著者の村田氏はエリートの定義(P118)をしている。それは身分、学歴、試験などとは一切関係がなく、精神上の貴族と呼ぶべき人たちを言うのだそうである。知識以上に教養と節操を持ち、国家と社会への貢献を義務と考え、ものごとを行うに際して報酬を求める考えがなく、世論に留意するが決して大衆に迎合しない、そのような人達。それが日本の必要とするエリートだと、村田氏は定義する。
だが、このことを例えば外務省に適用して考えてみよう。現在は頂点にキャリヤ制度があり、一定以上の役職者はキャリヤと呼ばれる、試験制度の中から選ばれた人たちから採用される。逆に言えば、ノンキャリと呼ばれる人たちは一定以上の役職にはつけないのが現実である。
村田氏は、試験どころか学歴すらエリートとなるのには関係がない、という。然して、外務省にはキャリヤやノンキャリも、そこまでいかない役職者もいる。村田氏の定義によれば、その中のどのグループに属する人にもエリートにふさわしい人間はいるはずである。
元々は、試験制度も帝大もエリートを養成するために作られたはずであるだから、村田氏の定義とは相違している。村田氏が冒頭のようなエリートの定義をしたのは、エリートの養成のための制度がうまく機能していないと考えたためであろう。そうすると、村田氏の定義するエリートであるならば、身分、学歴、試験などとは一切関係がなく外務省のどんな高位の地位にもつくことができるべきだと、考えているのか分からないのである。今は建前は身分は差別できないから、官僚を考える上では除外してよい。
だが、高卒と大卒を比べただけでも、与えられたカリキュラムだけで学問をしていれば、学識、専門的素養というものは異なる。異なるものを同一条件で採用はできまい。だが本人の努力によって学識、専門的素養を大卒者以上に身につける者はいる。それを評価するのが、「試験」であろう。これは村田氏に言わせれば、狭い意味でのエリートの選抜になってしまうので、本来のエリートの選抜法ではない、というのだろうか。
だが村田氏がいくらエリートの定義をしたところで、そのエリートなるものを人事考課にどのように反映させることが、外務省、ひいては日本国の国益になるのかならないのか、答えは出ないのである。村田氏は誰も反論できない、理想的な命題を提供した。しかし、それと現実の官僚のあり方との落差は無限と言っていいのである。むしろ、村田氏のエリート論は一部民間会社にはあてはまるように思われるから皮肉である。
村田氏のエリートの定義を別読みすれば、学歴や試験で高い地位にいても、その人の品格によってエリートと呼べない人もいるし、たとえ地位や職務に恵まれていない人でも、エリートと和ベル品格の人はいる、ということになる。つまり世間的にエリートである、といわれることと、村田氏の本質的なエリートとは異なる、ということである。しからば、何故村田氏が、わざわざ独自の定義をしたのか、説明していただかなければ分からないのである。