紙は荒目の画用紙。ホワイトだけがポスターカラーで、その他は水彩絵の具です。
さて、紹介するのは、イラストの基のスケッチです。本当はA3なのですが、コンビニのスキャナの性能が悪いので、自前のコピー機でA4でスキャンしましたから、これは中心部分だけです。これから着彩して仕上げていくのですが、はていつ完成するやら。プラモでも、未完成のものを中途で紹介したもので、完成した実績がありませんから。背景とブラウスとスカートと、皆予定は未定です。
フィギュアとはプラスチックなどを素材とした人形である。原則として製作キットではなく完成形で売られているから楽しみは、収集である。一部は現実のアイドルを立体化したものもあるが、ほとんどが漫画なりアニメのキャラクターを立体化したものである。要するに漫画から分化したものがアニメとフィギュアである。
現実にいるアイドル等を実体化したフィギュアが主流とならないのは、出来上がった作品に精彩がないという明白な理由からである。これに対してアニメや漫画のキャラクターのフィギュアは、架空のものであるにもかかわらず、漫画やアニメのキャラクターをよく再現した「リアル」で良質なものがある。これが人気のある理由である。これは一見不思議なことである。実際に存在するもののフィギュアにリアリティーがなく、架空のアニメのキャラクターにリアリティーがあるのだから。
しかしこれは事実である。少なくとも当分日本ではこのような状況が続くと考えられる。漫画やアニメのキャラクターのフィギュアにリアリティーがあるのは、元々の漫画やアニメのキャラクターに実在の人間と異なるデフォルメがあるためであろう。あらゆる視覚芸術は何らかのデフォルメがある。おかしいと思われるだろうが、写真にもデフォルメはある。デフォルメは作品に精彩を与える。だが、現実のアイドルのフィギュアは、そのデフォルメに成功したものを見たことがない。むしろデフォルメの逆に、控えめな表現となっている。フィギュアの作家がそうでなければリアルに再現していないと感じているからであろう。
さて女性イラストだが「蝶のいる風景」にした。もちろん架空の蝶である。
浮世絵について考えてみよう。浮世絵は今でこそ美術館や展覧会でしか見ることができない。だが彼等は美術館や展覧会に飾られるために描いたのではない。日展の出品者が最初から展覧会を目的にしていたのとは、大いに異なるのである。浮世絵は大衆社会の中に存在した。
浮世絵は、江戸時代には大衆には普及してはいたが、今で言う芸術扱いではなかった。大衆は、歌舞伎ファンは役者絵をブロマイドやアイドル写真のように楽しみ、まだ見ぬ東海道五十三次の観光地の風景を想像し、いつか行ってみるぞと楽しんだのである。
浮世絵の芸術としての評価が高まったのは、ヨーロッパ人に浮世絵が見出されたからである。しかも、西洋人の目についたのは、日本から輸出された陶磁器などの包装紙として使われているものさえあった、というから驚きである。日本人の発明や発見の多くが日本人には無視され、西欧人に評価されると、これに追随して日本人の評価が高まるのと同じパターンである。
さて紹介するのは、水着姿の女性イラストである。昔描いたので、髪を仕上げる前の、ベタ塗で放置されたものを、そのまま掲載したのであしからず。
以前、着彩でアップロードしたものの、原画です。美少女アニメ風にならず、かといって写実でもない、と言ったところです。画用紙は粗目、鉛筆はB2です。トレースは、トレペに写して、カーボンコピーです。
本論に入る前にイラストについて一言。全体は思い切ってラフにしてグラデーションもありませんが、洋服にだけ力を入れました。画材はポスターカラーが基本です。
さて本論の芸術と形式。
「形式」という言葉に拒否反応を示さないでいただきたい。芸術家の表現の形式とは言語で言えば、英語やフランス語といった言語の種類に例えられる。芸術家は固有の言語を持つ。このような例えは必ずしも適切ではないのだが、2人の画家が同じ油彩を使って同時に同一人物を描いたとしても、同じ絵画はできない。
それは見た映像を画家固有の言語で表現するからである。これが表現の形式である。多くの場合ある芸術家の表現の形式は先人のものまねである。漫画家に典型的なそれを見る。手塚治虫の弟子は手塚治虫の真似から始まる。だがそれでは芸術家として独立したことにはならないし、その芸術家の技量がそれを許さない。修練を重ねることによってその人独自の表現の形式を作る。だがそれで止まらない。
常に形式は発展しなければならないのである。発展し続けることが芸術家の健全さの証である。従って芸術家はまず自己の表現の形式を作ることを目標とし、次は不断に表現を進化させる。これは意識されるものではなく、本能がそうさせているというべきである。
