折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

天気も気分も上々、花も見頃、言うことなし~「あじさい山公園」の花見

2009-06-28 | 友達・仲間
          
  山一面のあじさい
越生(おごせ)町の山あい5・6ヘクタールにおよぶ「あじさい山公園」には、13,000株のあじさいが植えられ、山一面を覆いつくしている。
6月から7月上旬にかけて色とりどりのあじさいが咲き誇るさまは、訪れる人たちの目を楽しませてくれる。
     


                       
              あじさいと清流
            公園までの約3キロメートルのあじさい街道には、約5,000株のあじさい
            が咲き競っている。
            また、道路脇を流れる麦原川の清流には、心洗われる思いで、疲れを
            心地よく癒してくれる。


             
              ようこそ
             公園の入り口にある「あじさい橋」



先日、小・中学校の同級生たちと越生町(おごせ)にある「あじさい山公園」にあじさいの花を見に行って来た。

当日は梅雨の合間で、うす曇りと絶好の日和。
また、お目当てのあじさいの花も丁度見頃とこれ以上ない条件に恵まれ、幼なじみと和気藹藹の1日を楽しんだ。

その幼なじみたちとの1日を一口メモ風にまとめてみた。


<口コミ>


この企画は、以前「赤城山」にハイキングに行った時に、次回は「何にしようか」とみんなに諮った時に、季節的にあじさいが良いのではと言うことで決まったのだが、H子ちゃんが他の女性にも一声かけてみると、あれよ、あれよと言う間に、K子ちゃん、Y子ちゃん、S江ちゃんが「わたしも、わたしも」と手を上げて結局、女性陣が4人、男性陣がKくん、Mくん、Hくん、そして小生と全部で8人と言う大人数になった。

このように口コミで女性陣が次々と集まったのだが、改めて女性たちの横のつながりの強さを見せつけられた次第である。


<話題の主(ぬし)>


そんな女性陣の中でひと際話題の主は、H子ちゃん。

前々回の「赤城山」ハイクの時は、「さいたま市長選挙」の選挙戦の真っ最中で、彼女のごく近しい親戚の人が立候補していて、その応援で大変なんだと言っていたが、何とその人こそ当選して一躍話題をさらった清水勇人さんであったのだ。

選挙当日は、選挙結果を聞きながら、「やった」と快哉を叫んだのは言うまでもない。

その彼女に、幼なじみたちから「すごいね」、「よかったね」と暖かい祝福の言葉が。

そして、車の中では、しばし選挙にまつわる話で盛り上がったのである。


<瞬間蒸発>


昼食は、あじさい公園の見晴らし台を当グループ8人が占拠した格好。(ご迷惑をかけました)

その席でMくんがおもむろに取り出したのが、今が旬のさくらんぼ。
それもれっきとした「山形産の佐藤錦」のラージサイズの極上もの。

6月23日、24日、山形の寒河江に「さくらんぼ狩り」のツアーに出かけて来たとのこと。

「天気も良くて、さくらんぼも丁度食べごろで良かったよ」とM君。

「こんな極上もの、食べられないわよ」と女性陣を始め一同大はしゃぎ。
今が旬のさくらんぼの美味に2パックがあっと言う間にみんなの胃袋に収まってしまった。


<生涯現役!?>


小生やKくんと同じ集落のY子ちゃんは、大の働き者。
今も地元の零細企業にパートで勤めている。

仕事は、経理をはじめとする事務全般らしい。

「朝は9時から夕方5時までが定時だけれど、何時も終わるのは7時過ぎ。時給700円で、残業代は出ないのよ。ケチなんだから、やってられないわ」とぼやく割には、余り不満そうでもない顔である。

どうも、彼女の話を聞いていると、社長を始め従業員に頼りにされていて、社内では、時給は低いが扱いは副社長並み、それがどうも大いに彼女のプライドを満足させているようなのだ。

