡り亀島橋まで進みます。

・午後の二の宮神輿渡御り
午後の二の宮神輿渡御りの順路は、区役所まえからスタートして大門通りで折り返し、三石橋を渡り三つ目通りから清洲橋通りに出て清澄通りに左折します。清澄通りからは、交差点で葛西橋通りに左折して、さらに三つ目通りに左折して永代通りに出て汐見橋を渡り宮入りするという長大なコースの渡御りとなります。
午後は、次の予定により富岡一丁目のおそばやさんで軽い昼食をとり、富岡八幡祭りともお別れして、東西線門前仲町駅へと向かいました。

永代橋の落橋噺
六代目三遊亭円生の噺、「永代橋」によると、文化4年8月15日の祭礼が雨で延び延びになって、やっと晴れた19日に執り行われた。当日大変な人出であったが、午前10~11時ごろ一橋公が舟で隅田川を通ったため、橋止めをした。11時頃橋を通る事を認めたが両岸とも同時に開けた為、群衆が殺到し中央でぶつかり人の重みで崩れた。後ろの群衆はその事が判らず、前へ前へと押していき、中央に達すると河に転落して、最後の人間は濡れなかった。いずれかの武士がこの最中に危機を察し、中央で欄干に捕まり大刀を抜き振り回し、日に輝く刀を見た群衆が危機を察し、後ずさりをしたため、その後人が落ちなかった。この事でどれだけの人が助かった事か知れない。大変な人助けであった。また幾日も下駄が沿岸に流れ着いたと言う。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1) へ
次回 風景・風物詩(B5) 夏の風物詩 日比谷公園丸の内音頭盆踊り大会  へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1)

2006年08月17日 | 風景・風物詩
深川八幡祭りは、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つで、3年に一度八幡宮の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ、昨年が本祭りで大神輿ばかり54基が勢揃いして連合渡御する他、大小あわせて120数基の町神輿が担がれます。
深川八幡祭りと呼ばれる富岡八幡宮の例祭は、毎年8月15日を中心の日曜日に行われ、今年は8月13日が当たりました。

深川不動堂
今年は、二の宮神輿の渡御しが13日に行われましたので、上野に午後出かける前に渡御し順路に合わせて大森町を出て、日本橋を経て門前仲町に9時半頃に着きました。
先ずは、東西線の門前仲町を出て深川不動堂参道「正門」から本堂へと進み、左右に立てかけられている大きな「わらじ守」を見て、「本堂」を参詣しました。

深川不動尊の由来は、江戸時代元禄年間に江戸町人を中心として不動尊信仰が広まり、成田山ご本尊、不動明王を江戸で参拝したいという気運から、1703年に江戸でのご本尊の出張開帳(江戸出開帳)が行なわれました。このご開帳の場所が深川永代寺境内で現在の深川不動堂付近であり、これが深川不動堂の起りと云われている。
明治に入って神仏分離令によって、永代寺は廃寺になり境内は深川公園になった。1869年(明治2年)に現在の地に「深川不動堂」の正式名称が認められ、1881 年(明治14年)には本堂が完成しました。


関東大震災・第二次世界大戦と2回にわたって本堂が焼失しましたが、ご本尊は焼失を免れました。1951年(昭和26年)に、当時千葉県印旛沼のほとりに建っていた龍腹寺を、1862年(文久2年建立)を深川に移築して本堂が復興しましたが、この時の建物が現在の本堂になっています。
しかし、江東区最古の木造建築のため痛みが激しく、平成4年の興教大師850年御遠忌を記念して平成の大改修を行い、諸伽藍も一新され平成3年に大改修落慶法要が盛大に行なわれました。

富岡八幡宮
富岡八幡宮へは、深川不動尊の境内から東へ出て、西側の鳥居を潜り境内に入りました。境内に入るとすぐ右側には手水舎があり、左側の鳥居の奥には、富岡八幡宮17末社の内、平成13年10月25日に改築された三社に富士浅間社、金比羅社、大黒社、恵比寿社、鹿島神社、大鳥神社の6末社が並んで鎮座しております。
御祭神 応神天皇(誉田別命)外8柱を祀られている「江戸最大の八幡様」を参詣すると、本殿前では朝早くから夕方まで、[江東区剣道連盟]の奉納剣道大会が開かれておりました。

