JAZZを聴きながら ふたたび

恥も顧みないで再々開、よろしければお付き合いを

女神の前髪

2006年08月22日 | g-i

「あらら、ご自宅で夕ご飯なんて、ずいぶんお久しぶりですこと」
家人のひにくを浴びながらの夕食、まぁ、2連チャンの午前様では、これもしかたのないことであります。
日曜日は、珍しく仕事をしていた私、美味しいビールを飲むために、喉の渇きを我慢して、我慢して、家に帰ると
「ビール、ビール・・・・・・・・なんだよ冷えてないジャン!!!!」
「他に誰も飲む人いないんだから、自分で入れとかなきゃ、誰も入れないよ」
プッツン!!!
「いいよ、いいよ・・・」と飲みに出かけてしまったのでありました。

昨晩はといえば、人呼んで「炎のマエストロ」小林研一郎氏のトーク会に出かけてきました。
小林研一郎氏といえば、1974年にブタベスト国際指揮者コンクールで優秀して以来、欧州はもとより、国内でも広く活躍されている、日本を代表する指揮者の一人です。

幼い日の「第九」との出会い、音楽好きであったにもかかわらず、音楽家になることを反対されたお父様のお話、そのお父様がピアノで弾いてくれた「月の砂漠」のお話、とピアノを弾きながらの興味深いトーク会でした。

彼が指揮者として大成したのは、優勝したブタペスト国際指揮者コンクールがきっかけだったわけですが、通常指揮者の世界では、30歳という歳が一つの区切りになるそうで、
「当時、僕は34歳になっていましたので、すでにかなりあきらめの気分もあったんです。それでも、いつか女神の前髪をつかもうと思っていたときに、ある雑誌でこのコンクールのことを知りました。『年齢35歳まで・・・』これだっと思ったのですが、なんと申し込み締め切り日が過ぎていて・・・・・・」

その後、あらゆるツテを使い、やっとの思いで出場がかないました。課題曲は60曲、これを短い期間に覚え、本番に望んだそうです。

当日は、クジで演奏する曲を直前に選ぶそうなのですが、2曲やる内の1曲目がとても難しい曲だったのだそうです。
「いかん、これでは通過できない・・・」と思った彼は、指揮台にあがった瞬間、もう1曲のほうの曲名を叫んだそうです。それはルール違反だとばかり、進行担当者は指揮台に駆け寄ってきたそうですが、振り上げた指揮棒はすでに振り下ろされた後、この演奏が最高の出来だったのだそうです。
「それまで、僕の前を何度も通り過ぎた女神の前髪を、僕はその時始めてつかめたのです。」

とても愉快に楽しく話しておられましたが、「目標を持って、あきらめずに努力されていた姿が頭に浮かび、努力の後には必ず女神が通り過ぎ、あとはその時に前髪をつかめるかどうかが、大切なのだろう、そして多くの人間には、それが、その努力が難しいということなのだろう。」なんてことを思わせるお話でありました。

いい話を聞いた後は、やっぱり飲むしかないでしょ、てんで、やっぱり午前様・・・・・
はははは、私にとっては良い話しも「豚に真珠」「馬耳東風」、とうてい女神は私の前を通ってくれそうもありません。

さて、今日の一枚は、ジョニー・グリフィンの初リーダーアルバム(?)です。
ニューヨークに出る前に、故郷シカゴでアーゴに吹き込まれたのがこのアルバムです。
ニューヨークに出てくるきっかけとなったのは、地元でのモンクとの共演でした。モンクは彼をニューヨークに誘い、ブルーノートのアルフレッド・ライオン、リヴァーサイドのオリン・キープニュースに紹介します。どちらも彼の演奏を気に入り、まずはライオンが彼のアルバムを制作することになります。
同時に、モンクはアート・ブレーキーにも紹介、これがジャズ・メッセンジャーズへの参加につながりました。

初リーダーにどうして「?」が付いたかというと、これ以前オーケー・レーベルに残したものがありますので「?」というわけ、でもこのアルバムが初リダーアルバムとの認識で、私は良いと思っています。

バリバリのハード・バップというよりは、いかにもシカゴらしいブルージーなグリフィンを聴けるアルバムです。

JOHNNY GRIFFIN  [通称JG]
1956年録音
JOHNNY GRIFFIN(ts) JUNIOR MANCE(p) WILBUR WARE(b) BUDDY SMITH(ds)
1.I CRIED FOR YOU
2.SATIN WRAP
3.YESTERDAYS
4.RIFF-RAFF
5.BEE-EES
6.THE BOY NEXT DOOR
7.THESE FOOLISH THINGS
8.LOLLYPOP