行雲流水

ボランティア活動を中心に記録する

谷口 劼(かたし)さんの被爆体験

2015-05-19 16:30:01 | 日記
 昭和20年8月6日(月) 広島県立第2中学4年生(16歳)、弟の勲さんは同じ学校の1年生。この日の朝6時10分己斐の自宅(爆心地から2.4km)を出て歩いて観音の三菱機械工場(爆心地から3.3km~4km)へ、電車など車に乗るには許可が必要だった。戦闘帽をかぶり地下足袋にゲートルを巻いていた。当時工場では人間魚雷のエンジンを作っていて、谷口さんの配属は、鋳物工場で船のスクリューを作っていた。
 8時15分 鋳物をクレーンで吊り下げて作業していた時、ピカッと光った。クレーンがショートしたかと思った。そのあとドカーンとすさまじい轟き音がし、まさに「ピカドン」だったそうだ。工場長の自宅待機の命令が出て同級生と二人で帰宅、途中庚午付近で黒い雨が降り始めずぶぬれになった。自宅は屋根や天井が落ちて誰もいなかった。
 午前11時頃弟勲さんを探しに土橋付近へ、見つからず12時30分近所の2中の生徒を6~7時間かけて背負って帰る。顔・両腕などやけどで何とも言えない異様な臭いだった。
 午後8時ごろ弟勲さんを探しに2回目、土橋(爆心地から700m)の防空壕で見つけ、本人とは判らないくらい顔が膨れやけどをしていた。夜中にやっと連れ戻ったが、8月7日(火)午後4時ごろ亡くなった。弟は中島本町(爆心から500m)方面の家屋疎開作業に出動、多くの生徒・引率教員がその場で即死。
 谷口さんご本人は2回も入市され、2週間後盆を過ぎて髪が抜け始め、ブツブツの斑点ができ、1週間くらい鼻血が出たそうだ。