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kan-haruの日記

風景・風物詩 江戸名所図会の古社 水天宮が相殿で平安時代に創建の古社元神明宮

2011年03月10日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2011 お守入りおみくじ 
 
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元神明宮
昔浸食によってできた古川の両岸には、噴火の火山灰により関東ローム層で造られた、三田の中之橋の先の傾斜地の神明坂脇に、平成17年に御鎮座壱千年の記念事業を行った天祖神を祀る元神明宮(港区三田1-4-74)があります。

 小山神明宮 長谷川雪旦 江戸名所図会天保七年

図らずもこの元神明宮に訪れる機会があり、2月28日にお参りしてきました。古社の元神明宮は、平成6年に社殿の老朽化に伴い傾斜地を利用した改築が行われ、社殿を近代建築のビル内に鎮座して、2階の社殿下の1階に付属の神楽殿を設備しました。その神楽殿において、知り合いが出演する邦楽の集い(「イベント 外国人邦楽演奏 第10回インターナショナル邦楽の集い その1、2」参照)が、元神明宮の協賛で開催されましたので観賞のため訪れました。

 元神明宮附近マップ

元神明宮へのルートは大森町から、大門で大江戸線に乗りついで赤羽橋で下車して都道319号を西に進み交差点を左に折れ、昔新宿御苑の湧水が水源であった古川に架かる中之橋を渡り中之橋交差点を横断して、やや細い道を進み左手の国際医療福祉大学病院を過ぎると、三差路の左手に改築された元神明宮のビルが見えてきます。

 元神明宮へと向かう(左:古川に架かる中之橋、右:中之橋交差点を渡り直進すると改築の元神明宮ビルが左手に)

元神明宮へはさらに神明坂の崖縁を進むと、折り返しの参道の石段があり、前には「元神明宮天祖神社」と書かれた社標柱が建っています。

 元神明宮の参道へと進む(左:元神明宮ビルから神明坂を上がる、右:坂を進むと三差路の左が元神明宮への石段参道)

参道を登ると、石段の左側には末社のお稲荷さんが並んで鎮座しているのが見え、上段には石灯籠と神明型の鳥居があり、登りきった境内には元神明宮の提灯と狛犬が鎮座し、その奥には改装された近代的なコンクリート打ちの社殿が見えます。社殿は1階が集会を兼ねた神楽殿で、当日は上記の邦楽の集いが催されていましたので、正面には紅白の幕が張られていました。本殿は、社殿の2階に収容されており、左右の螺旋階段から昇ります。

 元神明宮の参道石段(左:参道石段の左には末社が並ぶ、右:改修された近代的な社殿)

狛犬は、かなり古いようですが創作期は不明で、残念ながら向かって左側の狛犬は一部が破損して補修の跡が痛々しい姿です。左側の狛犬の先には、御手洗の古い水盤が置かれてあります。

 創作年代が不明の狛犬

本殿に参拝のため階段を上がり社殿2階に入ると、木造造りの本殿がすっぽりと収まっています。当日は前述の催しがあり、本殿内部を使用しており扉は閉ざされていました。
元神明宮の祭神は、伊勢神宮・内宮の御祭神・天照皇大御神をお祀りしております。
創建は平安時代に遡り、第六十六代一条天皇の勅命により、1005年(寛弘2年)に奉斎された古社です。古くは、渡辺綱の篤い信仰を受けた御社でもあり、また鎌倉時代の戦乱の世も源頼朝を始め多くの武士から崇敬を受けて参りました。
また、相殿として本殿には安産の神、水難・火難除けの神として崇敬されている東京水天宮が祀られております。この水天宮は、1818年(文政元年)当社に隣接する久留米藩有馬上屋敷内に、邸内社として領地の九州久留米水天宮から分祀され、1868年(明治元年)に有馬邸が青山に移転する祭、当社にも御分霊を奉斎し、その後、青山の有馬邸内社は日本橋蛎殻町の現水天宮社地に移転しました(元神明宮御由緒から)。

 元神明宮本殿(:本殿・クリックで本殿内部表示[神社庁ホームページ]、右:変額)

1836年(天保7年)に本殿・幣殿・拝殿を造営し、1897年(明治30年)に拝殿の屋根の改修を行い、1925年(大正14年)には本殿・幣殿の改築が行われました。氏子崇敬者より1683年(天和3年)に境内の手水石や1804年(文化元年)に太鼓などが奉納されております。
平成6年に社殿の老朽化に伴い全面的な改築を行い、宮司や氏子崇敬者の祈りにより関東大震災や戦災等多くの災難から逃れて来たため、現在では厄除の社として多くの方々が参拝に訪れております。

 御由緒と神画(:御由緒、右:神画)

元神明宮の本殿のバルコニーは、石段を登った境内の2階にありますので、見晴らしが良く末社などの境内全体が見通せます。

 社殿バルコニーから見た風景(左:絵馬掛け、右:境内末社を見る)

・末社
帰り通は、元神明宮の境内に鎮座の末社の7稲荷神社を上から見て行きます。末社全ての稲荷神社の祭神は、宇迦之御魂神を祀ってあります。
先ずは、バルコニーの螺旋階段を下りた社殿に近いところに鎮座の白い鳥居の祠が白滝稲荷神社(銀杏稲荷神社)です。階段を挟んだところにある赤い鳥居の祠は平河稲荷神社で、旧江戸城内紅葉山に鎮座されてお、徳川家三代将軍家光の御台様が信仰していたと伝えられております。王政復古の際に縁があった当地に奉斎されました。また、この平河稲荷神社には、和光稲荷大明神と豊日稲荷大明神が合祀されています。

 境内末社(左:白滝稲荷神社、右:平河稲荷神社)

参道の石段を何段か降りた元神明宮型鳥居の左脇場に鎮座の末社は、権太夫稲荷神社と槻根稲荷神社で、ご由緒は不明です。

 参道の石段途中にある末社(左:権太夫滝稲荷神社、右:槻根稲荷神社)

参道石段下の左手にある2つの鳥居を構えた末社は、天白稲荷神社であり、内海家の守護神として、当主勝二氏が1923年(大正11年)に伏見稲荷山間之峯より迎えて邸内に祀った天白稲荷大明神と、先代忠勝氏が信仰した弁財天を合祀した御社です。

 天白稲荷神社(左:一の鳥居、右:二の鳥居と末社)

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風景・風物詩 初詣風物詩 川崎大師平間寺2011

2011年01月20日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2011 大師老舗の奈良漬けやさん
 
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川崎大師初詣
川崎大師の初詣は、平間寺が菩提樹と同じ真言宗智山派で、方向が恵方の川崎大師には親子何代にわたり毎年初詣をしています。最近は近所に住む従妹夫妻と一緒にお参りに行っており、今年は1月18日に出かけました。月半ばの平日でしたが、お護摩の申し込みの列は大変な行列で、護摩によって大厄を消除し、大師の功徳により開運を祈願する人気は常に高いものです。
このブログでも、2007年から2010年までの毎年と川崎大師の初詣を掲載していますので、同じような記事となっていますので、今回は今まで掲載していない事項を記してみました。

川崎大師の参詣は、川崎大師駅前の厄除け門から大師入口門までの表参道を通り、右に曲がるとすぐ仲見世通りで、お土産の物色は帰りで大山門まで直進です。

 川崎大師参詣路(左:表参道を大師本堂に向かう、中:大師本堂には大師入口門を右に曲がる、右:仲見世を進むと大山門)

大山門を潜り、右手にあるお水やで清めて、参道を直進して献香所で無病息災を祈ってお線香の煙をあびます。

 参道(:大山門、:お水屋、:献香所)

献香所の先の大本殿の大きなお賽銭箱の賽銭をいれてお祈りごとを祈願してお参りします。お参りが済むと、お札・お守りお授け所では、様々なお札やお守りをお授けしておりますので、毎年参拝者の大半の方が受けている、お札は家庭の災難除け(家内安全)の厄除札を300円で受け、お守りはケガや病気などをお大師さまが身代わってくれる身代守りを300円で頂きます。新しいお札とお守りを授かりましたので、1年前の古いお札とお守りとだるまを納札殿へ収めて、おこころざしを捧げて供養してもらいます。

 初参り参詣(:大本殿、:、右:お札お守りお授け所)

初参りが済んだので、昼食を採るため店を探しましたが一斉の時間ですのでどこも混雑しており、今年も比較的すいている昨年と同じ店の食事処「河庄」で済ませました。

・川崎大師のだるま
京急川崎大師からの表参道に店を出しているだるまやさんは、ざっと見て南天堂、小田切商店、井上商店などがあり、小田切商店のお店中央には、日本一大きなだるまが鎮座しているお店で、ことしは干支の卯だるまが店頭に並べられて、店内には3頭の招き犬がお客様をお待ちしています。仲見世通りのだるま店は、かどや開運堂、高橋太一商店、柏屋 植松商店、石渡商店、澤商店、田辺屋、葵商店、丸太屋などがあります。
川崎大師の「厄除・開運だるま」は、1年前のだるまを収札殿へ収めて供養してもらい、帰りには一般には一回り大きなだるまに買い変えていく習慣があります。以前には、知り合いの表参道で買っていた時もありましたが、最近では仲見世通りの門前に近いお店の「かどや開運堂」で購入しています。

