折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

初体験・「期日前投票」

2009-02-26 | 日常生活
「3月1日は<市長選挙>だけど、おとうさん、クラス会だよね。どうするの」
「今回は選挙の方は、パスするかな」
「期日前投票という方法もあるわよ、体験してみたら」
「そういう手もあったね、後学のために一つ初体験してみるか」

ということで、近くにある市役所の出張所に行って「期日前投票」を済ませてきた。
以下はその初体験記である。

何分始めてのことなので、取あえず郵送されてきている投票所入場券と身分を証する書類を持参して市役所の出張所へ出向く。
出張所の入り口に投票場所は、入って右奥との表示が出ている。
そこには、投票箱が置かれ、期日前投票立会人がいて、いつもの選挙とまったく変わらぬ投票所ができていた。

         
         市役所の出張所内に設置された投票所(立て看板の置かれた奥)


係員の指示に従って、「宣誓書」に記入する。それ以外は通常の選挙と同じ要領で、投票用紙を係員から受け取って投票すればよいだけであった。

小生が出向いたのは、平日の昼下がりだったので、来る人はほとんどいないだろうと思っていたら、予想に反して投票所に足を運ぶ人が結構いたのには、ちょっと意外で驚いた。



選挙と言えば、「党利党略」に明け暮れ、目を覆いたくなるような政治の混迷振りには、某元首相の言ではないが、「怒るというより笑っちゃうくらい、ただただあきれている」のだが、国民不在の政治の体たらくは、もはや「不満」と言った月並みな言葉では言い表せない深刻な様相を呈している。

政治の「不在」と未曾有の「経済危機」、今、わが国を覆っている「どうしようもない」、「やりきれない」閉塞感を自分たちの1票で何とかしたいと思っている国民は少なくないはずである。

「経済危機」への必要不可欠な対策としての「予算」を早期にあげることは勿論大切なことであるが、早く「解散」して国民の民意を問うことも、それに勝るとも劣らず重要である。

この両者は、優先順位をつけられないほどに重要である。

そして、この二つを両立させる方法としては「話し合い解散」しか選択肢はない。
即ち、予算を速やかに成立させて、景気対策への備えをした上で、即、国会を解散、総選挙を行うことである。

そして、これが現時点での国民の「民意」というものであると信じて疑わない。

今や「変化・チェンジ」を必要としているのはアメリカ以上に我が日本であると言えよう。

そして、この変化を引き起こせる唯一の方法が、われわれの意思を示す1票であることを自覚する必要がある。

今回、期日前投票に行って、このことを改めて強く思った次第である。


「選挙が待ち遠しい」

選挙権を得て46年、こんなに切実に選挙のことを思ったのは、今回が始めてである。

孫のおかげで明るく、楽しく~66回目のバースディ

2009-02-23 | 家族・母・兄弟
           
           手拍子を打ちながら「ハッピー・バースディ・トゥ・ユー」を歌ってくれた孫のKちゃん。
           そんなKちゃんを見守るじいじは少々照れ気味



今日は66回目の誕生日である。

日曜日の昨夜、近くに住む娘夫婦と孫のKちゃんがお祝いに来てくれた。
特に、2歳4ヶ月になったKちゃんは、「遊び友達」のじいじの誕生日と言うことで、大張り切り。

「Kちゃんが、Kちゃんが」と他の人を差し置いて、贈り物のプレゼンターになるやら、「じいじ、お誕生日おめでとう」と書かれたケーキを前にして、手拍子を打ちながら大きな声で「ハッピー・バースディ・トゥ・ユー」を歌ってくれたりと大はしゃぎ、おかげで明るく、楽しい誕生会となった。


ブログを書き始めてから、誕生日やブログの100、200、300回と言った一つの「区切り」となるような時には、ブログでその時々に感じたことを書き留めるようにしてきた。

因みに、2年前64歳の時のブログには、子供たちから贈られた誕生日のプレゼントについて次のように書いている。

今年の子供たちからのプレゼントは、まるで申し合わせたように二人揃って小生のブログをヒントに品物を選んでくれたようである。

<二人の気持ちが、期せずして揃った>ということが、小生にとってはどんな高価なものをもらうよりも嬉しかった。その意味で、今年のプレゼントは、想い出に残る一品となった。