もともと仕事大好き人間の彼女のことゆえ、この分では生涯現役ということになるかも・・・・。


<恩師の里>


あじさい公園からの帰り道のこと。

「越生と言えば、中学校の担任だったS先生は越生の生まれだよね」とH子ちゃん。

「そう、そう。大学卒業して、先生になって初めて教えた生徒が俺たちだったんだ」と小生。

「にこにこして、やさしくて、いい先生だった」とHくん。

S先生を始め、中学時代に教えてもらった恩師の話し、消息などがしばらく話題に上る。

みんな童心に還ったような顔をしている。

幾つになっても、想い出の中に生きている先生という存在は、少なくても我々の世代にあっては「聖職者」なのだ。


<一風呂浴びる>


「あじさいを見た後は、温泉で一風呂浴びてさっぱりしよう」

今回の企画のもう一つの目玉である。

おあつらえ向きに、帰り道にウェルサンピア埼玉おごせ(「埼玉厚生年金休暇センター」)と言う施設があるので、立ち寄ることに。

平日の昼下がりと言うこともあって、男風呂には小生たち4人のみ。
広い浴場をかれこれ1時間、借り切り状態で汗を流す。

そしてすっきりした所で、休憩所で冷たい飲み物と甘いケーキを食べながらしばしティー・タイム。


かくして、天気も、気分も上々、花も見頃と言うことなしの「あじさい山公園」のお花見は、8人の胸に一つの想い出を刻んで終了となった。


ブラームスは哲学~「オーディオ談笑会」主宰者Kさんのブラームス観

2009-06-25 | オーディオ談笑会
先日、今年2回目のオーディオ談笑会が開かれた。

この会の目的は、主宰者Kさん邸のオーディオ・ホールに鎮座するスピーカーの名器「タンノイオートグラフ」でそれぞれが持ち寄った音楽ソースを聴くことなのだが、その合間にお酒を酌み交わしながら、みんなで音楽やオーディオの話や日常生活の話やら、四方山話を「わいわい、がやがや」ざっくばらんにしゃべりまくるのもまた楽しみの一つであり、その雰囲気が何とも魅力的で好ましのである。

普段、余り「会話」のある生活をしていない?せいもあってか、何時もこの席は盛り上がって話が終わらずに、リスニング時間に食い込んでしまうことがしばしばである。

                            
              メンバーの一人Iさんが持参した「自作」のパワーアンプが、ブラームス論議と
              並んで話題になった。


今回はそんなおしゃべりの中から、主宰者Kさんの「ブラームス観」についての話を紹介したい。

この話の仕掛け人は、小生。

テーマは、ブラームスの交響曲の難解さについてである。

「コンチェルトや小品では、とても親しみやすい旋律がいっぱいあるのに、交響曲になるとどうしてブラームスは、ああまで『無愛想』で『取っ付き難く』、『面白み』がないんだろう」と小生が切り出す。

何回聴いても理解不能なブラームスの交響曲に辟易としている小生が、ちょっと無謀な議論を仕掛けた次第である。


すると、こよなくブラームスを敬愛するブラームス信奉者のKさんが、熱く、しかし、理路整然とブラームスへの思いを語り始めた。

先ず、ブラームスは決して、「無愛想」で、「取っ付きにくく」、「面白みがない」とは思わない。そう思うんであれば、それは、まだブラームスの音楽の聴き方が足りないんじゃないか。

ブラームスの音楽、特に交響曲は言わせてもらえれば、「哲学」なのよ。

自分の生き方、生きざまといった根源的な問いかけに対する啓示とか示唆とかなどを与えてくれる、それが哲学だと思うんだ。

ブラームスの交響曲を聴き込んでいけばいくほど、聴き手の魂を揺さぶる何かをそこに感じることができるんだ。

その「何か」なんだけど、日常生活では滅多にない心底感動する自分という存在を実感させてくれることではないかと思っている。

そして、聴く時の心境によって、その実感に強弱が生じるので、何度聴いても常にフレッシュなんだ。

哲学することの原点は、どうもここらにあるのでは、といつも思うんだ。

だから、ブラームスの交響曲を聴く時は、新たな自分を発見するような感覚で哲学書を読む気持ちになって向き合う覚悟がいると思っているし、何時もそういう気持ちで聴いているんだ。