 厄除・開運だるまを買う(:日本一大きなだるまが置いてある店、:仲見世のだるまやさん、右:昨年より一回り大きなだるまを買う)

・川崎大師のくずもち
川崎大師のくずもちは、小麦澱粉を1年余り貯蔵した高純度の澱粉を蒸し固めた生菓子で、糖蜜には黒糖で黒蜜に仕上げています。餅の弾力と腰、黒蜜ときな粉のかもしだす淡白な味は最近人気を呼んでおり、大師に行くとくずもちがお土産の定番になっています。今年は、初参りに出かける前に複数個所の知り合いからお土産に頂いておりますので、購入は見送りとしました。
川崎大師のくずもちやさんは、門前の住吉をはじめとして、仲見世にはますや久寿餅店、河庄があり、表参道には住吉屋総本店、福嶋屋、磯福、恵の本などの沢山のお店があります。門前の住吉やさんは、お店を表参道にも出して両通り間で結ばれています。

 仲見世と表参道が結ばれているくずもちの住吉(:門前のくずもちの住吉、:表参道のくずもちの住吉)

・川崎大師のとんとこ飴
川崎大師での土産には、とんとこ飴も欠かせません。仲見世を入るとすぐ入口の両側には老舗のとんとこ飴やが向かい合って、評判堂と松屋総本店が店を構えています。初参りの時期がらから手づくりの咳止めあめはかかせず、昔ながらの製法ののどのもやさしい切り飴のさらし飴は、リズミカルにさらし飴を切る音を響かせて、客を呼込んでいます。仲見世を歩いていると、何処でも聞こえる飴を切る音は川崎大師の風物詩です。
この音に引かれて、大師にくるとお土産にさらし飴とせき止め飴は必ず買って帰り、知人にお土産として渡すと大変と喜ばれます。

 とんとこ飴の店(:仲見世で向かい合ってせき止め飴店を構える
評判堂と松屋総本展、:さらし飴を切る音を響かせて客を呼込む、:さらし飴の製造器)

川崎大師境内の句碑
川崎大師の境内の八角五重塔から薬師殿に向かう間には、沢山の石碑があります。今回は、昨年見に行った寺内の由緒の石碑群から句碑2つを紹介します。
・松尾芭蕉の句碑
松尾芭蕉の句碑の、「父母のしきりに戀し雉子の聲」の句は、芭蕉が弟子の杜国と1688年(貞亨5年)の春に高野山を訪れて詠んだものです。川崎大師の芭蕉句碑は、芭蕉二百回忌の1893年(明治26年)10月に建立されました。

 芭蕉の句碑(写真拡大)

・虚子句碑
川崎大師では、1957年(昭和33年)に高浜虚子を招いて句会が開かれました。その時に詠んだ「金色の涼しき法の光かな」の句を、1958年(昭和34年)4月8日に虚子が85歳で没した年の5月14日に建立したのが絶筆の句碑で、毎年の虚子忌に祀っているとのことです。

 虚子の句碑(写真拡大)

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風景・風物詩 白金台の紅葉 自然教育園と東京都庭園美術館の日本庭園で紅葉を楽しむ その2

2010年12月13日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2010 日本庭園の紅葉
 
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東京都庭園美術館
12月4日の午前には自然教育園の紅葉を楽しんだ後、昼食後に隣接してある東京都庭園美術館日本庭園の紅葉をハシゴで観賞しました。
東京都庭園美術館(白金台5-21-9)は、1981年(昭和56年)に東京都が購入し、1983年(昭和58年)に都立庭園美術館として公開されました。美術館の展示は、館蔵品による常設展示は行ってなく、特定のテーマに沿った企画展示が年数回行われており、展示の無い時には日本庭園のみ公開しています。12月の企画展示は、11日から1月16日までが朝香宮のグランドツアーで建物公開となっていました。
入園料は、展覧会によって異なりますが、庭園のみの入園料は一般が200円で、大学生が160円で、中・高校生と65歳以上が100円で、小学生以下は無料であり、休館日は年末・年始と第2・4水曜日です。

 東京都庭園美術館入場券

・庭園美術館の歴史
1947年(昭和22年)に朝香宮鳩彦王が皇籍離脱まで暮らしていた邸宅跡で、現在美術館として使用している邸宅は当時流行のアール・デコ様式を採用した1933年(昭和8年)に竣工した建物で、東京都の有形文化財に指定されています。
建物は第二次世界大戦後吉田茂によって外務大臣公邸などに使用された後、1950年(昭和50年)に西武鉄道に売却され、国賓・公賓などの迎賓館として使用されていました。

 旧朝香宮邸(:旧朝香宮邸説明板、:旧朝香宮邸正面、:旧朝香宮邸側面)

・庭園美術館日本庭園
庭園の公開は、芝生広場、日本庭園、西洋庭園のエリアに分かれており、野外設置の彫刻作品があります。

 庭園美術館庭園Map

美術館に入り弓なりに北に進むと、旧朝香宮邸(美術館)の正面に出ます。美術館の玄関口の左手に庭園の入り口があり、入り口の先は芝生広場です。その奥が日本庭園で、芝生広場から見た庭園風景は、自然教育園の自然の樹木で生い茂った景色とは異なり、対比してみると造作された庭園の紅葉はまた見事なものです。

 芝生広場から見た日本庭園内の紅葉(写真拡大)

芝生広場から日本庭園に入ってすぐの回遊式の池の畔の古木のモミジの紅葉には、多くの観賞者が見とれて盛んに写真を撮っていました。

 回遊池端の紅葉(写真拡大)

回遊池の周囲を一周して見て、庭園の美を醸し出す池の風情にマッチしたモミジの配置には感嘆しました。

 回遊池と紅葉(写真拡大)

日本庭園はこじんまりした庭園ですが、紅葉の季節には見ごたえのある造作で、真っ赤に燃えたモミジをじっくりと観賞してきました。

 紅葉に燃える日本庭園のモミジ(写真拡大)

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風景・風物詩 白金台の紅葉 自然教育園と東京都庭園美術館の日本庭園で紅葉を楽しむ その1

2010年12月11日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2010 モミジのビュウーポイント 

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今年の都内の紅葉狩は、港区白金台に隣り合って並んでいる自然教育園と東京都庭園美術館の紅葉を快晴で暖かい日差しに恵まれた12月4日に見てきました。
先ずは、家を11時頃出て品川より都営地下鉄浅草線で三田駅乗り換え、同三田線で白金高輪駅から地下鉄南北線に乗り付いて白金台駅で下車して、目黒通りを徒歩5分で自然教育園の入り口です。

 自然教育園・庭園美術館地図

自然教育園
自然教育園(港区白金台5-21-5)は、1949年(昭和24年)に「天然記念物及び史跡」に指定され、文部省の所管となり国立自然教育園として広く一般に公開され、1962年(昭和37年)に国立科学博物館附属自然教育園となり面積が20ha(6万坪)あります。入園料は、一般と大学生が300円(特別指定日は無料)で、65歳以上および18歳未満の方は無料であり、年末・年始と月曜日は休日ですが、紅葉時期とかには休園日でも開園をしています。自然教育園では、園内の環境を静寂に維持するため、入園に300人の定員を設けて制限をしており、入場の際は入り口で渡されたリボンを胸に付けて回ります。

 自然教育園園内マップ

自然教育園の正門を入ると右側に教育管理棟があり、教育園の資料や売店があります。以前勤めていた会社が目黒の近くにあった関係で教育園には何度か来ており、全体は既に回って歩いています。

 自然教育園(写真拡大)

・自然教育園の歴史
自然教育園のある白金台地の昔は、園内から縄文中期の土器や貝塚が発見されており、室町時代に入るとこの地方にいた豪族がこの地に館を構え、土塁は当時の遺跡の一部と云われています。
江戸時代には増上寺の管理下に入り、1664年(寛文4年)には高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内の物語の松やおろちの松などの老木は、庭園の名残と思われます。明治時代には海軍省・陸軍省の管理となり、1917年(大正6年)には宮内省帝室林野局の所管となり白金御料地と呼ばれていました。

 自然教育園風景(:シイの巨木、:路傍植物園三叉路の道案内標、:物語りの松案内板)

・紅葉観賞
今回は時間の関係もあるのと紅葉観賞の目的なので、園内のひょうたん池までの往復を紅葉散策コースと決め歩きました。園内を入り口から進むと、通路は路傍植物園で沢山の植物が見られます。最初の紅葉の見どころは路傍植物園を歩き始めて右側にシイの巨木があり、そこを過ぎると左手に紅葉が見えてきます。紅葉の状態は、12月の第1週でしたのでやや早めのようでした。

 路傍植物園三叉路手前の紅葉(写真拡大)

路傍植物園の道をさらに進むと三叉路の道案内があり、左に行くと中世の豪族の館跡を経て水鳥の沼の方へ進みます。ひょうたん池に行く右の道を進むと、すぐ右手にも紅葉が見られます。

 路傍植物園三叉路の先の紅葉(写真拡大)

紅葉観賞しながら、路傍植物園の道を行くと左側に古木の「物語の松」があり、歴史を感じながら進むとひょうたん池に到着です。ひょうたん池の周辺の紅葉を、ベンチに腰かけてたっぷりと観賞しました。

