折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

写真が主役VOL9 理不尽な仕打ち~『丸坊主』にされたさくらの古木

2008-03-30 | 写真が主役シリーズ
       
       これまで道路の上を覆い尽くしていたさくらの枝が、道路側を境にしてもの
       の見事に切り取られて『丸坊主』になって、頭上に青空が見えている。



さくらが満開である。

この季節、愛犬『パール』との朝の散歩はことのほか楽しみである。

さくらを求めて、あちこち寄り道して、いつもと違った散歩コースを歩く。

その日は我が家のすぐ近くにある某小学校に立ち寄ることにした。

ここは、いたるところに立ち並ぶさくらの古木が、天に向かって枝葉をいっぱいに伸ばして、例年見事な花を咲かせる場所である。

今年もそれを楽しみに見に行ったのであるが、余りの様変わりに、びっくり。

以前は、道路の上にまで枝が生い茂り、それはそれは美しいさくらのトンネルとなっていたのだが、今ではフェンスを境に道路側の枝が伐採され、青空が丸見えとなっているではないか。


唖然として、しばしその場に立ち尽くす。

『何て心ないことを・・・・・・・!!』
『何て無粋なことを・・・・・・・!!』


さくらの枝が伐採されてしまっているのは、この小学校に限ったことではない。
あちらの小・中学校、こちらの公園等市当局が管理している場所では同様のことが起こっているのである。


聞く所によると、散り落ちた花びらの掃除が大変だとか、青葉の頃になると毛虫が発生するとかいう一部の住民の苦情を取り上げてのことらしいが、一方には、さくらをこよなく愛する人たちの枝下ろしは止めて欲しい、自然のままにしておいて欲しいと言う、声なき声がいっぱい存在することを忘れて欲しくないものである。

昔から、『梅の木の枝は、切っても良いが、さくらの木の枝は切るべからず』という常識は最早、お役所仕事には通用しない時代になってしまったのだろうか。


このままでは、人間の身勝手な都合により『丸坊主』にされる、さくらの木が余りにも哀れである。


年を経るにつれ、1年、1年さくらへの思いが深まるにつけ、さくらの古木に加えられた余りにも理不尽な仕打ちを目の当たりにして、強い憤りを感じると共に何とも言えないやりきれなさを覚えるのは小生だけだろうか。

画面に引き込まれた75分~『本田美奈子・最期のボイスレター』

2008-03-27 | 音楽

NHKテレビ『本田美奈子・最期のボイスレター』のオープニング
画面左は、ボイスレターのもう一方の当事者、作詞家・岩谷時子さん
(3月17日放送 NHKテレビ『本田美奈子・最期のボイスレター』より)


放映日がたまたま居合の稽古日と重なってしまったため、録画しておいたNHKテレビ『本田美奈子、最期のボイスレター』の取り置きビデオを見る。

ぐいぐいと画面に引き込まれ、1時間15分と言う時間の長さを忘れるほどの感動の時間であった。


テレビは白血病のため38歳と言う若さで逝った歌手の本田美奈子さんが、たまたま同じ病院に怪我で入院してきた作詞家・岩谷時子さんを励ますために彼女が吹き込んだ岩谷さん宛ての『メッセージ』とアカペラによる彼女の『歌』を軸にして、彼女が懸命に生きた日々を自然の移ろいを交えた美しい映像で再現していた。


本田美奈子さんと岩谷時子さんの『命の対話』をつないだボイスレコーダー
(3月17日放送 NHKテレビ『本田美奈子・最期のボイスレター』より)


病床にあって岩谷さんと本田さんとの間で毎日のように交わされたボイスレターは、本田さんが死を見つめながら、最後の命の輝きを燃やし尽くした『命の対話』である。

岩谷さんとのボイスレターでのやり取りを通して、本田さんの心がどんどん研ぎ澄まされ、浄化され、そして余人をもってしては容易に到達し得ない『高み』の心境へと上り詰めていくさまがテレビの画面を通して手に取るようにわかり、見るものの心に強く強く訴えかけてくるのであった。

そんな本田美奈子さんを見るにつけて、

人間って、あんなにも強くなれるものなのか
人間って、あんなにも優しくなれるものなのか
人間って、あんなにも素直になれるものなのか
人間って、あんなにも正直になれるものなのか
人間って、あんなにも謙虚になれるものなのか
人間って、あんなにも天真爛漫になれるものなのか

と改めて、彼女が歌手としてだけでなく、何よりも一人の人間として素晴らしい存在であった、ということをひしひしと感じさせてくれたのであった。


それにしても、この番組を見て、『縁(えにし)』と言うもの、見えざる『摂理』というものについてつくづく考えさせられた。

もし、本田さんが入院しているときに岩谷さんが怪我をしなかったら、もし、入院先が本田さんが入院している病院でなかったら、ボイスレターは残されることはなかったであろうし、本田さんの入院生活も全く違ったものとなっていたかも知れない。

