折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

写真&俳句VOL47~「綿帽子」

2012-02-29 | 写真&俳句

朝、雨戸を開けると一面の銀世界。
梅の木があたかも綿帽子をかぶったようであった。



目覚めれば     綿帽子かな     庭の梅



天気予報がズバリ的中して、朝起きて雨戸を開けると雪が深々と空から落ちていた。

あたり一面「白い世界」になっている。

庭にある梅の木にも雪がびっしりと降り積もってあたかも「綿帽子」をかぶったようである。

職場に向かうかみさんに「転ばぬように気をつけて」と声をかけて送り出す。

愛犬のパールは外に出て雪の中を駆け回りたくてうずうずして落ち着かない。

前回の雪の時よりも積っていて、外に連れ出すと大急ぎでおしっことうんちを済ませ、あちこち動き回り中々家の中に入ろうとしない。

                  中々家に入ろうとしない愛犬パール

雪の降り方は午前中がピークで午後3時ごろには降りやんで、それに合わせたように梅の木に積った雪もあっという間に溶けだして、夕方には最早、綿帽子の体をなさぬものとなってしまっていた。

                   梅の木に積った雪も夕方には大方溶けてしまっていた。

まさに『春は名のみ』、冬に逆戻りし、春の到来を1日遅らせた今年の閏日2月29日であった。


梅の花、開花遅れる~一進一退の季節の歩み

2012-02-28 | 日常生活

埼玉県志木市の宝幢寺(ほうどうじ)境内にある梅の古木。
開花が遅れていて、まだほとんど花が咲いていないが、満開になったらさぞ見ものだろう。


2,3日暖かい陽気が続いて、これでようやく厳しい寒さから解放されるかとほっと胸をなでおろしたのも束の間、今朝は一転、薄氷が張る有様。

慌ててタンスにしまったヒートテックのタートルネックを取り出して着る始末である。

今朝の新聞には、「四半世紀ぶり、長引く寒さ。 気象庁 梅の開花、各地で遅れる」の見出しが躍っている。 

そういえば、我が家の梅もこの数日の暖かさでピンクの蕾が少し膨らみかかってきているものの、まだ、蕾は固い。

                 我が家の庭の梅の木はまだ蕾も固い状態。

そんな我が家の梅の蕾を見ながら、居合仲間のTさんが、「志木にある宝幢寺(ほうどうじ)は、境内にあるしだれ桜が有名だけど、梅も大きな古木があって中々見事ですよ、行って見たら」と教えてくれたのを思い出して散歩がてら訪ねて見た。

平日の境内はひっそりしていた。

正面右手に大きな梅の古木がある。

しかし、残念ながらほとんどが蕾の状態で咲いている花は本当にちらほらである。


                 宝幢寺(ほうどうじ)境内でわずかに咲いていた梅の花。

わずかに咲いている梅の花をカメラに収めていると、同じようにカメラを持った人が境内に入って来たが、ほとんど咲いていないのを見て、ちょっとがっかりした表情で、そそくさと境内を出て行った。



天気予報によると今夜半から明日の午前中にかけて雪が降るとのこと。

梅一輪 一輪ほどの暖かさ(服部嵐雪) 

