毎日のできごとの反省

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マスコミは時の空気に流されているだけ

2015-05-24 15:30:30 | ジャーナリズム

 最近の報道で言えば、集団自衛権問題を例にとろう。特にテレビの報道であるが、真剣な顔をして、「日本が戦争ができる国になる危険がある。」ということをキャスターたちは真顔で言うのであるが、彼らのスタッフが国際法上の自衛権について検討し、その上でコメントしているとは思われないのに、なぜあんなに自信を持って言えるのか、不思議ではないだろうか。

 彼らは野党などの反対勢力が言うこと、朝日新聞が時の安倍政権に反対して書いていること、などを要約して言っているだけである。しからば、なぜ彼らは自分の頭で考えもしないことを自信をもって言い、戦争になる、などと怒って見せることができるのだろうか。そう、彼らは、その時の言論界で多数派に寄り添っているから、もし言っていることが間違いであっても窮地に陥る心配がない、と知っているからである。

 反対に集団的自衛権の保持は必要である、などと言えば抗議の電話が鳴り続けるであろう。それは嫌なのである。特にテレビ報道などは、世の中の空気を読んで一番言いやすいことを言っているのに過ぎない。産経新聞とついこの間まで、フジサンケイグループであったフジテレビですら、朝日新聞のように、集団自衛権には疑義を呈している。つまりテレビマスコミが一番世の中の言論の支配的空気に乗りやすいのである。

事実をろくに確認もせずに、戦時中は日本が負けるなどと言えば、憲兵に追いかけられるとか、非国民と言われる、と彼らはいうのであるが、彼らの言うのは、その時代はそういう風潮が支配していた悪い時代であったと言っているのに過ぎない。

 もし戦時中がそのような時代であったと仮定すれば、彼らは戦時中に生きていれば、非国民、と非難する側にいるのに間違いはない。小生は戦時中に反戦的な言動をする者を非国民として非難することを悪い、と言っているのではない。ましてや本当にそのような風潮があったことを確認したわけでもない。

 しかし、当時のマスコミが非国民という言葉を多用していたとすれば、彼らの多くは、その意味を真剣に考えて言っているのではない。時の空気がそうだから便乗しているのに過ぎないのである。そういうメンタリティーにおいて、今集団的自衛権反対を怒ったように叫ぶテレビキャスターは、非国民とかつて叫んだとされるマスコミと同じである。もっと正確に言おう。

繰り返すが、戦時中に戦争を批判すると非国民と言われた、と言われたのが事実であったかどうか、ということではなく、そういうことがあったと事あるごとに主張する人たちこそ、時の空気に流されて、一番気楽な言論を語ると言っているのである。例えばテレビ番組で、戦時中の隣組などの場面を作るとき、そんな事実があろうとなかろうと、善良な人を非国民と非難する場面をねつ造するのである。そういう場面を作ることが現代日本での空気に適しているからである。後で嘘八百だとばれたとしても、非難される恐れもないのである。ドラマをでたらめにしないためには、「善良な人々が非国民と非難される」場面が当時一般的だったか否か検証しなければならない。希なできごとを一般化してドラマの場面にすることは、故意にする印象操作である。

政府がマスコミを批判すると、言論の自由を守れ、と言う。戦前のような言論の自由のない社会に戻すのか、と言う。それならば彼らは、政府に批判されただけで筆を曲げるような人たちなのであろう。それならば、彼らはもっと強い圧力がくればもっと平気で筆を曲げる。彼らが言う言論の自由とは、好き放題無責任なことを言っても、日本国内くらいは許される社会にしておいて下さいと懇願しているのに過ぎない。彼らにとっては、言論の自由の為に闘う、などということは論外で、言論の自由はそこいら中に転がっていて、ニュース営業が勝手にできるものでなければならないのである。

朝日新聞が昭和20年九月にGHQの逆鱗に触れて、2日間の発刊停止を命じられた。自民党の新聞への抗議などとはケタの違う、正真正銘の言論弾圧であった。彼らはGHQの言論弾圧と闘ったか。そうではない。唯々諾々として検閲方針の通りの報道をしたのである。それどころかGHQが去って自由になってもGHQの検閲方針を墨守した。それどころか、朝日新聞は未だに、GHQによっていかなる言論弾圧があったかを一切検証しない。戦後米国に占領されて、日本には戦前のような検閲がなくなり、自由と民主主義の国になった、とさえ言いきるのである。これでも朝日新聞が、言論の自由のために闘う、と断言できるのが不思議である。

だから日本より遥かに言論の自由がない、北朝鮮や支那の政府の言論弾圧は批判しないのである。批判すれば支局を閉鎖されるとか、脅されるという脅威がまっているからである。その脅威の前には言論の自由などは、どうでもいいのでる。日本のほとんどのジャーナリストには、普遍的価値としての言論の自由という考え方はない。商売として日本国内で言いたい放題言うことのできることが、彼らの言論の自由の意味なのである。 

  言論の自由のためにジャーナリストはどう闘っているのだろう。以前、安倍首相がNHKに圧力をかけた、と報道して言論の自由を守れ、と連呼した。これが彼らの闘い方である。僕たちは首相に圧力をかけられたと世間にいいふらして、世間を味方につけるだけなのである。マスコミの幹部が政治家に圧力をかけられたら、断乎拒否するだけで、言論の自由は守られる。彼らのしているのは、「政治家にいじめられたよう」と叫んで世間に助けを求めている子供同然である