折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

1日平均「10,647歩」~携帯「マイ・ペース」の使い道

2009-05-29 | 日常生活
<不携行から携行へ>

携帯電話をリニューアルしてから1カ月が経った。

電話やメールが入らないのは、以前と全く変わらないが、一つだけ変わったことがある。

以前は、携帯は全くの不携行で、その辺に放りっぱなしにして、「行方不明」ということがしばしばあったが、今は常時ポケットの中に携行している所が、これまでと大きく違った点。

「携帯どこだっけ」と探す事態はなくなった。

不携行から常時携行への心境の変化は、携帯の機能の一つである「歩数計」。

                 
                 ある日の「歩数」についての携帯の情報


「山歩き」を始めたのをきっかけに、「万歩計」が必要だなと思っていた矢先だったので、これ幸いとばかりに、早速、この1ヶ月間、自分がどう歩いていたかを調べてみた。

<10,647歩>

分析結果は、次のとおり。

1・1ヶ月間の1日当たり平均歩数

10,647歩(最大16,401歩、最小5,268歩)

2・日常生活の中での主な行動範囲とその歩数

① 散歩 7,096歩(朝 3,921歩、夕 3,175歩)
② 最寄りの駅 912歩
③ 最寄りのATM 891歩
④ 図書館(A)1,620歩、図書館(B)1,447歩
⑤ 郵便局 462歩
⑥ 中学校武道場(居合の練習場)1,554歩
⑦ ゴルフ練習場 2,635歩
⑧ コンビニ 652歩


今まで漠然と歩いていたが、その実態が具体的な数字で明らかになった点が、「歩数計」の収穫であるが、その数字を目の当たりにして、改めて、「感覚」とは当てにならない、頼りにならないものだと言うことを思い知らされた次第である。

例えば、朝の散歩。
これまで「感覚的」には、6,000歩ぐらいは優に歩いていると思っていたのだが、4、000歩に満たないとは・・・・・・。

また、平均で「1日1万歩」歩いていたとは・・・・。

<マイ・ペース型>

携帯は、以前も今も「必要な時に、こちらからかける『持ち運び可』の自分専用の『公衆電話』」という感覚であるが、今回それに新たに「万歩計」の役割が加わったということになる。

電話やメールと言った携帯本来の役割とは、およそかけ離れた使い方には違いないが、小生のような、言って見れば「マイ・ペース」の携帯の使い方をしている者が一人ぐらいいても良いだろう、そう思っている次第である。


「万歩計」として今や欠かせない存在になった携帯は、これからも、いつも我がポケットの中で、我が毎日の歩みを正確に記録し続けることだろう。


「感動」と「興奮」~「久石 譲 Classics vol.1」コンサート

2009-05-26 | 音楽
サントリーホールを埋め尽くした聴衆の拍手が鳴り止まない。

そんな熱烈なカーテンコールに応じて何度もホールに姿を見せる指揮者久石 譲さん。



新鮮さ

その1
開演15分前にマイクを持ってひょっこりと現れ、曲目に対する簡明な解説と演奏会へのご自身の思いを聴衆に語りかける久石さん。

その話の中で、指揮者としての新鮮な気持ちがあせないうちに、皆さんにその心境を感じてもらえれば、と今回の演奏会を企画した目的を語る久石さん。

余り見かけないシーンだ。

その2
初々しい指揮ぶり。
楽団員、聴衆への目配り、気配り、その気さくで、飾らない人柄が「指揮者は気難しい」というイメージを払しょく。

鳴り止まぬ暖かい拍手は、演奏もさることながら久石さんの「音楽」、「楽団員」、「聴衆」に向かい合う誠実な姿勢が、聴衆に新鮮に映り、大いなる共感を呼んだ結果に違いない、小生にはそのように思えた。

ロマン性

シューベルトの交響曲第8番「未完成」は、ゆったりとしたテンポで情緒纏綿と歌う様は、小生の大好きなブルーノ・ワルターの「未完成」を彷彿とさせる、実に馥郁たる「ロマン」をたたえた演奏であった。

また、ドボルザークの交響曲第9番「新世界から」は、オーケストラがよく歌い、且つ豪快に鳴り、オーケストラの魅力を余すことなく楽しむことができた。
その演奏は、以前にCDで聴いたラファエル・クーベリックの演奏を思い起こさせる、力のこもった素晴らしいものだった。

特に、郷愁をたたえた第2楽章の演奏は、印象的で久石さんの特徴はこの「ロマン性」にあるのではなかろうかと思った。

攻守交代

「いやあ、本当に今日はありがとう。久しぶりに感動し、興奮したよ」
と、幼なじみのKくん。

サントリーホールでの「久石 譲 Classics vol.1」のコンサートが終わった直後のことである。

この一言を彼の口から聞けて、「良かった」と心からそう思った。

そして、いつも、Kくんに連れられて行く「山歩き」が終わった後に小生が口にする「セリフ」を今回はいつもと逆にKくんに言ってもらって、小生としても「まんざら」でもない気分である。