そう考えると、天は非情にも彼女を若くして御許に召されたが、それと引き換えに、岩谷さんとのボイスレターの機会を作り、最後の命の輝きを燃やし尽くすべき場を与え、そして、命を紡いだ『メッセージ』と『白鳥の歌』とも呼ぶべき魂の歌声をそれぞれかけがえのない財産として、私たちに残してくれたと言うべきではないだろうか。

見終わってそんな思いを強く持った次第である。

孫からの予期せぬ、うれしい『便り』

2008-03-25 | 家族・母・兄弟
 今回も引き続いて転勤がらみの話である。

息子から転勤の連絡を受けた時、真っ先に浮かんだのは今年小学校2年生と小学校に入学する二人の孫のことであった。

物心ついてから、ずっと今の所に住んでいるので小学校や幼稚園の友達との別れがさぞ辛いのではと、ついつい余計な心配をしてしまう。

そのことを息子に言うと、おにいちゃんのKくんは余り感情を出すタイプでないので見た目にはわからないけど、おとうとのSくんは友達とのお別れがちょっぴり寂しく、悲しいようで、幼稚園のお別れ会の練習で涙ぐんでたようだよ、と言っていた。

『神戸でも、すぐに新しい友達がいっぱいできるから頑張って』、とじいじとばあばが言ってたよってSくんに伝えてよ、と息子に言付けた。

         

         今年、小学校に上がる孫のSくんから届いた「はがき」
         我が家の愛犬『パール』が生き生きと描かれている


Sくんが描いた我が家の愛犬『パール』とお隣の犬の『ナナ』ちゃんの「はがき」が送られてきたのは、息子とそんな話しをしてから数日後のことであった。

全く予想もしていなかったので、描かれている絵を見て思わずジ~ンとくるものがあった。


そして、この絵が送られて来ることになった経緯について、親子の間で交わされたであろう会話について小生なりの想像を思い巡らせて見た。


ママさん

『S,パパが言ってたでしょう、じいじやばあばがSのこと心配してるみたいだって。だから、ぼく大丈夫ですとお手紙を書いたら』

Sくん

『だって、ぼく、なにを書いたらいいのかわかんないもん』

ママさん

『何でもいいんだよ、Sが好きなことで』

Sくん

『じゃあ、パールの絵でもいいの?』

ママさん

『いいんじゃない、きっとじいじもばあばも、パールも喜ぶかもよ』

Sくん

『よ~し、きい~めた。』


SくんもおにいちゃんのKくんもパールが大好きで、我が家に遊びに来ると二人ともパールにまとわりついて離れない。


我が家でパールとたわむれるSくん(左)とKくん(右)


そんなSくんのパールへの思いが絵によく表現されている。

そして、「こうべにいってもがんばるよ」と書かれた文字にけなげさが見て取れて、思わず胸にこみ上げるものがあった。


Sくん、本当にありがとう。

このパールの絵、じいじとばあばは宝物として大切に取って置くからね。

神戸で新しいお友達をいっぱい作って楽しく過ごしてね。

Sくん、新しい土地で入学式だね。入学式の写真を送ってね。

そのうち、じいじもSくんの所に遊びに行くから、その時楽しいお話をいっぱい聞かせてね。

それでは、バイバイ。

転勤の季節~『余人をもって代え難い』人って本当にいるの?

2008-03-21 | 仕事・職場
早いもので、3月ももう後半に入った。

3月は年度末であり、サラリーマンにとっては転勤の辞令が下りる時期である。
損害保険会社に勤めている息子から転勤の内示があった旨の連絡があった。

勤続13年で転居を伴う転勤は今回で5回目である。

今度の赴任地は神戸で、今度はじめて企業営業を担当するらしい。
声に初めて大企業を相手に営業することへの戸惑いが感じられたので、『おまえさんのこれまでのキャリアからいっても、また、年齢的に見ても企業営業をするのにまさに打ってつけのタイミング、自信を持って頑張って』とエールを送った。


では小生の現役時代どうだったかと言えば、37年間のサラリーマン生活の中で転居を伴う転勤は一度も経験していない。

これは勤めていた会社の中でも極めて珍しいケースで、よく仲間から『会社にギネスブックがあるならば、さしずめお前は間違いなく真っ先にその候補に挙げられるよ』と言われたものである。

小生が入社したのは昭和41年。

会社は創業10年目で、すでに株式を上場し、まさに日の出の勢いで全国展開を繰り広げる新興企業であった。
それこそ転勤は日常茶飯事で、ほとんどの社員がめまぐるしく転勤を繰り返していた。

なぜ小生だけ転居を伴う転勤がなかったのか、それにはそれなりの事情があったのである。

小生が配属された部署は、総務部庶務課であった。

この部署は、株主総会や株式関係の事務処理ならびに資金調達の担当窓口となっているため特殊・専門的知識と豊富な実務経験が求められる部署で、課長は外部からスカウトされたスペシャリストであった。

