この所、鬱陶しい日々が続いている。
湿度が高くて、ちょっと歩くだけで汗みどろである。
さすがに外出する気にはなれず、クーラーのきいた室内で本を読んで過ごすことが多くなった。
読む本は、肩の凝らない「時代小説」が多い。(以前、良く読んでいた海外ものはめっきり減った)
そんな時代小説の中から、続けて読んだ2冊の本
『弩(ど)』(下川 博著 小学館)
『白疾風(しろはやち)』(北 重人著 文芸春秋社)
を紹介したい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/ce/af9bf3aeb5f6266e7686cdfa4440c4e2.jpg)
『弩』(左) 表紙の帯封のキャッチ・コピーに魅かれて読んだ。
『白疾風』(右) 図書館で借りた時は、弩と同じような内容だとは想像もしていなかった。
先ず、『弩(ど)』であるが、
黒沢監督「七人の侍」から55年ー。
こんどは、百姓が武器を取った!
という表紙の帯封のキャッチ・コピーに先ず目を吸い寄せられた。
さらに、その帯封には次のように書いてある。
弩とは―。
古代中国で開発された弓の一種。宋代に改良され戦場での主力兵器となる。
西洋では、クロスボーと呼ばれ、強力な破壊力と命中精度で重装騎兵を駆逐。
日本ではなら大和朝廷が採用、律令国家の基本装備となるも、
鎌倉時代以降は鍛錬不要の武器ゆえに、侍から嫌われ、広まらなかった。
これは、南北朝時代に、悪党の略奪に対抗するため百姓が侍をやとい、自らも弩を手にして戦った因幡の百姓の物語である。
この類(たぐい)の本には、目のない小生である。
いつもは新刊本が出ると図書館に予約して借り受けるのだが、それまでとても待てなくて、本屋まで出向いて購入した本である。
時は南北朝時代。
ところは因幡(いなば)の国智土師郷(ちはじごう)。
主人公は才智があり、村の特産品である柿渋を商品化し、塩の交易をすることに成功し、村は豊かになり、繁栄を続ける。
たくましい村人、生き生きとした平和な村。
それから10年後ー。
その村の富に目を付けた残忍な元領主が率いる武装した野武士の集団が略奪、蹂躙しようとする。
かけがえのない生活をおびやかされ、それを守ろうと立ち上がった村人は様々な戦略を練り、その武器として弩を手にして立ち向かう。
これは今も横浜市金沢区にある称名寺(しょうみょうじ)の古文書にある資料をもとにし、存分に想像力をはばたかせて書かれた小説とのことである。(因みに、小生は大学1年の頃、この称名寺と目と鼻の先に下宿していて、夕暮れ時になると時を告げる寺の鐘を毎日のように聴いた、という懐かしい思い出がある。)
一方の『白疾風』であるが、弩(ど)を読み終って次に読む本を物色中に、たまたま図書館で見かけて、内容はわからぬままに、何となく借り受けて来た本である。
ところがである。
全くの偶然ながら、この『白疾風』、読み終わったばかりの『弩(ど)』とオーバーラップする内容だったのである。
時代は戦国時代末期から江戸開府時代。
ところは、武蔵野のとある谷。
かつて伊賀の忍び、「疾風(はやち)」として名を馳せた主人公は、戦国の世に嫌気がさし武蔵野の谷に住み着き、田を耕し、新たに村を築く。
そして、平和で豊かな村を襲う何者かの陰謀。
主人公はかけがえのない自分の村を、そして命を守るため再び忍びとなって村人と共に敵に立ち向かう。
両作品とも、
刻々と迫りくる強敵との戦い、迎え撃つ戦略、そして切って落とされる壮絶な戦いを縦糸に、主人公の生きざまと彼を取り巻く村人とのかけがえのない生活、人間模様を横糸に物語は、展開する。
このように、この2冊の本には「村人が自分たちの生活を脅かす敵に一致結束して立ち上がる」という、映画「七人の侍」を彷彿とさせるような共通点があるのだが、その他にも興味深い共通点がいくつか見出せる。
その一つは、村の経済活動が生き生きと描かれている点である。
「弩(ど)」では、山国の唯一の特産品を塩と交換するというくだりが興味深く描かれていて面白いし、「白疾風」では、村で生産した品物を江戸にまで運んで行って銭と交換するという経済活動が重要な役割を担っている。
もう一つは、両作品とも最後の最後で思わぬ悲劇が待ち受けている点である。
まさか、こんなに似通った内容の本を続けて読むことになるなんて、予想だにしていなかっただけに、ちょっと驚くと同時に、図書館で「白疾風」を何となく借り受けたと言う、この偶然を本当にラッキーだったと感謝した次第である。
フィクションの世界は、イマジネーションの世界であり、想像力は縦横無尽に広がり、それゆえに面白さも無限である。
そういう本は、夏の暑さを束の間、忘れさせてくれる。
湿度が高くて、ちょっと歩くだけで汗みどろである。
さすがに外出する気にはなれず、クーラーのきいた室内で本を読んで過ごすことが多くなった。
読む本は、肩の凝らない「時代小説」が多い。(以前、良く読んでいた海外ものはめっきり減った)
そんな時代小説の中から、続けて読んだ2冊の本
『弩(ど)』(下川 博著 小学館)
『白疾風(しろはやち)』(北 重人著 文芸春秋社)
を紹介したい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/ce/af9bf3aeb5f6266e7686cdfa4440c4e2.jpg)
『弩』(左) 表紙の帯封のキャッチ・コピーに魅かれて読んだ。
『白疾風』(右) 図書館で借りた時は、弩と同じような内容だとは想像もしていなかった。
先ず、『弩(ど)』であるが、
黒沢監督「七人の侍」から55年ー。
こんどは、百姓が武器を取った!