インドア派で、とかく家にこもりがちな小生を戸外に引っ張り出してくれて、自然の素晴らしさ、山歩きの楽しさを気付かせてくれたのは、他ならぬKくんである。

そして、これは以前にも書いたことだが、Kくんはどちらかと言えば「アウトドア派」。
「山歩き」は彼の得意分野、インドア派の小生の得意分野は「読書」や「音楽」など。

彼の得意分野と小生の得意分野は、お互いが「持ち合わせていない」ものだ。

だから、そんなお互いの得意分野を共有し合えれば、これからの人生もより豊かなものになっていけるかもね、と予て二人で話していた。

そして、機会があったら小生の分野の一つである「音楽」のコンサートに一緒に行こうや、と誘っていた所で、その話が今回、図らずも実現したのであった。

しかし、いくら「お互いが持ち合わせていないものを共有する」と言っても、一方的に無理強いするのでは、却って、苦痛になるだけで、決して長続きはしない。

それだけに、今回一緒に音楽を聴いて、「感動した」、「興奮した」、「ありがとう」と言う彼の言葉を聞いて、正直、内心ほっとした次第である。

これからは、「アウトドア」、「インドア」を適宜「攻守交代」しながら、楽しいひと時を過ごしていけたらと念願している。


< 久石譲 Classics vol.1>

1・場所
  
サントリーホール 大ホール

2・演奏曲目

久石 譲 :弦楽オーケストラのための新作
シューベルト :交響曲第8番ロ短調「未完成」
ドボルザーク :交響曲第9番ホ短調「新世界より」

3・演奏者

指揮:久石 譲
演奏:東京フィルハーモニー交響楽団

めぐりあわせ~息子一家の受難

2009-05-23 | 日常生活
SOS

「マスク、少し余分に買っておいた方がいいかも」
「そうだね」

と言う訳で、マスクを買いに行ったのが、大阪の高校生らが国内初の新型インフルに感染と確認されてから数日たってのこと。
この頃は、まだマスクは店頭に沢山並んでいた。

それから数日後。

神戸市内の高校生の新型インフルエンザ感染確認のニュースが飛び込んで来る。
そして、西宮にも新たな感染者確認の報も。

これは、大変と、すぐに西宮に住む息子一家の所に連絡を入れる。

「大変なことになったね。マスクの準備できてる?」
「これから買いに行こうかと思ってるところ」
「ストックが少しあるから、手に入らなかったら連絡して」

その夜。

「マスク品切れで、手に入らない」、「月曜日から1週間小学校が休校になる」という連絡がある。

そして、翌日の午後。

小生の新しい携帯に、

「自分の分は、会社で支給されるので、家族の分のマスクを送って」

と息子からメール。

この頃になると、もう小生の住む地域でもマスクはどこも品切れ状態。


                 
近くのドラッグストアの店頭には、「マスク品切れ」の張り紙が


「早めに手当てしておいてよかったでしょう」とかみさん。

早速、ストックして置いたマスクを送る。

ストレス

「じいじ、マスク着いたよ。」
と孫のSくんから電話。

「Sくん、学校お休みだけど、外で遊べないから大変だね」

孫たちの通う西宮の小学校は、今週初めから休校の措置が取られている。

「まあね」と大人びた口をきくSくん。
「今日は、何してたの」
「部屋の中で、キャッチボール」

「いっそ、雨でも降れば、あいつらもあきらめもつくんだろうけど・・・」
と電話を替わったパパさん。

「一日中家に閉じ込められてるのって、子供にはこたえるみたい。それに、学校からは、宿題もいっぱいあるみたいだし、二人ともストレスがかなり溜まってるよ」

紙一重

「今も話してたんだけど、それにしても、おれたち転勤する先々で、大きな出来事に出合うんだよね」と息子。

前任地の新潟では、「大洪水」と「大地震」に遭遇。(2004年に「新潟・福島大洪水」、「新潟中越地震」と相次いで大災害に襲われた。)

いずれも、場所がほんの少しはずれていたために難を免れたが、まさに「紙一重」の状況で、当時は戦々恐々とする日々であった。

そして、今度は昨年赴任した地、神戸で新型インフルエンザ騒動に巻き込まれることに。

「本当だね、こっちでも、そのことを今、話していたところなんだ」

期せずして、息子夫婦とわが夫婦とが同じ日、同じ時間に、同じ話題に及んでいたようだ。

新潟では、紙一重の差で何とか難を逃れることができた。
今回の災難も、何とか無事乗り切ってほしいと切に祈っている次第である。

「こっちだって、時間の問題で、いつ急増するかわからないし、第一、こっちでも、もうマスクは品切れで手に入らない。ひょっとしたら、今回そっちに送ったマスク、そのままこっちに送り返してもらうことになるかもしれないから、大事に使って」

