JAZZを聴きながら ふたたび

恥も顧みないで再々開、よろしければお付き合いを

雁首さらしやがれ!

2007年10月17日 | m-o

またいやな事件が起きてしまいました。
訳もなく小学校二年生の女の子を刺し殺すというヤツはどういうヤカラなのか?
公園で遊んでいて、「もう暗くなったから帰りなさいよ」と友達のお母さんに声をかけられ、急いで自宅に戻ったのでしょう。
振り返れば、私が小さい頃も、暗くなるのを忘れて遊んでいると、誰それの親とはいわず大人が「もう暗くなって危ないから、早く家に帰れよ」と注意をしてくれたものでした。
ここまでは「ああ、今でもそんなになるまで公園で元気に遊ぶ子供たちがいるんだ」と、ちょっと嬉しくなるような話。
それが何ですか、一生懸命楽しく遊んで、お母さんの作った晩ご飯を楽しみに帰ってきた女の子を、自宅の真ん前で刺し殺す??????言葉も出ません。

こんな事件が起きると、暗くなるまで友達どうし楽しく遊ぶなんていう、一番子供らしいことが出来なくなっちゃうじゃありませんか。
朝から晩まで親に監視されながら遊ばなくちゃ、監視しながら遊ばせなけりゃいけない?
そうして育った子供たちがいずれ大人になり子供を育てる・・・・・・・・どんどん、どんどん悪い方向へ進むだけのように思えてしかたがありません。

以前起きた栃木の女子誘拐殺人(遺体は茨城で発見されましたが)、あの犯人だってまだ捕まってない、そんなヤカラが、何処かで子供たちを狙っていると思うと、親としては何らかの自己防衛策を考えるしかありませんもんね。
この負のスパイラルを、もう止めることは出来ないのでしょうか?

「包丁で手を切るといけないから、子供には包丁を持たせない」
例は悪いですが、そうして包丁も使えない大人になってしまう。全てがそんなふうにならないように、夕方まで安心して子供たちが遊べる日常を、なんとか社会全体で構築しなければいけないのでしょう。
それにしても、「この野郎、女の子に手を出したバカ大人、いや私もバカ大人だから・・・・・バカ以下大人!さっさと世間に雁首さらしやがれ!」であります。

いつもの喫茶店での昼食時の話題も、今日はもっぱらこの話でした。
「こりゃ、これから子供を育てようと思ったら、海外にでも逃げてくっきゃないか?」
「えー?・・・・・・でも、日本って国は本来そういう面で安心して子育てが出来る国であったはずなんですけどねぇ」
「ところでバブさん、海外に逃げるで思い出したけど、この前T君が、バブさんのところで聴いて気に入ったからって、ケニー・ドリューのなんだかを買ったんだってさ。そしたら「マスター、どうしてこの頃の人はみんなヨーロッパに住み着いちゃったんですかねぇ?」って、だから、俺が知るわけねぇだろう、バブさんにでも訊いてみろって言っといたから」
「あらら、さようで」

T君といえば、以前レコードを聴かせて欲しいと、ビール持参で遊びに来た彼です。あの時はたしかブッカー・リトルを気に入ったと言っていたはずですが・・・・・・
まぁいいや、彼もこのブログを読んでいてくれますので、私の知ってる範囲で説明しましょう。

まず第一には、アメリカで60年代に吹き荒れたロック・ムーブメントがジャズにも大きな影響を及ぼしていたということがあると思います。
多くのジャズ・クラブが閉鎖され、職場を失ったミュージシャンが新天地を求めたということでしょう。

第二に、なぜそれがヨーロッパだったかですが、もともとジャズを一つのアート、芸術として受け止める気運はヨーロッパから起きたと言っても過言ではないわけで、これは人種をめぐる色眼鏡がヨーロッパでは弱かったゆえでもあります。
映画「バード」で、ヨーロッパ・ツアーに行ったパーカーがパリ公演の後
「仕事は1年に10ヵ月やれば、いやもっとある、ベルギー、オランダ、スウェーデン、お前もそうできるさ。・・・・なにより人として扱ってくれる・・・ジャズを生業にしては、アメリカでは生きていけない。」と、パリに留まることを進められるシーンがありました。
映画「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」なんかでもかいま見られますよね。
つまり、50年代からすでにそういった意味でヨーロッパに渡るジャズミュージシャンも少なからずいたということです。

第三に、60年代から70年代にかけてのアメリカでのジャズ・シーンの変化があると思います。つまり、この時の中心的ジャズ・シーンは、小泉チルドレンならぬ、マイルスとマイルス・チルドレン達が主導するエレクトリック・ジャズによる変革期を迎えていた時期であったわけで、ある意味これが古い(私はそうは思いませんが)ミュージシャンの海外への流出を加速させた原因でもあったと思われるからです。

これに合わせ、ヨーロッパでの地元ミュージシャン達の台頭、さらには次々に立ち上げられた新レーベル(ECM、エンヤ、スティープルチェイスなど)が、彼らのヨーロッパ定住を手助けしたことも間違いないでしょう。

T君、私の乏しい知識ではこの程度の説明しか出来ませんが、よろしいでしょうか?

さて、ということで今日はスティープルチェイスの記念すべき第一作、ジャッキー・マクリーンです。

デンマークのジャズ研究家、ニールス・ウィンターは、コペンハーゲンのジャズ・クラブ「カフェ・モンマルトル」へ足げく通い続けていました。
そうしているうちに、ケニー・ドリューをはじめとする多くのミュージシャンと親しくなり、クラブに録音機材を持ち込んで記録するまでになります。
ある日、半ば引退状態であったジャッキー・マクリーンに「カフェ・モンマルトル」への出演を依頼し、これを録音。このアルバムの発売へとつなげました。

約5年もの間、引退状態であったマクリーンは何をしてたんでしょうねぇ(笑)、それでもこの誘いによくぞ乗ってくれました。マクリーン、ケニー・ドリューというハード・バッパーは、確実にこの地で生き残っていたのです。
4曲という少ない曲数ではありますが、それ故にマクリーンのソロをじゅうぶんに堪能できますし、思い出したように吹き始める「SMILE」、パーカーのナンバーもいい、休んでいようとマクリーンはマクリーンだったのでした。

以降スティープルチェイスというレーベルは、スタートがそうであったからでしょうか、ECM、エンヤとは一線を画す、いずれ本国アメリカにも波及する「ハード・バップ・リバイバル」の先駆的レーベルとして、進んでいくことになります。

LIVE AT MONTMARTRE / JACKIE McLEAN
1972年8月5日録音
JACKIE McLEAN(as) KENNY DREW(p) BO STIEF(b) ALEX RIEL(d)

1.SMILE
2.DAS DAT
3.PARKER'S MOOD
4.CLOSING