 ひょうたん池の紅葉(写真拡大)

時計を見ると、12時40分を回っていましたので昼食を採るため路傍植物園を切り上げて、今来た道を戻り出口へ向かいました。

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風景・風物詩 秋の深大寺 神代植物公園の秋のばら・菊の観賞と深大寺の歴史に浸るその2

2010年12月03日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2010 賓頭蘆尊者(びんずるそんじゃ)  

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深大寺と深大寺そば
神代植物公園の深大寺門の南側の低地は、水と緑とおそば屋さんに囲まれた名刹深大寺の境内です。

 深大寺周辺マップ

深大寺山門周辺には、20店を超す深大寺そば店があります。神代植物公園の深大寺門を出ると、深大寺に進む道の前には2店の蕎麦屋さんがあり、客の呼び込みをしていました。
昼は深大寺門前の周辺に行ってからおそばを食べようと思っていましたが、時計を見ると13時半を回っていたので、呼び込まれるままに玉之屋の屋号のある蕎麦屋さんの庭の赤い緋毛氈の椅子のテーブルに座り、二八の天ざるを頼みました。

 深大寺周辺そば処

・深大寺そばの始まり
江戸時代、深大寺周辺の土地が、米の生産に向かないため、小作人はそばをつくり、米の代わりにそば粉を寺に納め、寺ではそばを打って来客をもてなしたのが、深大寺そばの始まりと伝えられています。
深大寺そばが有名になったのは、深大寺の総本山である上野寛永寺の門主第五世公弁法親王が、深大寺そばを大変気に入り、まわりの人々をはじめ全国の諸大名にも深大寺そばのおいしさを言い広めたからのようです。そのため、深大寺そばの名が高まり、多くの家から深大寺へそばの使者が立つほどになりましたので、深大寺そばは「献上そばとも」言われています。
また、別の説では、徳川第三代将軍家光が、鷹狩りの際に深大寺に立ち寄って、そばを食べほめたからだとも言われています(調布市郷土博物館 「深大寺そば」より)。

そばに舌つつみを打ち、深大寺への坂道を下ると左に深大寺の乾門を、右側には万霊塔を見て直進すると弁財天池に突き当り、山門前のお蕎麦屋やお土産店が立ち並ぶ賑やかな通りを深大寺に向かいます。

 深大寺に向かう(:深大寺乾門、:深大寺万霊塔、:深大寺山門前通り)

通りを左に曲がると水路があり、左手の石段を登ると山門です。山門は、1965年(元禄8年)に寄進により普請された、切妻屋根を乗せた境内最古の建築物です。
山門を潜り左のお水舎ですすぎ、参道の正面を進むと常香楼があります。常香楼は1833年(天保4年)に建立されましたが、幕末の大火で焼かれた焼け跡が残っています。常香楼は、屋根上には宝珠を乗せ、四隅の降棟の先には鳳凰の頭を付けています。

 深大寺山門から境内に入る(:水路を渡り石段を登ると深大寺山門、:境内中から見た深大寺山門、:山門を潜ると本堂前には常香楼が見える)

参道の正面には1919年(大正8年)に再建され、平成15年に改修された本堂があり、本堂には鎌倉時代前期の作と云われる阿弥陀如来が本尊として祀られています。

 深大寺本堂(:阿弥陀如来が祀られた本堂、:五大尊池越しに見た本堂)

本堂の左側には元三大師堂があり幕末大火で類焼し、1867年(慶應3年)に再建され鎌倉末期の作と云われる慈恵大師像が安置され、この慈恵大師(元三慈恵大師良源)が深大寺の信仰の中心となっています。

 元三慈恵大師良源が祀られた元三大師堂(・右写真拡大)

元三大師堂の左手前には、1976年(昭和51年)に新築された釈迦堂があり、金銅釈迦如来倚像といわれる国重要文化財に指定された白鳳仏が安置されています。この仏像の伝来や何故深大寺にあるのかは不明です。
鐘楼は1870年(明治3年)に再建されたもので、現在の梵鐘は平成13年に鋳造したものと架け替えてあります。旧の梵鐘は国重要文化財に指定されており、1376年鋳造で山城守宗光の銘があり鎌倉末期の特長を示しており、都内では三番目に古くそのため戦時中にも徴発を免れたといわれています。

 釈迦堂と鐘楼・梵鐘(:白鳳仏が安置されている釈迦堂、:旧梵鐘は対戦の徴発を免れ国重要文化財指定)

山門前の参道の土産店・そば店
深大寺の参詣が済み、前回来た時に入った深大寺蕎麦店を探しながら、山門前周辺の土産店・そば店を探索しました。

 深大寺山門周辺の蕎麦・土産物店(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

今年は、NHKの連続テレビ小説の朝ドラで人気の出た『ゲゲゲの女房』により、水木しげる夫妻が生活している東京都調布市であることより、参道の中間付近にある鬼太郎茶屋が人気で人が集まっていました。参道から鬼太郎茶屋を覗いてみました。鬼太郎茶屋は2階建てで、1階の物販コーナーには鬼太郎グッズや水木しげる著作本と関連書籍などに、お菓子類の食品を販売し、同飲食コーナーではぜんざいやみそおでんに飲料を出しています。2階には。混んで上がりませんでしたが、妖怪ギャラリーがあり、•水木氏の紹介や著作等の展示や水木しげるロードの観光案内が出ています。

 鬼太郎茶屋(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

帰路は参道の観光案内所を右に曲がり、200m程進むと吉祥寺行きのバス停がありますので、そこから込み合ったバスで吉祥寺駅に行き、京王井の頭線で渋谷、品川経由で帰りました。

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風景・風物詩 秋の深大寺 神代植物公園の秋のばら・菊の観賞と深大寺の歴史に浸るその1

2010年11月29日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2010 神代植物園バラ園 

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秋の深大寺
武蔵野の深大寺には何回か訪れていますが、子供が小学生の頃に連れて行ったのが最後なので、かなりの年月が経過しているのに気付きました。広大なうっそりとした森に囲まれた深大寺は、水路や池に囲まれた景色に調和した由緒ある古刹で、門前町の「深大寺そば」とともに訪れた想い出は、何時までも心に残っています。また、本年は特にテレビで人気が大変と盛り上がった、「ゲゲの鬼太郎」の水木氏の第2の故郷でもありますので、快晴に恵まれた晩秋の11月2日に昔懐かしい神代植物公園を回って、久しぶりに深大寺周辺の自然に触れてきました。

神代植物公園
神代植物公園へは、品川方面からは渋谷駅で乗り換えて京王井の頭線の終点吉祥寺駅で下車して、南口丸井デパート前から調布駅北口行または深大寺行バスに乗り「神代植物公園前」下車で正門です。

 神代植物公園へのアクセス

神代植物公園(調布市深大寺元町5-31-10)は、戦後に神代緑地として公開されたあと、1961年(昭和36年)に神代植物園と名称を変え、面積が486,536.94平方メートルの都立植物公園として開園しました。入園料は、一般・大人が500円、65歳以上250円、中学生200円(小学生以下入園無料)で、月曜日及び年末年始が休園日です。

 神代植物公園園内図
 
神代植物園には、約4,500種類、10万本・株の樹木が植えられています。園内のバラ園には秋バラが盛りで、秋晴れの日差しのなかを蝶や蜂が舞って花の蜜を吸ってる風情にはのどかな気分を味わえます。丁度この時期の11月2日から11月23日までは、正門近くの特設展示場では菊花大会が開かれており、菊花のかぐわしい香りが漂っていました。

 園内菊花大会会場(写真拡大)

菊花大会会場には菊花盆栽も展示しており、多くの見事な盆栽に感心し見とれて観賞してきました。

 菊花盆栽展示(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

菊花盆栽を見てから南へと進み、ボタン園を経てバラ園にて秋のバラを観賞しました。2日はウイークデーですが、天候が良いので思ったより人が出ており、行楽シーズンに付き物のカメラクラブの多くのファンが花の撮影にあちこち移動していました。

 バラ園の秋のバラ(写真拡大)

色とりどりの大輪のバラは、鮮やかな色彩で見事な花を見せております。カメラクラブの人達は、一輪一輪のバラを構図を構えて撮影していました。バカチョンで、負けじと写してみました。

 大輪の秋のバラ(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

風が無く暖かい好天で、植物園には多くの蝶や蜂が花に止まり蜜を吸っていましたので、動画で記録をしてみました。

バラの蜜を吸う蝶と蜂.wmv

[クリックするとバラの蜜を吸う蝶と蜂の3態が見られます]

バラ園のバラを観賞していると、国際バラコンクール花壇がありましたので、覗いてみました。

 国際バラコンクール花壇(写真拡大)

バラ園の中央に来ると、西方には大温室があります。温室の中央部の休憩所では、丁度亀っ子倶楽部の花姿伝という写真展が開かれていました。少し歩き疲れましたので、休憩所で水分補給の休憩をとりました。

 神代植物公園の大温室(:大温室、:大温室内のイベント)

大温室では、池の熱帯植物に咲いている花の観賞をしました。

 大温室の熱帯水生植物の花(写真拡大)