「そんなことになったら、笑えない冗談では済まないね」

と冗談とも本気ともつかない話をして、電話を切った。


100年に一度という大不況に新型インフルエンザの追い打ち、先行きがますます心もとなくなって来るようで、いささか不安である。

幼なじみたちと苦楽を分かち合った5時間~赤城山ハイキング

2009-05-20 | 日常生活
              
駒ケ岳に向かう途中から見た黒檜山の姿

紅一点

小・中学校の同級生Kくん、Mくん、Hくんと小生の4人で毎月行うことにしているハイキングに、今月はH子ちゃんが新たに参加することに。

彼女は小・中学校を通じてクラスのアイドル的存在で、Kくんが「行こうぜ」と再三誘って、口説き落とすことに成功。
我々男の子の「マドンナ」であったH子ちゃんが加わったことで、ぐっと雰囲気が華やぐ。

「赤城山」という呼称

「普通、みんな『赤城山』と言う山があると思っている人が多いと思うんだけど、実際にはそういう名の山はなくて、幾つかの峰を総称して赤城山と呼ぶんだそうだ。
今回登る黒檜山(くろびやま)は、赤城の最高峰で、今はアカヤシオツツジが見れるんじゃないかな」と行きの車中でKくんからレクチャーを受ける。


好対照

その1
黒檜山登山入口を10時スタート。
小生、H子ちゃんを先頭に足に自信のないHくんと彼をサポートするKくんが続き、前回先頭を務めた健脚家のMくんは目下「ぎっくり腰」のリハビリ中とて、最後尾に回る。

いきなりの急坂。
しかも、大小の岩が多い道。
歩きにくく、足にこたえる。
Hくん「のっけから、これかよ」と早くも戦々恐々。

                         
               岩山の多い急な上りを登る

初参加のH子ちゃん、中学時代「男勝り」とうたわれた彼女の運動神経は年を経ても健在で、道端の花を愛でたり、ウグイスの声に耳を傾けたりと余裕綽々。
一方、Hくんはと言えば、歩き始めてまだ15分と言うのに「アゴ」が上がり、早くも遅れ始める。
かなり辛そうだ。
当初の予定通りに、早め、早めに休憩を取ることに。

              
休憩場所から雲の合間に「大沼」が見える。

その2
休憩中の我々をものすごい勢いで追い越して行く集団。
高校の登山部の生徒たちである。

この日は群馬県の高校の登山部の訓練が行われているとのことで、男子生徒、女子生徒たちが後から後から続いて来る。地響きを立てながら猛烈な勢いで登って行く彼らの後ろ姿を「スゲえなあ」と見送る。

休んでは歩き、休んでは歩く我々とは対照的な彼らを見て、みんなその若さにため息。


雲海


この日の天候は曇り。今にも降り出しそうな空模様である。
直登りの岩山を喘ぎ喘ぎ登ること約1時間半、ようやく黒檜山山頂(1,828m)にたどり着く。

山頂からの眺めは、一面乳白色の雲の海。
晴れていればさぞかし良い眺望だろうと思うのだが、こういう眺めも一興と割り切って、ひたすら休息にこれ務める。

              
              黒檜山山頂での昼食

さほど広くない山頂は、先ほど我々を追い越して言った高校生たちで満員。
わずかなスペースを見つけて昼食をとっていると、ぽつりと雨が。

木の階段と鉄の階段

食事を早々に切り上げて、みんな一斉に下山を開始。
我々も高校生たちが出発したのを見計らって第二の目標地点「駒ケ岳」へ。

幸い、雨は一時だけですぐに止んだ。
黒檜山から駒ケ岳へ向かう道は急降下の木の階段が延々と続く。この木の階段が「曲者」で、お陰で足がガクガクになった。
前回の大岳山では、「下りって、楽でいいや」と喜んでいたHくんも今回は無言。

