折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

ベートヴェンの交響曲を堪能した3日間

2010-01-31 | 音楽
新しい年がスタートして1カ月。

この間、趣味の分野では、書道の書き初めは『般若心経』、読書は二つの『徳川家康』、そして、映画は話題のSF大作『アバター』と先ずは順調なる滑り出し。

【一念発起】

そこで、残る音楽鑑賞であるが、年末の大晦日恒例の『ベートーヴェン連続演奏会』に触発され、今年の音楽聴き始めは、ベートーヴェンの交響曲全曲を集中的に聴いて見ようと一念発起。

触発されたその『ベートーヴェン連続演奏会』だが、昨年の大晦日はコバケンこと指揮者小林研一郎さんがベートーヴェンの交響曲全9曲を一人で約11時間かけて演奏したとのこと、演奏者はもとより聴く方もさぞかし疲れたのではなかろうか。

小生、平日の昼は大抵一人で、その間何をしても自由なので、その気になれば1日で全9曲を聴くのもできなくはないのであるが、さすがに10時間以上ぶっ続けとなると、いかに『一念発起』と言っても、そこまでの踏ん切りはつかず、取りあえず3日間で全曲を聴こうと早くも妥協。

【唯一の全集物】

ベートーヴェンはモーツアルトと並んで小生が大好きな作曲家であり、色々な演奏家のCDを長い年月かけてコツコツと買い集めた結果、今では交響曲だけでも数えてみたら60枚ほどになっている。(そのうちフルトヴェングラーが21枚と圧倒的に多いのだが・・。)

しかし、ほとんど単品であり『ベートーヴェン交響曲全集』は、わずか1セットのみである。

今回、ベートーヴェンの交響曲全曲を聴くに際しては、

①交響曲第1番から9番までの全9曲を1曲ごとに違った指揮者で聴く方法
②全9曲を同じ指揮者で通して聴く方法

と二通りの方法を考えたが、前者については今年の暮れのお楽しみとすることにして、今回は小生が持っている唯一の全集であるアンドレ・クリュイタンス指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団による『ベートーヴェン交響曲全集』を聴くことに。


アンドレ・クリュイタンス指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団による
『ベートーヴェン交響曲全集』

1957-60年、ベルリン、グリューネヴァルト教会におけるステレオ録音。
ベルリン・フィル初のベートーヴェン全集としても知られている。



この交響曲全集は、前述の通り、小生が持っている唯一の全集である。
昨年、弟から借りたコレクションの中にこの全集があった。

聴いて見ると、演奏と言い、録音と言い申し分ないので、すぐにダビングしたのであるが、できれば全曲揃えたいと思い、物色していた所、5枚組の全集が何と1,890円という信じられないような値段でネットで売られていた。早速購入したのは言うまでもない。


【しんどかった初日】

第1日目 

午 前 交響曲第1番  交響曲第4番   
午 後 交響曲第2番  交響曲第8番

一念発起の意気込みを示すべく、初日に普段はめったに聴かない曲ばかりを集めたのだが、なじみがない曲だけに全曲を聴き通すにはかなりの辛抱を強いられ、『しんどい』1日となった。

そして、今回これらの曲を聴いて音楽には『慣れ』というのも一つの大きな要素であることを改めて実感した。

【至高の名演 第6番『田園』~2日目】

第2日目

午 前 交響曲第3番『英雄』
午 後 交響曲第5番『運命』 交響曲第6番『田園』

2日目は、一転してこれぞベートーヴェンという聴きなれた曲ばかりで、ぐいぐい曲に引き込まれていく。
特に第6番『田園』は、何度聴いても心打たれる素晴らしい演奏であり、録音である。この全集中屈指の名演と評価の高いのも、むべなるかなと納得。

【『のだめ』で脚光 第7番~3日目】       
           
第3日目

午 前 交響曲第7番     
午 後 交響曲第9番『合唱』

時ならぬ『クラシックブーム』を巻き起こすきっかけとなったドラマ『のだめカンタービレ』。

ベートーヴェンの交響曲第7番がまさかこんな形で脚光を浴びるなんて予想だにできなかった。

ドラマの影響で第1楽章がポピュラーになっているようだが、小生は交響曲第3番『英雄』の第二楽章と並び、切々と胸に沁み入るような緩徐楽章の第2楽章に強く惹かれる。  

【ベートーヴェンの音楽を堪能した3日間】

初日こそ余り聴かない曲でしんどかったが、3日間を通して見れば、美しい弦、みずみずしい木管、本当に美しい演奏、そして、とても50年ほど前の録音とは思えない素晴らしい音質、まさにクリュイタンスとベルリンフィルのベートーヴェンを堪能した3日間であった。


