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「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その1)

2022-04-29 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 4月29日(金)13時31分42秒

※六回にわたって「傍輩」=西園寺公衡の可能性を探ってみましたが、結局、この仮説は誤りだったと考えています。(5月23日追記)

京極為兼に親しく接した花園院の証言の価値は高く、為兼の第一次流罪の原因となった「傍輩之讒」についても、私はその事実が実際にあったものと考えます。
その上で、仮にこの「傍輩」が西園寺公衡だとすると、当時の政局の流れにうまく当て嵌まるのではないか、というのが私見です。
そこで、先ず西園寺公衡がどのような人物かを確認しておくと、概略については「コトバンク」の解説が便利ですね。
上杉和彦氏(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)によれば、

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西園寺公衡(1264-1315)
鎌倉後期の公卿。父は太政大臣実兼。母は内大臣中院通成の女顕子。竹林院入道左大臣と称される。侍従・左中将を経て、1276年(建治2)に従三位となり、1283年(弘安6)権中納言、1288年(正応1)権大納言、1298年(永仁6)内大臣、1299年(正安1)右大臣。同年父実兼の跡を受けて関東申次となる。1309年(延慶2)に左大臣に昇進したが、同年中に官を辞し、11年(応長1)に出家した(法名静勝)。両統迭立期においては、大覚寺統に近い立場にありながら、亀山院・後宇多院の不興を買う事態を招く行動をとったために持明院統に接近する時期もあり、その政治的地位はやや不安定であった。彼の日記『公衡公記』(宮内庁書陵部所蔵)は、鎌倉時代後期の公武交渉の状況を伝える貴重な史料である。また、『春日権現験記絵巻』を制作し春日社に寄進したことで知られる。1315年(正和4)9月25日没。
『竜粛著『鎌倉時代 下』(1957・春秋社)』▽『森茂暁著『鎌倉時代の朝幕関係』(1991・思文閣出版)』

https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E8%A1%A1-67708

とのことですが、「大覚寺統に近い立場にありながら」については若干の疑問があります。
この点、森茂暁氏(『朝日日本歴史人物事典』)は、

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鎌倉時代後期の公家。太政大臣西園寺実兼の嫡子。母は内大臣中院通成の娘顕子。竹林院左府と号し法名は静勝。建治2(1276)年従三位。官位累進し延慶2(1309)年従一位左大臣に至ったが,同年中に辞し,応長1(1311)年8月出家。父実兼が正安1(1299)年6月に出家したのちの嘉元2(1304)年夏,鎌倉幕府の要請を受けて関東申次に就任,正和4(1315)年9月に父に先だって没するまでの11年間,このポストにあって,朝廷と幕府の間の連絡・交渉をつかさどった。公衡は持明院統に近く,また公衡の妹瑛子(昭訓門院)が生んだ亀山法皇の皇子恒明を扶持したため,大覚寺統の後宇多上皇と折り合いが悪く,後宇多の勅勘にあったりした。父祖の例に違い,公衡が太政大臣に到達しなかったのは,家運衰退のきざしとみられる。公衡は日記を残しており,『公衡公記』として刊行されている。<参考文献>森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』
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とされていて、少なくともその政治家としての活動の出発点においては「持明院統に近く」という評価が適切ですね。
さて、公衡は父・実兼(1249-1322)が十六歳のときに生まれた子で、父との年齢差は僅か十五年です。
そして正応三年(1290)の浅原事件(伏見天皇暗殺未遂事件)に際しては、後深草院の前で、

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「この事はなほ禅林寺殿の御心あはせたるなるべし。後嵯峨院の御処分を引きたがへ、東かく当代をも据ゑ奉り、世をしろしめさする事を、心よからず思すによりて、世をかたぶけ給はんの御本意なり。さてなだらかにもおはしまさば、まさる事や出でまうでこん。院をまづ六波羅にうつし奉らるべきにこそ」

http://web.archive.org/web/20150918041631/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm

と亀山院を糾弾するなど相当に強い性格であって、父親に一方的に従属するような人物ではないですね。
亀山院にとって、この浅原事件は人生最大のピンチであって、幕府に弁明の使者を送るなどしてなんとか切り抜けはしたものの、公衡に対して良い感情が抱けたはずもありません。
しかし、十五年後の嘉元三年(1305)、公衡は亀山院から恒明親王の将来を託される立場になっており、後宇多院と厳しく対立して院勅勘を蒙るような事態も生ずることになります。
この十五年間で、亀山院と公衡の関係はどのように変化したのか。
また、この十五年間には、永仁四年(1296)の為兼の失脚・籠居と同六年(1298)の第一次流罪、そして嘉元元年(1303)の為兼帰洛という持明院統にとっての重大事件が起きていますが、それと亀山院・公衡間の関係の変化には何か連関があるのか。
これらの問題を次の投稿で考察します。
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