折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

夜明け前の車中で~続・親友Hくんへのおみやげ

2008-08-29 | 音楽
「今、フルトヴェングラーに熱中してるんだって」

「ブログ、見てくれたんだ、そうなのよ。ブログでも書いたけど、君にフルトヴェングラーのCDをダビングしてきたよ」

「そうかい、それはありがたいね、是非聴かせてもらうよ」

つい先日、山梨県小淵沢にあるKカントリークラブで行われた大学時代のサークル仲間のゴルフコンペで1年ぶりに親友Hくんと顔を合わせた時の第一声である。


その夜のこと。

いつものとおり、したたかに飲み、かつ声がかすれるほどに喋り合って、会がお開きとなったのは午前零時過ぎ。

過度のアルコールと昼間のゴルフの疲れであっという間に眠りに落ちた。


そして、夜明け近くのこと。

隣で寝ていたHくんが何かゴソゴソやっていたが、やがて静かになった。ドアを開閉する音がしたので、どうも外に出て行った気配である。
風呂にでも行くのかなとチラッと時計を見ると午前4時前。こんなに早くどこに行くのだろうと思っているうちに再び眠りに落ちてしまった。


翌朝のこと。

6時半ごろに目を覚まして、隣を見るとHくんの姿が見えない。朝の散歩にしては随分長いなと思っていると、7時過ぎに戻ってきた。

「散歩かい?」と聞くと、

「いや、いや、、君にもらったフルトヴェングラーのCDを早く聴きたくってね、たまたま朝早く目が覚めちゃったので、車の中でずっと聴いてたんだ。」

「そうなのか、朝早くから姿が見えなかったのでどこへ行ったのかと思ったよ。ところで、最近、フルトヴェングラー聴いてるの?」

「いや、久しぶりにベートーヴェンとフルトヴェングラーを聴かせてもらったよ。<英雄>と<運命>は聴いたんだけど、<第9>は帰りの車の中で聴くことにするよ。良いものをいただいてありがとう」


おみやげにと持参した7枚のCDジャケット
(上)3枚の「英雄」、(中)2枚の「運命」、(下)2枚の「第9」


あんなに朝早くからCDを聴いていてくれたんだ、と思うと彼のやさしい心遣いに胸が熱くなり、CDをダビングして持って行った甲斐があったと心から嬉しさが込み上げてきた。

そして、Hくんのベートーヴェンとフルトヴェングラーへの熱い思いが今も、学生時代もいささかも変わっていないことを目の当たりにして、感慨ひとしおであった。


1年ぶりに親友との再会を果たせるこの時期に、小生自身のうちにフルトヴェングラーへの思いが43年ぶりに蘇ってきたことに何か一種の「縁」を感じ、その縁に感謝したい気持ちでいっぱいであった。

年代物の携帯電話

2008-08-26 | 日常生活
「おとうさんの携帯、機種が古いから<家族割り>の割引率が低くなっちゃたじゃない」と娘。

「携帯、新しいのに変えたらといつも言ってるんだけど」とかみさん。

1年のうちに何回かは交わされる小生の携帯電話を巡る会話である。

この会話でもわかるとおり、小生が今持っている携帯は、今から8年ほど前、まだ、会社に勤めていた頃、業務で全国の事業所を回っていた時に出先との連絡の必要上購入した古色蒼然たる代物であり、日常使われることは滅多にない。(時々、電池切れになっていたり、置き忘れて行方不明になったりすることがある。)


8年間「専用公衆電話」としてのみ使われてきた年代物の携帯電話


「ケイタイ文化」と呼ばれる時代にあって、携帯電話に全く興味、関心を示さない小生に、家族は呆れ顔である。

確かに、携帯電話の目を見張るような進歩から見れば、この間、一度も機種を買い換えなかったというのは、信じがたい話に違いないが、小生にしてみれば、そもそも携帯は手軽に持ち運びができる自分専用の「公衆電話」程度に考えていたので、それこそ、こちらからかける必要がある時に使えばいいというのが、携帯を使用し始めてから今日まで携帯についての一貫した基本スタンスである。