池の熱帯植物の先の温室には、色とりどりの眼も覚めるばかりの陸生の花々が、これとばかりに満開に開いており、非常に沢山の華やかな熱帯植物を観賞しました。

 大温室の熱帯植物の花々(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

大温室を出ると、時計塔のチャイムが13時のメロディを流していましたので、昼食のおそばを食そうとバラ園の南側通路を進み、バラを眺めながら深大寺門出口へ向かいました。

 バラ園を深大寺門出口に向かう(写真拡大)

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風景・風物詩 稗田神社 僧行基が天照、八幡、春日の三神を祀り僧日蓮が開眼した延喜式古社その2

2010年10月20日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2010 稗田神社社殿に並んで建つ薬祖・稲荷・三十神社末社

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稗田神社御祭神
新編武蔵風土記稿によると稗田神社は、東海道の西の方に寂しさがただようひとむれの木立が茂り、かたはらに小さな池と水路が廻る面積が2115平方メートルの境内に、本殿(1.8mに2.7m)と拝殿(4.5mに3.6m)があり、社殿前の数メートル先に柱間隔が3.6メートルの石鳥居が建つ北蒲田村の鎮守様です。この石鳥居はその1に記述の通り、現在は大田区指定の有形文化財として神社正門に移動して、その姿を見せています。

 鹿児島紅梅の献木 

稗田神社は本来蒲田八幡社であり、行墓(668-749) 菩薩作が彫った木造彫刻の天照、八幡、春日の三神体を祭神として祀ってあります。行墓の木造は高さが82cmの立像で、天照太神は鉾を逆に杖つきて巌の上の立姿であり、八幡大神(誉田別命)は左の御手に弓をとり、右の御手にて御はかせの柄に手をかけた容姿です。春日大神の像は、慶長年間に新宿村が北蒲田村より分村した時に、稗田神社に勧請して新宿村鎮守として新宿八幡社を創建した際に、春日大明神の像を分けて八幡社に祀られました。新宿八幡社は、1949年(昭和24年)8月に蒲田八幡神社(「風景・風物誌 京急高架化沿線の春 5月開通の上り線高架橋沿線の桜を歩く(蒲田八幡神社)第1回」参照)に改称されました。
この鎌倉時代以前の祭神の三神体像は、第二次世界大戦の戦災により天照、八幡像は稗田神社で、春日像は明治維新の神仏分離に際して遷された旧別当の妙安寺で、それぞれが失われました。
新編武蔵風土記稿の時代の稗田神社の例祭日は、年々正月15日に神楽を奏して祭るとありますが、現在では9月15日近くの土・日曜日に行われ、今年は同11、12日が例祭でした。

 例祭準備の稗田神社(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

現在の御祭神は、その1に記述の通り天照、八幡、春日の三神体と共に武内宿禰命 荒木田襲津彦命の二神体が相殿しており、境内には天祖神社(1965年[昭和40年]10月16日建立)と山野神社(1915年[大正4年] 9月15日建立)の合祀の碑が建てられています。

 天祖神社・山野神社の合祀の碑(:天祖神社合祀の碑、:山野神社合祀の碑正面、:同裏面)

稗田神社末社
稗田神社末社の小祠の創建は古く、江戸時代の1683年(天和3年)で、新編武蔵風土記稿が書かれた1830年には、三祠とも末社は建てられており古い歴史の末社です。
しかし、三社の末社は1945年4月の世界大戦で焼失のため、稗田神社の社殿が再建された1954年(昭和39年)から暫く後の1988年(昭和63年)に、現在の末社の新社殿が再建造営されました。

 稗田神社社殿に並んで建つ薬祖・稲荷・三十神社の末社(写真拡大)

末社の最奥に並ぶ薬祖神社は、祭神には少彦名命と神農大神が祀られ、稗田神社の地主神の元宮と云われています。

 薬祖神社(写真拡大)

真ん中の末社の稲荷神社には、宇迦之御魂神が祀られ、昔は蒲田の農業の神として、現在は商売繁盛の神として参拝者が集まります。

 稲荷神社(写真拡大)

手前の末社の三十神社には、昔のこの地は法華信仰が盛んな地であり、法華神道の教理の三十柱の神様が祀られています。

 三十番神社(写真拡大)

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風景・風物詩 稗田神社 僧行基が天照、八幡、春日の三神を祀り僧日蓮が開眼した延喜式古社その1

2010年10月18日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2010 例祭の稗田神社

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延喜式内社稗田神社
大森町に接した北蒲田の東海道の西方に、延喜式神名帳に記載された歴史の古い稗田神社(大田区蒲田3-2-10 ひえだの『ひえ』は『薭』が正式漢字ですが、一部を除き本文では「くさかんむり」をとった『稗』で表記します)が鎮座されています。
延喜式神名帳は、927年(延長5年)に作られた平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典で、延喜式巻九・十に当時の祈年祭奉幣にあずかる神社2861社の「式内社」を国郡別に羅列して記載されています。延喜式神名帳の東海道武蔵国には44座が記載され、荏原郡には次の様に小2座に「武蔵国荏原郡薭田神社」が記載されています。


稗田神社の社伝によると、709年(和銅2年)に僧行基が天照、八幡、春日の三神を造り神殿に安置したのが創期と伝わっています。武蔵国荏原郡の郷名には蒲田郷の地名が平安時代以前からあり、延喜式神名帳の以前に編纂された歴史書「三代実録」に、「貞観6年8月14日戌辰に詔して武蔵国従五位下蒲田神を以って官社に列す」とある様に、当初の社名は「蒲田神社」でありました。「蒲田神社」が延喜式神名帳に「薭田神社」と記載されたのは、「新編武蔵風土記稿」によると、幕末の国学者栗田寛は「蒲」という漢字の古体字を、「薭」と誤写しそのまま後世に伝えられ、神社に地名を使用しているとは思わずに別当の栄林寺の僧が、神祇管領の吉田家に神社名を「薭田神社」と申請して許可を得たためこの社号が成立したと云われています。

稗田神社
大田区にある延喜式古社の磐井神社(「大森町の社寺 磐井神社 古記に伝わる敏達天皇の二年に鎮座した大森で最も古い磐井神社の夏祭り」参照)と六郷神社(「風景・風物誌 京急高架化沿線の春 5月開通の上り線高架橋沿線の桜を歩く(六郷土手駅付近)第3回」参照)は参拝していますが、大森町から近い稗田神社には今まで参拝しておりませんでしたので、9月祭日の11日とさらに19日に行ってきました。
稗田神社へは、京急梅屋敷駅から第1京浜国道(東海道)を南へ梅屋敷公園角まで進み、右折して西約400m進んだ二股のところが神社の正面入口の鳥居ですが、現在においては古社の面影は全く見られません。大田区は世界大戦で焼野原となり、石造物以外の物は戦災で全て焼失したため歴史的な遺産は殆ど残っていないのです。

 稗田神社地図

道路二股の稗田神社入り口の石鳥居は、柱背面の銘文によって1800年(寛政12年)に北蒲田村の氏子によって寄進されたと記載されており、区内の石鳥居の中で古いものの一つで、大田区指定の有形文化財として1974年(昭和49年)2月2日指定されています。この鳥居は、花崗岩の明神型鳥居で、高さ310センチ、柱間314センチ、中央に「稗田神社」の社号を刻した石額を掲げてあり、笠木は全体にゆるやかな反りをもって、柱のつり合いもよく、安定した姿をみせています(大田区の史跡・歴史より)。

 稗田神社正門(写真拡大)

鳥居を潜ると境内には、正面参道の奥に本殿があり、参道右手に本殿と並んで奥から縦並びに薬祖神社、稲荷神社、三十番神社の三社が合祠されています。境内の左手は、駐車場広場になっています。

 稗田神社境内(GoogleEarth) 

神社境内参道の左側には、由緒が記された大きな石標が1956年に建立されており、右側には手水舎があります。

 稗田神社境内1(:稗田神社由緒書きの石碑、:手水舎)

参道には石灯籠、狛犬と並び正面が拝殿です。狛犬は渦状「前髪」で尻尾も渦を巻いて左右に流れており、狛犬の左の台座には「氏子一同、昭和34年8月15日、青山石勝」とあり、右の台座には「鎮座千二百五十年」とあります。1250年は、鎌倉時代・建長2年にあたりますので江戸時代の奉納であるのではないかとも思われます。

 拝殿前の石灯篭と狛犬(:拝殿前の石灯篭と狛犬、:拝殿前の狛犬)

現在の社殿は平成12年に鉄筋コンクリート造りで竣工したものですが、稗田神社の古い記録は度々の火災や水害で残っていませんが、社伝によれば、709年(和銅2年)に僧行墓が天照、八幡、春日の三神体を創り当社に安置し、後に僧日蓮が村民の請をいれて開眼したといわれていますが記録が定かでありません。旧社格は郷社で、864年(貞観6年)に官社に列し、延喜式に「荏原群稗田神社」とあるのは、当社が当該社であることと云えています。

 平成12年竣工の社殿(:稗田神社本殿、:稗田神社拝殿)