正面参道を永代通りに向かうと、右手の神輿庫に日本一の黄金神輿(比較)の御本社一の宮神輿が鎮座してありました。御本社二の宮神輿渡御り順路は、例祭で午前7時30分に宮出しされ、最初の枝川から豊洲の神輿渡御り順路を終え、第二の神輿渡御り順路の釣舟橋を午前9時30分に出て、深川不動堂前でUターンして永代橋を渡り、亀島橋まで進みます。第三の神輿渡御り順路は、12時50分に区役所前を出て夕刻に宮入りをします。
宮出しと第一神輿渡御り順路、第一から第二神輿渡御り順路、第二から第三神輿渡御り順路のそれぞれ間は、神輿をトラックで運びます。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B3) 夏の風物詩 川崎大師風鈴市 へ
次回 風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その2) へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B3) 夏の風物詩 川崎大師風鈴市

2006年07月31日 | 風景・風物詩
初詣りで有名な川崎大師の風鈴市も第11回目の開催で、夏の風物詩として定着してきたようです。今年は、7月19日から23日まで開催され、初日は雨模様にたたかれ人出もいま一歩のようですが、22日は空模様も何とかもちそうなので午後久しぶりに風鈴市に出かけてみました。
風鈴市には、全国47都道府県から760種類の2万4千個の風鈴が揃い、川崎大師オリジナル「厄除だるま風鈴」を初めとして、様々な色・形の風鈴が並び、風鈴の材料もガラス、陶器、金属、石、炭などのほか、変り種として水晶、プラチナ、金、銀製の風鈴も出品されていました。

川崎大師は、京浜急行電鉄本線の京急川崎駅から支線の大師線に乗り換え、川崎大師駅で下車して、駅前の厄除け門から表参道のお店をみながら進むと大師入り口門で、そこを右折すると仲見世通りです。仲見世通りの両側には、大師名物のトントコ飴きり包丁の音を響かせている飴屋さんを初めとして、くずもち屋、ダルマ屋さんなどのお店が軒を連なって賑わっており、その先が川崎大師の大山門です。


大山門をくぐって境内に入ると、左側広場が風鈴市の会場で奥に八角五重塔が見えます。
正面の本堂には、多数の参詣客で混雑しておりましたが、お賽銭をあげお参りした後、風鈴市見物です。

風鈴市
風鈴市には、全国から様々な形のものや、種々の材料で作られたものなどの珍しい風鈴が見られました。(風鈴市風景1風景2風景3)
全国47からの760種類の風鈴から、変わった風鈴の百顔を並べてみました。

・川崎厄除けだるまのオリジナル風鈴
川崎大師は、厄除け大師として有名でだるまが名物です。そのだるまの顔を現した愛嬌のある紅白のオリジナルだるまが出品されております。
(大師オリジナル風鈴オリジナル風鈴説明)

・風鈴の沙汰も金次第
風鈴の世界もかね次第です。田中貴金属が銘を銀座風鈴と打って貴金属製の風鈴を出品しておりました。(ぷらちな風鈴金の風鈴銀の風鈴金・銀だるま風鈴)

・さまざまな形の風鈴
風鈴市には、くじらなどのさまざまな形の風鈴が出ておりました。ローカル色豊かな風鈴のオンパレードです。(秋田御殿まり風鈴山口ふぐ風鈴高知くじら風鈴青森花笠風鈴東京つりしのぶ風鈴静岡竹干筋風鈴)

・さまざまな材料により作成の風鈴
風鈴市の風鈴には、貴金属性のほかに思わぬ材料を使用した風鈴が出品されておりました。(茨城石の風鈴大阪被せガラス風鈴福岡上野焼風鈴熊本天草藍の風鈴奈良瑠璃風鈴)

川崎大師
通称の川崎大師は、真言宗智山派・大本山金剛山金乗院平間寺と云い、昔から厄除け大師として、霊験あらたかなことで有名な関東の名刹で、千葉の成田山新勝寺、東京多摩の高尾山薬王院とともに、関東三山として名を知られております。
大治3年(1128年)に開創され、開基は尊賢上人、創建功徳主は平間兼乗氏で、現在の管首は、第44世の中興第1世橋隆天大僧正であります。
川崎大師のご本尊は、1,220年前にご誕生になり、全国に真言密教を広められた弘法大師空海上人が祀られております。
川崎大師は、私宅の菩提寺と同一宗派であり、毎年の初詣りは近くでもあり、家族は皆お守りとお札を昔から受けております。

大本堂
現在の本堂は、昭和39年(1964年)に平安朝の建築様式を模した鉄骨、鉄筋、コンクリート造りの総建坪997㎡、高さ25.5mの大伽藍です。

大山門
川崎大師開創350年記念の昭和52年(1977年)に落成した、堂塔伽藍を囲う総域結界の総門です。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B2) 夏の風物詩 浅草ほおずき市 その2 へ
次回 風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1) へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B2) 夏の風物詩 浅草ほおずき市 その2

