折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

おねえちゃんの里帰り

2006-09-29 | 家族・母・兄弟
パールです。

お父さんのブログには、2回目の登場になります。


<とってもいい匂い、早く食べたいな!>

9月25日は、わたしの6歳の誕生日。
人間の年だと、47歳になるんだって。


<お肉、先に食べちゃいました!>


誕生日には、めったに食べられないステーキをもらい、それこそ「よだれ」が止まりませんでした。

「ああ、おいしかった!!」

でも、わたしにとっては、それよりも、大好きなおねえちゃんに「赤ちゃん」が生まれることのほうが、もっともっと嬉しいことなの。

今、おねえちゃんは出産に備えて家に里帰りしているんだけど、それはそれはお腹が大きくせり出して大儀そうだけど、でもとても嬉しそう。

おねえちゃんが帰ってきてからは、それまで、おとうさんとおかあさんの二人きりで、余り会話も弾まなかった我が家が、ぱっと、花が咲いたように賑やかになったの。

女の子ってスゴイと思わない。多分、おにいちゃんでは、こうはならないよね。

会話も弾み、食卓もいつもよりずっとにぎやかになり、おとうさんはすこぶるご機嫌。

それもそのはず、おとうさんは、おねえちゃんをお嫁に出したその日から、もうこの里帰りを心待ちにしていて、この日が来るのをそれはそれは、楽しみにしていたみたいだから・・・。

一方、おかあさんは台所で一緒にペチャクチャとおしゃべりしたり、ベビー用品を買いに行ったり、病院に付き添って行ったり、と活き活きと世話をやいています。

「母・娘」って本当にいいなあ!と羨ましくなっちゃいました。

わたしの方は、週末になると大好きな大好きな、おねえちゃんのだんなさまが、来てくれるので、それは、それは大満足。

いつもは、来てくれてもその日に帰っちゃうので、物足りない思いをしてるんだけど、今は、週末泊まって行ってくれるので、嬉しくて、ついつい、はしゃぎすぎて、月曜日はぐったり、1日中昼寝をしている始末なの。

赤ちゃんの出産予定日は、10月5日、早く見たいな。みんな、みんな首を長くして待ってるよ。

今年のわたしの誕生日は、最高!!
そして、これからもしばらく居心地の良い日が続きそう。

うれしいなあ!!

夭折した当家の「神童」

2006-09-25 | 家族・母・兄弟
お彼岸で田舎に墓参りに行って来た。

お線香を上げて、しばし墓誌に見入った。そこには、亡くなった先祖様と共に、幼くして逝った二人の弟の名前が刻まれている。すぐ下の弟は、生まれてまもなく亡くなったので、全く記憶がない。

3歳年下の次の弟の記憶は、今でも強烈、鮮明に残っている。

何故なら、この弟は当家始まって以来の「秀才」、「神童」との評判が高く、両親は勿論のこと、周囲の期待を一身に集め、将来を大いに嘱望されていたからである。 




その評判は、

曰く

小学校入学前に「読み」、「書き」、「足し算、引き算」は勿論のこと、小学校2,3年生の教科書を全て理解していた。

曰く

大人に混じって、百人一首の札を互角に取っていた。

曰く

大人の本、特に吉川英治の本を読んでもらうのが大好きで、ある時、主人公が悪人にひどくいじめられる場面に差し掛かると、目に涙を一杯ためて、「可哀想だから、その先は読まないで」と読むのをやめさせたとか、ともかく彼の早熟ぶりを示す逸話には事欠かない。

この弟の影響をまともに蒙ったのが、年齢的に最も近い小生であった。
そして、子供なりに弟が特別扱いされていると感じて、ねたんだり、うらやんだりと欲求不満を募らせていたのだと思う。

弟が、小学校入学を目前に控えて、肺炎がもとで逝ってしまった時のことである。

弟が死んだことで、それまで内にこもっていた屈折した感情が一気に溢れ出てきたのだろう、葬式が済んで、皆がいる所で、「これで、弟の分まで『まんじゅう』を食べられる」といったと言うのである。(記憶が曖昧なのだが、どうやら当時、葬式の時に配られる「まんじゅう」を弟が優先的に食べ、小生は思うように食べられなかったのを子供なりに「根」にもっていたようだ。)