稗田神社の由緒を石碑より読むと、
「主祭神  誉田別命
 相 殿  天照大神 武内宿禰命 荒木田襲津彦命 春日大神
 例祭日  九月十五日
抑も当社は三代実録延喜式その他の古文書に明記せられたる由緒深き所轄延喜式内の神社にして蒲田草々の古社なり
和銅二年(七〇九) 僧行墓は天照・八幡・春日の三神体を造り本社に安置す 後年僧日蓮は池上宗仲の館に入るに及び村民の請を容れ改めて開眼すると伝う
清和天皇貞観六年(八六四)官社に列し従五位下を賜り 明治五年十月郷社に定めらる
安政四年(一八五七)拝殿を改築 元治二年(一八六五)本殿を改築 昭和四年拝殿幣殿を改築 昭和九年本殿屋根葺き替え及び神楽殿を新築す
昭和二十年四月十五日戦災のため灰燼に帰す 昭和二十一年九月十五日仮本殿を再建し 昭和二十九年八月十五日本殿・幣殿・拝殿を新築す
 昭和三十一年八月十五日
                      宮司  上野 喜信
                                 撰」
と記されています。


 稗田神社社殿変遷(左:江戸時代建築の社殿、中:1934年[昭和9年]改築の社殿、右:1954年[昭和29年]再建の社殿、稗田神社HPから)

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風景・風物詩 東京スカイツリー 江戸文化の残る隅田川・荒川界隈に高さ世界一の自立式電波塔が建つ

2010年05月07日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2010 東京スカイツリーパンフレット

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NHKと在京民放キー局5社が600m級の新しい電波塔を求め、「在京6社新タワー推進プロジェクト」が発足し、東京都墨田区の東武鉄道の本社隣接地の貨物駅跡地に建設される高さ世界一の東京スカイツリーは、3月29日に東京タワーを追い抜きその頃から見物人が押しかけて話題となっています。連日の新聞やテレビのニュースで工事の進行が見られますが、1957年着工の東京タワーの建設状況を山手線の車窓から眺めた時代の者にとっては、懐かしい壮大な塔の建設状況を直接に見たくなり、所用で墨田区役所に出かけた連休あけの5月6日に北十間川辺に行ってきました。

 東京スカイツリー周辺地図

東京スカイツリー
東京スカイツリー(墨田区押上1-1-13)は5月6日現在のツリーの高さが368mで、1958年完成の東京タワー(333m)より高い塔位置の330m付近から上部に、3階の第1展望台(350m)を建設しております。ちなみに東京タワーの展望台の高さは、大展望台2階が125mで、特別展望台が250mですので、ツリーの第2展望台(450m)と比較すると高さの規模がわかります。

 東京タワーの高さを超えたスカイツリー(:5月6日のスカイツリーの高さ、:浅草から見たスカイツリー、:増上寺から見た東京タワー)

東京スカイツリーへは都営地下鉄浅草駅から、隅田川の向こう岸の右手のツリーを見ながら東武浅草駅に行きました。

 浅草から隅田川の向こう岸のスカイツリーを見る(写真拡大)

東武浅草駅から東武鉄道で一駅先の業平橋駅に行きましたが、連休明けの日でしたので見物客はあまり降りませんでした。駅ホームから貨物駅跡地で建設中の現場の雰囲気を見てから、目前のスカイツリーを仰ぐと東京タワーを超えた高さになったので、368mの天辺は首一杯にして見上げました。平日でしたので写真が写せましたが、休日ではホーム上での写真撮影は禁止の様です。
なお、改札を出て通りの反対側の第2東武館1階に東京スカイツリーインフォプラザ(墨田区向島1-33-12)があり、東京スカイツリープロジェクトの情報を発信しているので寄って見ましたが、団体客の予約が一杯で入れませんでした。新聞によると、5月1~5日の期間に計約1万5千人が訪れたと報道していましたが、個人客には連休明けでも入れないと云う程のブームです。

 業平駅ホームからスカイツリーを見る(写真拡大)

見物が出来ないインフォプラザを後にして、十間川を対岸に渡ると工事現場を目の前で東京スカイツリーが間近に見られるので、見物者で一杯ですがウイクデーでしたのでゆっくりと見物できました。

 十間川沿いで建設中のスカイツリー(写真拡大)

東京スカイツリーは高さが634mで世界最高の高さを誇ります。高さの数字を決定するにあたり、覚えやすい数字にしたいと考え、日本人にとってなじみ深い武蔵の国をとって「634=むさし」と決めたそうです。また、タワーの構造は、日本独自の建築技術の代表の五重塔にみられる制振システムを最新の技術で再現し、東京タワーのような末広がりの鉄骨組み立てとは異なり、スカイツリーの足元は一辺が約68mの正三角形の平面形でカメラの三脚の発想です。三角形の頂点の3点から上部へ伸び、地上50mのところでひとつにつながり、高層部では円形となり600m以上の高さにまで伸びていきます。三角形から円形への構造変化は、三角形の頂点が描く稜線は日本刀の持つ「そり」がとられ、円形に変化する部分からは、奈良・平安時代の寺院建築の列柱がもつ中央がゆるやかに膨らんだ「むくり」というデザインがとられたそうです。

 東京スカイツリーの構造

ユニークな構造のスカイツリーをゆっくりと見学できたので、所要目的の墨田区役所に向かいました。区役所のエントランスには東京スカイツリーの模型が置いてありました。区役所からのスカイツリーを眺めて帰路につきました。

 墨田区役所で見た東京スカイツリー(:墨田区役所に置いてある東京スカイツリーの模型、:墨田区役所付近から見た東京スカイツリー)

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風景・風物誌 京急高架化沿線の春 5月開通の上り線高架橋沿線の桜を歩く(六郷土手駅付近)第3回

2010年04月08日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2010 満開の緑地堤防桜並木の桜

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六郷橋緑地堤防桜並木
京急高架化沿線の花の第3回として高架橋南端の京浜急行六郷土手駅東方にある六郷橋緑地堤防桜並木を4月6日の花見日和に廻ってみました。

 六郷周辺地図

六郷橋緑地堤防桜並木へは六郷土手駅から東におよそ300m行くと、多摩川にかかる第一京浜国道の新六郷橋があります。その多摩川の左岸を羽田(東)方向に向かうと、六郷水門までの河川敷一帯が多摩川六郷橋緑地で、野球場、テニスコート、ゲートボール場やトラック状のサイクリングコースが整備された東京ドームの2倍以上の敷地面積(119,659㎡)を持った公園になっています。また、堤防の土手の上はサイクリングロードになっており、サイクリングロードの京浜急行線の西側方向上流の始点は多摩川丸子橋緑地の丸子橋からで、六郷橋緑地の下流方向の終点は羽田空港入り口の弁天橋までの全長約11kmに及んでいます。

 多摩川六郷橋緑地(:第1京浜国道新六郷橋、:多摩川左岸の六郷土手、:多摩川六郷橋緑地)

このサイクリングコースの新六郷橋から雑色ポンプ所の放流簗・吐口までの土手の幅員は一段と広くなっているので、自転車と歩行者が無理なく行き来ができます。六郷橋緑地堤防桜並木は雑色ポンプ場付近の土手の北側に並木があり、大田区の多摩川フォーラムが認定した桜の札所の1つです。

 六郷橋緑地堤防桜並木1(写真拡大)

桜並木は雑色ポンプ所から先もまだ続きますが、このあたりから引き返して次の目的の六郷神社に向かいます。絶好の花見日和で土手下の桜にはシートを敷いて、家族連れや仲間達が花見の団欒に興じていました。

 六郷橋緑地堤防桜並木2(:雑色ポンプ所で折り返して戻る、:土手の下で花見の宴、:帰路の緑地堤防桜並木)

六郷神社へ旧東海道を行く
桜並木から新六郷橋に戻ると第1京浜国道に並ぶ道路は、旧東海道の道筋です。その道筋を北に250mほど進むと六郷土手北詰めで、道端に旧東海道跡の石碑が建っています。

 旧東海道跡を北へと進む(:旧東海道の道筋、:旧東海道を北へと進む、:六郷土手北詰めに建つ旧東海道跡道標)

旧東海道の古い町並みを見ながら進むと、旧東海道と第1京浜国道とは一体となります。昔は東海道筋であった国道15号線の前は六郷神社の入り口で、1935年(昭和10年)に建立された鳥居があります。

 旧東海道沿いにあった六郷神社(:古い町並みの旧東海道を北へと進む、:六郷神社前で旧東海道と国道が一体となる、:六郷神社入り口は旧東海道と接していた)

・六郷神社
東海道筋にあった六郷神社(大田区東六郷3-10-18)には、境内を入るとすぐ左側に東海道跡の石碑が建っています。旧東海道側の入り口は脇参道で、参道には石灯篭や春日灯篭があり、拝殿へは突き当たりにある社務所前まで進むと境内に南北の表参道があります。

 六郷神社の本殿参拝路(:東海道跡の石碑、:六郷神社由緒板、:東海道入り口から本殿には社務所前に進む)