2006年07月21日 | 風景・風物詩
ほうずき市露店
観音さまのお参りを済ませてから、ほおずき市の露天を一巡りしました。露天の人気者は、千成りほおずきですが、現在は丹波ほおずきが主流となり、春先から江戸川などで栽培されます。
浅草ほおずき市は、観音堂の境内に立ち、本堂の両側から裏手の広場にかけてほおずき露天、金魚屋、風鈴、虫籠、燈籠等の商い店が400以上も並びます。例年では、ほおずき市の頃ともなれば梅雨もあけて急に夏らしくなるのですが、今年の7月9日はまだ梅雨は明けきらずに朝から曇り模様でしたが、日曜日にあたりましたので午前中から人出は多い(ほおずき市風景1風景2)ようでした。午後からは、浴衣がけの散歩がてらの人達で賑うことでしょう。
今は、あまり見られなくなりましたが、女の子がほうずきの赤い実をやわらかくもんで、種をぬき、水で洗って苦味をとり口にふくんで鳴らすのを見て、感心した記憶も遠い昔の想い出です。


浅草のれん会のホームページ「ほおずき市」をみると、ほおずき市は江戸時代は赤玉蜀黍(あかとうもろこし)を売る市だったそうです。この時期特有のモノの雷から守るには、雷と反し雷を除けるとされる赤い色・そして種実の多い植物が一番良いとされ赤玉蜀黍となったようです。しかし、明治のある年に不作の年があり、一軒の玉蜀黍屋も出なかったので、その年参詣客の要望で雷除けのお札(赤く描かれたお札に竹と言う組み合わせ)と玉蜀黍に変わる赤くて種のいっぱいあるほおずきが売られるようになったとあります。

浅草神社
浅草寺境内のほおずき市の露天の東側に接して、通称「三社様」・「三社権現」で親しまれている浅草神社があります。
五月の第3週の金・土・日曜日に行われる例祭は三社祭といい、江戸三大祭の一つとされております。

浅草神社の起源は、漁師兄弟(檜前浜成・武成)が隅田川で漁をしていたところ仏像が投網の中にかかり、土師真中知から観音像であると教えられて、真中知の自宅を寺としたのが浅草寺(日記その1参照)の始まりであります。真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。を神として祀ったのが当社の起源であるとしています。
実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられているとしております。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになりました。

現在の社殿は、徳川家光の寄進で慶安2年(1649年)に再建されたもので、先に焼失した「浅草東照宮」に祀られていた「徳川家康」が合祀されました。
明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年(1868年)に三社明神社に改称、明治6年(1874年)に現在の浅草神社に改称されました。昭和36年(1961年)に拝殿・幣殿・本殿が国の重要文化財に指定されました。
神明型の石造りの大鳥居は、明治18年(1885年)に信者より寄進されたものです。浅草神社の狛犬は、かなりの大型で、天保七年(1836年)の石工の田町文五郎の作といわれてます。

人力車
三社様を参詣して、混雑を避け仲見世の裏道を通り雷門に出ると、沢山の人力車が観光の客待をしておりました。
人力車は、それまでの駕籠に替わって、明治から大正時代に徒歩よりも高速な移動手段として用いられた人を輸送する手軽な交通手段として急速に普及しましたが、最近では、各地の観光地で元気な若者が人力車を引いて近辺の観光案内をしてくれます。
とは云うものの、年配者にとってはなかなか乗り難いもので、2年ほど前に小樽での乗車体験が前にも後にも唯一のものです。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B2) 夏の風物詩 浅草ほおずき市 その1 へ
次回 風景・風物詩(B3) 夏の風物詩 川崎大師風鈴市 へ>
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B2) 夏の風物詩 浅草ほおずき市 その1

2006年07月19日 | 風景・風物詩
浅草ほおずき市
入谷の朝顔まつりに続き、7月9~10日は浅草のほおずき市が夏の風物詩第2段として浅草寺境内にて開かれました。今年も、昨年に引き続き7月9日にほおずき市に出かけ、浅草寺に参詣して四万六千日のご利益を授かってきました。
ほおずき市には、自宅から京浜急行と都営地下鉄に乗り継いで、乗り換えなしのおよそ35分で都営浅草駅です。浅草寺境内を一巡(地図参照)して、ほおずき市の観光をしました。

