A Challenge To Fate

私の好きな一風変わった音楽を中心に徒然に綴ったページです。地下文化好きな方は見てやって下さいm(_ _)m  

【誰も知らない迷バンド】チューリップの国のフラワー・トラヴェリン・トリオ『タンバリン』

2014年09月20日 00時15分15秒 | ガールズ・アーティストの華麗な世界


昨日デンマークのギタリスト、ヤコブ・ブロのことを書いていて、アシッド・ロックやアシッド・フォークの件(くだり)で、24年前隣国におサイケな女子ヴォーカルが居たことを思い出した。チューリップと風車の国オランダに出現したフラワーパワートリオは、日本盤も出たが殆ど話題にならなかった。ネオサイケ経由で先祖帰りした同時代のガレージ・リバイバルやオルタナ・サイケのアングラ感を一切排除した、メジャー感のあるポップセンスは、正直言って狙い過ぎのもろコピー系。しかし彼らがオランダ出身という点がツボだった。



1986年春にヨーロッパに卒業旅行に行った筆者のパキスタン航空便は、往路がデンマーク・コペンハーゲン着、帰路がオランダ・アムステルダム発という南回り北欧ルートだった。2月厳寒のコペンハーゲンで想像より遥かに小さい人魚像を見て、スウェーデン~ノルウェー~西ドイツ~イタリア~オーストリア~フランス~イギリスと鉄道旅行したあと、フェリーで辿り着いたアムステルダムが最後の訪問地だった。3週間の貧乏旅行でボロボロになったジャンパーとスニーカーをアムスの蚤の市で買った革ジャンと革ブーツに着替え、ローカル列車で行った風車村で一日リラックスした。黙認マリファナを試す勇気はなかったが、平日昼間から大道芸人や観光客やヒッピーが溢れる運河の街の解放感に酔った。コスモポリタンシティの名に相応しく、白人黒人黄色人種入り交じる坩堝の空気は、ロンドンやパリやベルリンとまったく違ってユルくてレイドバックして懐古趣味だった。



それ以来ヨーロッパで一番好きな街はアムステルダムになり、仕事を含め5,6回訪れた。強盗やスリに襲われたり、詐欺師に騙されたり、同性愛者に迫られたり、同行者が喧嘩して警察が来たり、ラリって何時間もストリートを彷徨ったり、行く度に事件が起ったが、一度もパニックになったことは無い。この街では何があっても許せる。この街ではどんな事件も面白い。オランダ語ではVを「フ」と発音するので、VIDEOはフィデオ、VAN HALENはファンヘーレンになる。何だが脱力する発音が、何でもOKの阿蘭陀に相応しい。この10年彼の国を訪れる機会はないが、教会の庭で開催される蚤の市では今でもタイダイの衣服とマリファナの鉢植えを売っているに違いない。



タンバリンTambourineは1987年にオランダで結成されたロックバンド。中心メンバーはサスキア・ファン・オルリーSaskia van Orly (vo)、バート・ファン・ポペルBart van Poppel (b,org,p)、ジャック・ビコJac Bico(g,sitar,tambourine)の3人。結成以前はサスキアはアフェア、バートとジャックはピウ・ピウというバンドに在籍していた。80年代ニューウェイヴに幻滅を感じていた3人が目指したのは60年代後半ダッチサウンドと呼ばれ世界各国のヒットチャートを席巻したショッキング・ブルーやゴールデン・イヤリング、アース&ファイアーなどのサイケポップやフォークロック。アートワークやファッションを含め、チューリップの国オランダならではのフラワーパワーを打ち出した。



1988年に自主レーベルからシングル「サマー・オブ・ラヴ」でデビュー、ラジオチャートTipparadeで13位にランクイン。1989年オランダ・ポリドールと契約し、シングル「ハイ・アンダー・ザ・ムーン」とアルバム『フラワーズ・イン・セプテンバー』をリリース。シングルはナショナルチャートで21位のスマッシュヒット。同年オランダのNo.1新人に与えられるシルヴァー・ハープ賞を受賞、90年にはアルバム『フラワーズ・イン・セプテンバー』で世界最古の音楽賞エジソン賞を受賞した。1991年に2ndアルバム『ウォーターランド』をリリースするもチャートには入らず、1992年解散。
バートとジャックはプロデューサー、アレンジャーとなる。サスキアは他のシンガーのバックヴォーカリストとして活動し、2003年位ファン・オルリー名義でソロアルバム『サムバディ・ホールド・ミー』をリリース。シングル「コーリング・アウト」が小ヒットした。






Tambourine Discography

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