折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

懐かしき響き~「ブルーノ・ワルター」讃歌

2008-11-30 | 音楽
先日、弟が仕事の帰りにひょっこり我が家に立ち寄った。

小春日和の昼下がり、二人してコーヒーを飲みながら音楽に耳を傾けた。

それは、兄弟水入らずで音楽を聴くという何とも得がたい一時であった。

帰りがけに、「兄貴は、ワルターが好きだったよね」と言って、彼が図書館を駆け回って精力的に収集した数々のコレクションの中から、ブルーノ・ワルターのコレクションを置いていった。


ブルーノ・ワルターという指揮者は、昔からフルトヴェングラーと共に小生の大好きな指揮者の一人である。


ブルーノ・ワルターの名盤 シューベルト交響曲第8番ロ短調「未完成」のジャケット


早速、シューベルトの交響曲第8番「未完成」を聴いてみた。

ワルターの「未完成」は久しく聴いていない、何年ぶりだろうか。

出だしの音を聴いて、「あっ、これぞ<ワルターの『未完成』だ」と懐かしさがこみ上げてきた。


ブルーノ・ワルターが指揮するシューベルトの交響曲第8番「未完成」との出会いは、今から40数年前の大学時代に遡る。

アルバイトをして買ったベートーヴェンの交響曲第5番「運命」とカップリングになっていたレコードであった。


当時持っていた、ちっぽけな「電蓄」から聴こえて来た甘美なメロディに瞬時に心を奪われていた。

特に、第2楽章。

「憧れ」と「祈り」と「崇高さ」に満ち溢れた旋律が、切なく胸に響き、「魂」を清められるような恍惚感を味わったのであった。

まるで魔法にでもかかったかのように、その演奏の虜になって、飽くことなく、毎日、毎日聴いた。


以来、色々な指揮者が演奏した「未完成」を聴いたが、特にその第2楽章は、ワルターに比肩しうる演奏にはついぞ出会ったことがなかった。

今、こうして改めて聴いて見てもその思いは、いささかも変わらない。
むしろ、年を重ねただけ、瑞々しい、美しい詩情あふれるワルターのシューベルトの音楽は、こよなく小生の心を癒してくれる。


そして、ワルターの演奏を聴きながら、音楽に限らず「絵画」、「文学」等々偉大な先人たちが遺してくれた文化遺産は、人類への福音であると心からそう思った。


音楽を聴いていて、時々、この演奏を作曲者自身が聴いたらどう思うのだろうと愚にもつかないことを考えることがある。

音楽とジャンルは異なるが、かって作家の松本清張氏が自分の作品を映画化した「砂の器」―日本の映画史上に燦然と輝く名作だと思っているのだが―を見て、「原作を超えた」と評したそうだが、さしずめこのブルーノ・ワルターの指揮する「未完成」は、シューベルトをして、何と言わしめるだろうか。

きっと、シューベルトはこの演奏を松本清張流に言えば「作曲者の思いを超えた」と評するのではないだろうか。小生はそう確信して止まない。

「どどめ」酒~幼き日の郷愁に酔う?

2008-11-27 | 日常生活
「<どどめ>って知ってる?」

「知ってるわよ、桑の実のことでしょう」

「そのどどめで作った<どどめ酒>を幼なじみのKくんからおすそ分けしてもらったんだけど、飲んでみるかい」

「Kさんが自分で作ったの?」

「そうらしい、氷砂糖を入れ過ぎてちょっと甘いと言ってたけど・・・」

夕食時でのかみさんとの会話である。



Kくんから頂戴した<どどめ酒>。赤紫の色が鮮やかである。
写真(左)原酒、(中央)ロック、(右)お湯割


<どどめ> 小生にとっては、何とも懐かしい響きを持った言葉である。

真っ先に子供時代の思い出につながる言葉である。

幼なじみのKくんも、当時の仲間たちの一人であり、同じように<どどめ>に郷愁を感じている一人である。


<どどめ酒>をおすそ分けしてもらった日は、たまたまKくんと「笠山~堂平山」ハイキングに一緒に出かけた日であった。


「覚えてる?昔、子供の頃学校帰りにみんなで<どどめ>良く食べたよね」

「着てるシャツが、<どどめ>で紫色に染まって家に帰るとお袋さんに、また、<どどめ>食べたでしょう、洗濯が大変なんだから、と良く叱られたもんだよね」

「食ってねえよ、としらばっくれても、口の中が紫色になっていて、ばれてしまったこともよくあった」

「竹の筒に、<どどめ>をつぶしてジュースみたいにして良く飲んだよね」

「あの頃は、他にジュースなんてなかったから、おいしかった」

「今食べて見ると、そんなにおいしいもんじゃないけど、あの頃は凄くおいしいと思ったもんだよね」

車中でひとしきり昔話に花が咲いた。


小生たちがまだ幼かった頃は、多くの農家がまだ養蚕を営んでいて、桑畑があちこちにあった。

初夏の頃になると桑の木に赤紫の実がなり、その実のことを<どどめ>と呼んでいた。そして、幼なじみたちと学校帰りにみんなで食べた<どどめ>の味は、子供心にはなんとも美味で小生にとって忘れがたい大切な思い出の一つとなって、今も脳裏に焼きついている。


