アダムが神さまの言いつけを守らず、
善悪の知識の木の実を食べた時に、
人に罪が入った。
そして人は、
自分が裸なのを知り、
木の葉っぱで隠した。
また、神からも身を隠した。
こうして人に「恥」が入ったと言われる。
最近、この「恥」というワードが、
アメリカをはじめとするキリスト教界で、
ちょっとしたブームなのだろうか。
よく「恥」という言葉を聞く。
だけど、私はずっと、
日本語の「恥」と、
訳本の信仰書などで見られる「恥」とが
一致しない気がして、もやもや。
でも、昨日TCUで、
ケン・シゲマツさんの講演会があって、
ご自身の著書『もう、自分を隠さない』
~恥を癒すおおいなる恵み~
~恥を癒すおおいなる恵み~
の内容を紹介してくださいました。
その講演会で、最初に、
「恥とは、自分は十分ではない、
足りていない、
ふさわしくないという恐れです」
と説明をしてくださって、
ああそういうことかと、
ストンと落ちました。
人は恥を持っていると、
不安になり、落ち込み、
時にオーバーワークになる。
オーバーワークは、
何とか、自分のことを評価してもらおうと、
自分の限界以上のことをしようとすること。
また、極端にいい人になろうとする。
これも恥から出ていることらしい。
要するに、
ありのままの自分を恥じており、
自分を等身大に受け入れられない。
自分を過小評価したり、
過大評価するするということ。
恥から解放されるために必要なことはひとつ。
それは、神の愛で満たされること。
神の愛はいつも変わらずにあるのだけれど、
私たちの罪の性質は、
それを十分理解できず、
受け止められない。
神さまは、
マスクをし、着飾り、武装した私たちではなく、
どんなに欠けだらけでも、
弱さを持っていても、
どうしようもなく罪に傾く性質を持っていても、
ありのままの私たちをを愛している。
私たちの罪の性質は、
簡単にはこれを受け入れられないので、
習慣的に自分に語りかけることが大事。
ケン先生は毎朝、
「これは私の愛する子、
私はこれを喜ぶ」と、
3回自分に語りかけるのだと。
人は自分の力で、
恥を取り除こうとしても無理。
神の愛でいっぱいになるときに、
恥は自然に居場所を失っていく。
はい、そんな内容でした。
だいぶ脚色あります。
本も買ったので、
あとでじっくり読みます!
ありのままの自分を受け入れてくださる神様の愛の中で、全ての罪と弱さ無力になりますね。