第107回配信です。
一、前回配信の補足
鎌倉時代の仏教界の三つの潮流(『改訂 歴史のなかに見る親鸞』p9)
(1)顕密仏教
(2)穏健改革派
(3)急進改革派
「本書では、鎌倉における禅律の展開史を直接検討することは行わない。私でなくても、それを解明できる研究者がいるはずだ」→(2)は取り扱わない。
「法然・親鸞や日蓮・道元らの急進改革派とその門下については、鎌倉仏教界に占める比重が小さいうえ、彼らの思想史的意義については別に考察を加えてきた。そのため急進改革派についても、本書での検討対象から基本的に除外している」→(3)は取り扱わない。
結局、(1)顕密仏教の潮流が詳細になっただけ。
佐々木馨氏の「幕府と延暦寺の決定的反目」論は完膚なきまでに論破されたものの、「武家的体制仏教論」「禅密主義」論はさほど打撃を受けていないのではないか。
二、「序章 鎌倉仏教研究の課題と総括的検討」の続き
p18以下
-------
以上、研究方法にも触れながら、本書の課題について述べてきたが、これらが研究の意義につながるだろう。これらの検討によって、京都と鎌倉の仏教界が一定の自立性を保持しながらも、有機的構造的につながっていることを明らかにすることができれば、少なくとも鎌倉時代においては、東西仏教界を包摂する「顕密体制」が存在していたことを確認できよう。また、幕府勤仕僧の活動実態の解明は、武士論で積み重ねられてきた鎌倉幕府像を、より豊かなものに再構築できるはずだ。さらに、鎌倉時代の国家構造を検討するうえでの基礎的データを新たに提供することができるだろう。
ただし、ここでは本書の研究史的意義として、これが鎌倉新仏教観に最後のくさびを打ち込むものであることを挙げておきたい。一般に、鎌倉幕府や武士の仏教というと禅宗と考えがちであるが、それは歴史的事実に反している。鎌倉幕府が依拠した仏教の中核は顕密仏教である。それは二つの点から明らかだ。第一は将軍御願寺、第二は北条氏出身僧である。
-------
北条氏出身僧 64名
東密 16名
山門派 7名
寺門派 16名
宗派不明の顕密僧 3名
禅僧 5名
律僧 0名
p19
-------
【前略】確かに御家人師弟のうち、一定の人々が禅律に向かったのは事実である。顕密寺院では貴族的門閥主義が横行しており、御家人の子弟は出身家格が低いため、伝法灌頂も、高官にのぼることも困難であった。そのため、彼らの多くが禅律寺院へと流れた。御家人出身の僧侶が天台座主や東寺一長者になることはありえないが、建長寺や南禅寺の長老なら就くことができた。そして建長寺・南禅寺住持となれば、社会的には天台座主・東寺長者と同等の敬意が払われる。そのため御家人出身の僧侶は禅や律に向かったが、しかし北条氏や足利氏のような上層武士の子弟はむしろ顕密僧になった者が多い。祈禱・調伏を行える僧を身内で確保しようとしたのだ。いわば奉行人クラスが禅律寺院に流れ、上層武士の子弟は顕密寺院に入った。また近江守護佐々木氏の場合、地域的なつながりもあって、その一族から大量の延暦寺僧が誕生している。以上からすれば、幕府=禅宗、武士=禅宗という理解が歴史的実態から乖離しているのは明らかである。にもかかわらず、こうしたイメージが広まったのは、鎌倉新仏教観に一因がある。
-------
鎌倉時代の仏教界の三つの潮流(『改訂 歴史のなかに見る親鸞』p9)
(1)顕密仏教
(2)穏健改革派
(3)急進改革派
「本書では、鎌倉における禅律の展開史を直接検討することは行わない。私でなくても、それを解明できる研究者がいるはずだ」→(2)は取り扱わない。
「法然・親鸞や日蓮・道元らの急進改革派とその門下については、鎌倉仏教界に占める比重が小さいうえ、彼らの思想史的意義については別に考察を加えてきた。そのため急進改革派についても、本書での検討対象から基本的に除外している」→(3)は取り扱わない。
結局、(1)顕密仏教の潮流が詳細になっただけ。
佐々木馨氏の「幕府と延暦寺の決定的反目」論は完膚なきまでに論破されたものの、「武家的体制仏教論」「禅密主義」論はさほど打撃を受けていないのではないか。
二、「序章 鎌倉仏教研究の課題と総括的検討」の続き
p18以下
-------
以上、研究方法にも触れながら、本書の課題について述べてきたが、これらが研究の意義につながるだろう。これらの検討によって、京都と鎌倉の仏教界が一定の自立性を保持しながらも、有機的構造的につながっていることを明らかにすることができれば、少なくとも鎌倉時代においては、東西仏教界を包摂する「顕密体制」が存在していたことを確認できよう。また、幕府勤仕僧の活動実態の解明は、武士論で積み重ねられてきた鎌倉幕府像を、より豊かなものに再構築できるはずだ。さらに、鎌倉時代の国家構造を検討するうえでの基礎的データを新たに提供することができるだろう。