今、Kくんから頂戴した<どどめ酒>は、水割り、オンザ・ロック、そして、お湯割と、ベストの飲み方を探して、日替わり色々な飲み方をして、懐かしい味を楽しんでいる。

そして、色鮮やかな赤紫の<どどめ酒>を味わいながら、しばし、かみさんに<どどめ>を食べた頃の昔話をしている。

その話に適当に相槌を打っているかみさんを見て「最近の話は、昔話が多いのだから」ときっと内心「ぼやいている」に違いない、と思った。

写真&俳句VOL2 「秋日和」

2008-11-24 | 写真&俳句

レースのカーテン越しに差し込む日差しが、パールに当たって絶妙なコントラストを描いている


日中は、殆どと言っていいくらい愛犬のパールと一緒である。
パールは言って見れば、もう一人のパートナーである。

これから紹介するのは、そんなパールと過ごす日常の一コマの描写である。


その日、空は青く澄み渡り、風もなく、これぞ小春日和という日であった。

レースのカーテン越しに暖かい日差しが差し込んでいる。
寒がり屋の愛犬パールが、早速、一番陽の当たる場所に来て、寝そべっている。

そして、その暖かさに誘われるように、パールのまぶたが徐々に閉じられていき、いつしかまどろみの世界へ。


愛犬の   眠り誘(いざな)う   秋日和


そんな愛犬の様子を興味深く観察していると、しばらくして突然、四股を痙攣気味にばたつかせ、「フン、フン」という声が聞こえだした。

夢を見ている時の何時もの仕草だ。
パールは、眠ると必ずといって良いほどよく夢を見る。


秋日和   はや愛犬は   夢の中


この仕草が一段落して、これで静かに寝てくれるかと思いきや、今度は、いきなり「ガア、ガア」と大いびきをかきだした。
完全な熟睡モードである。


愛犬の   いびきも高し   秋日和


そんなのどかな様子を眺めていたら、いつの間にか、こちらまで眠気を催してきて、ソファーに横になってまどろみの世界へ。   


秋日和  いつしか犬と   まどろみぬ


気配で「ハッ」と目覚める。
隣でパールがじっと顔を覗き込んでいる。
余りの気持ち良さに、すっかり寝入ってしまったようだ。


秋日和   前後不覚に   寝入りたり


秋の小春日和がもたらしてくれた、心安らぐ一時であった。

写真&俳句~朝の散歩道の風景

2008-11-21 | 写真&俳句
移ろい行く季節の中、さまざまな表情を見せる朝の散歩道の風景を写真と俳句と文章で紹介したい。


6時起床。
外はようやく明るくなってきた。

この秋一番の冷え込みで、思わず身震いするほどの寒さである。

寒き朝   犬の散歩も   腰が引け  

の心境である。

6時20分。
家の前で、愛犬のパールにオシッコとウンチをさせて、朝の散歩がスタート。


歩くこと5分。
柿がたわわに実をつけている場所を通る。




いつもこの道を通って思うのは、誰も柿の実を収穫している気配もうかがえないし、鳥が食べている様子もない、きっと渋柿なのだろう、そして、実が熟して落ちるまで、こうしてたわわのままなのだろうと。

渋柿や   たわわのままに   季節行く


そこからさらに5分ほど歩くと黒目川の遊歩道に出る。




この日の朝は、寒さが厳しかった分、空はすっきりと晴れ、空気も澄んでいて、畑には霜が降りて薄化粧である。

遊歩道   畑は白き   霜を置き


その遊歩道をしばらく歩くと、凍えるような水の中で羽を休めている1羽の白鷺を見つけた。

その姿は、まるで仲間にはぐれてしまったようにも見えた。




白鷺がいる近くに水面に顔を出している石がある。あそこに乗ってくれたら絵になる、「乗ってくれ、乗ってくれ」と念じていると、何とおもむろに鷺が歩き出して、その石に乗ったではないか。

