ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

見聞録025 争い要らずの木

2009年01月30日 | ケダマン見聞録

 「アメリカの大統領が代わって、世界の情勢も変わるかねぇ。」と、一週間遅れの新聞を読みながら、ユイ姉が言う。マナがオキナワに帰ったので、ユクレー屋のカウンターはユイ姉がみている。臨時なのだが、もうしばらくいるらしい。
 「世界情勢って、何だ?」
 「まあ、地球温暖化っていう長期的視野の問題もあるけどさ、緊急な問題としてはやはり戦争だね。イラク、アフガン、イスラエルとパレスチナ。ロシアや中国、アフリカ諸国にも火種はあるしね。とにかく、戦争だけはすぐに止めて欲しいよね。」
 「有史以来、あるいは、もしかしたら人類誕生以来、戦争は絶えずあっただろうさ。戦争は人類につきものなんだろうよ。」
 「不思議っていうか、バカっていうか、お互いに傷つくだけなのにね。」
 「戦わないと食っていけなかった野生の名残なんだろうよ。」
 「うーん、じゃあ、食っていければ戦わないのかねぇ。」
 「食っていけたら、もっと食いたいと思うだろうよ、それが人間の性だ。あっ、思い出した。そんな話があったぜ。他所の星の話なんだが。」

 というわけで、久々にケダマン見聞録、その25『争い要らずの木』

 いつものことだが、その星の自然環境、及び知的生命体の社会状況などは地球とほぼ同じと考えていい。基本的に好戦的性質を持っていることも同じだ。ただ、精神の発達は地球人より少々勝っていて、戦争の無い平和な世界を望む者が多数を占めていた。

 戦争の無い平和な世界を望む者が多数を占めていたのには訳がある。その星に住む人間のほぼ全てが食うに困らなかったからだ。
 どうしてかというと、その星にはとても役に立つ木があったのだ。先ず、野菜のようにして葉が食える。それから、果肉はデンプン質を多く含み、蒸かしてパンのような味がする。その種子はタンパク質を多く含み、煮ると大豆のような味がする。さらに、根に塊根を作り、それも芋のようにして食料になる。この木1本あれば、30人ほどが生きていける。しかも、その種を植えれば5年ほどで成木となり、実をつけた。
 その星の人々は何もしなくても、最低限の食い物は得ることができたのだ。だから、争う必要は無かった。元気のあるものはいくらか働いて、肉や魚などを得たり、また、着る物や日用品を得、あるいは、たくさん働いて家を建てたりした。
 よほど欲深い者でない限り、この木があるお陰で、人々はのんびりと過ごせた。そんなわけで、この木のことを「争い要らずの木」と言って、大事にした。
     

 「それ、すっごくいい。地球に持って来れないかしら。」と、話の途中であったが、ユイ姉が声をあげ、場面はユクレー屋に戻る。
 「まだ、話の途中だ。・・・もういいや。途中は端折る。ある年、その星の気候に大変動があって、『争い要らずの木』の半分が枯れた。まあ、その後は想像できると思うが、木の所有をめぐって、無い地域と有る地域との間で争いが起こった。争いは世界中に広がって、星全体が疲弊した。立ち直るのに50年を費やしたそうだ。つまり、少なくとも、生きるという欲望がある限り、どこの星でも争いは起こるということだ。」
  「だからさ、少なくともその木が十分存在すれば争いは起きないわけでしょ。地球に持ってくればさ、貧しい国の人々も救えるしさ、いいじゃない。」
 「いや、まあ、たぶん、地球ではその星のように上手くはいかんだろうな。地球人は精神の発達が遅れている。その木を持ってきたとしても、少数の人間がその木の全てを所有し、他の者を支配しようとするだろうな。地球人は、『生きる』という欲望の上に、優越感とか支配欲なんてものを持っているからな。」
 「うーん、そうかなぁ。生きていける安心感があれば、争わないと思うけどね。」
 「甘いぜ、10個のパンがあったとする。1人で5個も6個も食う奴がいるから、何も食えない奴がたくさん出てくる。地球人とはそういうもんだ。」
 「そういわれると、そんな感じはするねぇ。」
 「おー、地球の平和は、なかなか遠いぜ。」