言葉を選びながら、訥々と話すKさん。

その言葉は、ブラームスを畏敬し、その音楽を心から愛してやまないKさんの心情が籠っていて、これは「筋金入り」で小生などとても太刀打ちできないと早々と「白旗」を上げた次第である。

そういう経緯もあってか、今回のプログラムの最後に聴いたブラームスの交響曲第1番は、ピエール・モントゥー、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の名演とタンノイオートグラフの力強い音と相まって、小生の耳にいつもと違って聴こえたのであった。


             
             談笑会の「トリ」を飾ったブラームスの交響曲第1番ハ短調Op・81
             ピエール・モントゥー指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
             ブラームスを生涯敬愛し続けたモントゥーが、その晩年に到達した至高の名演
             と言われている。           
           


【当日試聴した曲目と演奏者】

・ 高橋竹山その2から 津軽三味線即興曲<岩木>
 (演奏:三味線 高橋竹山)
・バッハ 2つのヴァイオリンのための協奏曲から第1楽章
 (演奏:イッツアーク・パールマン、ピンカーズ・ズッカーマン(ヴァイオリン)、ダニエル・バレンボイム指揮、イギリス室内管弦楽団)
・マル・ウォルドロン マルー1から「イエスタディズ」
 (演奏:マル・ウォルドロン(ピアノ)他)
・ビル・エバンス ホワッツ・ニューから「ストレート・ノー・チェイサー」
 (演奏:ビル・エバンス(ピアノ)他)
・ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界から」から第2楽章
 (演奏:ラファエル・クーベリック指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽
  団)
・バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番から第1、第2楽章
 (演奏:アルテュール・グリュミオー(ヴァイオリン))
・バッハ プレリュードとフーガからフーガ第2番
 (演奏:ジョン・ルイス(ピアノ))
・ムソルグスキー 展覧会の絵~超絶のチェロ軍団
 (演奏:ラハティ交響楽団低弦アンサンブル)
・ブラームス 交響曲第1番全曲
 (演奏:ピエール・モントゥー指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団)


「本」と「アニメ」軍配は?~長編アニメ「川の光」を見て

2009-06-22 | 映画・テレビ
小説「川の光」(松浦寿輝 中央公論新社)を読んだのは、今から1年半ぐらい前のことである。

               
               アニメの原作 小説「川の光」(松浦寿輝 中央公論新社)


久しぶりに心が洗われるようなさわやかな感動を与えてくれる本に出会って、本ブログで

◆この本の素晴らしいところは、大人が読んでも楽しいし、子供が読んでもわかりやすく、面白いところである。

◆久しく求めていた、大変上質な〖大人の童話〗であり、格好の〖情操教育〗の生きた教材である。

◆お子さんを持つお父さん、お母さんには、先ず本人自身がこの本をぜひ読んで欲しい。そして、子供が小学校の高学年であれば自分で読むように薦めて欲しい。また、お子さんが小さい場合は、お父さん、お母さん、声を出して、読んで上げて欲し い。
(2007・9・28付ブログ「大人の童話」)

と感想文を書いた。

そして、早速、読み終わった本を息子一家に送ったのを覚えている。


その「川の光」が、NHKの「SAVE・THE・FUTURE」という特集番組の一つとして取り上げられ、アニメとして放映されるというのだ。

この本を読んだ時から、アニメ化を熱望していたので、まさに時宜を得た企画と期待に胸を膨らませてその日が来るのを楽しみに待った。

たまたま、放映日には予定が入っていたので、ビデオ録画の準備を入念にして出かけ、昨日の午前中にかみさんと二人でじっくりと見た。

              
              長編アニメ「川の光」の一場面(NHK総合テレビより)


さて、見終わっての感想であるが、本アニメは、絵がとてもきれいで、キャラクターもとても可愛くて、完成度の高い作品に仕上がっており、製作スタッフには心からの敬意を表したいと思うが、小生としては、小説「川の光」の方に軍配を上げたいと思う。