「ちょっとの間そのポーズでいてね」と願いつつ、飛び立たないよう、そっと、そっと近づいて行く。

そして、ズーム・アップして急いでシャッターを切った。

友なしや   白鷺1羽   川の中


さらに遊歩道を行くと、水から上がって地面を歩いているカモの群れに遭遇する。




その様子は、朝の散歩か、餌探しのようである。
よちよちと小走りに歩くその姿は、ユーモラスで何とも可愛い。

散歩道   餌を探すや   カモの群れ


そして、さらに遊歩道を進むと橋がある。

橋の上から川面をのぞく。




この季節、川は水かさが少なく、かつきれいに澄んでいる。
ひょっとして、魚影を見ることができるかもと、水面に目を凝らしていると、眼下を大きな鯉が数匹、悠然と泳いでいるではないか。
大急ぎで、ズーム・アップしてシャッターを切る。

水澄みて   川面に鯉の   背びれかな


遊歩道とは、ここでお別れ。ここからは別な道を通っての帰り道になる。

畑の中の農道を行く。




畑には、キャベツ、白菜、ニンジン、サツマイモなど野菜がいっぱい栽培されている。

そんな農地のあぜ道に白、黄色、紫、ピンクなど色とりどりの菊の花が今を盛りと咲いている。

散歩道   色とりどりの   菊の花


後5分ほどで我が家という場所に公園がある。




日中は幼い子供とおかあさん、お年寄りたちの憩いの場となっている公園も、この時間は人影もまばらで、時折駅に向かう通勤者が近道しようと横切っていく姿がちらほら。

公園の   落ち葉踏みしめ   向かう駅


7時10分、帰宅。
朝の散歩終了である。

この日が、夏以来続けてきた「サマー・タイム」の最終日。
これからは、朝食を済ませた7時30分が朝の散歩のスタート時間である。

3種類の「驚き」=「手紙」~親愛なる子供たちへ~を聴いて

2008-11-18 | 音楽
購読している新聞の夕刊に毎月1回色々なジャンルの新譜を紹介するページがあり、CDを購入する際の参考にしている。

先日、先月の新譜で紹介された「手紙」~親愛なる子供たちへ~というシングルCDを購入した。

早速、聴いて見たところ、幾つか性質の異なる驚きがあったので、そのことについてコメントして見たい。


驚き その1 新鮮な驚き~CDジャケット

レコードを聴いていた頃は、ジャケットのデザインにも凝ったものがあり、結構楽しめたものだが、CDになってからは面白味がなくなったと常日頃思っていたが、このCDのジャケットには意表を突かれた。


工夫を凝らしたCD・「手紙」~親愛なる子供たちへ~のジャケット

タイトルの「手紙」にあわせて、デザインも「手紙」を入れる封筒を模したものとなっていて、定型サイズの大きさの長封筒の表面には宛名としてタイトルの「手紙」という文字が、裏面の発信人には作曲者樋口了一の名前が印刷され、歌詞カードも縦書きの手紙形式になっているのだ。


見る人が「なるほど」と思わずうなずいてしまう、そんな製作者の「思い入れ」が感じられるデザインで、新鮮な驚きを感じた。


驚き その2 予期せぬ驚き~歌詞の内容

テーマは、生きとし生けるもの誰しもが、いつかは、必ず迎える「老い」である。

先ずは、672字という歌詞の「長さ」に驚いた。(歌の方も8分24秒とこれまた長い)

次に、歌詞の中身に驚いた。

「服の上に食べ物をこぼす」、「同じ話しを何度も何度も繰り返す」、「下着を濡らす」、「歯も弱り 飲み込む事さえ出来なくなる」、「足も衰えて立ち上がる事すら出来ない」
「旅立ちの前の準備」、「私の人生の終わり」

と言った、ドキッとさせられ、身につまされるような言葉や表現が多く使われているのである。

年老いた親が子供に贈るメッセージというイメージからすると、これらの言葉が使われていることに予期せぬ驚きを感じたのであった。


驚き その3  予想を超える驚き~歌唱・演奏

そういうこの歌詞の持つシリアスな雰囲気をやわらげているのが、「手紙」という曲の「美しさ」である。

ソロの樋口了一という歌手の歌を初めて聴いたが、想いを内に秘めてゆったりとしたテンポで、温かな声で、一言、一言語りかけるような歌唱を聴いていると心が和んでくる。

そして、曲の前半のギター、後半のストリングスがソロと絶妙に溶け合って、えも言われぬ美しい楽曲の世界、癒しの世界へと誘ってくれるのである。

特に、後半ストリングスが入ってくると曲の美しさはいや増し、まるで魂が浄化されるような感覚であった。

予期せぬ驚きの言葉が次々に出てくる歌詞をどう歌と演奏で表現するのか、大いに興味をそそられたが、予想を超える驚きの歌唱と演奏であった。



手紙~親愛なる子供たちへ~
原作詞 不詳/日本語訳詞 角 智織/日本語補足詞 樋口了一
作曲・歌 樋口了一/ストリングス・アレンジ 本田優一郎