「この子、何てこと言うの!!」と周りの人から、たしなめられたそうだが、母はその時、当時は貧乏でどうしても小さい弟から先に食べさせていたから、それがきっと我慢できなかったんだろう、お前に辛い思いをさせて悪かった、と小生を庇ってくれたとのことであった。

それでも、「あの弟に比べ、お前は」と言う目で見られ、弟の話が出ると、いつもこの話をセットで聞かされ、その都度苦い思いを味わっている。


今年のお盆に実家に帰った時、母と話をしていて、たまたまこの弟のことが話題になった。

それは、弟が死ぬ直前の話であった。

弟の病状を心配し、親戚の人や近所の人が枕元につめて見守っていると、あの子が「そんな所にいないで、早く医者を呼んできて」と、とがめるように言ったんだよ、そりゃ、あの子が亡くなって、わたしも、おとうさんもがっかりしたけど、それよりも何よりも、本人が一番無念だったろうよ、と母がしみじみと話してくれた。

弟の逸話は、いくつも聞いているが、この「何してるんだ、早く医者を」と言う話は、初めて聞いた。

弟は、肺炎の手当てが、手遅れになって亡くなっただけに、5歳の幼い子供が、大人たちに、何をぐずぐずしているのだ、と言わんばかりの調子で『早く、医者を』と言ったという話は、実に切ない限りである。


弟が、もし、生きていたら、「神童」になれたのか、よく言われるように「ただの人」になっていたかとか、ついつい、無益な想像をしてしまうことがあるが、弟は夭折してしまったがゆえに、当家では、永久に「神童」であり、「伝説」の人になっている。

お墓の前で、改めて心から冥福を祈った。

続・選択の行方(会長VS事務局)

2006-09-21 | 仕事・職場
「ほう、事務局も案を作ってくれたのかね。ありがとう。僕のはもう社長に出してあるけど、事務局のもあとで見せてもらうよ。」

と、会長は余裕綽々である。

そこには、文章に一家言を有する会長の強い自負がうかがえた。

とにかく、読んでもらえると言うことで、第一関門はクリアーできた。
S課長ともども、先ずはほっと胸をなでおろす。

翌朝、小生だけが会長に呼ばれた。

「参考になったよ。僕の原稿を少し手直ししてみた。これでどうかね。」

手直しの中味は、小生の原稿の中に入っていた相談役のエピソードや印象的なフレーズをちょっとずつ取り入れたものであった。
ただ、文章的には二つの異なる文体の文章をくっつけただけなので、文章の流れが原案よりも大分悪くなってしまっている。


ここで、会長の顔を立て、

「大変結構です。私の原稿を一部使っていただいて、感謝です。ありがとうございました。」と言えば、それで「ジ・エンド」。宮仕えの身としては、これでいきたい所だが、そうすると何のためにS課長と一緒に苦労したのか、何よりも、これがこのまま当日、弔辞として読まれたら、と考えると自分の保身だけを考える訳にもいかず、どう対応すべきかの決断を迫られた。


「会長、大変失礼で、申し訳ございませんが、手直ししていただいた部分が、『木に竹を接ぐ』ようで、文章全体の調和が損なわれているように思われます」と正直に申し上げた。

そして、次の瞬間、罵声が降って来ることを十分に覚悟した。

「そうか、『木に竹を接ぐ』か」会長はそう呟くと、

「わかった、今晩もう1回考える、明日まで、預かりだ」

翌朝、再度会長に呼ばれた。

「結論から言う、弔辞は君が書いたのが、ふさわしい。やはり、『餅屋は、餅屋』だ」と。

社長に提出済みの自分の弔辞を撤回し、事務局の面子を立ててくれたのである。

思わぬ結論に、身の置き所のないほど恐縮してしまった。

そして、あらためて会長の度量の大きさと、公正無私な態度に感激し、尊敬の念を新たにするとともに、「ご無礼をお許しください」と深々と頭を下げた。

社葬当日、会長が読み上げる弔辞をS課長と一緒にひとしおの感慨を持って聞いた。

今、振り返って見ると、「何とまあ、無茶なことをしたものだ」と反省することしきりであるが、このような無謀な試みに駆り立てたのは、ひとえに創業社長に対する、やみがたい敬愛の念がさせたのだと思う。