同一の条件、例えばポーズ、表情などの選択も芸術の表現の手段のひとつである。これを著しく限定されることは表現の自由度を低下させる。ある程度低下すると、芸術としての表現能力を失う。芸術ではなくなるのである。同一条件を強制されるのは習作にすぎない。こう考えれば写真にも言語がある、表現の形式があるということがわかるだろう。あり得ない仮定だが、あらゆる条件を完璧に統一して写真を撮れば同じものにしかならないのは明らかである。これは自由度0の状態である。これは芸術とはならない。題材の選択から始まってあらゆる条件の選択によって芸術家固有の作品ができる場合だけ写真が芸術になりうるのである。
秋山正太郎と篠山紀信の写真の作風が異なるのは容易にわかる。これが表現の形式が芸術家で異なることの実例である。芸術家の使う形式が言語であるといった意味はこれだけではない。英語しかわからないものに日本語は理解できない。音は誰の耳でも聞こえる。絵は誰でも見える。
だから音楽や絵画は古今東西、老若男女誰にでも理解できるという誤解がある。表現の形式を言語に例えたのはこの意味である。ある芸術家の言語を理解しなければその作品は理解できないのである。絵画表現の場合に言語より思考レベルが情感に近いので全く分からないというのではないにしてもある程度分からない場合が多いと言った方がよいのかもしれない。
新コーナーを設けました。女性イラストです。少々古いですが、ラフスケッチで終わり、着彩には至りませんでした。着彩すると壊れてしまう気がしたからです。アニメ風にもならずに済みました。硬い感じがラフスケッチのいいところです。いままではデジカメ映像もありましたが、極力スキャナーにしました。自宅のプリンターならA4までですが、コンビニのなら、A3までスキャンできるから便利です。USB持っていきましょう。
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3DCG参りました。知ってはいたのですが、見ないふりをしていたようです。でも今更絵筆からパソコンに切り替えるほどの気力も脳力はありません(;^_^A。それに、と小生のパソコン容量では描画ソフトには足らないです。
意気消沈するのは止めにして、本論に移ろう。自由度とは私の知る限り工学的概念である。だから説明しておく。振動論で最も簡単なものが一自由度の振動系である。動かない天井からばねに吊られたおもりがある。このおもりが上下方向にしか動かないものする。そしてばねを下に引いて離すと上下振動する。最初の位置を0とした場合のおもりの上下方向の位置を足らない立軸変位という。
立軸変位を使って微分方程式で振動の状態を表す。この振動系を1自由度の振動系という。変化するものが1つしかないからである。今度はおもりが左右方向にも動くものとする。するとこの振動は、2自由度の振動系という。縦軸と横軸でおもりの位置が決められるからである。このように、ものごとの状態を表すものが増えることが自由度が増えるという。自由度が増えると状態の複雑な表現ができるようになる。ここではこのような意味のアナロジーで、芸術表現技術の自由度という言葉を使うことにする。
表現の自由度とはある芸術作品をある手法を使って製作したと仮定したとき、製作者の意図がどの程度反映できるかを言い、反映できる程度が大きいほど自由度が多いという。ある作品を製作する場合に一定以上の自由度がない場合には、芸術的作品の製作は不可能となる。ごく初期の写真は写真の映り方を撮影者が制御できない、すなわち撮影者にとって自由度の極めて少ないものであった。
ところが自由度が増加しても容易に芸術分野に使用できる技術とはみなされなかった。その原因は誰が写しても機械的に同じに写ると一般には考えられていたからてある。一方で比較的容易に写実的画像が得られるために、実態として絵画のニーズをだんだん侵食していった。
写真の映像が優れたものになると同時に、誰が写しても同じと言う誤解は解かれて芸術分野として認められることになった。技術が発達すると映像が改良されるばかりではなく、絞り、ピント、フィルターなどによって自由度は増していった。もちろん光の当て方の工夫によってどのように映像が変化するのかと言ったことを撮影者が予測可能になることによって撮影者のイメージした映像を作ることが可能となった。
これが小生の考える自由度が増した、ということの芸術的意味である。コンピュータグラフィックは現在発達中の最たるものである。当初はドットの密度などによってかなり幼稚な画像しか得られなかった。インベーダーゲームの画像と最新のゲームの画像を見れば差は歴然としている。まして最新のコンピュータグラフィックを見れば進歩の過程がよくわかる。だがまだ克服できないのは映像の量の割にデータ作成に手間がかかりすぎることであろう。それでも三次元データを作成しておくことによって、自由な視覚角度での画像表現ができるから、画期的である。CG作成者の武器は、いかに多くのデータを持っているかということになったようである。