その理由は、一つには時間的制約があげられよう。
あれだけの長編小説を75分に納めると言うことにやはり無理があったのは否めないと思う。

時間をつめたことで、幾つかの重要なエピソードがカットされてしまったのは、どのエピソードも、それぞれ大切なメッセージを伝える意味合いを有していたが故にその分、物足りなさ、不満が残った。

第二の理由は、これが最も根本的な原因だと思うのだが、本を読むのは「能動的」であるのに対し、テレビを見るのは「受動的」であるという「文章」と「映像」との基本的な違いにあるように思われる。

即ち、本には、そこに自分なりのイメージを「自由」に広げられる楽しさ、面白さ、喜びがあるが、テレビには当然ながらすでに映像という一定の制約が見る者に加わっているが故に、本のように全く自由に想像の翼を広げるということがむずかしい、という点である。(その映像が、自分が思い描いたイメージよりも素晴らしいものであることを期待し、祈るのみである。)


この点は、小説を映像化する上で必ず付いて回るものであり、映像化に当たって乗り越えなければならない一つの大きな壁となっているのではないだろうか。


昨日、NHKの朝の番組「課外授業」を見ていたら、俳優の篠井英介さんが小学6年生に「動物の中で想像する能力を持っているのは人間だけ」とイメージすること、想像することの大切さ面白さを身をもって教えていたが、本を読むことで、想像すること、空想することの楽しさ、面白さ、喜びを感じる子供たちが沢山いると思う。

今回テレビでこのアニメを見た子供たちが、本から得られたと同じような楽しさ、喜びを感じることができたのか、それをぜひとも知りたいと思う。


アニメをもってしても今回も「原作を超えられなかった」なというのが、率直な感想である。

一大コレクション~弟の「情熱」、「根性」に脱帽

2009-06-19 | 音楽
<集大成>

 
「ピエール・モントゥーの指揮でヘンリック・シェリングが弾いているブラームスのコンチェルト、名盤の誉れ高いんだけど、持ってないんだ。そちらのコレクションの中にある?」

「ある、ある。今度持って行くよ」

と言うことで、先日弟が届けてくれたブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴きながらその時弟と交わした会話を思い浮かべた。

「コレクションを始めてどのくらいになる?」
「2年半ぐらいかな」

「何枚ぐらいになったの?」
「クラシックが約1、500枚、ジャズが約800枚、その他が約200枚の合わせて2,500枚ぐらいと言ったところかな」
「一大コレクションだね、で、その中で何枚ぐらい聴いたの?」
「聴くのは通勤の車の中なんで、半分ぐらいかな」
「それでも、すごいよ」

「集め出したら、クラシックの方が集め応えがあったよね」
「どんな内訳になってるの?」
「ジャンル別では、交響曲と協奏曲で約8割、作曲家別では圧倒的にベートーヴェンとモーツアルト、指揮者別ではオットー・クレンペラーとブルーノ・ワルターで、これも8割ぐらいかな。特にクレンペラーは現存する録音はほとんど網羅したんじゃないかな」

「一応、一区切りが付いたと言う所かね?」
「まだ、ブルックナーなどが残ってるし、オペラや声楽は手つかずだけど、一応は一区切りかな」
「コレクターの面目躍如だね」


<日々新た>

今回はブラームスの他に彼が収集した色々なジャンルのCD約150枚を置いていった。


              
              今回借り受けたCD。その数、約150枚。当分の間楽しめそう。


ジュリーニ、バーンスタイン、コンビチニーと言ったこれまでほとんど聴いたことのなかった指揮者が演奏するベートーヴェン、モーツアルトの曲がぎっしりと詰まっている。

一昨日は、フランツ・コンビチニー、ライプチッヒ・ゲバントハウスの演奏するベートーヴェンの「英雄」に熱くなり、昨日はレナード・バーンスタインが指揮するモーツアルト・レクイエムの「ラクリモサ(涙の日)」を聴いて鳥肌が立つなど、日々新たな音楽体験を楽しんでいる。

