一里塚を出て、中央小学校の横を歩いていきますと
交差点に石の地蔵堂が見えてきます。
ここは道標地蔵のはずです。
残念ながら、祠はしっかり扉が閉じられていたし、
地蔵も前掛けをしていたので、
そのお姿はよくわかりませんでした。
でもねえ、道標地蔵なんだから
前掛けはどうなのかな。
そもそもあの赤い前掛けは
いつごろからつけるようになったんでしょう。
地蔵と言えば、子どものためのもの
というイメージがあります。
子どもを赤子というように、
赤は命の象徴なんでしょうか
(赤の他人ともいいますが・・・)
地蔵に掛けた前掛けが
どんどん色が薄くなっていくことで
厄災を引き受けてくれている
というイメージがありますね。
昔はきっと、あんな布も貴重品だったはずですから、
熊野詣の頃は前掛けなどつけておらず、
道標地蔵の役割を果たしていたのかもしれません。
などと考えながら、
ふと横を見ると放置されたように置かれた
壊れた地蔵が目に入りました。
みると、どうやらこれも道標地蔵のようです。
「右 みづま 左 をぐり」
と書かれてあるように見えました。
道端でしゃがみ込んでみていると、
やはり人目が気になります。
ましてや小学校の横ですからなおさらです。
早々に出発しました。
さあて、お昼には何を食べようかなと
30号線に出てみると、うどん屋がありました。
寒いのでこれはいい。
あったまろうと行ってみると、
「定休日」
仕方なく先を歩いていくと、
水間鉄道の石才の駅前に
こんな中華料理屋さんがあったので飛び込みました。
これが正解。
こんな豪華な中華ランチが800円。
これはやはりビールの登場です。
今日は駅までも全て歩きなので平気ですもんね。
歩いてきたコースを振り返り、
そしてこれからあと少しのコースを検討しつついただきました。
店を出て街道に戻り、
ほろ酔い加減で歩き続けます。
水間鉄道は単線でこのあたりはまっすぐです。
一時期問題になったように、
この写真の中で
線路の上に横になっていたりしたら、
ヒンシュクものですよね。
そんな踏切をこえて、街道らしくくねった道を行き、
石才会館の牛神様や
何となく曰くのありそうな名前の「宮池」を過ぎると、
岸和田牛滝山貝塚線という長い名前の
道路の跨道橋が見えてきます。
この下をくぐって30号線を横切ったところに、
「積善寺城跡」があります。
近木川に架かる「福永橋」のこのあたりは、
かなりうっそうとしています。
根来の出城であったこの城に関して、
江戸時代に制作された「根来出城配置図」に
小栗街道と近木川が交差するところ
と記載があるそうですから間違いなくここでしょう。
街道から見る限りでは、
城跡の痕跡は見当たらず
ただうっそうとしているだけでした。
そこから南に続く街道の坂道は
「長谷川の坂」と言われています。
江戸時代の「疳の虫」の医者である
長谷川氏の住まいがあったことから
そういわれているそうです。
なかなか風情のある急な坂道で、
歩いているときに、
横を軽自動車が唸りをあげて登っていきました。
その坂を登りきったところにまた道標地蔵があります。
刻まれているのは童子姿で、
小栗判官をモデルにしているもの
という説があります。
道標としては「右 をぐり 左 大し」と刻まれているそうですが、
この地蔵も何重にも前掛けが施されていたので
確認することはできませんでした。
この辺り、街道らしく虫籠窓のある大きな家が
連なっていたので、
鍾馗さんはいないかなと
探しながら歩きましたが見つけられませんでした。
ただ、これは泉南地域を歩いた時にも気になったのですが、
家の軒先に二本の木が
にょきっと突き出ている家が多く見受けられました。
どんな意味があるのか、
貝塚で工務店をしている友達に訊きましたが
よくわかりませんでした。
コメントをくれた濱ちゃんならわかるでしょうか。
広い道に突き当たり、
道はまだ続いているように見えますが、
その先でJRの駅に分断されているそうなので、
右折して踏切を渡り
一旦30号線に出ることになります。
ここから、
鞍持王子、近木王子、鶴原王子と王子跡が続きます。
次回に続く。