年末に持ち越した、指揮者別による全曲演奏、何番は誰れにしようかと、今からじっくりとラインナップを考えてみるのが楽しみである。



『3D』初体験~話題の映画「アバター」を観る

2010-01-28 | 映画・テレビ

映画『アバター』の興行収入世界記録を伝える新聞(1月27日朝日新聞)


・ジェームズ・キャメロン監督が、構想14年、製作に4年を費やしたSF大作
・3D技術、CG技術を存分に駆使した最新映像
・興行収入歴代1位
・ゴールデングローブ賞の作品賞、監督賞受賞


等々、話題に事欠かない映画『アバター』を見て来た。


舞台は22世紀。
地球から遠く離れた衛星『パンドラ』。

ある企業が、莫大な利益をもたらす鉱物の採掘を進めている。
しかし、衛星は有毒な大気に覆われ、生身の人間はそのままでは生存できない。

 そこで企業は、衛星の先住民と人間の遺伝子を組み合わせた肉体「アバター」を開発する。

車いす生活を送る主人公の元海兵隊員は、この青い肉体のアバターを“遠隔操作”し、鉱物を奪う先兵となるべく先住民たちの生活に潜入するが、徐々に彼らへの親近感を増していく。

その一方で、この採掘計画に疑問を抱くようになり、やがてパンドラの先住民の文明を救うために戦いに身を投じる……というストーリーである。

 
映画『アバター』の一場面                映画を3D画面で見るための専用メガネ


そこで、映画『アバター』の感想を小生の分身(=アバター)との対話という形でまとめて見た。


―余り浮かない顔してるけど、何か不満でも

そうじゃあなくて、折角見るのであれば、もうちょっと事前に情報を仕入れておけば、もっと面白く見れたんじゃないかな、と反省してるんだ。

―例えば、どういうことよ

『アバター』って、『分身』という意味があるんだって、そんなこと全く知らなかったから、『アバター・プロジェクト』の仕組みがうまく飲み込めなくて、最初のうちは物語にスムーズに入っていけなくて、戸惑ってしまった。

―そうか、何で場面が急に基地の場所からパンドラになってしまったり、下半身不随の筈の主人公がパンドラの中で青い姿の男に姿を変えて自由に動き回ってるのかが、よくわからなかったんだな。

そう、そう。

―科学や機械やネットといったテクノロジーには、まるでダメ、メカに弱いというウイークポイントが出たという訳だ。ところで、3D初体験の感想は

未知との遭遇、興奮の極みだったよ。

―映画のプロデューサーが、観客に劇場にいることを意識させない、即ち、実際その場にいるように観客に感じさせる、それがわれわれの3D映像への哲学的アプローチだと言ってるけど、そんな感じだったの。

その美しさ、スケール感、奥行きの深さ、全てに脱帽。
まさに、その場にいるような感覚を味わった。
興行成績がこんな短時間で史上NO1になったのは、映画館に足を運ばなければ、3D映像の素晴らしさは絶対味わえないからだ。
その意味では、この『アバター』の公開は、本格的な3Dの幕開け、『3D元年』になるかもね。

―時々、3Dメガネをはずしてスクリーンを見てたけど・・・・。

3Dの画面と普通の画面でどれほど違いがあるのか、確認したんだ。メガネをはずすと、画像が二重写しになってにじむんだね。また、普通の画面で見るとスクリーンの映像が随分遠く見えた。
それと、やはりメガネは煩わしいよね。また、初体験ということで多少緊張していたせいもあってか、少し目が疲れたみたい。

―それでは、もう一つの見どころのCGを含む映像全体の感想は

一言で言えば、『すげぇ―』ということかな。
また、『めくるめく』という言葉があるけど、まさにこの言葉がぴったりの映像だね。
パンドラという星にある生命体、森、樹木、山、そして、パンシー、レオノプテリクス、ダイアホースと言った動物が、ある時は幻想的に、ある時は神秘的に、そして、ある時はリアリティをもって、また、ある時はダイナミックに描かれていて、思わず息を飲むね。特に、最後の戦闘シーンには目を奪われる。

―ストーリー全般についてはどうだった。

自分たちの欲望のため、パンドラの自然を破壊しようとする人間たちの企てに立ち向かうというストーリーはよくある話で、それ自体には新味はなかったのではないかな。ただ、最後の決戦の場面、人間のもつ最新兵器と先住民の弓矢という原始的武器との戦いで、弓矢の側に勝たせると言う描き方は、いかにもキャメロン流と言うべきか。

―「アバター」を見た観客から、3Dの映像があまりにもリアルで、その美しさにあこがれるあまり「うつ状態になった」「自殺を考えた」といった訴えがインターネットに相次いでいるということが、今話題になってるけど。