そして、誕生日を幸せな気持ちで迎えられたことに感謝である。

昨年65歳の時のブログは、久々に会った昔の会社の仲間との「飲み会」で感じたことや日常生活を通して感じた「老い」について、次のように書いた。

前々からその日を楽しみにしていたのだが、いざ出かける段になって、夜の都心に出かけることが妙に億劫に感じられた。

そこで、仲間に『いやあ、夜の宴席に出かけるのが、少々気分的に億劫になってね』と話したら、『もうそんな年かよ』とか、そんなんじゃあ『老け込んじゃうぞ』とさんざんからかわれ、笑われてしまった。

その集まりは、4人のうち3人は現役で、そのうち2人はまだ40代のバリバリの現役、もう1人、本ブログでもたびたび登場する元S課長は今は、中小企業の副社長。リタイア組みは小生のみである。話しをしていても、さすがに現役組は元気いっぱい、活気にあふれている。
そして、いつの間にか彼らの話題についていけない、のりきれない自分を否応なく意識し、普段は余り感じないが現役組とリタイア組の落差というものを改めて自覚させられた。

帰りの満員電車に揺られながら、これなども『老い』の一つの兆候なのかなと考えてしまった。

また、これとは全く違った形で『老い』を意識することがある。

それは、最近、新聞を読んでいて感じることなのだが、目は活字を追っているのだが、うまく意味が頭の中に入ってこないことが増えてきたということである。

それと、新聞を隅から隅まで読もうとする『根気』がなくなってきた。

これなどは、『老い』の一つの兆候、シグナルといえるだろう。

逆に言えば、こんなことを考えてしまうこと自体がすでに『老い』の証なのだろう。

では、ブログに書き始める以前の3年前の63歳の誕生日にどんなことを思っていたか思い出そうと記憶の底を探って見ても、その断片すら思い浮かばない。

今、こうしてブログを読み返して見ると、記録するということは、資料としての価値のみならず、記憶を刺激し、呼び覚ます役割をも担っているのだということを改めて実感し、ブログを書いていてよかったとつくずく思った次第である。

さて、66歳を迎えての今年感想である。

定年後の第2の人生も、もう6年が過ぎてしまった。
それこそ、この6年は、「あっ」という間に過ぎてしまったという思いが強い。

定年後の第二の人生の過ごし方のキーポイントは、『居心地の良い場所で、自分の好きなことに夢中になれる生活』 をどう送れるかにかかっている、というの がリタイア時に小生が考えていたことであったが、この6年間、時間が経つのが早いと感じられるのは、曲がりなりにも『居心地の良い場所』と『夢中になれるもの』を見つけられているからだ、と思っているが、それもこれも、この6年間幸いにも病気らしい病気もせずに健康でいられたことと、かみさんをはじめ家族みんなの支えがあったればこそであり、心から感謝している次第である。

吉見観音~今、若い女性の人気スポット

2009-02-21 | 日常生活
      
今、若い女性の人気スポットになっているという「吉見観音」。
以前は坂東の霊場を巡る巡礼者以外は余り訪れる人もなかった古刹であったが・・・。



まだ、小学校の低学年だった頃に遠足で行ったことのある隣村(当時)の「吉見観音」が、今、若い女性の間で人気スポットになっている、と言う話しをちょっと前の新聞記事で知った。

前回の「鐘撞堂山」ハイキングの折、その話を一緒に行った幼なじみのKくんに話したら、「ええっ、そうなの」と驚いて、「それじゃあ、話のタネに見に行こうか」と話はすぐにまとまり、先日二人で行ってきた。