この所、少々マンネリ化しつつあった音楽環境が、これらのCDを聴くことで新しい刺激を受けて、一遍に活性化した感がある。

梅雨時の季節は、鬱陶しい季節でもあるが、一方では雨の音を聴きながら、落ち着いて音楽を聴ける絶好の季節でもあり、まさにグッド・タイミングであったと弟に感謝である。


<文化水準>


弟はコレクションに際して、都内各区にある図書館を利用した。
当初は近くの板橋や練馬に借りに行っていたようだが、ネット検索で他の区の図書館にも足を延ばすようになり、直近では上記の他に文京、杉並、世田谷、品川、目黒、大田、北の各図書館にも足を運んでいるとのこと。

「ネットで予約し、あちこちの図書館を回り、借りて来たCDをダビングするのって手間暇かかって、結構大変なんだ」

確かにそうだろう、何とも見上げた執念、根性である。


「おれ、今度コレクションを始めて見て思ったんだけど、東京ってホント凄いよね。多分これだけ多種多様な音楽ソースを置いてある所ってないと思うよ。東京の文化レベルの高さ、凄さを思い知ったよ。特に、図書館のスタッフに音楽通がいると充実度が全然違うんだよね」

と言う弟の述懐には、思いがこもっていた。


<絆>


何と言っても、2,500枚に及ぶコレクションである。
聴きたい曲は、ほとんど揃っている。

それが一声かければ聴くことができる。
何と恵まれていることだろう。
それもこれも、全て彼のコレクションのお陰である。

そして、二人で一緒に音楽を聴く時間が持てるなんて、何と素晴らしいことだろう。

「音楽」と言う共通の趣味を通して、兄弟の絆が深まっていく、これに勝る喜びはない。

慙愧に堪えず~個人情報の扱いでの怠慢

2009-06-16 | 日常生活
<戻って来た落し物>

夕刊を取りに行くと、郵便受けに何通かの郵便物に混じって「赤十字センター・大宮駅献血ルーム」のネーム入りの封筒が入っていた。

全く心当たりがないが、一応開封してみると、中から何と1週間前に不注意で紛失した居合の「会員証」が同封されているではないか。

そして、「献血ルーム内にありました。送付させていただきます」のメモ書きが。

先ずは、すぐにお礼の電話をし、続いて丁重なお礼文を封書で送った。

<二つの怠慢>

「会員証」を紛失したのは1週間前、居合の稽古が終った帰り道のことである。

いつもは、途中までメンバーの車に同乗させてもらうのだが、その日はあいにく同じ方向に帰る車がなくて、家まで約15分の距離を歩いて帰って来た。
その時に落としてしまったのである。

その原因は、二つの「怠慢」である。

その一つは、会員証の管理と言う事前の段階での怠慢。

即ち、会員証はすぐに取り出せるようにと刀を入れるケースに結わえていたのだが、無造作に結わえていたため、歩いているうちに、何かのはずみでケースから会員証本体がはずれてしまったのである。

二つ目は、失くしたと気付いた後の事後の怠慢である。

失くしたと気付いたのは、家に帰り着く寸前であった。
すぐに戻って探せば、あるいは見つかったかもしれないのだが、その時は稽古で疲れ果て、もう一度歩いて引き返して探そうと言う気力が出なかったのである。

翌朝5時に起きて探しに行ったのだが、誰かに拾われた後だったのか、風に遠くまで飛ばされてしまったのか、どちらにしても見つからなかったのである。

<個人情報>

会員証は、横9センチ、縦5・5センチの用紙に

・氏名 ・生年月日 ・住所 ・県剣道連盟居合道部の会員番号 ・段位
(以上は表面に表示されている情報)
・当支部の稽古日、稽古場所
(裏面に表示されている情報)


等、重要な個人情報が書き込まれている。

今年4月の当支部の集まりの席で発行することが決まり、先日各人に交付されたばかりであった。

<慙愧に堪えず>

その趣旨は、今年1月に銃刀法が改正されたことにかんがみ、真剣を使う居合道においては、稽古や試合の際、刀を持ち運びするので、刀の使用目的をはっきりと示す身分証なようなものが必要だろうということで、作成したという経緯がある。

そのような経緯に照らせば、今回の紛失、特に二つの怠慢行為は許されざる行為であり、慙愧に堪えない次第である。