それは今の携帯の良さ、便利さを知らないからだ、とよく言われるが、小生にとって、別に携帯がなくても、今の生活に不便、不自由など支障が生じているわけではない。


言ってみれば、それは「ケイタイ」文化から隔絶した世界に住んでいるということであり、そのこと自体を喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、内心忸怩たる思いがあるのも事実であるが・・・・。

「ケイタイ」は手軽に持ち運びできる自分専用の「公衆電話」、こう割り切ってしまえば、「携帯依存症」の心配は皆無だし、新機種が発売されたからといって一喜一憂することもない。

ケイタイに対する小生のスタンスは、これからも変わることはないだろう。

そして、年代物のケイタイが今日もまた家のどこかで電池切れのまま行方不明になっているかも・・・・。

こんなずぼらなケイタイの使い方をしているものぐさが一人ぐらいいても良いのでは、と思っている次第である。

親友Hくんへの「おみやげ」

2008-08-22 | 音楽
これは性格だからしょうがないことなのだろうが、一度夢中になるとしばらくの間は、他のことが目に入らなくなる。

くそ暑い夏の盛り、クーラーを利かせた部屋でフルトヴェングラーが指揮するベートーヴェンに入れ込んでいるのもその性格のなせる業と言えるだろう。

そして、久しぶりにフルトヴェングラーを聴きながら、学生時代に同じ下宿に住んでいた親友のHくんとの間で熱く戦わしたベートーヴェンの音楽を巡る論争を懐かしく思い浮かべた。

Hくんは物事の本質を哲学的、理性的に深く掘り下げるタイプで、音楽に関しても自分が好む音楽家の音楽を彼なりの論理でとことん究めようとする探求的な精神の持ち主であった。

それ故に彼が、フルトヴェングラーが指揮したベートーヴェンの交響曲第5番「運命」を聴いて心を奪われ、ベートーヴェンとフルトヴェングラーに激しく傾倒していったのは、自然なことと言えるだろう。

彼は以後まさに「ベートーヴェン信奉者」になった感があった。

その傾倒ぶりは瞠目すべきもので、小生が持っていたベートーヴェンの「英雄」、「運命」、「第9」を自室に持ち込んで、一人でじっと聴き入っているのを何度も目にしたものである。

そして、彼が語るベートーヴェンの音楽論は実に奥深く、ベートーヴェンの音楽の本質を理解する能力の高さには、正直、舌を巻いたものである。


大学時代、親友のHくんと一緒に聴いたフルトヴェングラーが指揮した
ベートーヴェンの「英雄」、「運命」、「第九」のジャケット(当時は、レコードであった)


その日も二人でフルトヴェングラーが指揮するベートーヴェンの「英雄」を聴いていた。

第二楽章の再現部に差し掛かった時、「おれ、ロマンと崇高さをたたえたこれから後のところが『英雄』の中で一番好きな箇所なんだ」(43年経った今も同じなのだが・・・)

と小生が話しかけると、Hくんはまじまじと小生を見て、「そうかい、君は本当にロマンチストだね」と短く一言コメントを返した。

その言葉の中に、「君は、ベートーヴェンさえ情緒的な聴き方をしているんだな、それではベートーヴェンの本質はわからないだろう」と言われているように思えて、胸にグサッとこたえたことを今でもよく覚えている。


そのHくんとは、恒例の大学時代のサークル仲間との年1回のゴルフ・コンペで近々会うことになっている。

今、こうしてフルトヴェングラーが指揮する「英雄」を聴きながら、「そうだ、今回集めた一連のフルトヴェングラーの復刻盤をダビングして彼へのおみやげとしよう。そして、彼とベートーヴェンとフルトヴェングラーについて久しぶりに語りあかそう」と思いついた。