という句があるが、今年は梅の開花が遅れていて、中々この句のようにならないのがもどかしい。


この日のぶらぶら歩きは、はしなくも本日の新聞記事を裏付けする結果となった次第である。

『チューバ』の音に魅了され、『悲愴』交響曲に感動

2012-02-26 | 音楽
幼なじみと月1回行くコンサート。

2月は読売日本交響楽団の演奏会に行って来た。

今月はいつものKくんに加えY子ちゃん、U子ちゃんが参加し4名のフルメンバー。

Kくん、Y子ちゃんとは先日クラス会で会ったばかりだったが、U子ちゃんとは久しぶり。

新宿で昼食をしながら1時間ほどおしゃべりをして、いざコンサート会場へ。

今回の会場は、東京オペラシティコンサートホール。

小生とKくんは前に来ているが、Y子ちゃん、U子ちゃんは初めて。

会場に向かう長いアプローチに圧倒されたようで「凄いね」を連発していた。

それでは、いつものようにコンサート終了後のみんなの感想を会話風にまとめてみた。

― チャイコフスキーの「悲愴」は有名だけど、他の曲は初めて聴いた。

― 特にアホという作曲家の「チューバ協奏曲」という曲は、日本初演だってね。

― なじみのない曲は、聴いていてやっぱり疲れるよね。

― チューバという楽器、初めて聴いたわよ。

― チューバのソロ演奏なんてめったに聴けないから結構良かったよ。

― そうだね、あの深々とした音の響きには、しびれた。

― あの音を出すのは大変だろうね。

― 凄い肺活量だよね。

― 体格も楽器に見合って、立派だったよね(笑)。

― おなじ協奏曲でもヴァイオリンやピアノに比べるとチューバという楽器にはちょっと「華」が欠けるよね。

― しかし、1月のコンサートではファゴット、今回はチューバと滅多に聴くことのできない楽器を聴く機会に恵まれて良かったんじゃない。

― やっぱりメインのプログラムのチャイコフスキーが断然よかった。

― わたし、事前に聴き込んで、ちゃんと「予習」してきたからね。

― 第1楽章のクライマックスの音の凄さは、やっぱり生でないと味わえない。

― 第3楽章、第4楽章の音も負けず劣らず凄かった。

― そうだね、第3、第4楽章と進んでいくにつれ、音楽がスゴ味を増していったよね。

― 第4楽章のフィナーレ、ちょっと変わった終わり方だわね。

― まるで命が抜け出て行ってしまったと言った感じよね。

― この曲が初演されて9日目にチャイコフスキーは急逝した、とパンフレットに書いてあるけど、何か暗示的だよね。

― 第4楽章のフィナーレ、ヴァンスカさんも本当に「燃え尽きた」という風に見えた。

― 感動したわよ。



第10回オペラシティ・マチネーシリーズ演奏会プログラム

【曲目】
シベリウス 森の精
アホ チューバ協奏曲
チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」

【演奏】
指揮:オスモ・ヴァンスカ
チューバ:次田心平
演奏:読売日本交響楽団




「満年齢」と「数え年齢」~長寿の歳の数え方

2012-02-23 | 日常生活
今日は69回目の誕生日である。

朝食を食べながら、

同期の仲間たちのほとんどが今年「70歳」で「古希」になるのに、自分は「早生まれ」なので、みんなと1周遅れだよ、

と言うと、

「長寿の歳の数え方って『数え』じゃなかった」かみさん。

「そうだった?」と小生。

急いでネットで調べて見ると

還暦祝いは満61歳ですが、古希祝いを含め、これ以降の長寿のお祝いは全て数え年で祝います。

とあるではないか。


年齢の数え方と言えば、今では『満年齢』で表示され、『数え年齢』などもう『死語』になってしまっているのかと思っていたが、長寿を表わす世界では未だ健在なのだと改めて知った次第である。

そして、先ずは自分の曖昧な理解の仕方=『無知』さ加減に正直、赤面した次第である。

同時に長寿の歳の数え方は、「還暦」を除いて『数え年齢』とされているが、現実もそうなのだろうか、それとも『満年齢』なのだろうか、

「還暦のお祝いは、自分の時は確か満60歳だったよな」

「他の同期の仲間たちはどうするんだろう」

そんなことをあれこれと考えた69回目の誕生日であった。

これぞ最高の「純愛」小説~藤沢周平著「蝉しぐれ」

2012-02-21 | 読書
今年の直木賞作家葉室 麟さんの作品にすっかりハマって、一連の葉室作品をそれこそむさぼるように読んできたが、「蜩ノ記」(ひぐらしのき)を読み終えた時点で一段落の感がある。(現在図書館に「冬姫」、「無双の花」を予約し、順番待ち。)

これまで読んできた葉室さんの作品は、ストーリー的には「お家騒動」にまつわる「権力争い」に、「純愛」「家族愛」「友情」「生きざま」といった要素が絡み、きわめて藤沢周平さんの作品との共通点が多い。

そんなことを考えていたら、本家本元の藤沢作品が無性に読みたくなって、本箱でほこりをかぶっていた「蝉しぐれ」を取り出して読み返して見た。

                    藤沢周平著「蝉しぐれ」(文芸春秋)

この本が上梓されたのが、今から26年前の1986年。
いつ読んだのか判然としないが、「いつかもうすこし歳を取ってからもう一度読んで見たい」と思ったことを憶えている。

そして、再びこの本を思い出させてくれたのが、2003年NHKの金曜時代劇でドラマ化された時であった。

脚本、キャスト、映像ともに素晴らしく、毎回の放送を待ちわびていた記憶がある。

この時、ドラマに合わせてやはり本棚から「蝉しぐれ」を取り出して読んだ。

従って、「蝉しぐれ」を読むのは約9年ぶり、3回目になる。

本作は、周知のように『お家騒動』をめぐる権力争いと人間模様がストーリーの中核であり、物語自体も思わず引き込まれてしまうほど面白く、藤沢文学の醍醐味を十分に堪能できるのだが、何と言ってもこの物語の読みどころは、お家騒動が決着した20年後、主人公の男と女の逢瀬を描いた最終章の「蝉しぐれ」に尽きると思う。

ある文芸評論家が本作を評して、もはや完璧な純愛小説というものは時代小説の中でしか成立しないのではないかと考えることしきりである、と書いているが、本作品の全編に流れている思いは「純愛」ということではないだろうか。

最終章はページ数にするとわずか13ページに過ぎないが、ここに藤沢さんの「純愛」についての思いが凝縮されているのではないだろうか。

この最終章は、お互い長い間、それまで胸の底に秘めていた思いを解き放つ主人公の文四郎とおふく。
その男女の思いをきめ細やかに哀惜の念を持って描いており、読んでいて胸を締め付けられる。

「純愛」とは何と美しく、切ないものなのだろうとこの最終章を読んだ人は等しくそう思うのではないだろうか。

そして、藤沢さんは、「純愛」小説の名手である、と改めて思った次第である。