そして、小生はその課長の下で色々な知識と実務経験を身につけることになったのである。

そして、入社4年目。

そろそろ転勤かなと覚悟していた矢先、突然課長が心筋梗塞で倒れて再起不能と言う事態が発生した。

後任の課長は専門的な知識も実務経験もまったくなく、(当時は、社内のどこを探してもそんな人材は見当たらなかった)実務を何とかこなせるのは、小生のみ、まさに緊急事態で転勤どころの話ではなくなってしまった。

折りしも、当時は総会屋が跋扈し、その対策が喫緊の課題(株主総会に関しては、カテゴリー『仕事・職場』に詳細を掲載)となっており、また、会社の急激な成長発展による資金需要が旺盛だったこともあり、その実務を一手に任される立場になった小生は繁忙を極めるようになっていた。

以後、何人もの上司に仕えたが、いずれの上司も専門知識や実務能力はなかったため、実務は全て小生まかせであった。

そんなことで、いつしか小生は周囲から『余人をもって代え難い』人材という目で見られるようになっていた。

しかし、考えて見ればおよそ会社組織にあって『余人をもって代え難い』など本当はあり得ないことで、実は上司が小生を単に『便利屋』的に使っていたに過ぎない、と言うのがその実体であった。

だが、現実には往々にしてこのような『虚像』が、さも『実像』の如く一人歩きしてしまうから、怖い話しである。

こうなると、たとえ転勤の話しが持ち上がっても、そのレッテルがネックとなって、受け入れ先が『つぶし』のきかない、『即戦力』となりえない人材の受け入れに難色を示すようになり、いつの間にか話しは立ち消え、次第に転勤は縁遠いものとなっていったのである。

以後、経理、法務、能力開発、監査と本社の管理部門を異動したが、結局、転居を伴う転勤はついに1回も経験することはなかった。

転居を伴う転勤を経験しなかったことが、果たして良かったのか悪かったのか。
今となっては何を言っても詮無いことではあるが、この季節になると『もしも、あの時、課長が病気で倒れなかったら』小生の人生は、果してどうなっていたのだろうか?
そんな埒もないことがふと脳裏をよぎることがある。

災いを転じる

2008-03-17 | 武道
現在小生が練習に通っている居合道・抜刀道の支部は、発足以来A先生(居合道7段、抜刀道範士8段)とB先生(居合道錬士6段、抜刀道教士7段)お二人の指導による体制で今日までやってきた。
 
そのお二人の先生方のうちB先生が脳梗塞で倒れ、半身不随、長期の療養が必要との知らせがもたらされたのは、1月半ば過ぎのことであった。

B先生は、支部の運営、各メンバーの指導等をほとんど一手に取り仕切ってきた当会のいわば『大黒柱』的存在の人で、われわれはこれまでそれこそ先生に『おんぶに抱っこ』、先生に頼りきってきた。

そんな状況下での『先生倒れる』の知らせにメンバー一同びっくり仰天、周章狼狽すると同時に、先生の後継者となるべき指導者はまだ全然育っていないだけに、先生の代わりを務まる人がいるのだろうか、これからどうなってしまうのだろうかと不安と動揺が走った。


急遽、A先生を中心に善後策が話し合われた結果、A先生はこれまでどおり居合、抜刀の両部門を総括的に見ることとし、日常の稽古の指導は居合はCさん(4段)、抜刀はDさん(5段)の二人が責任者としてA先生を補佐することが決まった。

      
      4月に行われる昇段審査を前に稽古に精進する受験者の皆さんと演武を
      見守るA先生(正面)


そして、新たな体制がスタートして2ヶ月。

当初の不安、動揺もどうにか収まってこれまでどおりの稽古が行われているが、これまでと違った新しい動きがいくつか見られるようになってきた。

抜刀部門の方は、新しく指導を託されたD5段が『水を得た魚』のように積極的にリーダーシップを発揮し、これまでの稽古方法を踏襲しつつ、Dさんがあちこちの支部に出かけて学び、吸収してきた技や練習方法を自分なりに工夫して新たにわれわれの練習に取り入れ始めたのである。

これまでDさんは日頃稽古には一切差し出がましい口を挟んだことがなかっただけに改めてDさんの抜刀道に対する姿勢、精進振りにわれわれも大いに共感し、新しい指導者の下稽古にも活気が出つつある。

一方、居合部門の方もやはりこれまで、余り差し出がましい口をはさまなかった段位の上位の中堅メンバーが、段位の下位の人たちへ技術的なアドバイスをする姿が見られるようになってきた。これまでのように、一方的に教えられるのではなく、意見交換をしながらお互いに切磋琢磨していこうという雰囲気が少し芽生えてきているのは1歩前進と言えるのではないだろうか。

まだ、まだ新体制になってから2ヶ月そこそこであり、これらの動きが定着していくのかどうかは、しばらく様子を見なければ何ともいえないが、少なくとも現時点では『B先生倒れる』という当支部発足以来最大のピンチをメンバーの結束で乗り越え、あわせて指導者の若返り、世代交代がはからずも行われることにもなった。
これこそ『災い転じて福となす』と言えるのではなかろうか。