吉見観音は、坂東札所第11番の古刹である。

最寄りの駅は東武東上線の東松山駅で、そこからバスと徒歩で約50分もかかり交通の便は決して良くない。

だから時ならぬブームになる前は、訪れる人と言えば前述の札所めぐりで訪れる人ぐらいで、閑静なお寺であった。

そんな田舎のお寺に若い女性が増え始めたのは、丁度1年前頃のことらしい。

ブームの発端は、テレビ番組での人気モデル上原歩(あゆみ)さんの「吉見観音にお参りしたら願いがかなった」と言う話がきっかけだったとのこと。


われわれが訪れた日は、平日の午後2時半過ぎだったので、さすがに参拝者は少ないだろうと思っていたら、何と何と専用の駐車場には、15~16台の車が駐車していた。

山門に向かって歩いていくと、参拝を終わったばかりと思われる若い女性とすれ違う。

山門をくぐり、境内に入ると中年のおばさんたちのグループや若い女性の姿もちらほら。

お参りを済ませて、納経帳に朱印をもらうべく納経所へ。

納経所では、両親と一緒に来ていた若い娘さんが「絵馬」を買っていた。
そして、3人で額を寄せ集めて、絵馬に書き入れる文言について、「ああでもない、こうでもない」と話し合っている。
微笑ましいシーンを目撃、心が和む。

若い女性たちが押しかけるようになって、「絵馬」や「おみくじ」が飛ぶように売れていると新聞記事は伝えていたが、確かに境内のあちこちに真新しい「絵馬」や「おみくじ」がいっぱい奉納されている。

       
1ヶ月でこれだけの「絵馬」が奉納されたのだと、地元の詳しい人が説明してくれた。小生もちゃっかり便乗して「居合4段合格」の絵馬を奉納してきた。


「絵馬、700円だって」
「それは、ちょっと高すぎるぜ。人気に便乗しすぎと違うかいな」

「絵馬が売れ過ぎて、追加発注したとも聞いたよ。買う方もひょっとしたら高い方が<ご利益>があると思って、値段は余り気にしないのかもね」

など話しながら駐車場まで戻ってくると、車から降りて山門に向かう若い二人ずれの女性とすれ違った。

幼なじみと、思わず顔を見合わせてしまった。

そして、鄙びた場所にあり、それまで余り知られていなかった古刹を一瞬にして有名にしてしまったネットとマスメディアの影響力の「凄さ」とある種の「怖さ」を改めて思い知らされた次第である。




写真&俳句VOL5 ひなたぼこ

2009-02-18 | 写真&俳句
はじめに

愛犬「パール」との散歩コースになっている黒目川遊歩道には、色々な鳥たちが生息している。

「ハト」、「カラス」、「カモ」、「サギ」、「カモメ」などなど。

今回は、そんな鳥たちの中から「ハト」を取り上げて、写真と俳句で紹介して見たい。


浜崎黒目橋

遊歩道の散歩コースの折り返し地点に黒目川に架かるスマートな橋がある。
「浜崎黒目橋」である。


          
          この付近で最初に朝日が当たるのがこの橋の頂上


ひなたぼこ その1


アーチ型をしたその橋の頂上に朝日が差し込むのは、午前6時45分頃である。
それを見はからったようにハトたちの群れが橋の頂上にやってくる。

そして、まるで「おしくらまんじゅう」をするように体を寄せ合い、じっと差しかかる日の光を浴びている。

その姿は、ひなたぼこを楽しんでいるように見える。


ハトの群れ   眠るが如く   ひなたぼこ


           
           ズームで写したハトたちの「ひなたぼこ」の様子


ひなたぼこ その2


そして、ハトたちには「第2」のひなたぼこと呼べる場所がある。

川原に下りて行くために作られた階段がそれである。

小生が観察した所によると、ハトたちは「時」と「場合」によってひなたぼこの場所をこの橋の頂上からこの階段へと変えるのだ。

即ち、時が過ぎ地上がすっかり暖まった頃になるとより暖かさを求めて地上に降りてくるのだ。

また、晴れた日でも上空に冷たい風が吹いている時は、早々とこの階段に降りて来るみたいだ。


ひなたぼこ   時と場合で   河岸(かし)を変え

ひなたぼこ   日差しと共に   場所移り


           
           「時」と「場合」によって地上で「ひなたぼこ」を楽しむハトたち






読書三昧・「血沸き、肉踊る」3日間~宮本昌孝著「海王」

2009-02-15 | 読書
新聞にその本の広告が載った時は、うれしくて期待に胸を弾ませて、近くの本屋さんに飛んで行った。

何せ、原稿枚数2,000枚超、上下2巻(2段組 上巻540ページ、下巻516ページ)の大作だ。

読み応え十分、朝から晩までひたすら「のめり込む」。(こんな時間の使い方ができるのも、「無職=自由人」のささやかな「特権」)