感性の良い芸術家は、新しい技術を求める。表現のより多くの自由度を求めるとともに新しい表現手法を求める。エアブラシによるイラストレーションも既に古いものとなったが、筆よりも新しい技術ではある。後世から見て古い技術も出現当時は最新の技術であった。筆にしても技術の発達によりより使いやすく又、用途によっての分化も進んだ。伝統的な手法にこだわるのは権威にすがっている感性の低い者に過ぎないことがある(もちろん皆そうだという馬鹿なことは言わない。時に権威主義者はいるものである)。そして最新技術が3DCGであろう。
物事は平凡である。絵画の原点は見たものを忠実に再現することにある。これは写真が発明された動機と同じである。人が見たものを忠実に再現して記録することの必要性は二つある。第一はある風景など眼前の映像に感動したなどの動機で、これを記録保存したいという個人的な欲求である。
第二はある画像を記録して、その画像を見たことのない人にも同じ画像を認識させる必要性がある場合である。前者は個人的な趣味の領域である。後者は人にも同じものを見せたいという前者と同じく個人的に純粋な欲求の場合と、社会的必要性があって同じものを表現したいという場合がある。社会的動機の場合にも背後に、個人的欲求が隠されていることもある。
これら全てに共通するのは、見たものをできるだけ忠実に再現するということである。絵画は見たこともないものあるいは実際に眼前の光景ではなく、いくつかの光景を組み合わせたもの、あるいは全くないものの画像などがある。だが絵画の素朴な出発点は見たものの再現にある。絵画の発達はそれに止まらず見ることのできないものを映像かするばかりでなく、抽象画のようにありえないもの、或いは肉眼で見た画像と何ら関係ないものまで生み出すに至った。
それでも絵画は見たものの再現であり、抽象画といえどもその延長で人間の思考から生まれたものである。抽象画といえども人間が映像から得る視覚的刺激を基礎にしたもの以外ではありえないからである。
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芸術と猥褻と言う言葉で多くの日本人に思い出されるのは、伊藤整のいわゆるチャタレー裁判である。伊藤が翻訳出版した「チャタレー夫人の恋人」が芸術か猥褻かを法廷で争ったものである。内容の如何にかかわらず芸術なら猥褻ではないから、合法であり発刊禁止にはならないが、猥褻なら公序良俗を乱すので違法であるというのである。このような愚劣な論理を真面目に法廷で争ったのである。
芸術だから猥褻ではないと主張した伊藤もどうにかしている。素直に考えるとこの判断基準は馬鹿げていることがわかる。芸術か否かというのを、丸か四角かという形状に喩えれば、猥褻か否かというのは赤か青かという色の相違に喩えられる。
つまりこの裁判は、丸いものなら必ず青色であり、四角なものなら必ず赤いというに等しいことを前提にした没論理である。猥褻とは広辞苑によれば、男女の性に関する事柄を健全な社会風俗に反する態度方法で取り扱うこと、だそうである。換言すれば、それを鑑賞した場合に著しく性的興奮を喚起するものであり、社会に公然とさらすことの不適当なものの形容であろう。
浮世絵の春画はどうみても猥褻である。猥褻でなければ春画とは呼ばない。だが同時に秘めやかにではあるが社会的要請があって制作されたものであるという点において芸術である。ミロのビーナスは確かに美術館で展示することが認められているが、少年少女ならば内心公然と見ることを恥ずかしく思う人たちもいるだろうし、地域や時代によっては猥褻と感じる場合もあるはずである。
だがミロのビーナスは一般には優れた芸術とみなされているのは間違いない。浮世絵の春画でさえ多くの作品は優れた芸術と評価されている。ここで芸術と猥褻という表現を取上げたのは、芸術、特に優れた芸術は高貴なものであり、鑑賞者に不純な感情を与えるものではないという誤解が一般には存在するからである。
特に日本人にはその傾向が強いように思われる。だがあえて言う。芸術は高貴なものもあればそうでないものもある。優れた芸術であっても同様である。高貴か否かということは扱うテーマや作家の作風によって至る結果でしかない。テーマが猥褻であれば、芸術も猥褻となる。それだけのことである。
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