要するに、大東亜戦争は昭和50年の南ベトナムのサイゴン陥落で終結したというのである。日本軍は米軍には負けたが、東南アジアに日本軍兵士が残り、各々の地で独立戦争を指導し戦い欧米からの独立を果たして大東亜戦争が終結したという意味である。筆者の指摘するように、戦後の日本人は米軍との戦いにだけ注目し、本土空襲の惨禍などから惨敗したとしか考えないが、ビルマやインドネシアに残った日本軍は終戦まで負けをほとんど知らずに健在だったのである。
つくづく思うのだが、日本は戦後嘘で固められた戦史を教えられている。例えば、日本軍がマニラを占領した時撤退した米軍は市内を砲火破壊した上に、土民の略奪が横行していたが、日本軍の侵攻と共に、治安と秩序は回復されたのに、米軍とフィリピン人は破壊の全てを日本軍の行為にしている。(P28)蒋介石が国民に「徳を以て怨みに報いよ」と言ったとされるが、蒋介石の演説には、そのような文言はなく、後日意図的にすり替えられたものである。(P36)
ベトナムで戦時中二百万人の餓死者がでた、とされるが、当時はヴィシー政権下であるから責任があるのであり、仏軍の規制と天災が食糧不足の原因であった。ところがホー・チ・ミンはそれを日本だけのせいにする演説をした。(P280)筆者は弱肉強食の世界にあることを自覚しない、気の優しい日本人の特性であるとする。しかしそれと同時にやさしいホーおじさんのイメージがあるホー・チ・ミンも残虐非道の共産主義者であることは間違いない。ホー・チ・ミンは偽りのイメージで真の姿が隠されているとしか思われないが、毛沢東のように実態があばかれることはないだろう。
インドネシア独立に対する日本の貢献は有名である。単に軍事的ばかりではない。「当時のインドネシアには、一二〇種類の言葉があり、・・・そこで日本軍は全力を挙げてインドネシア語の普及をやりました。そして三年半でインドネシア語がどこでも通じるようになった」(P85)というのだから、日本はインドネシアという国家・民族を作ったに等しい奇跡を短期間に成し遂げたのである。
知られていない一〇〇年前の日米戦争(P116)には米国のフィリピンにおける悪辣な行為が書かれている。米西戦争でアメリカはフィリピンを独立させると騙し、戦後裏切り米比戦争が始まったが日本政府は公式には支援できない。そこで何人かの壮士がフィリピンに渡り支援し、三〇〇人の在比日本人が戦闘に参加している。これを日米戦争といっているのである。この戦争でフィリピンの人口は一〇分の一に減ったというから恐ろしい。米国が本当に恐ろしいことをしたからこそ、独立した現在でもその恨みを言えないのである。戦後の中共も日本軍と戦った人たちは強さを知っていたから文句を言わなかったが、今の指導者は知らないから平気で過去に因縁をつけていると小生は思う。
似たようなエピソードが書かれている。(P192)ある研究会で韓国人ジャーナリストが日本人に、日韓友好は絶対あり得ない、と言った。その理由は「日帝の支配三六年、米帝の支配五〇年、しかし、支那による支配は一〇〇〇年、その恐怖はわれわれの血の中にDNAとして組み込まれているからです。」と言ったというのである。
さて日本が昭和十八年にフィリピンの独立を承認したのだが、当然日本の学者を呼んで憲法を起草した。この憲法には、戦争終結後一年以内に普通選挙を実施し、六〇日以内に新憲法の起草および採択の会議を開催すると謳っている。米国によって作られた日本国憲法にはこんな規定はない。(P126)日本人は国際法に律儀に従い、占領下で起草された憲法の無効を織り込んでいたのに対して、米国はあたかも日本人が日本国憲法を作ったかの如く嘘をついたのであ。その尻馬に乗った愚かな日本人は占領が解かれても日本国憲法を破棄しなかった。それどころか、米国製憲法だということが常識となった現在でも、憲法破棄どころか改正すら行えないで立ちすくんでいる。
東南アジアの共産主義国家成立には残念なことが書かれている。「日本は開戦前の北部仏印進駐以来、ベトナムに関わってきた。しかし『明号作戦』までは、〈親独的な〉ヴィシー政府との協定に縛られて、直接的に日本の政策が反映されることはできなかった。」(P210)というのである。すなわち、フィリピン、インドネシア、ビルマのように自由行動をとって現地人と共にフランス軍を一挙に壊滅させ、PETAなどのような義勇軍を作って独立の礎を築いていた。そうすればベトミンのような共産主義勢力はこの中に吸収されてしまい、ベトナム、ラオス、カンボジアなどが共産化することもなかった。そうすれば、凄惨なベトナム戦争もなく、ポルポトの虐殺もなかった。一党独裁の政権下で国民が呻吟することもなかった。実にフランス領であった地域が、親中ソの共産主義独裁国家となったのは偶然ではなかったのである。