kan-haru blog 2010 例祭の稗田神社
< 総合INDEX へ
延喜式内社稗田神社
大森町に接した北蒲田の東海道の西方に、延喜式神名帳に記載された歴史の古い稗田神社(大田区蒲田3-2-10 ひえだの『ひえ』は『薭』が正式漢字ですが、一部を除き本文では「くさかんむり」をとった『稗』で表記します)が鎮座されています。
延喜式神名帳は、927年(延長5年)に作られた平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典で、延喜式巻九・十に当時の祈年祭奉幣にあずかる神社2861社の「式内社」を国郡別に羅列して記載されています。延喜式神名帳の東海道武蔵国には44座が記載され、荏原郡には次の様に小2座に「武蔵国荏原郡薭田神社」が記載されています。
稗田神社の社伝によると、709年(和銅2年)に僧行基が天照、八幡、春日の三神を造り神殿に安置したのが創期と伝わっています。武蔵国荏原郡の郷名には蒲田郷の地名が平安時代以前からあり、延喜式神名帳の以前に編纂された歴史書「三代実録」に、「貞観6年8月14日戌辰に詔して武蔵国従五位下蒲田神を以って官社に列す」とある様に、当初の社名は「蒲田神社」でありました。「蒲田神社」が延喜式神名帳に「薭田神社」と記載されたのは、「新編武蔵風土記稿」によると、幕末の国学者栗田寛は「蒲」という漢字の古体字を、「薭」と誤写しそのまま後世に伝えられ、神社に地名を使用しているとは思わずに別当の栄林寺の僧が、神祇管領の吉田家に神社名を「薭田神社」と申請して許可を得たためこの社号が成立したと云われています。
稗田神社
大田区にある延喜式古社の磐井神社(「大森町の社寺 磐井神社 古記に伝わる敏達天皇の二年に鎮座した大森で最も古い磐井神社の夏祭り」参照)と六郷神社(「風景・風物誌 京急高架化沿線の春 5月開通の上り線高架橋沿線の桜を歩く(六郷土手駅付近)第3回」参照)は参拝していますが、大森町から近い稗田神社には今まで参拝しておりませんでしたので、9月祭日の11日とさらに19日に行ってきました。
稗田神社へは、京急梅屋敷駅から第1京浜国道(東海道)を南へ梅屋敷公園角まで進み、右折して西約400m進んだ二股のところが神社の正面入口の鳥居ですが、現在においては古社の面影は全く見られません。大田区は世界大戦で焼野原となり、石造物以外の物は戦災で全て焼失したため歴史的な遺産は殆ど残っていないのです。
稗田神社地図
道路二股の稗田神社入り口の石鳥居は、柱背面の銘文によって1800年(寛政12年)に北蒲田村の氏子によって寄進されたと記載されており、区内の石鳥居の中で古いものの一つで、大田区指定の有形文化財として1974年(昭和49年)2月2日指定されています。この鳥居は、花崗岩の明神型鳥居で、高さ310センチ、柱間314センチ、中央に「稗田神社」の社号を刻した石額を掲げてあり、笠木は全体にゆるやかな反りをもって、柱のつり合いもよく、安定した姿をみせています(大田区の史跡・歴史より)。
稗田神社正門(左・中・右写真拡大)
鳥居を潜ると境内には、正面参道の奥に本殿があり、参道右手に本殿と並んで奥から縦並びに薬祖神社、稲荷神社、三十番神社の三社が合祠されています。境内の左手は、駐車場広場になっています。
稗田神社境内(GoogleEarth)
神社境内参道の左側には、由緒が記された大きな石標が1956年に建立されており、右側には手水舎があります。
稗田神社境内1(左:稗田神社由緒書きの石碑、中・右:手水舎)
参道には石灯籠、狛犬と並び正面が拝殿です。狛犬は渦状「前髪」で尻尾も渦を巻いて左右に流れており、狛犬の左の台座には「氏子一同、昭和34年8月15日、青山石勝」とあり、右の台座には「鎮座千二百五十年」とあります。1250年は、鎌倉時代・建長2年にあたりますので江戸時代の奉納であるのではないかとも思われます。
拝殿前の石灯篭と狛犬(左:拝殿前の石灯篭と狛犬、中・右:拝殿前の狛犬)
