5月23日、昼v夢二展『夢二繚乱』を、東京ステーションギャラリーにて鑑賞。
昼v夢二は明治から大正にかけ、ロマンと抒情が色濃く反映した時期に登場し多くの美人画を残した件p家です。本展は4部構成となっており、「第1章 夢二のはじまり」では、夢二の若き日々を検証。「第2章 可愛いもの 美しいもの」では、出版や印刷・版画などを中心にした夢二の仕事を、「第3章 目で見る音楽」では音楽や楽譜にまつわる仕事を取り上げ、「第4章 出帆」では夢二の自伝小説『出帆』原画と没後の龍星閣による出版活動などが紹介されていました。夢二の描く女性は「夢二式美人」と呼ばれ、大きな黒い瞳、すらりとした手足にしなやかな体、物憂げな仕草に、そこはかとなくにじむ女性の色香が特徴で大正時代に一大ムーブメントを巻き起こします。さらに表紙絵や挿絵を描くだけでなく、詩や歌謡、童話などの文筆分野でも数々の作品を発表し、なかでも詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として全国的な愛唱曲となりました。また、広告宣伝物のキャッチコピーから、日用雑貨のほか浴衣などのデザインも手がけるなど、近代グラフィックデザインの草分けの逸材であったと感銘を受けました。本展にてあらためて夢二の作品に間違いなく影響を与えた色恋沙汰に注目。夢二の絵の優しさは三人の女性(たまき、彦乃、お葉)と浮名を流した優柔不断な男の頼りなさなのでしょうか。昼v夢二の生きた人生、恋愛プロフィールを知るに、その作品の味わいも深いものとなりました。
『昼v 夢二』 (本名 昼v茂次郎)
1884年(明治17年)9月16日 – 1934年(昭和9年)9月1日
『たまき』 (本名 岸他万喜)
たまきは、唯一、戸籍上の妻となった女性です。たまきが早稲田鶴巻町に開店した絵葉書店「つるや」に、夢二が客として通いつめ2ヵ月後に結婚。2年後に離婚、その翌年には再び生活を共にし、別居するといったことを繰り返しています。夢二は"彦乃"と過ごしながらも、たまきの画学生・東郷青児との関係を邪推し、富山県の海岸で、たまきの腕を刺すという刃傷沙汰を起こし、破局、絶縁に至ります。しかしながら、たまきは結核療養中の夢二を信州まで見舞い、また夢二亡き後も終生彼を慕い続けたことが知られます。
『彦乃』 (本名 笠井ヒコノ)
彦乃は、日本橋の裕福な紙問屋に育ち、女子美術学校の学生時代に、絵を習いたいと「港屋絵草子店」を訪問し交際が始まります。たまきと別れ京都に移り住んだ夢二と同棲するも、大正7年、九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核を発病。父親によって東京に連れ戻され、御茶ノ水順天堂医院に入院するも亡くなります。夢二は本郷菊富士ホテルに上京するも、彦乃との面会は遮断されています。夢二は、彦乃を最も愛し死後しばらくショックから立ち直れなかったということを「彦乃日記」に残しています。
『お葉』 (本名 永井カ子ヨ)
お葉は秋田出身で、夢二より二十歳年下の女性でした。夢二と出会った当時は、人気の東京美術学校のモデルでした。藤島武二、伊藤晴雨らのモデルをつとめた後に、菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲。その後、渋谷に所帯をもち、大正13年、夢二設計の世田谷「少年山荘」に一緒に移り住みます。その後、一児をもうけるも亡くなってしまい、翌年、お葉は自殺を図り、半年後には夢二と別離します。
昼v夢二は明治から大正にかけ、ロマンと抒情が色濃く反映した時期に登場し多くの美人画を残した件p家です。本展は4部構成となっており、「第1章 夢二のはじまり」では、夢二の若き日々を検証。「第2章 可愛いもの 美しいもの」では、出版や印刷・版画などを中心にした夢二の仕事を、「第3章 目で見る音楽」では音楽や楽譜にまつわる仕事を取り上げ、「第4章 出帆」では夢二の自伝小説『出帆』原画と没後の龍星閣による出版活動などが紹介されていました。夢二の描く女性は「夢二式美人」と呼ばれ、大きな黒い瞳、すらりとした手足にしなやかな体、物憂げな仕草に、そこはかとなくにじむ女性の色香が特徴で大正時代に一大ムーブメントを巻き起こします。さらに表紙絵や挿絵を描くだけでなく、詩や歌謡、童話などの文筆分野でも数々の作品を発表し、なかでも詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として全国的な愛唱曲となりました。また、広告宣伝物のキャッチコピーから、日用雑貨のほか浴衣などのデザインも手がけるなど、近代グラフィックデザインの草分けの逸材であったと感銘を受けました。本展にてあらためて夢二の作品に間違いなく影響を与えた色恋沙汰に注目。夢二の絵の優しさは三人の女性(たまき、彦乃、お葉)と浮名を流した優柔不断な男の頼りなさなのでしょうか。昼v夢二の生きた人生、恋愛プロフィールを知るに、その作品の味わいも深いものとなりました。
『昼v 夢二』 (本名 昼v茂次郎)
1884年(明治17年)9月16日 – 1934年(昭和9年)9月1日
『たまき』 (本名 岸他万喜)
たまきは、唯一、戸籍上の妻となった女性です。たまきが早稲田鶴巻町に開店した絵葉書店「つるや」に、夢二が客として通いつめ2ヵ月後に結婚。2年後に離婚、その翌年には再び生活を共にし、別居するといったことを繰り返しています。夢二は"彦乃"と過ごしながらも、たまきの画学生・東郷青児との関係を邪推し、富山県の海岸で、たまきの腕を刺すという刃傷沙汰を起こし、破局、絶縁に至ります。しかしながら、たまきは結核療養中の夢二を信州まで見舞い、また夢二亡き後も終生彼を慕い続けたことが知られます。
『彦乃』 (本名 笠井ヒコノ)
彦乃は、日本橋の裕福な紙問屋に育ち、女子美術学校の学生時代に、絵を習いたいと「港屋絵草子店」を訪問し交際が始まります。たまきと別れ京都に移り住んだ夢二と同棲するも、大正7年、九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核を発病。父親によって東京に連れ戻され、御茶ノ水順天堂医院に入院するも亡くなります。夢二は本郷菊富士ホテルに上京するも、彦乃との面会は遮断されています。夢二は、彦乃を最も愛し死後しばらくショックから立ち直れなかったということを「彦乃日記」に残しています。
『お葉』 (本名 永井カ子ヨ)
お葉は秋田出身で、夢二より二十歳年下の女性でした。夢二と出会った当時は、人気の東京美術学校のモデルでした。藤島武二、伊藤晴雨らのモデルをつとめた後に、菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲。その後、渋谷に所帯をもち、大正13年、夢二設計の世田谷「少年山荘」に一緒に移り住みます。その後、一児をもうけるも亡くなってしまい、翌年、お葉は自殺を図り、半年後には夢二と別離します。