止まってしまった青春時代の熱い鼓動が再び動き出すことを願って・・・・・。

ベートーヴェンとフルトヴェングラーは今も43年前の思い出につながっている。

『フルトヴェングラー熱』再び

2008-08-19 | 音楽
夏休みで遊びに来ていた孫たちも帰り、かみさんの夏休みも終わって、ようやくいつもの日常が戻ってきた。

10日ぶりの「一人だけで過ごす自由な時間」である。
早速、この間中断していたフルトヴェングラーの「復刻盤」CDを聴く。


そのフルトヴェングラーの復刻盤だが、それを収集するきっかけとなったのは、オーディオ談笑会のメンバーの一人Mさんからの、「冷やかし半分にふらっと、のぞいたCD店で<ウィーンフィル・ライブレコーディング・エディション>と言うシリーズ物の中にフルトヴェングラーが1952年11月30日 楽友協会で指揮したベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」のライブ盤を見つけて、衝動買いしちゃった」という一通のメールであった。

「ええっ!そんなライブ盤あったっけ」と急いでネットで検索すると、Mさんが知らせてきた1952年11月30日のライブ盤をはじめ、「擬似ガラスCD」方式や「復刻盤」方式による、いわゆる「ウラニアのエロイカ」と呼ばれる「英雄」や、同じく擬似ガラスCD方式や復刻盤方式による「運命」、「新音源」による「バイロイトの第九」などフルトヴェングラーの歴史的名演といわれる演奏が、さまざまな最新録音技術によって続々と「復刻」されているではないか。

そんな情報を見ているうちに、「これは聴かなくっちゃあ!」という気がむらむらと湧いてきて、ネットショッピングでこれら一連のフルトヴェングラーのCDを衝動買いしてしまった。


                
3枚の「英雄」(写真上)
学生時代に愛聴したレコードをCD化したもの(上)、1952年11月30日のライブ盤(左)
ウラニアのエロイカと呼ばれる1944年12月のライブ盤(右)

2枚の「バイロイトの第九」(写真下)
新音源によるもの(左)、学生時代に愛聴したレコードをCD化したもの(右)


今、「新音源」と「復刻盤」による2種類の「バイロイトの第九」を聴き比べながら、こんな古い録音をこれだけの音質で甦らせた、技術の進歩に驚嘆するとともに、これはフルトヴェングラーファンにとっては、この上ない贈り物であるとうれしくなった。


フルトヴェングラーとの出会いは、今を遡ること43年前の大学時代に、たまたま、レコードを買った時に入っていた、1枚のチラシであった。

そこには、こう書かれていた。
「世紀の大指揮者フルトヴェングラーの歴史的名盤、擬似ステレオで蘇る」

フルトヴェングラーが、ウイーン・フィルを指揮した、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」が、ドイツのエレクトローラ社で開発された「ブライトクランク」と言う技術で、ステレオ化されて、発売されると言うものであった。

その当時、小生は恥ずかしながら、フルトヴェングラーと言う指揮者を知らなかったが、「世紀の大指揮者」、「運命」、「歴史的名盤」と言う、宣伝文句に惹かれて購入した。

当時の小生にはアルバイトをしてやっと購入した、ちっぽけな卓上型ステレオしかなかったが、それでも、そこから、溢れ出るベートーヴェンの圧倒的な音楽の迫力に、ぐいぐいと引き込まれ、聴き終わった時は、完全に「打ちのめされ」、身動きもならず、その後、涙が込み上げてきたのを、今でも鮮明に覚えている。

その後もベートーヴェンの交響曲「英雄」、「第7」、「第9」を次々に買い、下宿の4畳半の部屋で毎日のように聴いたものである。

これがフルトヴェングラーのレコードとの出会いであり、第一次<フルトヴェングラー熱>の始まりであった。


その後は、フルトヴェングラーのCDは録音が古くて音が悪い、それであれば学生時代に愛聴したレコードをCD化したもので十分と思っていたので、フルトヴェングラーの録音にはほとんど関心を払ってこなかった。

