折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

今年のお花見VOL1 川越・中院と喜多院の「しだれ桜」

2009-03-27 | 日常生活
いよいよさくらのシーズンの到来である。

年を重ねるたびに、さくらへの思いは強くなってきているように感じている。

愛犬のパールと朝の散歩コースを歩きながら桜のつぼみが膨らんでいく様を見ながら、あたり一面に咲き揃う様を想像し、楽しみにしていたが、この所の思わぬ「寒の戻り」で一分咲き程度のままで足踏みしてしまって少々がっかりしていたら、

川越に住んでいる幼なじみのY子ちゃんから、

「今、<中院>のしだれ桜が見ごろよ、見に来ない」とお誘いが。

早速、いつも山歩きに連れて行ってもらっているこれまた幼なじみのKくんと一緒に「お花見」に。

Y子ちゃんとは、3月1日のクラス会で、Kくんとはクラス会はもちろんのこと、この3月10日に「吉野梅郷」に観梅に行って来たばかりである。

かみさんに言わせると、

「そんなに頻繁に会って、よく話があるわね」

とあきれられているのだが、そして、相棒のKくんも奥さんに

「あなたたち、おかしいんじゃない」

とやっかみ半分にからかわれているらしいのだが、リタイアしてとかく家の中に籠りがちの生活から引っ張り出してくれ、しかも何ら気兼ねすることなく付き合える幼なじみは何よりもありがたい存在である。


小江戸と言われる城下町川越には、蔵造りの町並み、時の鐘の鐘楼や、東照宮、喜多院など観光の名所が多いが、中院にあるしだれ桜は特に有名とのこと。


             
丁度見頃となっている「中院」のしだれ桜。青空と見事にマッチして、ため息の出るような美しさである。


当地では、喜多院がつとに有名だが、その喜多院に比べ閑静で「和」の美しさをそこはかとなく感じさせる中院の風情には、こちらを好む人が多いとも聞いている。

そして、その庭園に植えられた5本のしだれ桜は丁度見ごろで、その見事な美しさに朝早くからカメラを片手に「絶景ポイント」で盛んにシャッターを切る人たち、そぞろ歩きを楽しむ人たちで賑わっている。


当日は朝からすっきりと晴れて、しだれ桜が青空にくっきりと浮かび上がって、それはそれは見事な眺めであるが、北風が吹いて「花冷え」する陽気で、ソメイヨシノは固いつぼみのままである。

そこで、喜多院にあるもう一つのしだれ桜を見て、早々と第一部の「お花見」を切り上げることに。


              
喜多院のしだれ桜


第二部はY子ちゃんのご自宅訪問で始まる。

先ずは、彼女の手料理で昼食をいただきながら、あれこれとおしゃべり。
そして、食後はコーヒーを飲みながら古いアルバムをひもといての昔話に花が咲く。

暖かい部屋の中で、庭で鳴く鶯の声を聞きながら(鶯の声を生で聴けたのは想定外の喜びであった)過ごした午後のひと時は、「花見」に勝るとも劣らぬ楽しい、忘れられない時間となった。

そして、改めて幼なじみのありがたさをお互いに確認し合った時間でもあった。

「野球の神様」の「粋な」計らい~イチローの「集中力」を演出

2009-03-24 | スポーツ
あの場面を「神が降りてきた」とインタビューで表現したイチロー。

このインタビューを聞いた瞬間、本ブログの構想がぱっとひらめいた。

<第2回WBC決勝ラウンドの決勝戦>

9回裏に追いつかれて、流れが韓国に傾きかけていた延長10回にジャパンが迎えた二死二、三塁のチャンス。

最大の見せ場、最高の舞台で登場したのが世界の「イチロー」。

野球のセオリーでは、「敬遠」以外あり得ない場面。

しかし、韓国バッテリーは「勝負」に出る。

この瞬間、野球の神様はWBCにドラスチックなシナリオを用意したとしか小生には思えなかった。

野球の神様に選ばれた選手、それがイチロー。

「野球の神様」は「粋な」計らいをしてくれるものである。

1球ごとに、息をつめ、手に汗を握って見つめる。

きわどい球、ボールと思われる球をことごとくカットしていくうちにイチローの「集中力」が極度に高まっていくのが画面を通して見て取れる。

そして、投げ込まれた8球目をセンター前へ打ち返した瞬間、鳥肌が立った。
それは、日本中が拍手と歓声に沸いた瞬間であり、WBC2連覇を確信した瞬間でもあった。


             
             テレビのインタビューに笑顔でこたえるイチロー
             (TBSテレビ 2時っチャオより) 



