広島市仁保公民館編集発行 平成元年(1989年)8月6日発行の「原爆と仁保」(写真)に掲載された40数人の原爆についての体験記を読み胸が締め付けられた。
参考資料に当時広島師範予科1年の男性が、昭和20年8月9日仁保国民学校(現仁保小学校)被爆者救護所の様子を絵入りで説明している。
○医療品がないため救護斑の人1名が火傷に赤チンを塗って歩き、他の1名がその後に食用油を塗り、その上に新聞紙を張って歩いていたのです。(絵ではハケで塗っている)
○その新聞紙を剥がす場合の被爆者の絶叫は今も忘れることはできません。
○又非常にハエが多く、傷口にはウジ虫もいました。
広島市仁保国民学校は、爆心地から東南東約4.2km離れた所にあり大破はまぬかれていた。絵には廊下の窓ガラスはことごとく割れ、廊下に火傷を負った被災者が並んで座ったり横になったりして手当てを受けている。
参考資料に当時広島師範予科1年の男性が、昭和20年8月9日仁保国民学校(現仁保小学校)被爆者救護所の様子を絵入りで説明している。
○医療品がないため救護斑の人1名が火傷に赤チンを塗って歩き、他の1名がその後に食用油を塗り、その上に新聞紙を張って歩いていたのです。(絵ではハケで塗っている)
○その新聞紙を剥がす場合の被爆者の絶叫は今も忘れることはできません。
○又非常にハエが多く、傷口にはウジ虫もいました。
広島市仁保国民学校は、爆心地から東南東約4.2km離れた所にあり大破はまぬかれていた。絵には廊下の窓ガラスはことごとく割れ、廊下に火傷を負った被災者が並んで座ったり横になったりして手当てを受けている。
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