毎日のできごとの反省

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中華帝国の興亡・黄文雄・PHP研究所

2020-07-24 22:51:07 | 支那大陸論

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 本書は支那大陸の王朝史を俯瞰するのは絶好の書である。歴史年表代わりに持っているのも良かろう。欲を言えば漢民族と呼ばれる民族がいくつもの使用言語を使う、多民族により構成されていることに言及して欲しかったが、無理というものであろう。だが、支那大陸があたかも統一されるべき領域であると誤解されるのも、漢民族としていっぱひとからげにされている民族のなかでも、いくつもの使用言語があるということが、明瞭にされていないからである。つまり支那大陸には「漢民族による統一王朝」と言う幻想がある。

 だが現実には民族の移動や混淆の結果、現在では、地域ごとに使用言語が固定化されていて、あたかも民族分布を示しているかのごとくである。正確に言えば「あたかも」ではない。何せ、北京語、広東語、福建語などいくつもの言語は、方言ではなく、ドイツ語、フランス語、英語、スペイン語といった異言語だから、これらを話すのは異民族としか言いようがないのである。

 例えば、北魏が漢化政策として漢語を話させた(P175)と書くが漢語とは、先に上げたような、北京語、広東語、福建語などのような、沢山ある支那の言語のどれであろうか、という疑問が湧くのである。北魏の時代の漢字は清朝崩壊以降と異なり、漢文を書くためのものであって、民族言語を表記するものではないから、漢字を使うから漢民族である、と言うのは、アルファベットを使う民族は全て同じ民族である、という以上に不可解な事なのである。現に、唐代のの安祿残山は六つの民族言語をあやつれた(P187)と書かれている。しかし「六つの民族言語」とは何という言語のことを言っているのか意味不明なのである。

 また、民族言語を表記するのに、漢字以外の独自の文字を有するの民族がいた例を紹介しながら、満洲族が満洲文字を作ったことに言及していないことは不可解である。例えば金王朝は漢化を防止するために、四書五経などの漢文献を女真文字に翻訳した(P241)と書いている。もちろん女真族は満洲族の前身であるが、実は女真文字は漢字を基に作ったもので、満洲文字はモンゴル文字が元になっているから、全く別系統の文字である、ということに言及されていない。

 小生のような素人が知ることを黄氏が知らないはずかないから不可解としかいいようがない。また四書五経などの支那の古典は全て清朝により満洲文字に翻訳されている。これは漢化ではなく、満洲族が民族文化を守ろうとした足跡である。翻訳された支那の古典は現在にも残されていて、西欧の支那研究者は四書五経を読むために満洲語を習う人もいる位である。これは漢文が文法のない特異な表記手段であるため、習得が極めて困難であることによる。その点、満洲文字で書かれた四書五経は、漢文の習得とは難度が遥かに低く、単に異言語を習得するのに等しい、という意味なのである。ちなみに現代の北京語や広東語などの漢字表記は、「漢文」とは全く異なる。

 よく理解できるのは支那大陸の人間は、国に属している意識がない、ということである。だから異民族の侵入にも国を守ろうとはせず、逆に侵入側の味方をすることが多い(P24)。これは王朝が民族ではなく、家族に属しているから、天下と言っても皇帝の家族だけの天下であるから、民衆が味方するはずはない。清朝が、明朝を倒した李自成を北京から駆逐したときに、北京市民はもろ手を上げて、清軍を歓迎した(P281)。これは李の軍隊が略奪暴行を繰り返したせいもあって民衆は異民族であろうと、良き統治者を求めているのである。

 また「一九〇七年の早稲田大学における「清国留学生部」卒業記念署名の名簿では、六十二人の学生のうち国籍を「支那」と書いた者が十八人、「清国」が十二人、「中華」「中国」が七人で、残り二十五人は何国人かも書けなかったのである(P26)という事実を紹介して、黄氏は当の中国人が国家への帰属意識がないことを示している。小生の父が大陸に出征したとき、支那の民衆は日本軍が来ると日の丸を上げて歓迎されたと言った。父は、支那の人たちはそもそも日本軍が外国の軍隊である、とさえ思っていなかったのだろう、と述懐していたが、黄氏の見解を聞くと父の直感は正しかったのである。

 黄氏も周辺民族は中原に進出すると、漢民族文化に染まっていくと言う見解の持ち主である。しかし、これは奇妙ではないか。いつまでたっても秦・漢の大昔にできた漢文化が五百年千年経っても最新のものである、ということになる。これは昔のものが最も良いものであるという支那人に一般的な尚古主義である。例えば衣服をとっても「漢民族」は満洲族の服を受け入れている。京劇は今では中国の伝統芸能と言われているが、これも満洲族のものである。中原の民は、満洲族の文化を受け入れたのであって、その逆なのではないことを黄氏は知っているはずなのに、どうしたことだろう。現に「康熙帝伝」(東洋文庫)には、北京の清朝宮廷では、漢人官吏が満洲化していると書かれている。このようなことは、それ以前の王朝でもあったはずである。

 黄氏の支那大陸文明観で一貫しているのは南北問題である。それも北とは北方遊牧民ではなく、支那本土内の区分である。『南船北馬』に象徴される南北の文化上の差異は地理的・風土的なものであるが、それ以上に大きいのが、長江文化から生まれた南と黄河文明の流れを汲む北における歴史文明的異質性である。その異質性は政治、経済、社会、文化にも及ぶ(P361)、と書く。このことは日欧中の論者のにも多く知られているという。また、漢の崩壊後の春秋の時代の諸国乱立について、「斉、晋など周王室を奉ずる中原諸侯に対して、南方の長江文明の流れをくむ楚、越、呉諸国は、北方中原の国々とは違って、公侯伯とは称せずに王と称し、周、斉、晋などの北方中原の国々とは対立していた」(P43)と書く。黄氏によれば、南方の長江文明の地域は中原ではないのだ。

 支那王朝の人種問題も面白い。秦の始皇帝の容貌についての「秦始皇本紀」の記述からは始皇帝はペルシア人ではないか(P76)という。また新疆ウイグル自治区で発見された四五千年前のミイラは明らかにアーリア系であるという。兵馬俑の造形や遺骨にも西方系民族も混じっている事がわかる。以上のことから秦王朝は多民族集団であろうと、黄氏はいう。隋唐王朝、五代の後唐、後晋、後漢は全てトルコ系であり、後周や宋の開国者が漢人かどうかも疑われる(P164)とさえいうのだ。

 辛亥革命後は、中華民国が成立したと言うのは建前で、実際には軍閥の乱立する世界であった。毛沢東さえ青年時代は熱心な各省自治論者であったが、さらに省ごとの解体独立論を唱えていたという。中国を27地方に分裂させ、毛沢東の地元は「湖南共和国」になる予定であったと言う(P326)。それを実現したのが戦国時代であった。戦国時代は、中国史上唯一の国際化、多国共存の時代であった(P62)。支那大陸の民にとって不幸なのは、それがヨーロッパのように、多国共存が安定せず、分裂と統一を繰り返して、民度と政治システムの発展をもたらさなかったことである。この性向は今後も続くのであろう。支那大陸は永遠に近代化しない。