そうらしいね、でも、ぼくはそんなナイーブな感覚は持ち合わせていないから、まったく、そんなことは思わないね。

 


二つの『徳川家康』~伝奇小説の楽しみ

2010-01-25 | 読書
荒唐無稽な設定ではあるが、さまざまな歴史的資料を駆使して、史実との整合性を取った上で、その史実の隙間に、もしかしたらそうだったのかも知れない、と納得させてしまうような説得力をもった物語をいかにして作り出すか、この工夫こそが伝奇作家の腕の見せ所であり、伝奇小説の大いなる楽しみと言えるだろう。

その意味では、

家康は関ヶ原で殺された!
――徳川政権を築き守るため家康を演じ続けざる得なくなった影武者の長い苦しい闘いが始まる。

こんな大胆不敵な設定で物語が展開する隆慶一郎の『影武者徳川家康』(新潮社)は、この伝奇時代小説の分野で、不滅の金字塔を打ち立てた傑作である。


先般、本屋をのぞいたら

山岡荘八『徳川家康』、隆慶一郎『影武者徳川家康』。そしていま、私たちはここに、これまでまったく描かれることのなかった、第三の家康と出会うことになる。 鮮やかな傑作戦国小説の誕生だ。

という、帯封のついた荒山 徹著『徳川家康(トクチョンカガン)』(実業之日本社)上下2巻が店頭に山積みされていた。


 
伝奇時代小説の最高傑作『影武者徳川家康』   最新作『徳川家康(トクチョンカガン)』


著者は我が国を代表する伝奇時代小説の書き手の一人であり、小生も『魔風海峡』、『十兵衛両断』等を読んだことがある。

帯封に書かれた『第三の家康』というキャッチ・コピーに触手を動かされ読んで見る気に。

作者自身があとがきで

敬愛する隆先生の高みに少しでも迫ろうとの意気込みで書き始めた。

と書いていることからもわかるとおり、本作品は隆慶一郎の『影武者徳川家康』を念頭において書かれたものである。

それだけに、あの『影武者徳川家康』の牙城に挑む以上、それこそ『目をむく』ような奇抜なアイディアがなければならないだろう、果たしてどんな『仕掛け』が用意されているのだろう、と期待して読んだ。

見どころは、主役である家康の影武者の出自と人間性、家康の影武者と対立する秀忠の性格付け。

荒山作品では、家康の影武者の出自に独創性を加え、家康と秀忠の性格、人間性も隆作品と正反対に描くなど、工夫をこらしている。

そして、波乱万丈のストーリー、あっと驚くラストが用意されているなど、仕掛けは、ユニークで大変面白いと思うのだが、惜しむらくはストーリーの展開が少々説明的に過ぎて、平板であり、手に汗握るような圧倒的な描写力、文中にみなぎる熱い思い、馥郁たるロマン性、そのいずれにおいても『本家本元』に一歩も二歩も譲らざるを得ない、というのが小生の感想である。

実は荒山さんの『徳川家康(トクチョンカガン)』は、図書館で借りて読んだのだが、順番待ちの状況だったので、そのタイムラグを利用して、久しぶりに隆さんの『影武者徳川家康』を読み返したのだ。

従って、この数週間は二つの『徳川家康』を読み漁っていた訳で、この間、伝奇時代小説の醍醐味を十分に堪能した次第である。




カレンダー・「マリリン・モンロー」一筋32年

2010-01-22 | 仕事・職場
昨日は暖かかったので、散髪に行って来た。

もう40年近くも通っている、行きつけの床屋さんである。

お互いに気心も知れているので、その時間は散髪もさることながら、世間話をしたり、うたた寝をしたりと、小生にとっては、ある種のリラクゼーションの時間であり、場所でもある。

『こんにちは』と気さくに声をかけて店に入ると、お店の一番目立つ所に昨年の暮れに小生が届けたマリリン・モンローのカレンダーが貼ってあった。


行きつけの床屋さんの店に貼られた、今年のマリリン・モンローの
カレンダー



『今年のモンロー、いかにもモンローらしくて中々いいじゃん』と小生。

『わたしも、最近の中では一番気にいってます。オヤジさん、このカレンダーどこから手に入れたのよってよく聞かれるんで、お店に来るお客さんの会社のカレンダーなのよ、と説明してるんだけど』と店主。

この日は、先ずは、このマリリン・モンローのカレンダーから話がはずむ。

『今年で、32枚目になるらしいよ』と小生。

『そんなになるんですか、わたしの所は今年のを入れて全部で20枚になりますよ。これまでいただいた分は、ちゃんと大きな筒にいれて全部保管してます。我が家の宝物ですから』と店主。

