折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

高い壁

2006-11-29 | 武道
先日、今年最後の居合道の公式大会(出場選手277人)があり、小生も参加した。

今年の目標である大会での『初戦突破』は、今回も叶わず、「有終の美」を飾れなかった。残念!!

初戦で敗退したため、その後はこれから自分が目標とする 段、 段クラスの世界がどんなものか自分の目で確かめるべく、彼らの試合の「見取り稽古」に専念した。



落ち着いた所作、背筋がピンと伸びた美しい立ち姿に自ずと風格がにじみ出ている。
そして、速くて、正確な「抜きつけ」、「切り下ろし」、見とれるほどに美しい「納刀」、「仮想」の敵を的確に捉えている「目付け」どれ一つをとっても、自信に溢れ、見ていて圧倒された。



昇段審査会では、3段まではほぼ全員が合格しているようだが、4段以上になると全く逆で、合格者は数名で、ほとんどの人が不合格である。

以前から3段と4段以上との間には、超え難い『高い壁』 があると言う話を耳にしていたが、今回4段以上の試合の見取り稽古を通して、そのことを実感 した。

4段の審査を受けるためには、3段受有後3年以上経過していることが必要であると審査規程に定められている。

しかし、今まで、どうして3年間も必要なのか、その意味が今ひとつわかりかねていたが、この年という期間には実に重い意味 があることを今回初めて理解できたように思う。

即ち、それは、ただ漫然と練習を繰り返すだけでは絶対にこの『壁』 を克服することはできない、と言うことをはっきりとわからせてくれたように思う。

そして、日頃の修行の質と量即ち、『修行の深さ』 と言うべきものが問われているのが4段審査会であり、そのためには最低 でも3年間の修行が必要なのだ、それほどに4段と言う段位は『価値』 と『重み』 のあるものなのだと言うことを、奇しくも彼らの試合が教えてくれていた。

今日は初戦突破の壁は乗り越えられなかったが、勝つこと以上に、もっと、もっと大きな収穫があった大会であった。

新米3段にとって、その道はとてつもなく険しく 果てしなく遠く 思われる。

美空ひばり・オン・ヴァイオリン

2006-11-26 | 音楽
今日も先日に続き、美空ひばりを聴いている。
と言っても、彼女が歌っているCDを聴いているわけではない。

今、聴いているのは『川の流れのように』幸田聡子 美空ひばり・オン・ヴァイオリンというCDである。

このCDは、クラシックと演歌のコラボレーションの成功例のお手本とも言える素晴らしいできばえであり、小生の「愛聴盤」の一つである。  


<今日の1枚 「幸田聡子」川の流れのように 美空ひばり・オン・ヴァイオリン>

さて、その聴きどころであるが

『愛燦燦』
マスネーの「タイスの瞑想曲」を思わせる、美しさと、やさしさと、祈りにあふれた世界だ。

『私は街の子』
この曲では、アレンジメントの妙が遺憾なく発揮されている。ヴァイオリンとピアノのかけあいによる、緩急の表現は、サラサーテの「チゴイネルワイゼン」を思わせる。

『お祭りマンボ』
軽快な乗りは、モーツアルトの「トルコ行進曲」を連想させる。

『津軽のふるさと』
これはもうチャイコフスキーの「哀愁」、「憂愁」の世界そのものだ。

『悲しい酒』
この曲だけ、幸田のソロである。技巧の限りを尽くして千変万化するヴァイオリンの音色は、バッハの「無伴奏ヴァイオリンソナタ」の世界を髣髴とさせる。
まさに、「恍惚」の世界に誘われる思いだ。

『川の流れのように』
この「川の流れのように」は、ビバルディ「四季」の冬・第2楽章のイメージに重なる。
このアルバムの最後を締めくくるにふさわしい、優美で、詩情豊かな旋律が繰り広げられている。
全曲を通じて、最も美しい曲に仕上がっている。


このCDが、1999年の日本レコード大賞企画賞を受賞したのも、大いに頷けるところである。


それに気を良くしてか、類似の企画が相次いだ。


小生も、萩原貴子『愛燦燦』美空ひばり・オン・フルート、樋口あゆみ『悲しい酒』美空ひばりオン・ピアノ、『川の流れのように』塩田美奈子・美空ひばりを うたうの3枚のCDを購入し、それぞれ入念に聴き比べて見たが、アレンジメントの良さ、ヴァイオリンという楽器との相性の良さで幸田聡子盤に軍配を上げ た。