雷門
都営浅草駅を上がり路地から大通りに出て、右側吾妻橋とは反対方向に左折すると雷門が見えてきます。土曜日でしたので朝から大変な人込みで、雷門の前は東京で最も人気のある観光地ですので記念撮影などで混雑しておりました。
雷門は、最初は浅草寺の総門として天慶5年 (942年)に建てられましたが、火災による焼失し、その後寛永12年(1635年)徳川家光により建立された門は、右に「風神」左に「雷神」を安置して「風雷神門」と呼ばれ、略して雷門で親しまれております。慶応元年(1865年)に再度の火災に遭って以来、昭和35年(1960年)に現在の鉄筋コンクリート製で再建されるまでの百年近く存在しておりませんでした。

雷門には、上部に右書の「金龍山」の扁額が掛けられ、正面に「雷門」と書かれたおなじみの大きな提灯が下がっております。大提灯を仲見世側から見ると、「風雷神門」と書かれてあります。また、風神・雷神像は慶応元年の罹災で頭部を残して消失し、明治7年(1874年) 塩川蓮玉氏により補刻されたとあります。風神・雷神像の裏側(仲見世側)には、昭和53年(1978年)に寄贈された「天竜像」と「金竜像」が安置されております。


仲見世
雷門をくぐると、すぐ仲見世です。
生い立ちから現在までを「仲見世の歴史」から抜粋
徳川家康が江戸幕府を開いて江戸の人口が増え、浅草寺への参拝客も一層賑わいました。
それにつれ、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられ、これが仲見世の始まりで、元禄、享保(1688~1735)の頃といわれてます。
大正12年(1923年)の関東大震災により壊滅し、同14年に現在の鉄筋コンクリート造り、桃山風朱塗りの堂々たる商店街に生まれ変わり、昭和20年(1945年)の戦災で内部は全部焼失しましたが、仲見世の人々の努力により復興しました。

現在の仲見世には東側に54店、西側に35店、合計89店の店舗があり、長さは約250メートルで、美しい統一看板と四季折々の装飾が石畳に映え、雷門をくぐった海外からのお客さまは、みごとな日本的情緒に満足し感嘆します。

宝蔵門
仲見世の後ろが宝蔵門(仁王門)ですが、現在修復工事中により門全体が工事幕で覆われており、姿を見せておりませんでしたので工事中の門は素通りでした。

五重の塔
五重塔は、天慶5年(942年)に平公雅によって本堂の東南側に建立されたが、火災による焼失後、慶安元年(1648年)徳川家光により再建、その後戦災で焼失し、昭和48年(1673年)参道を挟んで反対側、本堂の西南に再建されました。
五重の塔は、塔を囲む回廊式の建物(塔院)の上に建てられていますので、地上からは六層ということになり、下から仰ぎ見ると一層の屋根が高く見えます。

浅草寺本堂
浅草寺は聖観音宗の総本山で、東京では最古の寺で山号は金龍山と称し、通称浅草観音で親しまれています。また、東京都内では、唯一の坂東三十三所観音霊場の札所(13番)であります。

浅草寺の起こりは、「浅草寺縁起」によりますと、推古天皇36年(628年) に漁師の檜前兄弟が江戸浦(現在の駒形橋下流)で漁労中、一体の仏像を投網の中に得て、豪族であった土師中知に見せると、聖観世音菩薩の尊像であることを知り、中知は自ら出家し屋敷を寺に改めて深く帰依したと伝えられる。これが浅草寺の草創の縁起とあります。
本堂の本尊には聖観世音菩薩像が祀られており、大化元年(645年)に勝海上人が「秘仏」と定められ、やがて平安時代の初期、比叡山の3世天台座主、慈覚大師が、この秘仏に模して「お前立」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)のご本尊(現在のご開帳仏)を謹刻されました。

浅草寺は、草創以来焼失と再建を繰り返し、江戸幕府第三代将軍家光により慶安2年(1649年)に再建され、享保6年(1721年)に大修復が行われるなど、度々修復を繰り返してきましたが、明治40年(1907年)「国宝」に指定されました。その後、関東大震災をも無事に免れましたが、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で戦災炎上しました。しかし、ご本尊は前もって観音堂の真下地中3メートルのところに、青銅製の「天水鉢」を埋め、その中へ安置されていましたので安泰でありました。
消失した本堂は、戦後の昭和26年(1951年)復興に着手して、昭和33年81958年)に再建落慶しました。

本殿中央には本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの宮殿(「厨子」)があり、宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ、奥の間に秘仏本尊、前の間には「お前立ち」の観音像が安置されております。信徒が拝することができるのは「お前立ち」像のみで、秘仏本尊像は公開されることはない。宮殿の左右には脇侍の梵天・帝釈天像、堂内後方左右には不動明王像と愛染明王像が安置されております。