・由緒
六郷神社創建は古く由緒によると、1057年(天喜5年)に源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢に源氏の白旗をかかげて軍勢をつのり、その役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが創建と伝えられています。
源頼朝も奥州征定の1189年(文治5年)に、祖先の例にならい白旗を立てて戦いでの勝利を祈願し、1191年(建久2年)に梶原景時に命じて社殿を造営しました。 社宝となっている雌獅子頭(めじしがしら)と境内に残る手水石は、このとき頼朝が奉献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれております。
徳川家康は1591年(天正19年)に、神領として十八石を寄進する朱印状を発給し、1600年(慶長5年)に六郷大橋の竣功を祈って願文を奉り、六郷神社の神輿をもって渡初式を行ったと史書にあり、八幡宮の巴紋と併せて葵紋を用いているゆえんとなっています。 
江戸時代には、東海道をへだてた西側の宝朱院(御幡山建長寺)が別当寺でしたが、明治維新により廃され、1872年(明治5年)に東京府郷社に列格し、1876年(明治9年)より六郷神社と称して今日に至っています。
ご祭神は、今から950年余の昔、京都石清水八幡宮の分霊をお祀りした神社で、一般に八幡様は応神天皇、神功皇后、比売大神の三柱の神様をお祀りしていましたが、その後六郷神社では応神天皇の一柱をお祀りするようになりました。

・境内散策
表参堂の北側には茅葺きの入母屋造りの拝殿を配し、拝殿の後ろに密着して建てられた江戸中期の神社建築の貴重な存在の本堂があります。拝殿の西側には年代の神楽殿があり、東側には新しく建てられた神輿庫があります。

 境内散策1(:六郷神社拝殿、:六郷神社神楽殿)

拝殿から表参道の南方を見ると手水舎と神門があり、参道東側には境内末社があり案内板に列挙された祭神には、天照大神、素盞嗚命、日本武尊、大物主命、布津主命、天太玉命、天児屋根命、宇迦御魂命とあります。

 境内散策2(:神門、:境内末社、:手水舎)

また、境内の前庭には、源頼朝が寄進した手水石が置いてあり、1685年(貞享2年)に六郷中町の有志が奉納した大田区内最古といわれるユーモラスな小さな狛犬が見られます。

 境内散策3(:源頼朝が寄進した手水石、:大田区内最古の狛犬) 

切り妻造りの総檜の神門の外側には鳥居があり、鳥居の先には梶原景時が奉納したといわれる太鼓橋の神橋があり、神社の正面の風格を現しています。

 境内散策4(:神門と鳥居、:六郷神社正門、:梶原景時が奉納した神橋)

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風景・風物誌 京急高架化沿線の春 5月開通の上り線高架橋沿線の桜を歩く(大森町駅付近)第2回

2010年04月05日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2010 内川遊歩道

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大森町の桜
今年の東京の天候は、4月1日の桜満開の宣言の日が晴れた他は陽気が冷え込み、雨模様の日が続き花見日和には恵まれませんでした。
京急高架化沿線の花の第2回として大森町駅周辺の桜を、4月3、4日の土日に廻ってみました。例年ですと、土日や花見日和には近隣の方やクラブの方々が大勢集まって盛り上がるのですが、今年は肝心の空模様が3日に晴れ間を見せた以外は、気温も低く愚図ついて花見も閑散とした陽気でした。

 大森町駅周辺地図

・大森西交通公園の桜
大森町の桜は、京浜急行高架橋を中心にした西側に散在した公園などで見られます。特に、大森町の中心にある大森西交通公園(大田区大森西3-4)は、京急の平和島第5踏切道路の西方の約100mの北側にあり、広さ約3300㎡の公園の遊具施設には交通公園の示す通り、小学生以下で利用可の自転車、ゴーカート、豆自動車、三輪車等が備えられており、信号機や、横断歩道もあるサイクリングコースになっています。

 交通公園の桜(写真拡大)

このサイクリングコースの中央や周辺には芝が植えられた広場になっており、公園の南側と西側に植えられた桜の並木は見事なもので、満開の頃はこの広場は花見見物で賑わいます。また、西交通公園は町会のイベント広場であり、盆踊り大会などには多数が参加します。西交通公園の道を挟んだ北西に、北側の大田福祉作業所と場所変えして2008年に完成した大森諏訪公園(広さ約1280㎡)があります。同公園の特徴は、樹木の少ないオープンな広場だけの公園で、移設した桜が1本と町会60周年記念に植樹した(「大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の秋のイベント(2009.11.29)」参照)区の木の梅が3本あります。移転する前の内川川岸にあった同公園には、数本の大木の桜が植わっており満開時は見事な花が咲き、地元の人達に潤いを与えてくれましたが、今は福祉作業所前の広場に10本ほどの桜の幼木に花を付けています。

 交通公園周辺の桜(:交通公園の桜、:福祉作業所前の幼木の桜)

・開桜小学校校庭と内川遊歩道の桜
開桜小学校(大田区大森西2-26-3)は西交通公園北の内川北岸にあり、大田区では兄弟校の大森第1小学校と分校した最も古い小学校で、元は大森第2小学校と称し近隣の大森第6小学校と併合した小学校ですが、第2小学校時代の校舎は1945年の戦災で焼失しました。
開桜小学校の校庭の東西側と内川沿いの南面には10数本の桜の木が成長しており、3日には満開でした。校名はこの桜から付けられているのでしょう。今年も恒例の開桜花まつりが開催(「大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の春のイベントと京急高架化運用決定(2010.3.28号)」参照)されました。
小学校南面の内川には遊歩道の護岸が2009年に完成し、歩道とベンチが設けられ、桜が植樹され2年目の今年も花が咲きました。冬季には沢山のかもやかもめが訪れ、春には校庭の花見ができ近隣の絶好の憩いの場となっています。

 開桜小学校周辺の桜(:開桜小学校正門の桜、:開桜小学校と遊歩道の桜)

・大森西図書館前公園の桜
大森西図書館(大田区大森西5-2-13)は1986年(昭和61年)に15館目に開館した図書館で、この図書館前の公園広場の周囲には数十本の桜が植えられており、花見時には近隣の人の花見場所となります。今年は、天候不順で4日の日曜日には雨がポツポツ落ちていましたので、花見の集まりはまばらです。図書館へは京急大森町西口から同商店街通りを西へ約400m進み、東邦医大通りの1つ手前の道を左折するとすぐ図書館前の公園広場です。

 大森西図書館前公園の桜(写真拡大)

なお、この時期には大森町周辺の民家の庭には、桜以外のとりどりの花にも遭遇しますので、思わぬ発見もあります。

 しだれ桃(写真拡大)

その他の大森町界隈の桜

 大森町界隈の桜の見所地図

今回は天候の都合にもより廻りきれませんでしたが、大森町界隈のその他の花見の場所には、京急平和島駅東側の環7通り北方の道路(地図参照)には年数を経た桜並木があり、満開時には見事な花が見られます。

 平和島の桜並木

また、桜並木の東方には平和島公園(「風景・風物誌 花見のはしご 今年は大森町界隈の花見と大田区の桜 その1」参照)があり、公園内には数多くの桜が植えられています。さらに、ふるさとの浜辺公園から南方の旧呑川であった跡地には、川を埋め立てた緑地公園(「風景・風物誌 花見のはしご 今年は大森町界隈の花見と大田区の桜 その2」参照)があり、旧川沿いに桜並木が延々と続いており、大森町界隈では桜の木が最も多い花見のメッカです。

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風景・風物誌 京急高架化沿線の春 5月開通の上り線高架橋沿線の桜を歩く(蒲田八幡神社)第1回

2010年04月03日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2010 神社境内から京急高架橋を望む

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京急高架化沿線の桜
東京管区気象台では、1日に都心で桜が満開になったと発表しました。
5月16日に上り線の高架化運用が発表(「大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の春のイベントと京急高架化運用決定(2010.3.28号)」参照)された京急高架橋沿線にも、満開に近い桜が見られますので歩いてみます。
先ず、4月24日に2、3階のホームの見学会が行われる、京急蒲田駅高架駅の近くにある蒲田八幡神社の桜を、満開の発表があった同1日に見に行きました。

 蒲田八幡神社編集地図

蒲田八幡神社へは、京急蒲田駅高架駅橋南端の京急蒲田第3踏切の旧多摩堤通りを、JR蒲田駅方向に進むと右側に妙安寺に並んで八幡神社の鳥居があります。

 桜が満開を迎えた蒲田八幡神社(:妙安寺正門、:妙安寺の隣が八幡神社)

蒲田八幡神社
蒲田八幡神社(大田区蒲田4-18-18)は、南北に細長い約3200㎡の境内に入ると、右側には神社神輿庫があり、境内奥の左側にある手水舎で口をすすぎ、正面奥の拝殿を参拝しました。
1945年(昭和20年)4月15日の戦災により焼失した拝殿は、現在は1958年(昭和33年)に竣工した鉄筋コンクリートの社殿です。社殿の左右には、1961年(昭和36年)に寄進された吽像と阿像の狛犬が鎮座しています。
ご祭神は「誉田別名」こと応神天皇が祀られています。第15代天皇として御在位の間、文学を奨励し、殖産興業を盛んにし、国力増強、外国との交流にと意を用いました。崩ぜられた後に、その徳を称えて八幡大神と崇められ、北九州の宇佐八幡宮に祓られました。

 八幡神社境内1(:八幡神社の鳥居、:手水舎、:神輿庫)

