折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

写真&俳句VOL840~いざ戦わん

2015-09-20 | 仕事・職場

試合の開始を告げる太鼓の音が広い武道場に鳴り響く。「いざ戦わん」、居並ぶ選手には、最も緊張する瞬間である。


開始告ぐ 太鼓の響き 朗々と 居並ぶ剣士 鼓舞するごとく


県下東西対抗・支部対抗居合道大会が開催され、小生が所属する支部もこの大会に参加した。

今回は、県下19支部、29チームが一堂に集まって、日ごろより精進を重ねた技前を存分に披露した。

当支部は、残念ながら初戦で敗退、小生も依然として勝ち星を上げられず、後はいつものように閉会式までの間、他の人の試合を見て勉強する「見取り稽古」となったが、今回は特にほれぼれとする居合を抜く人が多く、修業の深さがしのばれ、それに引き換え自分の居合に向き合う姿勢の甘さ、稽古の至らなさ、を身にしみて感じさせられた大会となった。

カレンダー・「マリリン・モンロー」一筋32年

2010-01-22 | 仕事・職場
昨日は暖かかったので、散髪に行って来た。

もう40年近くも通っている、行きつけの床屋さんである。

お互いに気心も知れているので、その時間は散髪もさることながら、世間話をしたり、うたた寝をしたりと、小生にとっては、ある種のリラクゼーションの時間であり、場所でもある。

『こんにちは』と気さくに声をかけて店に入ると、お店の一番目立つ所に昨年の暮れに小生が届けたマリリン・モンローのカレンダーが貼ってあった。


行きつけの床屋さんの店に貼られた、今年のマリリン・モンローの
カレンダー



『今年のモンロー、いかにもモンローらしくて中々いいじゃん』と小生。

『わたしも、最近の中では一番気にいってます。オヤジさん、このカレンダーどこから手に入れたのよってよく聞かれるんで、お店に来るお客さんの会社のカレンダーなのよ、と説明してるんだけど』と店主。

この日は、先ずは、このマリリン・モンローのカレンダーから話がはずむ。

『今年で、32枚目になるらしいよ』と小生。

『そんなになるんですか、わたしの所は今年のを入れて全部で20枚になりますよ。これまでいただいた分は、ちゃんと大きな筒にいれて全部保管してます。我が家の宝物ですから』と店主。

勤めていた会社がカレンダーにマリリン・モンローを採用してしばらくしてから、思い立って『お店に貼って』と毎年届けて来た。
定年後も、後輩に送ってもらって届け続けて来た。
それがちょうど20枚になったのかと、ちょっとした感慨が。

『うれしいね、ありがたいね。そこまでしてもらえるとこれまでずっと届けてきた甲斐があったと言うものだよ』と小生。


『このモンローカレンダーが最初に作られた頃は、30代の半ばでね、カレンダーは他の部署が作ってたんだけど、わたしがいた部署でもこのカレンダーにちなんだグッズ類をいっぱい作って、仕事に活用したもんですよ。そのアイディアを考えるのが、面白くて、楽しくてね、本当にいい時代だった』



最初の発行から12年たった時点で、それまでのモンローカレンダーのデザ
インを一新し、もっぱら社長の来客用に作ったテレホンカード。
貴重品として、大変好評だった。



『そう言えば、テレカも何回か頂戴したことがある』

『株主さんへも配当金と一緒にモンローのテレカを同封して喜ばれた。今はテレカでなくてクオカードになってるけど』


株主優待に使われているモンローのクオカード


『マリリン・モンロー一筋32年ですか、こんなに長く続いているなんてすごいことですね』

『【継続は力なり】だよね。今やマリリン・モンローとは、切っても切れない会社の一つの文化見たいになってるんじゃないかな。でも、景気が悪くて配当も少なくなったし、せめてモンローのクオカードは取り止めということにならないでほしい、と願ってるのだけどね』


平日の午後の一時、お店には他に客もいないとあって、髪を切り終った後も、しばらくモンローカレンダー談義をはじめとして、若かりし頃の思い出話に花が咲いた。

そして、久しぶりに懐かしさをかみしめて、家路についた次第である。


その朝、時計の針が止まった~神様のように敬われ、慕われた人

2008-12-20 | 仕事・職場
今日12月20日は、小生の37年間の会社生活の中で、入社以来15年間にわたりお仕えした創業社長高山萬司さんの21回目の命日である。


