折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

二つの新聞投書記事を読んで

2012-02-11 | 雑感
最近読んだ新聞記事の中で少々気になった二つの投書についての個人的感想である。

その一つは、2月9日付「声」欄に掲載された福島県出身で神奈川県に住む男性の「がれきの受け入れ、広げよう」という訴え、もう一つは、2月11日付「私の視点」に掲載されたスタンフォード大国際安全保障協力センター特別研究員が投稿した「低線量被曝 リスク判断は社会的議論で」という投稿記事である。

前者については、2月10日付天声人語でも取り上げていた。

投稿者は放射性物質を不安がる声に理解を示しつつ、冷静な筆致で全国に「処分の受け入れ」を呼びかけていた。
そして、被災地にも子どもがいますし、子育てしているお母さんもいます。大災害に遭いながら歯を食いしばり、冬の寒さに耐えながら、復興に向けて頑張っているのです、とも書いている。

被災地の処理能力をはるかに超える大量のがれきが、復興にとって大きな妨げとなっているのは周知の事実であり、当初受け入れを表明していた自治体が、住民の抗議などで次々と受け入れを撤回している現実を目の当たりにして、何とかならないものかと切歯扼腕しているのは小生だけではあるまい。

そんな中で、何か参考になることがあるかと期待して読んだのが後者の投稿文である。

その一部を抜粋すると、

(前略)
低線量被曝のリスク管理は、有識者に判断を一任すべき純粋な科学上の問題ではない。私たち一人ひとりが危険の度合いを主体的に判断し、受け入れるかどうか決めるという、社会的な合意形成が不可欠だ。
(中略)
私たちの社会には多様な価値観があり、どれほどの被曝線量が許容できるか、という問いに一律な答えを求めるのはそもそも不可能だ。リスク管理する側が、許容できる線量を一方的に決めたとしても、危険にさらされた人々がそれを受け入れなければ意味がない。逆に不信を招き、リスク管理をさらに困難にするだろう。
今後の課題は、現場への地道な定期訪問や、インターネットなどのソーシャルメディアの活用を通じて、危険にさらされている人々の声に耳を傾け、対話を重ねて原子力利用のリスクに関して社会的な合意点を探ることだと考える。



いかにも学者然とした「あるべき論」には落胆を禁じえない。

今求められているのはそんなレベルの話でなく、「今そこにある危機」に有効に対処できる個別具体論でなければならない。

そもそも、私たち一人ひとりが危険の度合いを主体的に判断し、受け入れるかどうか決めるというが主体的判断の「物差し」を我々一般人は果たして持ち合わせているのだろうか。

投稿者は、「どれほどの被曝線量が許容できるか、という問いに一律な答えを求めるのはそもそも不可能だ」
と言っているが、誰か一人でも反対したら物事が進まないと言うことだけは、あってはならないと心から願う次第である。