アカヤシオツツジ

急こう配の木の階段を下ること約20分、ようやく尾根に出る。振り返ると、今降りてきた黒檜山が間近に見える。

駒ケ岳からの下りは、今度は急な「鉄階段」。
みんな最後の気力を振り絞る。

              
ピンクの可愛い花をつけ、満開のアカヤシオツツジ

そんな我々の前にアカヤシオツツジの群落が現れる。
しばし休憩、ピンクの可憐な花が、まさに一服の清涼剤で、疲れた心身を癒してくれる。

そして、午後2時半ようやく麓にたどり着く。
休憩、昼食時間を加えて約5時間のトレッキングが無事終了した。

同行者

今回のハイキングには、楽しい同行者が。
Kくんの無線の仲間のTさんご夫妻である。

K君によれば、会うのは十数年ぶりとのこと。

気さくで、親切で、心温まる人柄のお二人とご一緒することができて、良い思い出になった。

ある音楽評論家の一言

2009-05-17 | 音楽
<好奇心>

オーディオ談笑会のメンバーのMさん。

中島みゆきから、エルビス・プレスリー、イル・ディーヴォ、サラ・ブライトマン等々色々なジャンルに首を突っ込む、人一倍新しいものに関心の強い人だが、最近はクラシックの名盤に興味を示し始め、フルトヴェングラーやチェリビ・ダッケと言った指揮者のCDを収集し出しているようだ。
その旺盛な好奇心と行動力には、脱帽である。

先日もこんなことがあった。

「ベートーヴェンの『英雄』の演奏について、ある音楽評論家がピエール・モントゥー指揮、アムステルダム・コンセルトヘボー管弦楽団、1962年録音の前に、『万人は跪くべきである』とまで書いているけど、お二人この演奏聴いたことある」

先月、たまたま、オーディオ談笑会のメンバーのKさん、Mさん、小生の3人で一杯飲んでいる時のことである。

「二人とも聴いてないの。『万人は跪くべきである』なんて書いているので、さぞかしの名盤で、二人はとっくに聴いていると思ったのだけど」

その時は、それ以上の話題にはならなかったのだが、数日後、Mさんから「今日、新宿まで出かけたのでタワーレコードで探して見つけ出しました。」というメールが入った。

好奇心旺盛なMさんにしてみれば「この演奏の前に、万人は跪くべきである」という表現が何とも気にかかって、探しに行ったらしい。
この辺りが、Mさんの面目躍如といったところである。


<収集癖>

小生もMさんの好奇心と行動力に触発されて、聴いて見たくなってコレクターマニアの弟に集めた中に入っているかどうか聞いて見ると「あるよ」と言う返事。早速、当該CDを借り受けることに。

我が男兄弟4人のうち3人に共通しているのが「収集癖」である。

次兄は新刊本の収集。
まっさらな本を買って来て、本箱に整然と並べて眺めるのが無上の楽しみのようだ。
何時だったか、「これ全部読んだの」と聞いたら、「以前は読んだけど、今は集めるだけ」と苦笑いしていた。

弟は音楽CDの収集。
弟の収集の仕方は「根こそぎ」集めるタイプである。

2年余をかけ、都内の図書館を精力的に飛び回って集めたクラシックのCDはなまじのCDショップでは太刀打ちできないほどの質、量である。
聴きたいCDがある時は、彼に連絡すれば大抵事足りるほど揃っている。

彼の集め方が、何でも揃えるデパートとすれば、小生のそれは特殊な物しか置いていない専門店と言えるだろう。

とにかく、小生の集め方は「偏食」の一語に尽きる。
ベートーヴェンの演奏は、フルトヴェングラーかクレンペラー、モーツアルト、シューベルトはワルターといった具合に。

そして、その指揮者の何種類ものCDをことごとく集める、そういうタイプである。(ちなみに、フルトヴェングラー指揮、バイロイト祝祭管弦楽団及び合唱団のベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」のCDは「EMI」盤、「ORFEO」盤、「OTAKEN」盤2種類の合計4種類と言った具合)

従って、当然のこと「食わず嫌い」で他の演奏者のベートーヴェンやモーツアルトを聴く機会は極端に少ない。


<謹聴>

そんな次第で、ピエール・モントゥー指揮、アムステルダム・コンセルトヘボー管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」は初試聴である。

ゴールデンウイーク期間中「開店休業」状態だったわが愛器から音があふれ出て来る。

久しぶりの音楽が心に沁み入って来る。
癒悦のひと時である。

先ずは、アムステルダム・コンセルトヘボー管弦楽団のみずみずしい音に驚かされる。

1962年というから今から47年前の録音にもかかわらず、音の厚み、音の切ともに十分で、各楽器の分離も明瞭、何か久しぶりにステレオ録音の醍醐味を満喫した気分になる。

ピエール・モントゥーの指揮するベートーヴェンの演奏を初めて聴いたが、演奏全体のスケール感はきわめて大きく、「引き締まった」、「歯切れのよい」もので、「若々しい」印象を受けた。

その中でも、第2楽章と第4楽章、特に第4楽章は実に堂々と力強く、かつ躍動感に満ちた演奏で、これまで聴いたどの指揮者の演奏よりも心に響いた。


フルトヴェングラー以外に久しぶりに聴いたモントゥーの「英雄」は、新鮮な「感動」と「興奮」をもたらしてくれた。

音楽評論家の一言に持ち前の好奇心で反応し、貴重な情報をもたらしてくれたMさんには、感謝である。