テレビの前に釘付けになった4時間であった。

そして、こんな「スゴイ」ゲームはこれから先もう滅多には見られないのではと思わせるほどの最高のゲームで、「野球の醍醐味」を満喫させてもらった。

それにしても、日本に常に先手、先手を取られながらも土壇場で追いついた韓国の執念、意地、粘りはすさまじかった。

まさに気持ちと気持ちがぶつかり合い、「勝ちたい」と思う気持ちがわずかでも勝った方に野球の神様が味方したとしか思えないような、期待に違わぬ、野球の世界一を決めるにふさわしい激闘であった。

このところ「閉塞感」に日本中が覆われている中、久々に「勇気」と「元気」と「希望」をもたらしてくれた「サムライJAPAN」に「ありがとう」と心からの感謝を捧げたい。

ストレスの解消か、新たなストレスの始まりか

2009-03-22 | 日常生活
以前ブログで迷惑メールの山が朝の憂鬱の一つの原因になっていることを書いたが、その後もこの迷惑メール一向に減る気配がなく、むしろ、増え続ける始末である。

その上、ウイルスにでも感染したのか、パソコンの容量の慢性的な不足が画面上に表示され、操作にやたらと時間はかかる上、最近ではダウンロードもままならず、ストレスはピークに。

たまらず、小生のパソコンのヘルプデスク役を務めてもらっている娘の夫のMくんに窮状を訴えると、あれこれと操作した末、「おとうさん、これではストレスが溜まるでしょう。もう限界です。買い換えたら」とあっさり「引導」を渡されてしまった。

今のパソコンを使い始めて約6年、「まあ、しょうがないか」と潔く諦めて買い換えることに。

幸い、確定申告で還付金が振り込まれたばかりなので、それを元手に早速彼と近くの家電量販店に出かける。


            
            新しく購入したノート型パソコン(東芝EX/33Hモデル)


夕方、6時頃から夕食時間を挟んで10時半ごろまでセッティング作業。

小生は、Mくんの作業を孫のKちゃんが邪魔をしないようにひたすらKちゃんの遊び相手をこれ務める。

セッティング作業が終了した後は、操作方法の説明を受ける。

Mくん曰く。

「今まで使っていたウインドーズXPと最新のモデルのビスタでは、OSの環境が異なるので、操作に慣れるまでちょっと戸惑うかも知れませんよ。
でも、立ち上がりは早いし、メールも迷惑メールを寄せ付けないものに切り替えたので、もう、迷惑メールでいらいらすることはないですよ」

すると、横から娘が口を挟む。

「おとうさん、新しい機種の操作がむずかしくて、結局、古い機種を使い続けるってことにならないでね」

そして、かみさんまでが、

「機械音痴のおとうさんのこと、古いパソコンからのストレスはなくなるかもしれないけど、今度は新しいパソコンの操作で、また、別なストレスが溜まらなければいいけど」

と家族みんなから、さんざん冷やかされる。

パソコンの操作も車の運転と同じで、

「習うより、慣れろ」である。

車の運転では、ペーパードライバーになってしまったと言う苦い「前科」がある小生のこと、みんなの冷やかしに真っ向、胸を張っての反論はしにくい。

とにかく、車の「轍」を踏まないように新しいパソコンの操作に早く慣れるよう今から取り組んでいきたいと思っている。
(このブログの作成が新しい機種の第1号)

男の「矜持」、男の「美学」とは~「落日燃ゆ」の広田弘毅の生きざま

2009-03-19 | 映画・テレビ
前回は映画「ベンジャミン・バトン」について書いたが、今回は先日テレビ放映された「落日燃ゆ」についての感想を書いてみたい。

            
            東京裁判でA級戦犯として絞首刑の判決を受ける広田弘毅(北大路欣也)
            (テレビ朝日「落日燃ゆ」より)


日本が戦争へと突き進んだ時代。

総理大臣や外相として戦争回避を主張し続けながら、東京裁判でA級戦犯として絞首刑になったただ一人の文官・広田弘毅の半生を描いたドラマで、原作は城山三郎の小説「落日燃ゆ」である。

城山三郎の原作を読んだのがいつ頃だったのかは、はっきりと覚えていないのだが、多分、30代の中頃だったように思う。

その内容については、今では余り良く覚えていないが、読み終わった時は広田弘毅という主人公の潔い身の処し方、生きざまに、これぞ男の「矜持」、男の「美学」だと、大いに感銘を受けたのを今も覚えている。