どうにか3日間で読破。
「血沸き、肉踊る」3日間であった。
今、ある種の「虚脱感」の中にいる。

「剣豪将軍義輝」の続編である宮本昌孝著「海王」(上・下)のことである。

今から十数年前、宮本昌孝著「剣豪将軍義輝」を読んだ時の興奮も今回に勝るとも劣らないものであった。

          
十数年前にはじめて読み、その後何回も読み直した、宮本昌孝著「剣豪将軍義輝」(徳間書店)


そして、ひたすら続編を待ちわびていた。


と言うのは、「剣豪将軍義輝」のラストで「海王」と名付けられた遺児が誕生し、十分に続編を予告する終わり方であったからである。

そして待つこと十有余年、遂にその続編が全貌を現したのである。
興奮を禁じえない。


          
待望久しい「剣豪将軍義輝」の続編:宮本昌孝著「海王」(上・下)(徳間書店)


前作「剣豪将軍義輝」は戦乱の世を終息へと向かわせる英邁な資質を備えながら、「志」半ばにして、梟雄松永弾正の奸計に斃れた悲運の将軍・足利義輝の爽快・清廉な生き様をえがいたものだが、その将軍義輝が物語の中で「斉藤道三」、「織田信長」、「武田晴信」といった稀代の英傑たちとの心躍る「邂逅」を遂げ、「塚原卜伝」、「上泉信綱」といった剣豪との「出会い」と「修行」によって天稟の才を開花させ、余人が到達し得ない「剣の高み」を得るに至る。そして、剣の奥義を極めた義輝と最強の宿敵との対決・・・・・。
波乱万丈のストーリーの展開が読む者をして飽くことなき「空想」の世界へと誘ってくれたのであった。


その続編である本作でも、剣豪将軍・足利義輝の遺児、海王の「情」と「義」を貫く清爽な生き様を「縦糸」に信長をはじめ、秀吉、家康といった武将たち、伊藤一刀斎、柳生石舟斎、神子上典善、小野善鬼といった剣豪、服部半蔵といった忍び等の絡み合いを「横糸」に数奇な運命に翻弄される人々を活写し、物語は息つく暇なく展開し、手に汗握る面白さは、汲めども尽きない「ロマン」の世界である。

特に、義輝の忘れ形見には海王のほかにもう一人上杉兵庫と言う異母兄がいて、この兄弟が弟が「山崎の合戦」で明智光秀に、兄が「小牧・長久手の戦い」で徳川家康にそれぞれ「将軍」として政治的に利用しようという陰謀に巻き込まれるという設定は、実際にあった史実に「あっと驚く」卓抜な発想を盛り込んだところが秀逸で面白い。

確かに、「荒唐無稽」な話には違いないが、フィクションの世界においては、「想像力の翼」をどれだけ大胆に広げられるかが、「面白さ」の「決め手」になると言える。

そして、この一見「荒唐無稽」に思われるストーリーをいかにもっともらしく読者に納得させることができるか、ここが作家の腕の見せ所である。

この点に関しては、作者の「腕」は冴えわたっている。

さらに言えば、主人公の描写にとどまらず、信長、光秀、秀吉、家康と言った「横糸」の「核」となる人物の生き様が実に生き生きと描かれているのも特筆すべきではなかろうか。

特に、「本能寺の変」の場面は、この作者が将軍義輝と信長にいかに「思い入れ」が深かったかを如実に語っていて、心打たれる。


「小説とは、まず面白くなければならない」

というのが、小生の持論である。

「現実ではとても叶いそうもない<夢>、かくありたいという思いをしばしの間、叶えてくれる」

それが小説=フィクションの世界の醍醐味であるとも思っているので、この思いを叶えてくれた小説「海王」は、今年に入って読んだ本のベスト1と言える1冊であった。

そして、もう一度「剣豪将軍義輝」を読み直して見たいと言う気持ちになっている。