勤めていた会社がカレンダーにマリリン・モンローを採用してしばらくしてから、思い立って『お店に貼って』と毎年届けて来た。
定年後も、後輩に送ってもらって届け続けて来た。
それがちょうど20枚になったのかと、ちょっとした感慨が。

『うれしいね、ありがたいね。そこまでしてもらえるとこれまでずっと届けてきた甲斐があったと言うものだよ』と小生。


『このモンローカレンダーが最初に作られた頃は、30代の半ばでね、カレンダーは他の部署が作ってたんだけど、わたしがいた部署でもこのカレンダーにちなんだグッズ類をいっぱい作って、仕事に活用したもんですよ。そのアイディアを考えるのが、面白くて、楽しくてね、本当にいい時代だった』



最初の発行から12年たった時点で、それまでのモンローカレンダーのデザ
インを一新し、もっぱら社長の来客用に作ったテレホンカード。
貴重品として、大変好評だった。



『そう言えば、テレカも何回か頂戴したことがある』

『株主さんへも配当金と一緒にモンローのテレカを同封して喜ばれた。今はテレカでなくてクオカードになってるけど』


株主優待に使われているモンローのクオカード


『マリリン・モンロー一筋32年ですか、こんなに長く続いているなんてすごいことですね』

『【継続は力なり】だよね。今やマリリン・モンローとは、切っても切れない会社の一つの文化見たいになってるんじゃないかな。でも、景気が悪くて配当も少なくなったし、せめてモンローのクオカードは取り止めということにならないでほしい、と願ってるのだけどね』


平日の午後の一時、お店には他に客もいないとあって、髪を切り終った後も、しばらくモンローカレンダー談義をはじめとして、若かりし頃の思い出話に花が咲いた。

そして、久しぶりに懐かしさをかみしめて、家路についた次第である。


『自然界』と『政界』 二つの『蕾(つぼみ)』

2010-01-20 | 雑感
1週間ほど前は、まだ蕾だった我が家の庭の四季バラが、2,3日前からピンクの可憐な花を咲かせている。

凍てつく寒さの中、咲いている様は、けなげで、気高く、美しい。

また、庭の一隅に植えられている梅の木も、まだ固くて小さいながら、蕾をいっぱいつけている。

その佇まいからは、来るべき春の胎動がそこはかとなく感じられる。

こういう景色を目にすると、自然は『正直』で『裏切らない』とつくずくそう思う。


 
我が家の庭に咲いた四季バラの花           梅の蕾はまだ小さくて固い



一方、『政権交代』から100余日、期待された新しい政治の『芽=蕾』は、今、『政治とカネ』という、およそ前時代的なスキャンダルにまみれ、花を咲かせることなく、蕾のままで立ち枯れてしまいそうな、まさに『風前の灯』の如き状況である。

・こじれた日米関係、
・ままならぬ雇用、
・二番底に沈みかねない景気


いずれを取っても、差し迫った課題が山積している中で、政治が果たすべき役割は、この上なく重大にもかかわらず、がらがらと音を立てて崩れつつある政権への信頼感。

政権交代に希望を託した国民にとって、何と言う政治の体たらくと怒りを通り越して泣きたくなる心境である。

そんな、イライラした気持ちで新聞を読んでいたら、北海道大学山口二郎教授の『自ら進んで挙証責任を負え』と題する寄稿記事が目についた。


1月19日付朝日新聞記事


(前略)

今回の戦いは、あくまで政治闘争である。裁判闘争では、挙証責任は検察が負う。検察が犯罪事実を証明できない限り、小沢側は潔白である。しかし、政治闘争とは、リングに上がって相手と殴り合う戦いでなく、国民環視のもとでどちらが説得力、訴求力のあるパフォーマンスをするかという戦いである。したがって、政治闘争ではむしろ小沢が挙証責任を負うことを覚悟すべきである。

(中略)

小沢および民主党が政治改革を実践したいならば、自ら進んで国会や公開の場に出て、あらゆる質問に対して自らの言葉で答えることで、検察に対して先手を取るべきである。そうした捨て身の戦いをしなければ、今回の危機を乗り越えることはできない。小沢個人にそうした決断ができないならば、民主党という政党の政治的能力が問われることになる。繰り返す。政権交代が烏有に帰すならば、国民は民主政治に絶望するしかない。日本の政党政治が瀬戸際にあることを、小沢および民主党の指導部に銘記してもらいたい。(1月19日付朝日新聞「私の視点」より)


まさに、わが意を得たりの意見であり、艱難辛苦の末ようやく手にした新しい政治の芽=蕾を枯れさせないためにも、関係者は山口教授の指摘に真摯に耳を傾けてもらいたい、と切に願う次第である。