 と、悲観的な結論となったが、「遠い」ということは「無い」とは違う。と、希望を少し残しつつ、ケダマン見聞録その25『争い要らずの木』はおしまい。

 語り:ケダマン 2009.1.30


仏の顔も2度は無し

2009年01月30日 | 通信-社会・生活

 猫の寿命は15年位らしいが、人間同様、その寿命を全うするには、死に到る病気や怪我などをせず、生きるのに十分な食料を得続けなければならないだろう。
 野良猫は十分な食料を得続けることが困難な状況にある。生き続けるのは、飼い猫よりはるかに難しい。彼らの平均寿命はいったいどのくらいなんだろう。
 アパートや職場の近辺をうろついている野良猫たちは、私の感覚では3~4年で顔ぶれが代わっている。交通事故にあい、道路の上に屍を横たえている猫も多く見る。その内の1匹となったのか、一年前まで私の部屋の周りを棲家としていたトラ猫は2年ほどで消えている。そういうのを含めると、野良猫の寿命は2~4年位なのかもしれない。

  アパートの、隣の住人が一匹の野良猫に情けをかけて、飼うようになったのは1年ほど前のこと。その猫は、安定的に食料を得ることができる代わりに、外を駆け回る自由を失った。彼の居場所は概ね、風呂場の窓の縁であり、そこに座って、網戸越しに外を見ていた。「出たいなー、走りたいなー。」などと思っていたのかもしれない。
 そしてある日、彼は脱走する。網戸を破って外に出た。破れた網戸からは蚊やゴキブリなどが侵入してくる。隣の住人にとってはエライ損害だ。恩を仇で返されたような、飼い猫に手を噛まれたような気分であっただろう。それでも彼女(隣の住人は若い女性)は猫を許した。風呂場の窓を常時開け放して、猫を出入りさせた。私なら、その裏切り行為を断じて許さないと思う。隣人は仏の心を持った人のようである。
  それからしばらく、隣の風呂場の網戸は上半分破れたまま、時々閉じられ、時々開けられた。食料が供給され、網戸が開けられた時には外を自由に駆け回れる、そんな恵まれた状況に猫はなった。猫はしかし、それに満足しなかった。時々閉じられた網戸をさらに破って、いつでも外に出られるようにした。網戸は上から下まで破られた。
 仏の心を持った隣人であったが、その仏の顔も2度は無いようで、以降、風呂場の窓はピシャっと閉じられた。猫は出入り不可となった。
          
          

 外を自由に歩き回れる代わりに食料を自分で調達しなければならない。家の中に閉じ込められる代わりに食料は安定供給される。人間ならば、どちらが幸せだろうか。難しい選択だ。私なら、と考えてもすぐに答えは出せない。社会が、自力で食料を調達できることが比較的容易で あるという状況なら後者を選ぶが、仕事が簡単に見つからないという今の社会状況なら、不自由を我慢して、人に養われていた方が幸せかもしれない。

 餌を与えられていた猫は、自力で食料を得ることに慣れていない。なので、彼が生き続けることは難しいかもしれない。12月まではアパートの周りをうろちょろしていたが、1月になってからはその姿を見ていない。1月になってからは沖縄もぐっと冷え込んだ。この寒空の下、彼はどこで体を温めているだろうか、飯は調達できているだろうか。
 教訓。ぬるま湯のような環境にいる時でも、自分で自分の食い物は調達できるような力を身に付けておこう。仏に何度も出会えるほど、世の中は甘くないはず。
          

 記:2009.1.30 島乃ガジ丸