今から、19年前の小生の37年間の会社生活の中でも忘れられない思い出の一つである。


選択の行方(会長VS事務局)

2006-09-17 | 仕事・職場
これは、全従業員から慈父のように慕われた、創業者を悼む「弔辞」を巡るエピソードである。



「いやあ、参ったよ。」と上司のS課長。困惑の表情である。手には、数枚の原稿用紙。

「今、社長から預かってきた。会長が書いた社葬の弔辞の原稿。」

「もう、出来てるんですか。会長にしてみれば、自分の出番ですものね。」と小生

会長は、文章に関しては一家言有する、社内一の文章家である。一般紙をはじめ、各種のマスコミにも掲載され、社内報にも軽妙洒脱なエッセイを毎回寄稿している。

「問題は、中味なんだよ。ちょっと、読んで見てよ。」とS課長。

これまで、社葬の弔辞は職務として、小生がほとんど書いてきた。
普通の文章と違って、弔辞には、独特の言い回し、表現方法が求められ、文章の上手な人でも、苦労する。


会長の文章は、堅実な文章であるが、弔辞として、心を打つフレーズが少ない。
淡々と型どおりの構成で、偉大な創業者を悼む弔辞としては、平凡で、いささか物足りなさが残る内容であった。

「しかし、社長も了解して、『これで決まり』なんでしょう。」と小生。

「多分、十中八九。でもさ、相談役を神様のように敬い、親のように慕っている従業員が、この弔辞を聞いてどう思う?」とS課長。

「で、どうしたいんです、どうしろと?」と小生。

「社葬の事務局は、うちだ。うちの案と言うことで、相談役への従業員のひたむきな思いを込めた弔辞を書いて、出そうじゃないか。駄目なら、駄目でいいじゃないか。」とS課長。

小生は、一瞬「風車に挑むドンキホーテ」を思い浮かべてしまったが、「いいんですね。」と念を押して、引き受けた。

かくして、相談役の在りし日を偲びながら、弔辞の原案作りに没頭する日々が続いた。

そして、草稿が完成した。

あとは、「当部の原案です。」と会長の所に持参する勇気があるかどうかである。

そして、賽は投げられた。

(続く)

わが家の宝物

2006-09-13 | 仕事・職場
朝一番で小生の前の内線電話が鳴った。

社長からだ。

「おはよう。家の新築おめでとう。今日は、一緒にプレゼントを買いに行こう。」

「そんな、とんでも、ございません・・・・・。」

「では、昼休みに。」

「・・・・・・・。」



<新築祝いに頂戴した置時計>


昼休み


社長の秘書が呼びにくる。

「社長が車寄せで、お待ちです。」

「ええ、本当。」

上司のS課長、「早く行かなきゃ。」

大急ぎで車寄せへ、そして車は伊勢丹へ。


伊勢丹にて



「何か欲しいものはないかね。」と言われて、困ってしまい、モジモジしていたら、

「置時計にされたら。」と伊勢丹の外商担当のMさんが、見かねて声をかけてくれた。

それまでも、家電売り場、紳士服売り場とあちこち歩き回った末のことである。

「でも・・・・。」

「置時計か、いいね、うん、それにしよう。遠慮は無用だよ。家を建てるのは、男の一生の仕事で、誇るべきことなんだから。」

「でも・・・・。」

折角のご厚意なのだから、と再度Mさんからの助言。

そして、結局はこの置時計を頂戴したのだが、帰り際に、Mさんが小生に話しかけた。

「社員の新築祝いを買いに、社長がわざわざお見えになるなんて、見たことも、聞いたこともない。」と。



<結婚式の時に、頂いた時計>



この時頂いた置時計と結婚式のお祝いに頂戴した時計は、以来ずっとわが家の宝物、「家宝」となっている。

今から25年前、小生が入社以来15年間にわたりお仕えし、偉大な経営者として、また、滋味溢れる一人の人間として、心から尊敬し、お慕いしてやまなかった創業社長との、忘れえぬエピソードの一コマである。

その、創業社長がお亡くなりになって今年で19年になる。