そして、今、久しぶりに創業社長が亡くなられた時に編纂した社内報の「追悼」号を読んでいる。(会社を定年退職で辞める時、書類の類は廃棄処分してきたが、唯一、家に持ち帰ってきたのが、この社内報であった。)


社内報「追悼」号
表紙は創業社長の故郷である長野県の「常念岳」(写真:前田真三)



創業社長がお亡くなりになった時、小生は総務部に在籍していて社内報の編集も手がけていたので、さっそく「追悼」号の製作に着手した。

通常であれば、社内報の原稿は依頼しても中々思うように集まらないものだが、この「追悼」号に限っては、北は北海道から南は沖縄まで、それこそ津々浦々から、また、工場、営業、工事等職種を選ばず沢山の原稿が寄せられた。

どの原稿にも創業社長との濃密な思い出、エピソードがぎっしりと綴られていて、一人一人の創業社長への思いが、ひしひしと伝わってくる内容であった。

これらの思い出やエピソードは、現場第一主義を終生実践され、工場に行けば真っ先に工員一人一人に声をかけ、支店に行けば末端の営業所を回って営業マンを激励するなど創業社長が従業員との話し合いを大切にし、その機会を多く持ったことで沢山の従業員が創業社長のお人柄に接することができたから、生まれたと言えると思う。

それらの原稿に目を通しながら、この時ほど社内報の編集冥利を感じたことはなかった。


それら多くの原稿の中で、特に感銘を受けたのが、次のAさんの文章であった。


Aさんは、当社が昭和31年に資本金100万円、従業員19名で創業した時のメンバーの一人で、地方の中学校を卒業して、工場に勤めていた。

その当時もすごく感銘したが、20数年たった今、改めて読み返して見ても、心打たれる内容である。



目に浮かぶオヤジの錆止め作業

○○営業所    A

昔を振り返って見ますと、亡き社長との思いでは数限りなく頭の中をよぎりますが、特に心に残っていることを書いてみたいと思います。

十数年間止まったことのない腕時計が、その朝ぴったりと動かなくなってしまった。

不吉な予感を感じるまま出社して見ると、社長の不幸を知らされました。

「オヤジが亡くなった」私はその場に立ち竦んでしまいました。

その当時は、亡き社長を父親以上に慕っていましたから、心の中では常に「オヤジ」と呼んでいました。

思い起こせば、尼崎の工場で社長自身が作業服を着て、スラットに錆止め塗装をしていた姿が先ず目に浮かびます。

当時のスラットは波板を鋲で1枚に綴ったもので、一人では返すことができなかったため、社長と二人で両端を持ち、よく作業を手伝っていただいたものです。

1日の仕事が終わると社長宅へうかがい、優しい奥さんの手料理を一緒に食べさせてもらい、それがたまらなくおいしかったことなどがありありと思い出されます。

それから会社は急激に発展し、そのたびに社長は遠い存在になっていきましたが、53年に私が怪我をして東京の厚生病院へ入院した折、真っ先にかけつけて下さった時、心優しい社長を再び見ることができました。

その当時、社長が常に言われていたことは、「会社が大きく発展するたびに後輩が入社してくるから先輩として色々教え、自分を追い越さすように指導すれば会社は伸びる」、「部下思いの上役、先輩は後輩を育てる心がいつも社内に続く限り、三和は発展する」

このようなことを日頃、口にされていたものでした。

以上のような出来事は、これからも私の人生の糧として、いつまでも心に残るでしょう。

最後に心から亡き社長のご冥福をお祈り申し上げます。


「十数年間止まったことのない腕時計が、その朝ぴったりと動かなくなってしまった」と言う件(くだり)を読んだ時は、Aさんと創業社長との「絆」の強さに「焼餅」を焼きたくなるほどうらやましく思い、「会社が急激に発展するたびに社長は遠い存在になっていった」、「怪我をした折に、真っ先にかけつけてくれた時に、心優しい社長を再び見ることができた」と言う件(くだり)には、短い文面の中にAさんの心情が余すことなく語られていて、読みながら感動したのであった。

Aさんに限らず、当時の従業員は、皆、創業社長を神様のように敬い、親のように慕っていて、この社長のためなら、「火の中、水の中」をもいとわぬような気持ちで日々仕事に邁進していた。