四万六千日
ほおずき市が行われる7月9、10日は、この日に参詣すると四万六千日分のご利益があるとされております。
四万六千日を年数になおしますと百二十六年に近い年数になります。人間が心身に気をつけ、病気や事故にあわなければ、人間はこのぐらい長生きでき、一生を無病息災で過ごせるようにと願った数字と伝えられております。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B1) 夏の風物詩 入谷の朝顔市  へ
次回 風景・風物詩(B2) 夏の風物詩 浅草ほおずき市 その2 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風景・風物詩(B1) 夏の風物詩 入谷の朝顔市

2006年07月17日 | 風景・風物詩
入谷の朝顔まつり
入谷の朝顔まつりは、例年7月6~8日に台東区入谷鬼子母神(真源寺)の周辺で開かれ下町の夏の風物詩として定着しています。今年は、7月8日の朝何年か振りかで出かけ、矢車咲きの鉢植えを求めてきました。朝顔市は、真源寺境内と寺院前の言問通りに100軒余りの出店が並び、朝5時頃から夜通し行われ、混雑時には人の行き来ができないほど賑わい、朝顔の鉢は約12万鉢ほど売れるようです。朝顔まつりとして、言問通りの寺院の反対側には、100軒余りの露店が軒を連ねてまつりを盛り上げています。


入谷には、先ず自宅を七時半頃出て、京浜急行を人形町でメトロ日比谷線に乗り継いで入谷まで45分程で着きます。入谷駅の地下から上がると、国道4号線と言問通りの交差点(地図参照)に入谷朝顔まつりのゲートがあり、もう朝顔の鉢を提げて帰る人達がちらほら見えます。
入谷朝顔まつりは、朝顔市の露店が真源寺境内と言問通り寺院側の交差点からおよそ200mほど続き、色とりどりの朝顔が並べられております。

鬼子母神
言問通りの朝顔市の露店を少し進みますと、「おそれ入谷の鬼子母神」で有名な真源寺(しんげんじ)があります。先ずは、鬼子母神のお参りに手を合わせ、朝顔市の間だけ朝顔の造花の付いた身体安全の御守(トップのポスター写真上に写ってあります)が授与されておりますので、御守を火打ち石でカチカチと切って授けてまいりました。また、鬼子母神の境内には、朝顔市に因んだ浮世絵や団扇などを販売しておりました。
入谷鬼子母神は、日融が1659年に当地に法華宗本門流の寺院を開山したもので、江戸三大鬼子母神の一つとして、また、下谷七福神の一つとして有名であり、入谷鬼子母神の由来を「入谷散歩道」から拝借すると次の様に記載されてあります。
鬼子母神は鬼神般闍迦(はんしか)の妻でインド仏教上の女神のひとりであり性質凶暴で子供を奪い取っては食べてしまう悪心であったが釈迦は鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ改心させたという。以後、「小児の神」として児女を守る善神となり、安産・子育の守護神として信仰されるようになった。入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来からつののない「鬼」の字を使っている。

朝顔市露店風景
鬼子母神のお参りを済ませ、露店(風景1風景2風景3)を物色しながら朝顔の品定めをしました。
朝顔市の露店には色とりどりで、青、紫、赤、白などのほか、混色のもの、斑(ふ)が入ったものや曜(よう)部分に白い筋の入った曜白系のものがあり、また花の形も大輪からミニ、キキョウ咲きのものもあります。葉も緑のものや、薄緑の斑の入ったものなど、新種や珍種が見られどれを選ぶか迷いましたが、今年人気の矢車咲きを選びました。
最終日土曜日の朝顔市でしたが、まだ朝早いうちでしたので露店の言問通りも交通規制を行っておりませんでしたが、午後からは大変に込合ったのではないかと思います。

朝顔話題
入谷の朝顔についての解説が、入谷中央商店街振興組合のホームページに掲載されておりますのでご参照下さい。
また、朝顔市に出される朝顔は、関東近県から集荷されますが、江戸川区産業振興課農産係のホームページによりますと、市に出荷される朝顔は約10万鉢といわれ、約7万鉢の朝顔が江戸川区で生産・出荷されています。朝顔市に向け4月中旬に種をまき、1ヵ月後、苗の状態になったところで、1鉢に4色の朝顔が咲くように植え付けます。5月に入り根付いたころに「あんどん」を差込み「つる巻き」や「花摘み」の作業をしながら最高の状態で出荷されます。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(6月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(A1) 東京百景 山の上ホテルとその周辺(その3) へ
次回 風景・風物詩(B2) 夏の風物詩 浅草ほおずき市 その1 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする