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2024年の自分のための備忘録(その1)

2023-12-14 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
年内は承久の乱の検討を続けて、来年に入ったら権門体制論批判を再開しようと思っていたのですが、九日に小川剛生氏の発表を聞いて、当面の運営方針について若干迷いました。
結局、やはり承久の乱に一応の決着をつけてから鎌倉後期の歌壇史・政治史に戻ることにしましたが、来年の自分のための備忘録として少し書いておきます。
私は去年の四月、小川氏の「「謡曲「六浦」の源流 称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(『金沢文庫研究』347号、2021)を読んで、小川氏が検討された金沢貞顕の書状(僅か三歳の恒明親王から金沢北条氏にとって特別なゆかりのある古今集の写本を贈られたことに関する仲介者への礼状)が亀山院と西園寺公衡の関係を解明する手掛かりになるのではないかと思って、恒明親王の周辺をしつこく探ってみました。

小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c114810da4f82a93cdff488a3efd2c68

私が解明したいと思っていた課題は、

(1)最晩年の亀山院は何故に恒明親王を皇嗣とすることに固執したのか。
(2)亀山院と敵対していたはずの西園寺公衡は、何故に恒明親王の庇護者となったのか。

の二点です。
西園寺公衡は正応三年(1290)の浅原事件では亀山院が黒幕だと糾弾しながら、嘉元三年(1305)に亀山院が亡くなると、恒明親王の庇護者となって後宇多院と対立します。
この十五年間の落差があまりに大きいので、私としては京極為兼の第一次配流を画策した「傍輩」が公衡ではないか、為兼を嫌った公衡の思惑と、皇位奪還を図る大覚寺統の亀山院の思惑が一致して二人が急速に接近し、嘉元元年(1303)、公衡の妹の昭訓門院が生んだ恒明親王を亀山院が偏愛するに至って、二人の利害が完全に一致したのではないか、などと想像してみました。
京極為兼の二度の配流に関しては小川氏の「京極為兼と公家政権」(『文学』4巻6号、2003)が最重要論考ですが、第一次配流に関しては、小川氏は今谷明氏の南都争乱原因説を否定されたもの、「傍輩」についての独自の見解は示されていません。

三浦周行「両統問題の一波瀾」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a9074b3be221a0943c1efa6149f83e9
佐伯智広氏『皇位継承の中世史』(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83c9b9ab66defa845354140b178df280
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3847f6428a58345c43d9e1b885719f5

佐伯智広氏は旧来の通説に従って、為兼の第一次配流についても西園寺実兼との対立(「傍輩」=実兼)を想定されていますが、これは井上宗雄氏によって否定されて久しい古い説です。
私は「傍輩」=西園寺公衡の可能性を探ってみて、途中までは何とか行けそうではないか、などと楽観視していました。

「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その1)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bf56b0ef3292197797c49a5a6efc042
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3acbe0aa724a9c51020020d2f56c87e6

そして、幕府も一枚岩ではなかろうとの見通しから、鎌倉で為兼の味方になりそうな人物を探ってみました。
為兼の鎌倉人脈で、特に重要なのは宇都宮景綱と長井宗秀です。
『伏見院記』によれば、永仁元年(1293)八月二十七日、為兼は前夜に不思議な夢を見たことを伏見天皇に伝えています。
父為教の従兄弟にあたる有力御家人宇都宮景綱が夢中に現われ、天皇の意思に従わぬ者は皆追討しよう、と告げたという夢なのですが、本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)でこの夢の話を知ったときは、私は本郷氏の推測に納得していました。
「伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していたのではないか。直接には西園寺実兼の讒言があったのだろうが、その感情のなにほどかを幕府に知られたがゆえに、為兼は流罪に処せられたのではないか」というのが本郷説で、本郷氏は為兼の第一回流罪も西園寺実兼の讒言によるとの立場です。
この点、井上宗雄氏は、『伏見院記』永仁元年八月二十七日条において伏見天皇が最も重視しているのは永仁勅撰の議であり、この夢も永仁勅撰の議に関連したものだろう、とされましたが、私も現在は井上説に賛成で、「叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰」といっても、別に討幕とかではなく、伏見天皇の撰集方針に従わず、妨害するものは景綱が許さないぞ、程度の話ではないかと考えています。

京極為兼が見た不思議な夢(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4400085d2a58cf03402f6462dfc85cd
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5f166069c3293a62feb4fa6891d4d09

また、宇都宮景綱は嘉禎元年(1235)生まれですから、建長六年(1254)生まれの為兼より十九歳も年上です。
そして、景綱は宗尊親王に近侍し、鎌倉歌壇の最盛期を経験していた人なので、為兼と出会う前に既に自分の歌風を確立しており、京極派の影響は特に見られません。
これに対し、長井宗秀は文永二年(1265)生まれで、為兼より十一歳下であり、歌風も為兼の影響を極めて強く受けており、鎌倉での京極派の代表的存在です。

京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7189df37b63ed5d3821a7689d7bf839
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/886594037a40d49eab659a2a02cd9998
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5697e3ed6a90b97f784f8323bb11fdb3

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