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1月28日付天声人語
数日前の天声人語が「お茶」を取り上げ、このお茶をめぐる簡便化の行方にちょっとした文明批判に及んでいて面白かった。
長くなるので、前半の部分を要約すると
▼「母親がお茶を作っているところを見たことがなく、いつもペットボルのお茶を飲んでいて、お茶を『いれる』という言い方を知らない幼稚園の若い母親」
▼「急須を見て『これは何ですか』と聞く料理教室の受講生」
▼「家庭科の授業で急須を直接火にかけようとした生徒」
などの実例が、実は驚くにあたらないのだと書いて来て
▼おそらくは「粗茶ですが」や「茶柱が立つ」といった言葉も知らないだろう。市販の飲料は手軽でいいが、文化や歴史をまとう「お茶」と無縁な子らが育つのは寂しいと書いている。
この手の話で思い出すことがある。
それは昨年の暮れの忘年会での大学時代の先輩であるNさんの話である。
Nさんによると、子どもたちがいっぱい集まった席でのこと。
部屋に入るほとんどの子どもたちが、履いてきた履物を脱っ放しする中で、一人だけ作法に則って、きちっと履物を揃えている子どもがいたというのである。「あれを見た時、『あぁ、なんて美しい所作だろう。こんな小さな子でも、きちんと履物を揃えて上がる子がいるんだ』と無茶苦茶感銘を受けたんだ」という。
「それまで、おれは『履物を脱ぐ時のたしなみ』は常識としては知っていたが、現実には全然できていなかった。この子を見ておれは『恥ずかしかった』」、「おれはこの子に教えられた。よし、これからはおれも絶対そうしよう、と誓ったんだ」と話しに力を込めた。
そして、こう続けた。
ほとんどの子どもが「家にお邪魔する時のたしなみ」を教えてもらっていないんだと思うんだ。だから、脱ぎ散らかした子どもが悪いわけではない。教えていない親が悪いんだ。(知らない親も多いと思うが。)
それだけに、この子をここまで躾けた「親」が素晴らしい、と。
小生も履物に関しては、かつて居合の先生から
「皆さんが、道場に入る時に履いてきた履物が、脱ぎっぱなしで実に見苦しい。あなた方は、居合の礼法は恭しく、それらしくやっているが、実際の生活では履き物の脱ぎ方一つまともにできなくて、何が礼儀作法か。そんなことで、本当に居合の精神が身についていると言えるのか。稽古の中でできていても、それが実生活の中で活かされなければ、本当に居合をやっているということにはならない」、と大喝された、恥ずかしい思い出があり、以来、履物はきっと揃えることを励行してきたので、その旨Nさんに話すと、一緒にいたHさんが、二人から「いい話を聞かせてもらった。自分もこれまでできていなかったので、これを機会に実行しようと思う」と賛意を示し、3人でその励行を誓い合ったのだった。
天声人語は、最後のくだりを
▼「客の心になりて亭主せよ。亭主の心になりて客いたせ」と言ったのは大名茶人の松平不昧だった。庶民もお茶でもてなし、もてなされる。入れてもらったお茶は、粗茶でも心が和むものだ。コンビニエンス(便利)と引き換えに大事なものをこぼして歩いているようで、立ち止まりたい時がある、と結んでいる。
これからは、お茶は『ペットボトル』で飲むことになるのが「常識」になってくるのだろうか。
そして、お茶を「いれる」という言葉は『死語』になってしまうのだろうか。
お茶をはじめとする「もてなしの心」や「たしなみ」といった日本が誇る文化がコンビニエンス=『便利』と引き換えにされてしまっても、それを「文明の進歩」と呼べるのだろうか。
この流れを押しとどめる術はないのかもしれないが、せめて我々の世代がたとえ時代錯誤と言われようが、少しでも後世に伝えれられるよう、一踏ん張りすべきではないだろうか。
天声人語を読んでそんな感を深くした次第である。