さて、恋多き女性であった和泉式部ならではの痕跡が、
このあたりには多く残っています。
「筆塚」は移設されているとのことで
残念ながら見つかりませんでしたし、
もう一つ、愛用の硯をまつったという「硯塚」もわかりませんでした。
地元の常盤小学校のHPによりますと、
これが筆塚
そしてこれが「硯塚」だそうです。
いずれも常盤小学校HPから
ただし硯塚はとても辺鄙なところにあるそうで、
地元の人に聞かないとわからないだろうと書いてありましたので、
当然かもしれません。
わかっているならせめて地図でも記載してほしかったのですが、
ほかのネットにもそのあたりは、記載は見つけられず
気付いた人は教えてください。
ということで、先を歩きます。
上松町南の交差点にあるコンビニの
裏から続く狭い道を入っていきますと、
和泉式部の「恋の淵」があります。
ここには彼女の歌が刻まれた石碑が、
淵の中に建てられていました。
数ある百人一首の中でも
最もポピュラーな「小倉百人一首」
の56番の歌です。
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
いまひとたびの 逢うこともがな」
あの世に行っても思い出になるように、
もう一度だけでも逢いたいわ
といった意味のことを歌っています。
男子たる者こんなことを言われた日にゃ、
そりゃまいっちゃいますね。
さすがに「恋多き女性」であります。
ところで、写真でもわかりますように、
この石碑が建っているのは淵の中です。
淵というのは川の流れがよどむ
深みのようなところであります。
水不足に悩む泉州の人々のために
行基が築いた久米田池の横を流れる春木川。
その川から派生する多くの水路が、
各所で淵となって人々の暮らしを支えていました。
数多く残る淵も、きっと生活用水の供給場所として
重宝されてきたんでしょう。
和泉式部がこの淵で顔を洗ったら、
男性と巡り合えたということから、
「恋の淵」と名付けられているようですが、
今ここで顔を洗ったら逆に汚れてしまいますからNGですね。
でも恋と鯉をかけたわけではないと思いますが
鯉が数匹泳いでましたので、
悪い水ではなさそうです。
そこから30号線の方に回り込むあたりには、
新しい住宅が何棟か建てられています。
もしや、次の史跡は壊されているかもと思いきや、
道路沿いにしっかりと案内の石碑が建っていました。
これはありがたいですね。
和泉式部がここで顔を洗うと、
男性が遠ざかってしまったという
「恋ざめの淵」の案内石碑です。
庭のような通路を入っていきますと
右手にフェンスに囲まれた淵が残されていました。
その由来から、女性はあまり近づけないかも。
まさか「鯉」と「鮫」を泳がせてある、
なんてことはありませんでした。
そこを出て30号線を数メートル戻ると、
「式部塚」あるいは「蛙鳴かずのどんび淵」が
30号線沿いにあります。
当時の淵を原形のままとどめているそうです。
しかし、その縁石も雑草に覆われそうになっていたし、
中に置かれた説明版らしきものも
真っ黒で判読不可能でした。
和泉式部ゆかりの場所は
京都や岐阜県など各地に数多くあり、
そういった各地の伝説を集め、
熊野比丘尼が熊野大社の勧進のために
語り伝えたといわれています。
そのため熊野街道沿いに、
彼女に関する伝説が数多く残っているのではないか
ということが、あの民俗学の大家である
柳田國男氏の著書からも読み取れるそうです。
なので、歴史的のみならず、
民俗学的にも貴重な史跡を
ぜひともきちんと残してほしいものです。
さて、恋多き女性ともう少し戯れていたいのですが
このへんにして、
再び街道に戻ります。
式部塚から30号線を少し行くと、
作才町の交差点に出ます。
そこから左斜めに入っていく道が
熊野街道と言われてます。
街道らしさが残る道です。
と、そこに入る前に、
もう一度寄り道です。
作才交差点から西に100mほど行きますと
慈光寺というお寺があります。
この門前にあるのが「夜泣き石」です。
その昔、過酷な年貢に耐えかねて
作才村は村をあげて逃散したそうです。
その際に、庄屋の家にあった立派な石を
城内に移設したところ、
石が夜になると「ざぐざえの・・・」とすすりなくので、
作才村に戻されたという話が残っています。
情の深い石ですね。
手を合わせておきました。
この時点で歩き始めてちょうど一時間が経過しました。
歩いた距離はまだ3.5km。
先を急ぎましょう。
次回に続く。