ただし、ここでは本書の研究史的意義として、これが鎌倉新仏教観に最後のくさびを打ち込むものであることを挙げておきたい。一般に、鎌倉幕府や武士の仏教というと禅宗と考えがちであるが、それは歴史的事実に反している。鎌倉幕府が依拠した仏教の中核は顕密仏教である。それは二つの点から明らかだ。第一は将軍御願寺、第二は北条氏出身僧である。
-------
北条氏出身僧 64名
東密 16名
山門派 7名
寺門派 16名
宗派不明の顕密僧 3名
禅僧 5名
律僧 0名
p19
-------
【前略】確かに御家人師弟のうち、一定の人々が禅律に向かったのは事実である。顕密寺院では貴族的門閥主義が横行しており、御家人の子弟は出身家格が低いため、伝法灌頂も、高官にのぼることも困難であった。そのため、彼らの多くが禅律寺院へと流れた。御家人出身の僧侶が天台座主や東寺一長者になることはありえないが、建長寺や南禅寺の長老なら就くことができた。そして建長寺・南禅寺住持となれば、社会的には天台座主・東寺長者と同等の敬意が払われる。そのため御家人出身の僧侶は禅や律に向かったが、しかし北条氏や足利氏のような上層武士の子弟はむしろ顕密僧になった者が多い。祈禱・調伏を行える僧を身内で確保しようとしたのだ。いわば奉行人クラスが禅律寺院に流れ、上層武士の子弟は顕密寺院に入った。また近江守護佐々木氏の場合、地域的なつながりもあって、その一族から大量の延暦寺僧が誕生している。以上からすれば、幕府=禅宗、武士=禅宗という理解が歴史的実態から乖離しているのは明らかである。にもかかわらず、こうしたイメージが広まったのは、鎌倉新仏教観に一因がある。
-------
「北条氏や足利氏のような上層武士」が「貴族的門閥主義」に取り込まれただけではないか。
この後、強烈な「鎌倉新仏教史観」批判が続き、「本研究は鎌倉新仏教史観の破綻を顕在化させ、その息の根を止めるものでもある」に至る。
この後、強烈な「鎌倉新仏教史観」批判が続き、「本研究は鎌倉新仏教史観の破綻を顕在化させ、その息の根を止めるものでもある」に至る。
→顕密体制研究に熱中するあまり、叡山の僧兵的な味わいが出てきた平氏。
参考:川本慎自氏「室町幕府と仏教」(『岩波講座日本歴史第8巻』所収、岩波書店、2014)
p236以下
-------
3 鎌倉府と禅宗官寺
ところで近年、鎌倉期に生まれた諸教団について、これらが社会に影響を及ぼすのはむしろ戦国期に至ってからであるという観点で、「鎌倉新仏教」ではなく「戦国仏教」と呼称すべきという論が提唱されているが、「鎌倉新仏教」という概念・呼称が適切であるかどうかはさておき、これらに含まれる諸教団のうち、浄土系諸教団・日蓮系諸教団・真宗系諸教団・禅宗系諸教団は、鎌倉期以来主として東国において発展し、時期の差こそあれ、鎌倉から京都・西国へ「進出」するという経緯をもっている。そうした地域的な基盤のあり方は、顕密寺院との大きな違いの一つといえるだろう。たとえば法然に端を発する浄土系諸教団は、北条氏一門の信仰を得て光明寺など鎌倉に拠点をもっていた。一方、日蓮は東国に有力檀越を持ち、その門下は本門寺や法華経寺などを拠点に活動している。また、禅宗系では、鎌倉後期に中国から渡来した禅僧の多くは円覚寺や建長寺などの鎌倉禅宗系寺院に住し、その門下も鎌倉を中心に活動を行っていた。このような経緯から、これら諸教団は南北朝・室町期においても引き続き東国に大きな基盤をもっていることが多い。したがって、京都における室町幕府との関係と同等に、東国における権力を分掌する鎌倉府との関係が問われなければならないだろう。
-------
参考:川本慎自氏「室町幕府と仏教」(『岩波講座日本歴史第8巻』所収、岩波書店、2014)
p236以下
-------
3 鎌倉府と禅宗官寺
ところで近年、鎌倉期に生まれた諸教団について、これらが社会に影響を及ぼすのはむしろ戦国期に至ってからであるという観点で、「鎌倉新仏教」ではなく「戦国仏教」と呼称すべきという論が提唱されているが、「鎌倉新仏教」という概念・呼称が適切であるかどうかはさておき、これらに含まれる諸教団のうち、浄土系諸教団・日蓮系諸教団・真宗系諸教団・禅宗系諸教団は、鎌倉期以来主として東国において発展し、時期の差こそあれ、鎌倉から京都・西国へ「進出」するという経緯をもっている。そうした地域的な基盤のあり方は、顕密寺院との大きな違いの一つといえるだろう。たとえば法然に端を発する浄土系諸教団は、北条氏一門の信仰を得て光明寺など鎌倉に拠点をもっていた。一方、日蓮は東国に有力檀越を持ち、その門下は本門寺や法華経寺などを拠点に活動している。また、禅宗系では、鎌倉後期に中国から渡来した禅僧の多くは円覚寺や建長寺などの鎌倉禅宗系寺院に住し、その門下も鎌倉を中心に活動を行っていた。このような経緯から、これら諸教団は南北朝・室町期においても引き続き東国に大きな基盤をもっていることが多い。したがって、京都における室町幕府との関係と同等に、東国における権力を分掌する鎌倉府との関係が問われなければならないだろう。
-------
川本慎自氏(東京大学史料編纂所准教授)