・由緒
八幡神社の由緒は碑によると、創建年代は不詳であるが、境内に小円墳があったことから相当古くから村人の信仰の場であり、多摩川の河口にあたり交通の要衝であり都からの文化の伝播も早く、縄文式文化時代の信仰と共ににつくられた斎場が推移して今日の姿になったものと思われます。
蒲田村からの新宿分村にあたり、薭田神社の基作の神体三座のうちの春日の像一体を分ちお祓りしたところ霊験あらかたであったといわれます。新宿分村は慶長の頃といわれますが定かでなく、慶長5年を新宿分村と定めて八幡神社の御鎮座としました。春日の像は神仏分離により別当妙安寺に移されましたが、戦災で焼失しました。
戦後の復興期に蒲田の中心地にあったため、1949年(昭和28年)8月に新宿八幡神社を蒲田八幡神社に改名しました。

 八幡神社境内2(:拝殿、:頭に角のある吽像、:由緒碑)

・末社
末社の1社は本殿左手に並んで配せられ、祭神が天照大神、日本武尊を祀る天祖神社があり、1910年(明治43年)に居たお伊勢の森(現蒲田4-24)から移転して、今の境内末社になりました。拝殿には、1878年(明治11年)の寄進の記録のある、「子取りの阿像」の獅子型狛犬が鎮座しています。

 末社の天祖神社(:天祖神社、:天祖神社拝殿、:天祖神社の)

もう1社の末社は、本殿に進む左手に鎮座の満願火伏稲荷神社で、稲荷大神(宇迦之御魂大神)が祀られています。銀杏の大木の根方にあった末社は、1945年の戦災を免れ、蒲田における数少ない建物として残り、満願火伏稲荷大神として火災の守り神として称えられています。旧社殿は、現社殿の中に収められており外からは見ることができません。

 末社満願火伏稲荷神社(:末社脇の大木、:満願火伏稲荷神社社殿、:末社前の桜)

境内の桜は、ほぼ満開で通行人の目を楽しませてくれます。

 蒲田八幡神社の桜(写真拡大)

・神社近くの仲蒲田公園の桜
また、蒲田八幡神社前の三差路を南西に100mほど進むと、神社の近くに大田区仲蒲田公園(蒲田4-35)があり、そこの公園内でも満開に間もなくの桜が見られました。

 八幡神社の近くの仲蒲田公園の桜(写真拡大)

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風景・風物詩 初詣風景 神田明神と川崎大師の神社仏閣への初詣(その2)

2010年01月15日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2010

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・神田明神初詣
神田明神は孫一家が氏子であり、七五三の時以来の何年か振りのお参りで、初詣は初めてです。神田明神の初詣は、昨年から初春に開催するようになった、上野東京都美術館の書道展(「イベント 東京都美術館 第63回日本書道美術院「教育部展」2009、2010」参照)で孫の作品を見た後に、近くにある神社・仏閣を回ってお参りするようになり、今年は1月5日に神田明神に参詣をしました。

 神田明神パンフレット

私の先祖は一時神田明神のそばで「きせる」の商いをしていた様で、父はよく成田山新勝寺を参拝してはいけないと云っていました。これは当時、朝廷が叛乱を起した平将門を討伐するため、使いを立て新勝寺で乱鎮圧の動護摩の儀式を行ったことから、参拝することは平将門を苦しめることになるからの理由によるものです。私の代は神田明神の崇敬者ではなく、また新勝寺の信者でもありませんが観光で成田山もお参りしています。
神田明神に着いたのは正午を回っており、鳥居を潜った参道はかなりの込み合いで、両側の食べ物屋台やお店の周りに置かれたテーブル席には、5日が仕事始めと思われる氏子企業の勤め人達で満員でした。

 神田明神初詣り風景1(:露天が沢山並ぶ随神門前の参道、:随神門、:露天のテーブル席はどこも満員)  

随神門を潜り境内も初詣の人が一杯で、本殿前は参拝者の行列でお参りまでにはかなりの時間を待ちました。お参りが済んで、本殿脇の昇殿参拝受付所でご朱印を授けていただきました。

 神田明神初詣り風景(:初詣りで混雑する本殿前、:境内の中から見た随神門、:手水舎とおみくじ授受所)

神田明神の3体の祭神は、平将門命に、大己貴命(だいこく様)と少彦名命(えびす様)が祀られています。境内のだいこく様ご尊像は1976年に建立され、高さ6.6メートル、重さ約30トンで石造りとしては日本一のだいこく像です。だいこく様ご尊の前に茅の輪が置かれてありましたので、正月から6月までの半年の大祓いで疫病や罪穢が祓われるといわれていますので、昨年の上野の五條天神社(「風景・風物詩 初詣風物詩 上野五條天神社、不忍池弁天堂と飯田橋東京大神宮」参照)の参詣時と同様に茅の輪をくぐってきました。

 神田明神初詣り風景3(:だいこく様の前の茅の輪、:茅の輪の由来、:だいこく様ご尊像)

昼も大分回りましたので、参道の明神そば「きやり」で昼食のそばを食べ、天野屋で名物の「あまさけ」をおみやげに買って帰りました。

 明神そば「きやり」

川崎大師初詣
川崎大師は大森町からは京浜急行電鉄のみで行くことができ、初詣は小学生の頃から大戦中の学童疎開時を除いて毎年欠かさず行っています。下車駅の京浜川崎大師駅は電気鉄道最古の駅で、1902年(明治35年)に六郷橋~川崎間が開通(「風景・風物詩 初詣風物詩 川崎大師平間寺200720082009」参照)し、京浜急行電鉄の前身の大師電気鉄道が川崎大師を「恵方」として宣伝したため、明治、大正、昭和から平成の時代まで初詣の人気ポイントとなり、初参り客数は全国3位を続けています。

 川崎大師パンフレット

今年の川崎大師初詣は、近所に住む従兄夫妻と一緒に1月7日に行きました。まだ、松の内ですが3連休の間のためと、昼過ぎの時間を狙って云ったので比較的に空いていました。大師駅から大師山門までの900mのうち、川崎大師表参道での車の規制はなく、参詣者は狭い歩道の通行のみのため、参拝客と帰りの客が行き合い早くは進めません。また、仲見せ通りも一方通行の規制が行われてなく、結構混雑していました。
大山門を潜り境内に入ると人の流れは良く、たち止まらずに本殿に参拝できました。今年も家内安全と健康を祈願して、毎年授受している「弘法大師災厄消除祈攸」のお札と「身代守り」を戴き、縁起ものの「ダルマ」を購入し、古いお札、お守りと昨年のダルマを納札堂に収めて例年と同じ様にお参りを済ませました。

 川崎大師初詣風景1(左:大山門、:本堂、:昨年も買ったダルマ屋のお店)

山門を出てからの帰り道は、仲見世でおみやげにと山門前のなじみの店で「くずもち」を、仲見せ通り角の飴やさんで「咳どめ飴」と「トントコ飴」を買い、表参道の露店でエビとワカサギを求めるのが年初めの恒例となっています。

 川崎大師初詣風景2(:、:とんとこ飴屋さん、:くずもち屋さん)

また、初参りが済むと昼過ぎですので軽い昼食のそば・うどんをとるのが通例です。大師の参道でのおそばやさんと云うと、山門前にある「蕎麦善はやま」(地図A)と表参道角の「松月庵」(地図C)は共に老舗で目立つ所にあり何回か利用しましたが、何しろ混んでおります。そこで今回は川崎大師付近にあるそば屋さんを6ケ所探しておきました。比較的空いているところを利用することして、まず仲見せ通りの中程にあるお食事処・河床(地図B)を覗くと席が空いている様なので入って昼食をとりました。まあまあの食事に満足し、今年も無事に初詣りができたことを感謝して、大森町に戻りテイタイムを楽しみました。

 川崎大師近辺そばや地図(蕎麦善はやま:A、食事処河床:B、松月庵:C、みしまや:D、仙利庵:E、玄宗:F)

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風景・風物詩 初詣風景 神田明神と川崎大師の神社仏閣への初詣(その1)

2010年01月12日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2010

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初詣
今年は、1月5日に神田明神に、同7日に川崎大師に初参りに行きました。
初詣は、時代とともに変わっているようですが、毎年行く人は70歳代以上が59.1%で、20歳代では44.4%であるとの調査が出ています。元々の初詣は、家長が祈願のため大晦日から元日の朝にかけて氏神の社に籠もる「年籠り」という習慣があり、これが原点となって「除夜詣」と「元日詣」となりました。
江戸時代末期の頃は、その年の恵方の社寺にお参りする「恵方詣」が普通になっていましたが、明治時代の中期頃より初詣が一般化してきました。明治の後期には、鉄会道社が近郊の神社仏閣を「恵方」と称して宣伝を始めたことにより、鉄道網を利用した「元日詣」が広まり、終夜運転が行われるようになりました。
ところが、ここ数年は利用者が減少し終夜運転が縮小傾向で、本数削減や運転を止めたところも出てきました。

