折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

『正直』と『政治音痴』~『疎い・・・』発言に思う

2011-01-30 | 雑感
日本国債の1ランク格下げに伴う、菅首相の『疎い』発言が、またぞろ物議を醸している。

あの発言を聞いて、多くの国民が『またか』とうんざりし、落胆のため息をついたことだろう。

後から、『詳しく聞いていないと言う意味であり、格付けに詳しくないということではない』と釈明したが、『後の祭り』、『覆水盆に返らず』でそんな幼稚な釈明など通るはずもなく、またもや政治家としての資質が問われる羽目になってしまった。

 
国債の1段格下げを報じる新聞記事。(右)、国債の格付け引き下げに関して、『そういうことに疎い』と述べた菅首相の前日の発言についての釈明内容を報じる新聞記事(左)


あの『疎い・・』発言、菅さんにすれば、思ったままをそのとおり正直に表現したまでのことであり、この『疎い』という言葉が後々問題になるなど、全く考えていなかったのではないだろうか。(もっとも、国債の格下げといった専門的な、下世話の話など首相たるものは、細かく知らなくて当然と言う意識がどこかにあったかもしれないが。)

正直は人間の美徳であり、『馬鹿』が付くほど正直なことは、ある意味では愛すべき資質であり、微笑ましくさえあるが、それは、あくまでも我々庶民レベルでの話のこと。

およそ政治の世界にあっては、今回の発言は正直であっても、政治家の発言としては『政治音痴』と酷評されても一言もなく、政治家としての資質が問われるのは当然である。

そして、そのような人は、市井にあってそれにふさわしい人生を送るべきであって、決して政治の世界に身を置いてはいけないのは、これまた自明の理であろう。


確かに、菅さんは市民運動家としては実績のあった人かもしれない。
しかし、市民運動家と政治家とは似て非なるものではなかろうか。

その意味で、菅さんは市民運動家たり得ても、政治家たり得るのか、ましてや一国のリーダーたる総理大臣たり得るのか。

今回の発言を始め、民主党政権の首相のこれまでの国会答弁や様々な場面での発言を聞くにつけ、鳩山さん、菅さんて、こんなにも『政治音痴』だったのかと、唖然とすることがしばしばである。

2009年9月に歴史的な政権交代を果たしてからこの方の政治は、鳩山、菅、小沢という民主党のいわば『金看板』のメッキが無残にはげ落ちて、クズ鉄化して行く過程であり、それとともに、政権交代に託したわれわれの『夢』が、しぼんでいった1年余と総括できよう。

『可愛さ余って、憎さ百倍』

小生の今の心境であり、政権交代を支持した多くの人たちが等しく抱いている思いではないだろうか。


下手な川柳を1首

金看板 メッキ剥げ落ち クズ鉄に
金看板 見掛け倒れで 支持離れ

『異色のキャラクター』を活写~浅田次郎著『一刀斎夢録』

2011-01-28 | 読書
激動の幕末から明治維新にかけ、鳥羽伏見、戊辰戦争、西南戦争を戦い、70過ぎまで生きた新撰組助勤三番隊長・斎藤 一(さいとうはじめ)が、若き近衛師団の剣の遣い手・梶原中尉に過ぎし日を一夜の夢と見立てて、七夜にわたり語って聞かせるという設定の物語である。


浅田次郎著『一刀斎夢録(上・下)』(文芸春秋)


この『一人語り』と言う書き方は、著者が得意とする手法の一つだが、今回も語り口のうまさは格別で、新撰組随一の偏屈者、気難しがり屋、冷酷非情の男と言われた斎藤 一と言う人物の虚像と実像を、さまざまなエピソードを通して浮き彫りにしていく書きっぷりは、まさに『浅田マジック』、『浅田ワールド』と言えるのではないだろうか。

以下は、読み終っての感想である。

1・本のタイトル『一刀斎夢録』の『一刀斎』、読む前は、あの剣聖・伊藤一刀斎をイメージしていたのだが、何と斎藤 一を後ろから読ませて、一刀斎。これを本文中、本人の斎藤 一の口から言わしめているところが、何とも軽妙洒脱。

2・剣の道、特に『居合』に関する著者の蘊蓄には敬服。居合を稽古している者として大変興味深かった。
また、沖田総司を引き合いに出して、天才とは何かを語る場面は秀逸。(1月24日ブログ「天才とは~竜王VS名人の激闘を追うドキュメンタリー」でその部分を引用。)

3・斎藤 一と言う人物の目から見た、近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨、永倉新八、吉村貫一郎と言ったおなじみの新撰組の面々のほか、林信太郎、久米部正親、市村鉄之助といった余り知らなかった隊員のエピソードが実に新鮮で、生き生きと描かれていた。(特に、市村鉄之助をめぐるエピソードは、本作品の骨格の一部をなしていて、読み応え十分。)
そして、偏屈男の皮肉な物言いの中に、仲間たちへの情愛がそこはかとなく感じられて、実は斎藤 一と言う男の中には、熱い血が通っていたのだということが良くわかるエピソードである。