今では到底考えられないような強い信頼の絆が創業社長と従業員の間に確かに存在していたのである。

このAさんの文章に小さな会社が急成長を遂げていく「秘密」の一端を垣間見たように思った。


小生の会社人生の中で誇りとしているところは、20代前半から30代後半という最も多感な時代に、経営者として、そして一人の人間として、心から尊敬できる偉大な方のお側近くに仕え、親しくその薫陶を受け、忘れえぬ数々の思い出をいただいたことである。

そして、自分の人生の中で創業社長にめぐり合えたことをこの上なく幸せなことであったと心から感謝している次第である。

冷徹な「リアリスト」&好奇心旺盛な「ロマンチスト」~追悼、S元副社長

2008-12-18 | 仕事・職場
久しぶりに元上司だったSさんと池袋で昼ご飯を食べ、上機嫌で家に戻って来た小生を待っていたのは、37年間の会社生活の中にあって、「陰に日向に」小生を引き立ててくれた「恩人」とも言うべきS元副社長の訃報であった。

開いたメールに書かれていた「大腸がん」という言葉を見て、
「ええっ!」と絶句してしまった。
そして、「うそだろう」と何回もメールを読み直した。


Sさんは、昭和39年入社で、「大卒」の第1期生であった。

小生はSさんより2年遅れて入社し、Sさんとは部署は違っていたが、入社当時から個人的に大変可愛がってもらった。

いつもにこにことしていて、人当たりもソフトで小生にとっては「兄貴分」のような存在で、甘え、慕っていた。

そして、そういうプライベートのお付き合いが長いこと続いた。


そんなSさんと一緒に仕事をした経験が2回ある。
いずれもSさんが上司であった。


一度目。
Sさんは一時期、総務部にあって「不遇」をかこっていた小生を、自分が所管していた経理部門に異動させ、「財務」の責任者として会社の資金運用に当たらせてくれたのである。

そして、1年間小生の仕事振りをじっくりと観察し、部長のポジションに引き上げて、もとの職場である総務部に戻してくれたのであった。
それは、まさに「大抜擢」と呼べるものであった。(経理への異動の時は、1ランク「降格」、総務へ戻る時は、2ランク「昇格」)

小生にとっては、不遇な時代から救い出してくれた「恩人」であった。

二度目。
数年後、Sさんは役付き役員として管理部門全体を総括する立場となり、小生はSさんの下で経理部門の責任者として経理全般を見ることになった。


それまでは、仕事上での関係は数年前に財務を担当していたわずか1年間、それ以外は、ほとんどが個人的なお付き合だったこともあり、小生には、Sさんは、いつもにこにこして、面倒見の良い、頼りがいのある兄貴のような存在、と思う気持ちが色濃く残っていて、わからないことがあれば教えてくれるだろうと、当初楽観的な気持ちでいたが、いざ、一緒に仕事をして見て、そんな甘い期待は粉微塵に吹き飛んでしまい、Sさんの仕事とプライベートを峻別する、その余の「落差」にショックを受けたことを今でもありありと思い出す。


そのSさんは、当時の当社の役員としては珍しく、仕事以外にもさまざまな分野に興味と関心を持つ、社内随一の「勉強家」であり、「教養人」であった。

そして、社長にその手腕を買われ、辣腕を振るって、社長の信頼を得て「副社長」にまで上り詰めた。

この間、地位が上がるにつれ、物腰、言動がその地位にふさわしいものになっていくのを目の当たりにして、「地位」が人を作るって、こういうことを言うのだろうな、多分、目に見えないところで、大変な努力をしているのだろうな、と思って眺めていた。

その意味では、Sさんは当社役員の中で唯一、
経営者としての冷徹な「リアリスト」の側面と一人の人間としての好奇心旺盛な「ロマンチスト」の側面を併せ持つ稀有な存在であったように思う。
そして、それがまさにSさんの最大の魅力であった。

また、仕事を離れたときに見せる天真爛漫さも魅力の一つであった。

それは、大好きなゴルフのときに顕著に現れる。

Sさんとのゴルフは、公私にわたり数え切れないくらい一緒にプレーした。

子供のように無邪気な所がとても魅力的で、はしゃぎながらゴルフに興じる姿からは、あの仕事での厳しさは想像すらできない。

底抜けに明るいゴルフで、「握って」チョコレートをとられても、憎めない所があった。

そして、ここ一番で見せる「勝負強さ」は、Sさんの持って生まれた「勝負師」としての「芯」の強さの現われといえるだろう。


Sさんは、企業人としては「功なり、名とげ」、昨年3月に完全に会社から身を引き、これから一人の人間として「自己実現」の道を求め始めた矢先に病魔に倒れ、その「志」は叶わぬものとなってしまった。
好奇心旺盛なSさんのことである、やりたいことがたくさんあったに違いない・・・・。痛恨の極みである。

心からお悔やみ申し上げますと共に、ご冥福をお祈り申し上げます。

合掌

転勤の季節~『余人をもって代え難い』人って本当にいるの?