初詣には特に定められた規定はありませんが、正月の三が日に参拝するのが初参りと云われたり、正月中に参拝すればよいのだとも云われています。また、初参りの回数も問われていなく、一部の地域では正月三が日に複数の寺社にお参りする「三社参り」という習慣もあります。
初詣の対象は、神社と寺院の何れでもかまわないとされており、多数の神社・仏閣にお参りすれば色々なご利益があるとの説もあります。これは、明治時代の初期に神仏分離が行われる前に、神道と大乗仏教の信仰が一体化していたことに関係があるようです。

神田明神

 神田明神地図

神田明神(千代田区外神田2-16-2)は正式名称を神田神社と称し、神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場、築地魚市場などの都心108町会の総氏神様で、神社本庁の別表神社です。

 ご朱印

ご祭神は3柱で、一の宮には大己貴命(だいこく様)が祀られ、二の宮には少彦名命(えびす様)が祀られ、三の宮には平将門命(まさかど様)が祀られています。また、江戸の食を支える青果市場、魚市場の発祥の地であったところから江戸神社、水神社が祀られております。

 神田明神境内図(境内拡大図)

・神田明神正月行事
ご祭神は、家庭円満、縁結び、商売繁盛、事業繁栄、厄除開運、病気平癒など、多くのご神徳をお持ちの神様で、初詣りには30万人以上の人が詰めかけます。元旦から3日間は、無形文化財の神田囃子と獅子舞いが奉納されます。
仕事初めの1月4、5日には氏子の企業の1,500社、10万人が今年の社運隆昌、商売繁盛の祈願に訪れました。

 1月5日も氏子企業の参拝者で一杯の本殿前

また、今年の1月9日の寒中みそぎ行事は、新成人5人を始めとして女性を含めて約30人が参加して、厳寒の中で男性はふんどし、女性は白装束をまとい、大きな氷柱が入った禊場の中で冷水を頭から浴びて身を清める禊が行われます。
1月10日は、平安時代がはじまりの日本料理の伝統を今に受け継ぐ由緒正しい四條流の庖丁儀式が、御社殿で装束姿で古式に則った儀式が執り行われます。
1月9~11日には、期間中の15時からだいこく祭がだいこく様ご尊像の前で行われます。

 神田明神1月行事(左:寒中みそぎ、中:四條流の庖丁儀式、右:だいこく祭)

・神田祭り
神田祭りは日本三大祭、江戸三大祭の一つとして有名であり、江戸時代から徳川幕府の庇護を受け天下祭り(イベント 江戸天下祭 江戸の風情と粋な山車と神輿が丸の内を巡行 その1、2)と呼ばれており、2年に一度の本祭(今年は陰祭り)には鳳輦・神輿が1日かかりで巡行する「神幸祭」と、各氏子町会の約200基の神輿が町で担がれ神社へ「神輿宮入」されます。

・ご由緒(抜粋)
730年 (天平2年)の創建とあり1,270年以上の長い歴史を有する神社です。創建時は武蔵国豊島郡江戸芝崎(現在の大手町の皇居辺り)にあり、天慶の乱(939~940)に敗れた平将門公の首が付近に葬られると転変の変異が続いたので、時宗の真教上人が将門公の祟りを鎮め、1309年 (延慶2年)に将門公を祭神として合祀しました。
将門公を深く尊崇していた徳川家康が江戸に幕府を開くと、当社に神領を寄進しました。江戸の大規模な造成のため、1616年 (元和2年)に江戸城の表鬼門にあたる現在地に移転して、江戸総鎮守に相応しい壮麗な桃山風の社殿が幕府により築かれ、盛大な天下祭りが執り行われました。

 神田明神ご由緒(ご由緒拡大)

1874年(明治7年)には明治天皇の御親拝があり東京を代表する神社として厚く敬われてまいりましたが、1926年(大正15年)の関東大震災により社殿はじめ社宝等を失いましたが、氏子崇敬者の尽力によって1934年(昭和9年)当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート造り総漆朱塗り権現造の現在見ることのできる社殿が造営されました。また、平成7年より始まった御造替事業により社殿他建物全てが美しく塗り替えられ、江戸総鎮守としての面目を一新しました。

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風景・風物詩 紅葉の六義園 江戸の名園和歌の庭でモミジを楽しむ

2009年12月11日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2009 心泉亭前のカエデと松とイチョウ

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関東の首都圏では11月下旬から12月中旬が紅葉の見ごろです。今年2回目のモミジの鑑賞を都心の名園の和歌の庭の六義園に12月8日に見に行きました。1回目は、横浜本牧の名園三渓園のモミジを2日に見て(「小さな旅 三渓園 原家の私邸であった内苑の日本庭園で楽しむ紅葉」参照)おります。

六義園
大森町から六義園へは3ルートのコースがありますが、駅を降りてからの距離が最も近い路線を選び、品川より都営地下鉄浅草線で三田駅乗り換え、同三田線で白金高輪駅から地下鉄南北線に乗り付いて駒込駅を下車して、徒歩2分で六義園染井門の入り口です。
六義園では、11月27日から12月13日の期間中は9時から21時まで開園し、園内南部の松の木とモミジをターゲットにしたライトアップが行われ、この期間には臨時に染井門が開門されます。

 六義園染井門(写真拡大)

六義園の入園料は、一般が300円、シニア150円で小学生以下は無料です。また、期間中は毎日11時と14時の2回の庭園ガイドの約1時間コースが無料で行われます。

 入場券とスタンプ

六義園(文京区本駒込6丁目)は、五代将軍徳川綱吉の頃の江戸時代の1702年(元禄15年)に、川越藩主の柳沢吉保が築園した「回線式築山泉水」の庭園で、池の廻りを回遊して四季の季節で変わる景色が楽しめる日本庭園です。明治時代に入って三菱創業者岩崎弥太郎の所有となり、1938年(昭和13年)に岩崎家から東京市に寄付され、1953年(昭和28年)に特別名勝に指定された都立の庭園です。

 六義園マップ

六義園は、小石川後楽園とともに江戸の二大名園として数えられ、吉保の文学的造詣の深さを反映し、和歌の趣味を基調とした繊細で温和な日本庭園で、中の島を有する大泉水を樹林が取り囲み、紀州(現在の和歌山県)の和歌の浦の景色を始め、万葉集や古今和歌集に詠まれた名勝を取りこんだ景観があり、それらにちなんで名前をつけています。
庭園の名称は、中国の古い漢詩集の「毛詩」に記されている「誌の六義」の、風、賦、比、興、雅、頌という六つの分類法の流れを汲んだ和歌の六体に由来しています。

・紅葉観賞
秋の季節には、面積が87,809.41m2ある庭園には、5,600本の高木と30,400m2の低木が植樹さており、庭園北部のつつじ茶屋付近から蛛(ささかに)の道沿いに植樹されている沢山のモミジの紅葉は見事であり、多くの見物者が鑑賞に訪れます。
六義園北側一帯は江戸時代に染井村と呼ばれており、ソメイヨシノの発祥地に因んだ染井門から入園して、先ずは千里場(馬場跡)⑯を南に進み正門入り口付近のモミジを鑑賞して、内庭大門の前に植えられている大木のしだれ桜③を見ながら、ライトアップが施されている池南の道を反時計方向に進み、池の南から北岸をみる風景は大変と趣があります。池を周回しながら築山の妹山・背山④、竜の背の様な臥龍石(がりゅうせき)⑤や蓬莱島⑥と雪吊りされた松の木⑦を見ながら景色の変化の様子は温和な風景です。
この素晴らしい風景を、集会施設の心泉亭、宣春亭中からカエデの紅葉を鑑賞しながら沢山の見物者が見とれていました。道を進むと千鳥橋が架けられており、左手には岩の間から渓流が走り傍らには滝見の茶屋⑧が見えます。

 泉水南岸の風景(:蓬莱島⑥、:雪吊りの松⑦、:滝見の茶屋⑧)

千鳥橋を渡ると道は四筋に別れており、右手に折れると右側に吹上浜⑨が見えてきます。浜には見事な吹上の松が枝を池の水辺近くまで垂らしています。吹上浜辺の吹上茶屋⑩で抹茶を頂いて一時の休憩です。

 吹上浜風景(:吹上の松、:吹上浜⑨、:吹上茶屋)

休憩で息をついたので、吹上峰の南部をまいて坂を上り吟花亭跡のもみじ茶屋⑪まで進み、モミジの見どころの高木地帯の紅葉を鑑賞します。当に低山に登った様で、全山が真っ赤な紅葉です。

 吹上峰西側付近の紅葉(写真拡大)

まるで山の道を下るような雰囲気で道を東に進むと右手につつじ茶屋が見え、下山道は紅葉に燃えており、麓に流れる小川が見えてきました。

 山陰橋への北側道の紅葉(:山陰橋までの北側道付近、:山陰橋への川岸道、:山陰橋の袂付近)

小川を進むと右手は園内で一番高い標高35mの築山の藤代峠⑬で、紀州にある同名の峠から名付けられました。そこの麓の小川に架かる山陰橋⑫を渡り、対岸の蛛道(ささかにのみち)⑭を散策しながら、藤浪橋⑮を渡って千里場⑯に戻って一周をしました。都心の名園の紅葉を十分と満喫し心身共に癒されて、駒込駅から南北線で帰路につきました。

 山陰橋付近の紅葉(:山陰橋岸から見た紅葉、:蛛道(ささかにのみち)⑭)

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