4・西南戦争は、日本の近代化を早期に成し遂げるべく、西郷と大久保が仕組んだ『大芝居』という西南戦争に関する考察。(①不平士族をどうするか ②徴兵令によってかき集めた百姓ばかりの軍隊をどうするか。この二つの難題を一挙に解決するには、西郷が反乱、討伐されることによって、不平士族らに武力に訴えることの愚かさを知らしめ、百姓ばかりの軍隊がこの実践、大演習を通して、真の国軍へ変貌していく端緒とする。)

新撰組の中で一際異彩を放つ斎藤 一という人物を見事に活写し、新撰組三部作(「壬生義士伝」、「輪違屋糸里」、「一刀斎夢録」)を締めくくるに相応しい作品であると同時に、斎藤 一を通して、著者の幕末、明治と言う時代に対する歴史観がつまびらかにされていて、興味が尽きない。

『永久保存』扱い?~廃棄処分免れた、がらくた電池

2011-01-26 | 家族・母・兄弟

孫のKちゃんが、いかに良く遊んだかを如実に示す、へこんだり、剥げたりした傷だらけの電池。
Kちゃんの愛着が強いため、捨てるに捨てられず、永久保存?扱いに。



『もう、Kちゃん「電池遊び」は、しないんじゃない』

と2階を掃除していた、かみさんが、大量の電池の入った木箱を抱えて降りてきた。

その電池は、あちこちに凹みができていたり、縁が剥げてしまったりと傷だらけで、見るも無残なガラクタと化している代物であった。

4歳を過ぎた今は、もっぱら『仮面ライダー』遊びに夢中で、さすがに電池で遊ぶことは少なくなったが、それでも我が家に来ると時々、思い出したように電池の入っている木箱を持ち出して遊ぶことも。(もっとも、すぐに飽きてしまうが・・・)



ちょっと前までは、電池遊びにご執心だった孫のKちゃん。
電池で『お店屋さんごっこ』をするKちゃん。



『そうなんだけど、この電池、Kちゃんのお気に入りで、Kちゃんとの思い出が詰まっているんでね、ゴミとして捨ててしまうのは、ちょっと忍びないよ。Kちゃん、今でも電池にはご執心だよ。捨ててしまったと聞いたら、どんな気持になるか。もう少し、取って置いてやろうよ』

と小生。

『そんなこと言ってたら、いつまでも捨てられないで「永久保存」と言うことになっちゃうわよ。大体、そんなに思い入れしていたって、Kチャン大きくなったら、電池で遊んだことなど覚えていないわよ』

『それは、それでいいんじゃない。今は、そんな気分だよ』

ある日のありふれた日常会話の一コマである。

かくして、ゴミとして出されるはずだった、あちこちがへこんで使い物にならなくなった電池は、もうしばらく我が家に留め置かれる仕儀となった次第である。

それにしても、この会話、男の方が一般的に『情緒的』なのか、それとも、小生だけなのか、そんな取り留めのないことも、つらつらと考えてしまった一時であった。

天才とは~竜王VS名人の激闘を追うドキュメンタリー

2011-01-24 | 雑感
もう長いこと指していないが、子どもの頃から将棋が大好きで、今でも新聞の将棋欄、テレビの将棋番組は欠かさずに見ている。

そんな小生にとって、こたえられない番組が先日放映された。

1月22日NHKのBS2で放映された「死闘 渡辺明対羽生善治~ドキュメント竜王戦」という1時間半にも及ぶドキュメント番組である。

 
勝負どころで、読に集中する両雄(左)、難しい局面に苦吟する両雄(右)(1月22日放映NHKBS2「死闘 渡辺明対羽生善治~ドキュメント竜王戦~」より)


竜王戦と言えば、2008年渡辺竜王が3連敗の後に4連勝するという大逆転劇を演じて、日本中の話題になった棋戦である。

それから2年がたち、羽生名人にとっては前回の屈辱を晴らし、前人未到の大記録「永世七冠」への再挑戦であり、渡辺竜王にとっては全棋士が参加し、賞金金額も将棋界最高、事実上の日本一決定戦である本棋戦を6連覇してきた誇りにかけて負けられない戦いである。

日本将棋界の両エースの激闘が日本各地で繰り広げられ、日本中の将棋ファンが一喜一憂したのも記憶に新しい。

そして、このドキュメントを見ながら、まだ読み終わったばかりで記憶に鮮明に残っている浅田次郎が書いた『一刀斎夢録(上)(下)』(文芸春秋)の以下の文章がオーバーラップした。

少々、長くなるがその部分を引用させていただきたい。

話は、幕末から維新にかけて戦い、生き残った新撰組の斎藤 一が近衛師団の中尉に沖田総司が『かけがえのない人間』であった理由を話して聞かせるくだりである。

沖田総司の剣を天才の一語で評するのはたやすい。では、天才とは何かと問うてみよう。たとえば、われらの歩む剣の道が百里の行程であったとする。多少の才に恵まれ、修練を積めば、九十九里までは達することができるが、その先には進めぬ。九十九里の峠の先には千尋の谷が待ち構えており、人間の背に羽でも生えぬ限りその谷を越えて百里に達することはできぬのだ。いきおい九十九里の峠の頂きにとどまる者は数多く、彼ら相互の技量は紙一重である。むろん師の近藤勇ですら、そのうちの一人に過ぎなかった。