2008-03-21 | 仕事・職場
早いもので、3月ももう後半に入った。

3月は年度末であり、サラリーマンにとっては転勤の辞令が下りる時期である。
損害保険会社に勤めている息子から転勤の内示があった旨の連絡があった。

勤続13年で転居を伴う転勤は今回で5回目である。

今度の赴任地は神戸で、今度はじめて企業営業を担当するらしい。
声に初めて大企業を相手に営業することへの戸惑いが感じられたので、『おまえさんのこれまでのキャリアからいっても、また、年齢的に見ても企業営業をするのにまさに打ってつけのタイミング、自信を持って頑張って』とエールを送った。


では小生の現役時代どうだったかと言えば、37年間のサラリーマン生活の中で転居を伴う転勤は一度も経験していない。

これは勤めていた会社の中でも極めて珍しいケースで、よく仲間から『会社にギネスブックがあるならば、さしずめお前は間違いなく真っ先にその候補に挙げられるよ』と言われたものである。

小生が入社したのは昭和41年。

会社は創業10年目で、すでに株式を上場し、まさに日の出の勢いで全国展開を繰り広げる新興企業であった。
それこそ転勤は日常茶飯事で、ほとんどの社員がめまぐるしく転勤を繰り返していた。

なぜ小生だけ転居を伴う転勤がなかったのか、それにはそれなりの事情があったのである。

小生が配属された部署は、総務部庶務課であった。

この部署は、株主総会や株式関係の事務処理ならびに資金調達の担当窓口となっているため特殊・専門的知識と豊富な実務経験が求められる部署で、課長は外部からスカウトされたスペシャリストであった。

そして、小生はその課長の下で色々な知識と実務経験を身につけることになったのである。

そして、入社4年目。

そろそろ転勤かなと覚悟していた矢先、突然課長が心筋梗塞で倒れて再起不能と言う事態が発生した。

後任の課長は専門的な知識も実務経験もまったくなく、(当時は、社内のどこを探してもそんな人材は見当たらなかった)実務を何とかこなせるのは、小生のみ、まさに緊急事態で転勤どころの話ではなくなってしまった。

折りしも、当時は総会屋が跋扈し、その対策が喫緊の課題(株主総会に関しては、カテゴリー『仕事・職場』に詳細を掲載)となっており、また、会社の急激な成長発展による資金需要が旺盛だったこともあり、その実務を一手に任される立場になった小生は繁忙を極めるようになっていた。

以後、何人もの上司に仕えたが、いずれの上司も専門知識や実務能力はなかったため、実務は全て小生まかせであった。

そんなことで、いつしか小生は周囲から『余人をもって代え難い』人材という目で見られるようになっていた。

しかし、考えて見ればおよそ会社組織にあって『余人をもって代え難い』など本当はあり得ないことで、実は上司が小生を単に『便利屋』的に使っていたに過ぎない、と言うのがその実体であった。

だが、現実には往々にしてこのような『虚像』が、さも『実像』の如く一人歩きしてしまうから、怖い話しである。

こうなると、たとえ転勤の話しが持ち上がっても、そのレッテルがネックとなって、受け入れ先が『つぶし』のきかない、『即戦力』となりえない人材の受け入れに難色を示すようになり、いつの間にか話しは立ち消え、次第に転勤は縁遠いものとなっていったのである。

以後、経理、法務、能力開発、監査と本社の管理部門を異動したが、結局、転居を伴う転勤はついに1回も経験することはなかった。

転居を伴う転勤を経験しなかったことが、果たして良かったのか悪かったのか。
今となっては何を言っても詮無いことではあるが、この季節になると『もしも、あの時、課長が病気で倒れなかったら』小生の人生は、果してどうなっていたのだろうか?
そんな埒もないことがふと脳裏をよぎることがある。