現在の社殿は平成12年に鉄筋コンクリート造りで竣工したものですが、稗田神社の古い記録は度々の火災や水害で残っていませんが、社伝によれば、709年(和銅2年)に僧行墓が天照、八幡、春日の三神体を創り当社に安置し、後に僧日蓮が村民の請をいれて開眼したといわれていますが記録が定かでありません。旧社格は郷社で、864年(貞観6年)に官社に列し、延喜式に「荏原群稗田神社」とあるのは、当社が当該社であることと云えています。
平成12年竣工の社殿(左:稗田神社本殿、中・右:稗田神社拝殿)
稗田神社の由緒を石碑より読むと、
「主祭神 誉田別命
相 殿 天照大神 武内宿禰命 荒木田襲津彦命 春日大神
例祭日 九月十五日
抑も当社は三代実録延喜式その他の古文書に明記せられたる由緒深き所轄延喜式内の神社にして蒲田草々の古社なり
和銅二年(七〇九) 僧行墓は天照・八幡・春日の三神体を造り本社に安置す 後年僧日蓮は池上宗仲の館に入るに及び村民の請を容れ改めて開眼すると伝う
清和天皇貞観六年(八六四)官社に列し従五位下を賜り 明治五年十月郷社に定めらる
安政四年(一八五七)拝殿を改築 元治二年(一八六五)本殿を改築 昭和四年拝殿幣殿を改築 昭和九年本殿屋根葺き替え及び神楽殿を新築す
昭和二十年四月十五日戦災のため灰燼に帰す 昭和二十一年九月十五日仮本殿を再建し 昭和二十九年八月十五日本殿・幣殿・拝殿を新築す
昭和三十一年八月十五日
宮司 上野 喜信
撰」
と記されています。
稗田神社社殿変遷(左:江戸時代建築の社殿、中:1934年[昭和9年]改築の社殿、右:1954年[昭和29年]再建の社殿、稗田神社HPから)
< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(10月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2008~2010年版、2007・2008年版、2006・2007年版 へ
<前回 風景・風物詩 東京スカイツリー 江戸文化の残る隅田川・荒川界隈に高さ世界一の自立式電波塔が建つ へ
次回 風景・風物詩 稗田神社 僧行基が天照、八幡、春日の三神を祀り僧日蓮が開眼した延喜式古社その2 へ
< 総合INDEX へ
延喜式内社稗田神社
大森町に接した北蒲田の東海道の西方に、延喜式神名帳に記載された歴史の古い稗田神社(大田区蒲田3-2-10 ひえだの『ひえ』は『薭』が正式漢字ですが、一部を除き本文では「くさかんむり」をとった『稗』で表記します)が鎮座されています。
延喜式神名帳は、927年(延長5年)に作られた平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典で、延喜式巻九・十に当時の祈年祭奉幣にあずかる神社2861社の「式内社」を国郡別に羅列して記載されています。延喜式神名帳の東海道武蔵国には44座が記載され、荏原郡には次の様に小2座に「武蔵国荏原郡薭田神社」が記載されています。
稗田神社の社伝によると、709年(和銅2年)に僧行基が天照、八幡、春日の三神を造り神殿に安置したのが創期と伝わっています。武蔵国荏原郡の郷名には蒲田郷の地名が平安時代以前からあり、延喜式神名帳の以前に編纂された歴史書「三代実録」に、「貞観6年8月14日戌辰に詔して武蔵国従五位下蒲田神を以って官社に列す」とある様に、当初の社名は「蒲田神社」でありました。「蒲田神社」が延喜式神名帳に「薭田神社」と記載されたのは、「新編武蔵風土記稿」によると、幕末の国学者栗田寛は「蒲」という漢字の古体字を、「薭」と誤写しそのまま後世に伝えられ、神社に地名を使用しているとは思わずに別当の栄林寺の僧が、神祇管領の吉田家に神社名を「薭田神社」と申請して許可を得たためこの社号が成立したと云われています。
稗田神社
大田区にある延喜式古社の磐井神社(「大森町の社寺 磐井神社 古記に伝わる敏達天皇の二年に鎮座した大森で最も古い磐井神社の夏祭り」参照)と六郷神社(「風景・風物誌 京急高架化沿線の春 5月開通の上り線高架橋沿線の桜を歩く(六郷土手駅付近)第3回」参照)は参拝していますが、大森町から近い稗田神社には今まで参拝しておりませんでしたので、9月祭日の11日とさらに19日に行ってきました。