美空ひばりとモーツアルト

2006-11-23 | 音楽
今、新しいマランツのアンプで「美空ひばり」を聴いている。

彼女の歌声を聴いて、今年『生誕250年』を迎えてブームとなっているモーツアルトとの共通点がふと思い浮かんだ。

そして、今まで余り考えても見なかったが、二人の間には意外なことに多くの共通点があることに気付き、びっくりした。



その1  天才性


二人とも選ばれし者だけに与えられる天賦 の才を有していたことに異論を挟むものはいないであろう。


その2  神の恩寵


神にその才をこよなく愛された二人は、モーツアルト35 才、美空ひばり52 の若さで天に召された。


その3  親族に相次ぎ先立たれる


美空ひばりは、1980年代に実母 と二人の実弟 を相次いで亡くし、モーツアルトも最愛の 、人生の師たる に先立たれ、二人とも一時期失意の生活を余儀なくされた。


その4  英才教育


我が子の類まれな才能を見出した (モーツアルトは父親、美空ひばりは母親)が徹底した英才教育 を施した。


その5 栄光と挫折


英才教育のお陰で、モーツアルトは 才で作曲を始め、『神童』と騒がれ、美空ひばりは 才でデビュー『天才少女歌手』と世間でもてはやされたが、成人した後のある時期、二人とも時代に取り残され、人気にかげりが出て挫折を味わっている。


その6  音楽の完璧性  


モーツアルトの作曲した楽譜が書き直した跡がない完璧なものであったとは、有名な話であるが、美空ひばりが涙を流しながら歌う「悲しい酒」の音程がいささかも乱れることがなかったと言う完璧な歌唱もモーツアルトに勝るとも劣らない。


その7  作品の多さ   


モーツアルトは、生涯で700曲 以上を作曲し、その作品はあらゆるジャンルに渉っている。
一方、美空ひばりはレコーディング曲1500曲 、そのジャンルは演歌、歌謡曲、ポップス、ジャズのスタンダードからオペラのアリアにまで及ぶ。
二人とも作品の多さ、ジャンルの多様さにおいて飛びぬけた 存在であった。


その8  3大傑作


晩年、モーツアルトは交響曲39番、40番、41番「ジュピター」というそれぞれ性格の異なる三つの傑作を残したが、美空ひばりも「愛燦燦」(1986)、「みだれ髪」(1987)、「川の流れのように」(1989)と言う、これまたそれぞれ性格の異なる傑作を残した。


その9  そして永遠に不滅


モーツアルトも美空ひばりも、今後も永久に語り継がれ、間違いなく歴史にその名をとどめる存在として『不滅』 である。

注目の卒業生

2006-11-20 | 音楽
TVドラマ『Dr・コトー診療所』、映画『シュガー&スパイス』等のオリジナルサウンドトラックを手がけ、今をときめく『売れっ子』ミュージシャンの『吉俣 良』が、我が母校・横浜市大商学部の卒業生であることを知ったのは、全くの偶然からであった。


その日、小生は本を読みながらナガラ的にテレビを見ていた。
すると、司会者が「吉俣さんは、音楽家ですが、大学は横浜市大商学部卒業と言う、ちょっと変わった経歴をお持ちですね」とゲストの人に話しかけていた。

「なに!横浜市大・商学部卒業だって!!」とあわてて、画面に目をやると、そこにメガネをかけた細面の、いかにもミュージシャン然とした人が、にこやかに座っていた。それが『吉俣 良』であった。
NHKの朝の連ドラ「こころ」のオリジナル・サウンドトラックを担当することになり、『スタジオパーク』と言う番組にゲスト出演していたのである。
その時は、我が母校の卒業生が、こんな華やかな世界で活躍していることを知って、忘れないよう手帳に書き留めた。




そんなことがあって、その年の秋にフジテレビで始まった『Dr・コトー診療所』と言う新番組を見て、そのテーマ音楽がとてもすばらしく、強く惹きつけられ た。誰が作曲したのだろうと好奇心に駆られ、エンディングでのキャスト紹介を注意して見ていたら、そこに音楽『吉俣 良』と言う名前を見つけた。