そして、今回、テレビで、改めて主人公の身の処し方、生きざまを見て、原作を読んだ当時感じた、男の「矜持」、男の「美学」についての考え方が、ちょっと変わったことに気が付いた。


それには、幾つかの理由が考えられる。
その一つは、小説と映像との違いにあるのかなと思った。

即ち、小説を映像化した場合、幾つかの例外(「砂の器」など)を除くと、ほとんどの場合、映像は小説に及ばないと言うのが、小生の持論である。

小説「落日燃ゆ」については、何分読んだ内容を覚えていないのだから、テレビを見ただけで軽々に断じることはできないが、この際、もう一度原作を読んで確認して見なければなるまいと思っている。

もう一つは、小生自身の物の見方、考え方の変化である。

小説を読んだ当時は、今よりはずっと若く、主人公のように一切弁解せずに戦争責任を引き受け、従容として死んでいった主人公の生きざまに、人間のあり方としての理想を見たように思ったのだが、テレビを見終わって感じたのは、自分の「非」を認めて、一切弁明しないということが果たして「潔い」と言えるのだろうか、自分の「非」は非として認めた上で、主張すべきことは、はっきりと主張し、最善を尽くして、何としても「生きる」ことが、何よりも彼を愛し、必要とし、心から尊敬した人たち、特に主人公があれほど愛した家族への責任というものではなかったのか、ということであった。

主人公の「命」は、主人公一人だけの「命」ではない。

そのことに思いを致せば、法廷の証言台に立つことなく、自分の人生を自分の手だけで完結させてしまったことについて、その生き方が果たして男の「美学」と呼べるものなのだろうかと、いささか納得できないものを感じたのである。

いつもはテレビを見ていても、途中で寝てしまうことが多い、かみさんがめずらしくこのドラマを最後まで見ていて、

「最善を尽くさない人って嫌よね。あれでは、何だか家族が可哀想。あのような生き方を男の<美学>なんて言わないで欲しいな」

と言うコメントに、妙に説得力を感じてしまった。

そして、やはりもう一度、原作を読んで見る必要があると改めて思った次第である。

「たら」、「れば」の世界の物語だが・・・~映画「ベンジャミン・バトン」

2009-03-16 | 映画・テレビ
戦争で息子を死なせてしまった一人の時計職人が「逆」に時を刻み続ける時計を作る。

そして、時計が逆回りで秒を刻み始める。

映画「ベンジャミン・バトン」はこんな場面から始まる。

そして、この逆回りし始めた時計に合わせて、「老人」として生まれ、「赤ん坊」として死んでいくという宿命を背負わされた一人の男・ベンジャミン・バトンの「逆回り」の人生が始まる。

「おぎゃっ」と生まれ、それぞれの寿命を全うして終わる、それが生きとし生けるものの常である。 

普通の人が時間の経過と共に当たり前のように年を重ねていくのに、映画の主人公だけが一人時間が逆回りして「若返」って行くのだ。
そして、彼が迎える終着駅は「赤ん坊」として、その命を終えることになるのだ。


映画は幾つものエピソードを絡めて、この逆回りの人生の喜怒哀楽を克明に描いてゆく。

特に、この逆回り人生の「悲劇」の象徴が、愛しい人との出会いと別れである。

即ち、若返って行く主人公と年を重ねていくヒロインの時間が「青春」時代にクロスし、二人は結ばれる。

そして、二人の間に子供が生まれる。

普通であれば、子供の成長と共に二人とも年を重ねていくはずなのだが、人と同じ方向に進めない主人公の場合、時間の進行が二人を別っていく。


ヒロインは、生まれた子供と、もう一人これから子供になっていく主人公の二人の子供のことを思い、苦悩する。

そして、二人は「別離」を選択するのだが、お互いに愛し合いながら、お互いを思いやってこの結論を出す場面は、切ないし、逆回り人生の非情さに身をほだされる。


「死ぬ時は、誰しも「赤ん坊」に帰るんだ」とはよく耳にするが、そして映画ではまさにその通り、肉体的に「赤ん坊」に戻った主人公が年老いた愛しい人の腕の中でその一生を終えるのであるが、小生としては人生の終わりは、やはり年老いて迎えたいものだとしみじみと思った次第である。

そして、当たり前のように普通に年をとり、あるがままに生きていけることの尊さと素晴らしさを改めて噛み締めた次第である。


その意味では、一見「荒唐無稽」なお話しながら、見終わった後色々と考えさせられるところの多い映画であった。