という表紙の帯封のキャッチ・コピーに先ず目を吸い寄せられた。
さらに、その帯封には次のように書いてある。
弩とは―。
古代中国で開発された弓の一種。宋代に改良され戦場での主力兵器となる。
西洋では、クロスボーと呼ばれ、強力な破壊力と命中精度で重装騎兵を駆逐。
日本ではなら大和朝廷が採用、律令国家の基本装備となるも、
鎌倉時代以降は鍛錬不要の武器ゆえに、侍から嫌われ、広まらなかった。
これは、南北朝時代に、悪党の略奪に対抗するため百姓が侍をやとい、自らも弩を手にして戦った因幡の百姓の物語である。
この類(たぐい)の本には、目のない小生である。
いつもは新刊本が出ると図書館に予約して借り受けるのだが、それまでとても待てなくて、本屋まで出向いて購入した本である。
時は南北朝時代。
ところは因幡(いなば)の国智土師郷(ちはじごう)。
主人公は才智があり、村の特産品である柿渋を商品化し、塩の交易をすることに成功し、村は豊かになり、繁栄を続ける。
たくましい村人、生き生きとした平和な村。
それから10年後ー。
その村の富に目を付けた残忍な元領主が率いる武装した野武士の集団が略奪、蹂躙しようとする。
かけがえのない生活をおびやかされ、それを守ろうと立ち上がった村人は様々な戦略を練り、その武器として弩を手にして立ち向かう。
これは今も横浜市金沢区にある称名寺(しょうみょうじ)の古文書にある資料をもとにし、存分に想像力をはばたかせて書かれた小説とのことである。(因みに、小生は大学1年の頃、この称名寺と目と鼻の先に下宿していて、夕暮れ時になると時を告げる寺の鐘を毎日のように聴いた、という懐かしい思い出がある。)
一方の『白疾風』であるが、弩(ど)を読み終って次に読む本を物色中に、たまたま図書館で見かけて、内容はわからぬままに、何となく借り受けて来た本である。
ところがである。
全くの偶然ながら、この『白疾風』、読み終わったばかりの『弩(ど)』とオーバーラップする内容だったのである。
時代は戦国時代末期から江戸開府時代。
ところは、武蔵野のとある谷。
かつて伊賀の忍び、「疾風(はやち)」として名を馳せた主人公は、戦国の世に嫌気がさし武蔵野の谷に住み着き、田を耕し、新たに村を築く。
そして、平和で豊かな村を襲う何者かの陰謀。
主人公はかけがえのない自分の村を、そして命を守るため再び忍びとなって村人と共に敵に立ち向かう。
両作品とも、
刻々と迫りくる強敵との戦い、迎え撃つ戦略、そして切って落とされる壮絶な戦いを縦糸に、主人公の生きざまと彼を取り巻く村人とのかけがえのない生活、人間模様を横糸に物語は、展開する。
このように、この2冊の本には「村人が自分たちの生活を脅かす敵に一致結束して立ち上がる」という、映画「七人の侍」を彷彿とさせるような共通点があるのだが、その他にも興味深い共通点がいくつか見出せる。
その一つは、村の経済活動が生き生きと描かれている点である。
「弩(ど)」では、山国の唯一の特産品を塩と交換するというくだりが興味深く描かれていて面白いし、「白疾風」では、村で生産した品物を江戸にまで運んで行って銭と交換するという経済活動が重要な役割を担っている。
もう一つは、両作品とも最後の最後で思わぬ悲劇が待ち受けている点である。
まさか、こんなに似通った内容の本を続けて読むことになるなんて、予想だにしていなかっただけに、ちょっと驚くと同時に、図書館で「白疾風」を何となく借り受けたと言う、この偶然を本当にラッキーだったと感謝した次第である。
フィクションの世界は、イマジネーションの世界であり、想像力は縦横無尽に広がり、それゆえに面白さも無限である。
そういう本は、夏の暑さを束の間、忘れさせてくれる。