稗田神社へは、京急梅屋敷駅から第1京浜国道(東海道)を南へ梅屋敷公園角まで進み、右折して西約400m進んだ二股のところが神社の正面入口の鳥居ですが、現在においては古社の面影は全く見られません。大田区は世界大戦で焼野原となり、石造物以外の物は戦災で全て焼失したため歴史的な遺産は殆ど残っていないのです。
稗田神社地図
道路二股の稗田神社入り口の石鳥居は、柱背面の銘文によって1800年(寛政12年)に北蒲田村の氏子によって寄進されたと記載されており、区内の石鳥居の中で古いものの一つで、大田区指定の有形文化財として1974年(昭和49年)2月2日指定されています。この鳥居は、花崗岩の明神型鳥居で、高さ310センチ、柱間314センチ、中央に「稗田神社」の社号を刻した石額を掲げてあり、笠木は全体にゆるやかな反りをもって、柱のつり合いもよく、安定した姿をみせています(大田区の史跡・歴史より)。
稗田神社正門(左・中・右写真拡大)
鳥居を潜ると境内には、正面参道の奥に本殿があり、参道右手に本殿と並んで奥から縦並びに薬祖神社、稲荷神社、三十番神社の三社が合祠されています。境内の左手は、駐車場広場になっています。
稗田神社境内(GoogleEarth)
神社境内参道の左側には、由緒が記された大きな石標が1956年に建立されており、右側には手水舎があります。
稗田神社境内1(左:稗田神社由緒書きの石碑、中・右:手水舎)
参道には石灯籠、狛犬と並び正面が拝殿です。狛犬は渦状「前髪」で尻尾も渦を巻いて左右に流れており、狛犬の左の台座には「氏子一同、昭和34年8月15日、青山石勝」とあり、右の台座には「鎮座千二百五十年」とあります。1250年は、鎌倉時代・建長2年にあたりますので江戸時代の奉納であるのではないかとも思われます。
拝殿前の石灯篭と狛犬(左:拝殿前の石灯篭と狛犬、中・右:拝殿前の狛犬)
現在の社殿は平成12年に鉄筋コンクリート造りで竣工したものですが、稗田神社の古い記録は度々の火災や水害で残っていませんが、社伝によれば、709年(和銅2年)に僧行墓が天照、八幡、春日の三神体を創り当社に安置し、後に僧日蓮が村民の請をいれて開眼したといわれていますが記録が定かでありません。旧社格は郷社で、864年(貞観6年)に官社に列し、延喜式に「荏原群稗田神社」とあるのは、当社が当該社であることと云えています。
平成12年竣工の社殿(左:稗田神社本殿、中・右:稗田神社拝殿)
稗田神社の由緒を石碑より読むと、
「主祭神 誉田別命
相 殿 天照大神 武内宿禰命 荒木田襲津彦命 春日大神
例祭日 九月十五日
抑も当社は三代実録延喜式その他の古文書に明記せられたる由緒深き所轄延喜式内の神社にして蒲田草々の古社なり
和銅二年(七〇九) 僧行墓は天照・八幡・春日の三神体を造り本社に安置す 後年僧日蓮は池上宗仲の館に入るに及び村民の請を容れ改めて開眼すると伝う
清和天皇貞観六年(八六四)官社に列し従五位下を賜り 明治五年十月郷社に定めらる
安政四年(一八五七)拝殿を改築 元治二年(一八六五)本殿を改築 昭和四年拝殿幣殿を改築 昭和九年本殿屋根葺き替え及び神楽殿を新築す
昭和二十年四月十五日戦災のため灰燼に帰す 昭和二十一年九月十五日仮本殿を再建し 昭和二十九年八月十五日本殿・幣殿・拝殿を新築す
昭和三十一年八月十五日
宮司 上野 喜信
撰」
と記されています。
稗田神社社殿変遷(左:江戸時代建築の社殿、中:1934年[昭和9年]改築の社殿、右:1954年[昭和29年]再建の社殿、稗田神社HPから)
< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(10月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 風景・風物詩 カテゴリー別総目次 2008~2010年版、2007・2008年版、2006・2007年版 へ
<前回 風景・風物詩 東京スカイツリー 江戸文化の残る隅田川・荒川界隈に高さ世界一の自立式電波塔が建つ へ
次回 風景・風物詩 稗田神社 僧行基が天照、八幡、春日の三神を祀り僧日蓮が開眼した延喜式古社その2 へ