こうして今、一連のフルトヴェングラーの「復刻盤」による演奏を聴いていると、その飛躍的な音質の改善が、音楽的感動をいやがうえにも高めており、これまでの認識を改めさせられると同時に、もう一度フルトヴェングラーの演奏を聴きなおして見たいと強く思った。


学生時代にH君と熱に浮かされたように毎日聴いたあの頃を第一次<フルトヴェングラー熱>の時期とするならば、新しい『音源』や『復刻盤』が出てきて、もう一度フルトヴェングラーを聴きなおそうという気持ちになっている今は、<フルトヴェングラー熱>再びという思いである。

写真が主役VOL16 いい湯だな!!~孫二人、夏休みの思い出体験

2008-08-16 | 写真が主役シリーズ

<初めての『銭湯』体験>
一番風呂を1時間近く独り占めし、満足げに湯船につかる孫たち


我が家から歩いて数分の所に公衆浴場、即ち『銭湯』があり、大きな煙突が立っている。

『じいじ、あの煙突から煙が出ているんだけど、何なの』

『あれはお風呂屋さんが、お風呂を沸かしてるんだよ』

『お風呂屋さんって、な~に?』

『あれ、二人ともお風呂屋さん知らないんだ。じゃあ、じいじが連れてってやるよ』


夏休みで神戸からやって来た孫のKくん、Sくんとの会話である。

早速、その日の夕方二人を連れて銭湯に行く。

最初のうちは、何となく戸惑っていた二人だが、幸いなことに一番風呂だったため他にお客がいなくて、『貸切』状態。

すっかりリラックスした二人は、『でんき風呂』に入っては、しびれたと奇声を上げ、サウナに入ってはゆでだこになり、頭から水をかぶったりと1時間近く広い浴場を独り占めにして初めての体験を大いに楽しんだ。

『もう帰るよ』という声に、
『じゃあ、もう1度お湯に入ってくるから』といって、満足げに湯船につかっている二人の孫の写真が今回の主役である。

銭湯からの帰り。

『じいじ、銭湯に入るに、ぼくたちはいくら払うの』
『きみたち小学生は、180円、じいじのような大人は、410円だよ』

『ふ~ん、そうなんだ』

初めての『銭湯』体験に孫たち二人は、興味津々、興奮気味である。


かく言う小生も銭湯は何十年ぶりで、入浴料金が大人410円、子供180円、幼児70円になっていることなど全く知らなかったので、こちらも勉強になった。



今回の帰省は、7泊8日という長逗留である。


そこで、毎日をのほほんと過ごすのでなく、何か一つでも記憶に残る、思い出に残る体験をさせてやれないものかと、小生なりにない知恵を絞った。

上記の『銭湯』体験も孫との会話中にとっさに思いついたアイデアであった。


その他にも、二人とも我が家の愛犬パールが大好きで、いつもパールとじゃれ合って遊んでいるが、単に遊ぶだけでなく、『食事』をはじめ『シャンプー』や『ブラッシング』、『散歩』等、パールの<お世話体験を通じて動物を飼うことの大変さ>の一端を知ってもらう試みも行った。

また、二人に小銭入れを与え、500円、100円、10円硬貨を入れて、外出した時の電車賃、入園料、飲み物等を自分のお金で払うよう、<お金の使い方>の実地体験もさせた。


そんなことで、小生がたてた楽しみながら『社会体験』をするという計画は、今年は孫たちが素直に乗ってくれたので、彼らに夏休みの思い出体験を幾つかさせてあげられたが、来年はKくんは小学3年生、Sくんは小学2年生、そうそうじいじの言う通りにはなるまい。

その意味では、今回の<プロデュース・byじいじ>による目論見は、今年が最初にして最後になるかもしれない。