しかし沖田総司は、その千尋の谷を隔てた向こう峰におるのだ。やつがいつの間に、どのようにして谷を越えたかは誰も知らぬ。ただ気が付けば向こう峰の頂きに腰をおろして、ぼんやりと宙を見つめていた。

万人に一人、などという言い方は中(あた)るまい。わしはこの歳になるまで、向こう峰に座る剣士を二人とは知らず、おそらくおぬしはこの先、一人も見ぬであろう。
谷を越えられぬ凡俗にとっては、九十九里といえども百里の道のなかばであることにちがいない。しかし九十九里を歩んだ者の果報として、わしらは百里をきわめた人間をこの目で見ることができた。

沖田総司のかけがえのなさということは、すなわちそのようなものであった。(浅田次郎著『一刀斎夢録(上)』本文352ページ~353ページ)



プロの将棋の世界に身を置いている人たちは、150名ぐらいと聞いたことがあるが、どの棋士たちも『才』に恵まれた逸材たちで、『将棋界の百里』をきわめるべく、互いにしのぎを削っている人たちである。

しかし、浅田次郎さんがいみじくも喝破したように、この才に恵まれた俊英たちも、全てが『百里の頂き』をきわめることはできず、多くが九十九里の峠の頂きにとどまっているのが現実である。

ドキュメントの中にも出てきたが、これらの棋士たちの中で、一頭抜きんでた存在として、圧倒的な強さで将棋界に君臨し、一時代を築いた大山、中原の二人の巨人は、浅田さんが言う『百里の頂き』に達した天才棋士といえるだろう。

また、現役の棋士では圧倒的な実績と存在感を誇る羽生名人こそが将棋界の『百里の頂き』に立っている、と大方の人が認めるところだろうが、羽生以外に現役棋士で『百里の頂』に到達した人はいるのだろうか、竜王戦7連覇と言う偉業を成し遂げた渡辺竜王は、どうなのだろう等々ドキュメントを見終わって、そんなとりとめのないことを考えてしまった次第である。


『見果てぬ夢』を求めて~フルトヴェングラーのリマスター盤を聴く

2011-01-22 | 音楽
オーディオ談笑会のメンバーの一人、Mさんから『EMIからフルトヴェングラー生誕125年を記念してリマスター盤がSACDでリリースされるようだよ。お年玉として、買ったら』と言う情報がもたらされたのが正月中のこと。

生誕125年にかこつけて、一儲けしようと言うことか、何と『商魂逞しい』ことか、と少々しらけ気分も。

とは言え、小生を含め、あの凄い演奏が少しでも良い状態で聴けますように、とテクノロジーの進歩に期待し、その進歩が福音をもたらしてくれるのを心待ちにしている、というのが、フルトヴェングラーファンの『共通の願い』、『見果てぬ夢』と言っても良いのではなかろうか。


フルトヴェングラーの生誕125年を記念してリリースされた
ベートーヴェン交響曲第5番『運命』、交響曲第7番
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


しかし、元となる音源がそもそも古いのであるから、それを考えればテクノロジーの進歩といっても、おのずから限度があるはずであり、言わば『ないものねだり』に近い願望なのだと思うのだが、夢を追い求めるファンとしては、今回のリマスター盤のリリースに際し、

ベートーヴェンの交響曲第7番については、これまで未使用の、1950年1月にウィーンのオリジナル・セッションで録音されたテープが見つかりました。このテープは現存するLPのマスターテープと比較しても、大変優れた音をしていたため、今回はこの未使用テープを使用することにしました。このテープの音源が世に出るのは、世界で初めてとなります。

と書かれたコピーを読むと、ひょっとしてという『期待』がむくむくとわき上がって来て、つい、つい予約申し込みをしてしまう仕儀に。

先日、予約したそのCDが手元に届いたので、早速、試聴してみた。

何はともあれ、今回の目玉である未使用テープを使用したベートーヴェンの交響曲第7番を聴く。

ちょっと耳障りな、テープのバックグランドノイズがあるのは、これまで通りでやはり若干気になるが、これは仕方ないと諦めるよりほかないのかも。

さて、肝心の『音』だが、音の伸び、切れ、なめらかさ、共に十分。
響きも豊かで、一口で言えば聴きやすい音で、聴いた限りでは『古さ』を感じさせない出来栄えである。

本ディスクは、SACD層とCD層の2層からなるハイブリッド仕様になっていて、小生の今回の感想は、CD仕様のものであり、装置の関係で、肝心の本ディスク本来のSACD仕様の音を聴くことができなかったのは、何とも残念、無念であるが、この件に関しては、本ディスクをSACDで聴くべく、近々、臨時オーディオ談笑会が開かれるとのことなので、後日、その結果について、本ブログで紹介したいと思っている次第である。