<今日の1枚 『シュガー&スパイス~風味絶佳』>

先日、彼の最新アルバム『シュガー&スパイス~風味絶佳』を購入した。

美しいしらべを次々と紡ぎだす彼の音楽は、まさに、殺伐とした時代の中で、

『やさしさ、思いやり』
『希望、あこがれ』
『うるおい、いやし』

がいかに大切かを強くアピールする「メッセージ」のように思える。

同じ大学の一卒業生として誇りに思うと同時に、これからの一層の活躍を大いに期待している。

年末には、彼の「ベストアルバム」がリリースされるとのこと、発売日が今から待ち遠しい。

40年ぶり、懐かしい!!②

2006-11-17 | 友達・仲間
40年ぶりに思い出の地を訪ねる

その2  金沢文庫編  40年前にお世話になった下宿先を訪ねる


金沢文庫には、大学時代の4年間お世話になった下宿先である「太寧寺」がある。

今回の旅の第1の目的が、母校・横浜市大のキャンパスを訪ねることにあるとすれば、下宿先である太寧寺訪問は、まさしく第2の目的である。

金沢文庫駅で下車して、駅舎の中が様変わりしているのに先ずびっくりし、改札を出て、『すずらん通り』のアーケードが無くなっているのに、二度びっくりした。

駅前から国道16号線に出て、すぐに左に曲がると何と40年前の「魚屋」がまだそのままあるではないか。三度目のびっくりであった。

そのまま、京浜急行線と国道16号線に沿って歩いていく。

「ところで、お寺には今日行くって連絡したの」とH君
「いや、電話番号がわからなかったので、連絡してない」と小生

「いきなり行って、S君がびっくりする顔を見るのもいいか。今日は、奴の出身地浜松の『うなぎパイ』をお土産に買ってきた」

S君と言うのは当時、同じ下宿人で我々よりも2歳年下であった。
彼は、大学の硬式野球部のレギュラーであったが、ある時Hが硬球を是非打って見たいので、バッティング・ピッチャーをやってもらえないかと頼むと、快く引き受けてくれるような素直な性格の好青年であった。

我々と一緒に下宿していた当時から、住職夫妻に大変気にいられ、可愛がられていたのは知っていたが、その彼が大学卒業後、まさかお寺の婿養子に入るとは想像もできず、随分と思い切ったことをするものだと、少なからずびっくりしたことを今でもよく覚えている。

そんなことで、とりわけH君にとっては、S君との再会への思い入れは深いものがあるに違いない。

16号線を歩くこと約1キロ、その間、当時お寺に下宿していた同居人の理学部のF君、商学部で野球部のキャプテンだったY君たちとの思いで話で盛り上がっているうちに、太寧寺の入り口まで来てしまった。

当時は、線路を横断して通っていたが、今は、地下歩道になっている。その地下歩道を潜り抜け、細い坂道を登る。

当時は、右手に山が迫り、建物が建つような場所ではなかったが、今はすっかり開発され、住宅が建ち並び、昔日の面影はない。

そんな様変わりの光景を見て、感慨を新たにする。
坂道の突き当たりに太寧寺がある。

お寺は、古色蒼然とした佇まいをたたえてそこにあった。
懐かしさで、胸がいっぱいになる。

早速、玄関でお訪いを入れる。
応接に出てきた人が、全く見知らぬ人だったので、一瞬「あれ」と思いながらも、訪問の主旨を話す。

「ああ、あの方たちなら、引っ越しましたよ。もう7,8年前になりますかね。今は、私が住職としてこの寺に勤めています」と切り口上で言われてしまった。
「どちらの方に越されたか、わかりますか」
「千葉の方と聞いたけど、詳しくは知りません。40年前に下宿していたということだけど、本来そんなことをしてはいけないことになってるんですよね。お陰で、私がここに来た時は、ひどい有様で、これでも随分と手入れして、少しはよくなったんですよ」

40年ぶりに尋ねて来た人に言う言葉か、とH君と顔を見合わせる。
言葉の端々に相当の「確執」があったことを伺わせるものが感じられ、早々に退散することにした。帰り際にお寺の本堂に目をやった。
我々が学生時代に使っていた部屋は取り払われ、痕跡を止めていなかった。寂しさが、グッと込み上げてきた。

40年ぶりに「旧交」を温められると期待に胸を弾ませて来ただけに、「ガックリ」と落ち込んだ。

「S君が婿養子になったと聞いた時、大丈夫かなとちょっと心配だったんだが、やはりと言うか・・・・・。千葉でどんな暮らしをしているのか、君のブログで情報が集まると言いのだが」とH

「勿論、ブログには顛末を書いて見るけど、僕のブログを見てくれる人はせいぜい30人前後だから、余り期待はできないよ」

あの往路での乗り乗りの気分はどこへやら、帰路は口数も少なく、足取りも重い。金沢文庫駅までの道のりの何と遠く感じられたことか。

かくして、40年ぶりに懐かしの地を訪ねる旅は、唐突に「ジ・エンド」を余儀なくされたような、「不完全燃焼」の気分のまま終ったのであった。