ガジ丸が想う沖縄

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暴力の無い近所付き合い

2018年11月09日 | 通信-政治・経済

 御近所同士でいがみ合ったりケンカしたりしたという経験が私には無い。私の両親も祖父母も近所付き合いは良好であった。父母や祖父母が近所の誰かと言い争いなどしているのを私は見たこと聞いたことがない。諍いの種はあったかもしれない。ただ、何かあったとしても互いに丸く収める努力をしていたのだと、今から思えば思う。
 「御近所同士でいがみ合ったりケンカしたりしたという経験が私には無い」のは、近所の誰かに嫌な思いをさせられたという経験が無かったからなのかもしれない。しかし、言いたい放題、好き勝手に生きてきた私なので、隣近所の誰かに嫌な思いをさせたことはあったかもしれない。自分自身ではそれに気付いていないかも、と今から思えば思う。

 相手に嫌な思いをさせないのが第一だが、そうするつもりはなくてたまたまそうなってしまった場合は誠意をもって謝る。そうやって互いに信頼関係を築いていけば、多少のことは「お互いさま」ということで、争いの種は芽が出ることなく消えていくはず。
 ところが、最初から互いに利害がぶつかって、その上、互いに信頼関係は無いということであれば、何かちょっとしたムッとするきっかけがあると喧嘩となる。隣同士だからこそ嫌な部分が目に付くなんていうこともあるだろう。嫌な奴だと普段思っていたら、ちょっとしたこと、例えばテレビの音が煩いというだけで喧嘩になるかもしれない。
 近い関係だからケンカするというのは夫婦喧嘩、親子喧嘩、兄弟喧嘩、嫁姑のいがみ合いなどをテレビドラマなどでよく目にしていたし、私も家を出るまでは親子喧嘩は時々やっていた。毎日一緒にいるから互いの感性の合わない部分でぶつかり合うし、近い関係だからこそ互いに遠慮無く感情をぶつけ合って喧嘩になる、のだと思われる。

 私は喧嘩が嫌いである、言い争うことも嫌いである。なので、家を出て1人暮らしをするようになってからは親と喧嘩することはなかった。実家へ行って親と話をして嫌なムードになったら「もう帰るよ」と言って終わっていた。今から思えば「関わることを避けていたんだなぁ、淋しい思いをさせたかなぁ」と反省する。「言い争うことが嫌い」なのは単に面倒臭いだけのこと。人のために心を使うのをケチっているだけのこと。
 かように、喧嘩も悪いことばかりでは無いと、今から思えば思う。喧嘩することで互いに理解を深め、人としての関わりを深めるのかもしれない。互いに理解を深め、関わりを深めれば、多少のいざこざは「この程度はいいじゃないか、お互いさま」となるのかもしれない。その逆に、互いに理解が無ければちょっとしたことでも大喧嘩に発展するのかもしれない。大喧嘩は暴力になるかもしれない。それが国同士だとどうなる?
     
 国同士の暴力だと、それは戦争ということになる。それは「オシマイ」、やってはいけないこと。なので、暴力の喧嘩になる前に口喧嘩で解決しなければならない。相手を侮蔑するようなことを言うと後に禍根を残すので、そこは互いに大人の対応をし、多少の我慢をし、多少の譲歩をし、そしてその後、多くの平和を得ることができたらいい。
 周りは敵ばかり、いつ襲われるか分からないと思えば武器は必要、時には好まぬ戦争もしなきゃならないかもしれない。しかし、周りは信頼できる友人ばかりであれば、武器も不要。戦争の心配もない。隣近所の国々とそんな関係になれたらいいなぁと望む。
     
 記:2018.11.9 島乃ガジ丸